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停滞 才能の限界だとは信じない
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8011年8月20日、エリア003の夏は過ごしやすい季節だった。暑くなりすぎず湿度も上がらない為、快適な夏なのだ。
「はぁ…」
俺はいくつかの短編小説と、まだ連載途中のファンタジー小説で、新人賞に挑んでみた。結果は、どの作品も受かる事なく終わるというものだった。
(短編小説にはコメントかつく事も無かった…)
俺はホラー作品や恋愛小説など、今まで書いた事のないジャンルの短編小説も書いていた。しかし、それらは全て落選してしまい、評価される事も無かった。
(連載中の作品も、書籍化はされず…)
前から長く連載を続けているファンタジー小説は、一定の評価を得て佳作賞の賞金を得る事はできた。しかし、今のところ書籍化は難しいとの事だった。
(息抜きに官能小説でも書くか)
俺はしばらく連載を止めていた、官能小説の続きを書き始めた。様々な短編小説を書いていたので、こちらに手を回す時間が無かったのだ。
(しかし、この官能小説がこんなにも評価されるなんて…)
俺が書いていた男性向けの官能小説は、最低限のストーリーはあるがひたすらに官能描写が多く、性欲を満たす事に特化した作品である。しかし、手っ取り早く性欲を満たせるという点が、評価されている様だ。
(でも…これはただの趣味だ)
俺にとって、官能小説を書く事はただの趣味でしかなかった。俺はどうしても、一般向けの小説作家になりたかったのだ。
エリア003では、最初は節約による厳しい生活が続いたが、最近はアルバイトで稼いでいるので、マシになって来ている。まぁ、質素な生活で誰かに自慢できるようなものでは決してないが。
(えっと…明日は銭湯でのバイトだな)
俺は以前利用したスーパー銭湯でも、アルバイトを始めていた。風呂掃除担当の男は、中々いないらしいので歓迎された。
(次の孤児院の手伝いの日は…)
エドワードさんの頼みで、孤児院の手伝いにも定期的に駆り出されていた。木村達が運動に付き合ってくれているお陰で、子供達の体力にも少しずつ、ついていける様になっている。
(次の休日は木村と一緒に、三浦の家に遊びに行くんだったな)
最近は三浦と木村という友人もできて、人間関係が広がり始めていた。今度は三浦からの誘いを受けて、彼の家に遊びに行くのだ。
俺は小説が新人賞で落選しても、極端に落ち込む事は無かった。何だかんだ言っても、今のこの生活に満足感を覚えているのだ。
俺は自分のペースを変える事なく、小説の続きを書く。下手に成果を出す事に焦ると、小説を書く事自体が嫌いになってしまう可能性もあるからだ。
「大きいけど、古い家ですね…」
21日、俺は木村ヨシュアと一緒に、三浦レンの家に向かった。どうやら、競売に出された所を安く買ったらしい。
「耐久面にも何があるらしいよ。古代の頃なら地震で崩れるだろうね」
「地震って…えっと」
確か岩盤のずれによって発生する、地面の振動だった筈だ。古代では災害の一種でもあり、多くの人間の命を奪っていた。現在はそれぞれのエリアの人工岩盤の上で生活しているので、地震による振動もエネルギー源としているが。
「三浦先輩掃除もサボるんですよ…しかも僕に手伝えって言ってくるし…」
「俺も手伝いますよ」
ヨシュアがインターホンを押すと、すぐにレンがやって来た。レンに迎えられながら、俺達は彼の家に入る事になった。
「俺の家にようこそ」
外見通り、家の中もかなり古めかしい感じだった。縁側からの眺めは中々のもので、綺麗な街並みを見渡す事ができた。
「広い家ですね…掃除も大変じゃ無いですか?」
「大丈夫だよ。普段立ち入らない部屋は掃除してないから」
「虫が湧くから、ちゃんと掃除してください…」
レンはヨシュアに言われた通り、渋々掃除を始めた。俺も彼らを手伝って、家に害虫が湧いていないかチェックをしていた。
掃除に一区切りつけた俺達は、縁側で休憩していた。確かにこの広さだと、掃除をするのはかなり大変である。
「ゲームやろうぜ。モニターは旧式だけどいいよな?」
「本当に古いやつだね…」
レンがテレビを見たりゲームをする時に使っているモニターは、彼の言う通り旧式だった。それでも問題無く使えているので、文句を言うつもりは無かった。
レンもヨシュアも中々に上手く、俺が負ける事の方が多かった。しかし、俺のプレイスキルも上達していたので、2人相手に勝つ事もあった。
「おお…やるじゃねぇか」
「俺が手伝いに行ってる孤児院には、もっと上手い子供がいますよ」
「孤児院の手伝いですか…」
ヨシュアは孤児院について、興味が湧いたようだった。俺が孤児院の話をすると、二人とも真剣な表情で聞いていた。レンは孤児院に対して、何か思うところがある様だ。
「俺達も今度そこの手伝いに行くぜ。いいよな木村」
「え…迷惑になりませんかね?」
「エドワードさんに聞いてみるよ」
あの孤児院は清潔感は保たれているが、人手は足りていなかった。手伝ってくれる人が増えたら、職員の人達も喜んでくれるだろう。
「じゃあな!気をつけて帰ろよ」
「じゃあね」
俺が帰る時には、ヨシュアはまだレンの家にいた。レンの家の片付けを手伝わされる羽目になっている様だ。
「おかえり。レン君の家はどうだった?」
「大きいけど、古い家でした」
俺はエドワードさんに、レンとヨシュアも孤児院の手伝いをしてくれると伝えた。エドワードさんは孤児院に連絡を取って、たまに手伝いに来る人が二人増えるけどいいだろうかと伝えていた。
「歓迎するって。元々人手が足りてないからね」
「ありがとうございます!」
俺はその事についてのメッセージを、すぐにレンとヨシュアに送った。どうやら向こうの掃除にも一区切りついた様で、ヨシュアも帰宅できた様だ。
レンはいつでも行けると言い、ヨシュアは出来るだけ孤児院の手伝いを優先すると返信が来た。この2人が手伝いに来てくれれば、俺の負担も減るだろう。
(小説の題材にできそうなものも探さないと…)
俺は日常で起こる出来事も、小説のネタにしようと考えていた。ほんの些細な出来事も、印象に残る描写に出来るかも知れないのだ。
(ヨシュアやレンと一緒なら、そういう体験も出来るだろう)
そう言った意味でも、次の孤児院の手伝いの日は楽しみだった。こうしたボランティア活動でも他の人が一緒なら、いつもと違う出来事が起こるからだ。
「よーし!俺に任せろ!」
「三浦先輩はしゃぎすぎ…」
8月25日、俺はレンやヨシュアと一緒に孤児院の手伝いに行き、早速子供達の遊び相手をした。レンは子供達と一緒に元気良くサッカーをして、その様子を見たヨシュアは、少し呆れていた。
「よくあんな風に子供達に混じれますね…」
「三浦先輩はああ言う人なんです」
屋外での遊びの後は給食の時間で、俺達も食べる事になった。レンもヨシュアも好き嫌い無く食べる人で、俺も見習わないといけないと思った。
「デザートのアイス余ってるよー」
「はーい!」
デザートが余ってると聞いたレンは、子供達に混じってジャンケンを始めた。こればっかりは俺も、レンが子供っぽいと思っていた。
「うう…アイス…」
「アイスのおかわり手に入れられなかったからって、そんなにショック受ける事無いと思いますよ…」
結局子供達とのジャンケンに負けたレンは、おかわりのアイスを食べる事はできなかった。とは言え、この後は対戦ゲームで遊ぶ時間だと知っていたので、レンも早めに気を取り直した。
「この悲しみは…勝利で晴らす!」
「子供相手に本気出し過ぎないようにしてください…」
レンはやる気に満ち溢れている様子で、ヨシュアは落ち着かせようとしていた。俺も対戦ゲームをプレイするのは楽しみにしていた。
「よっしゃあ!俺の勝ちだ!」
「三浦先輩もそうですけど、エドガー君も割と大人気ないですよね…」
「遊びだからこそ、本気を出すんだよ」
俺はレンと一緒に子供達と対戦して、勝利を重ねた。一方で、ヨシュアは手加減をして、子供達にも勝たせてあげている様だ。
「つまんねーの…」
俺とレンが本気を出し過ぎていたせいで、中々勝てない子供達は飽きてしまった様だ。そこに来たのは、以前も俺と対戦した大人しそうな少年だった。
「僕も、いいですか」
「もちろんだ」
対戦相手の子供が飽きてこのまま終わりかと思っていたレンは、嬉しそうだった。俺はヨシュアに、彼のプレイスキルの高さについて伝えておいた。
「じゃあ自分も本気を出さないといけませんね」
ヨシュアも彼とは本気で戦う様で、今までとは違う真剣な目になっていた。彼もレンやヨシュアの実力に対する興味が強い様だ。
「始めようか」
レンとヨシュア、俺は実力者のあるプレイヤーである、彼との対戦を始めた。レンもヨシュアも真剣な様子で、彼との勝負に臨んでいた。
「つえぇ…」
最初に敗退したのはレンで、次に負けたのは俺だった。レンは自分があっさり負けた事に対して、言葉も出せない様子だった。
(それにしてもヨシュアは上手いな…)
ヨシュアはまだ張り合っている様子を見せていた。相手の子供の方も、ここまで強い相手は初めてだという様子だった。
最終的に負けたのはヨシュアの方だったが、かなり善戦していた。その後も何度か対戦したが、俺達が勝つ事は無かった。
「ありがとうございます」
「君…本当にすごいね」
対戦ゲームの時間は終わって、俺達は帰る事になった。ヨシュアは先程対戦した少年…オルガ・タニサキの事を気にかけている様だった。
「彼みたいな子が埋もれてくのは勿体無いよ。恵まれない子もプロゲーマーとして活躍できるような…」
「木村、それよりもちゃんと食べ物があることの方が大事だぞ」
レンはやはり孤児達と会って、ずっと考えている様子だった。ヨシュアも余計な事を喋らずに、それぞれの帰路についた。
「レンとヨシュアはどんな感じだった?」
「レンさんは子供と一緒にはしゃいでましたよ」
帰宅した俺はシャワーを浴びた後、自室に戻って小説の続きを書き始めた。しかし、レンの様子が気になっていたせいで、今日は筆が進まなかった。
(さて、どうしようかな…ん)
シャワー浴びてパジャマに着替えた俺は、これからどうするか考えていると、デバイスに電話がかかってきた。驚きながらも慌てて確認すると、爺ちゃんからの着信だった。
「爺ちゃん…どうしたの?」
「エドガー、元気にやってるか」
俺はすぐに電話に出ると、爺ちゃんの声が聞こえてきた。声色から察するに、他愛のない話をしたいだけでは無いみたいだ。
「今日はレンやヨシュアと一緒に、孤児院の手伝いに行ったんだ。それで…」
俺は今日の出来事を話そうとしたが、言葉に詰まってしまった。俺は爺ちゃんに打ち明けたい事を、素直に話す事にした。
「新人賞…俺の小説、全部受からなかったんだ」
俺は短編小説にはコメントすらつかなった事も伝えた。爺ちゃんは何も言わずに、静かに俺の話を聞いていた。
「でも…連載中のファンタジー小説は佳作賞を貰えて、これからも連載を続けるから…」
「エドガー、今の生活に満足しているのか?」
俺は爺ちゃんの言葉にどう返せばいいのか、分からなかった。決して不満がある訳では無かったが、この状況を脱したいとも思っていなかった。
「エドガーは、本気で小説家になりたいと思っているのか?」
「それはそう、だけど…」
俺は本気で小説家になりたいと思っている…つもりではある。しかし、文体を改善する方法があるのか、構成力を上げるにはどうすればいいのかが分からない。
「小説を書くのは趣味に留めて、他の生き方でもいいと思っているのか?」
俺は小説家になりたいと思っていたが、その為に全てを投げ出す覚悟も無かった。普通の生き方は嫌だったが、そうならない為に本気で努力する事もできなかったのだ。
「まぁプロの作家になるのを諦めるなら、他の仕事を紹介できなくも無いぞ」
「それって…」
爺ちゃんの紹介する仕事が何なのかは、少し気になった。尤も、小説家になるのを諦めた上での仕事だから、クリエイティブな職機では無いだろうが。
「私の知り合いの介護だ」
「介護は俺には無理」
老人介護も人手が足りていない事は知っていたし、介護士に手伝ってもらうにも金がかかる。その点、知り合いの身内である俺なら都合がいいと言う事だろう。
「その…質素だけど、こっちでもそれなりの生活はできてるから…」
「そうか…じゃあな」
そうして爺ちゃんとの通話は終わり、俺はしばらく夜景を眺めていた。確かにこのままの生活を続けていくだけでいいのか、俺は不安になり始めていた。
9月1日の午前中、俺はレンやヨシュアと一緒にいつも利用しているスーパー銭湯に向かっていた。レン達も一度は行った事がある様で、この辺りでは人気がある様だ。
「ここのスーパー銭湯いいよな。飯も美味いし」
「居心地いいですよね」
俺達はすぐに大浴場に向かい、風呂で体を温めた。体を洗った後、レンとヨシュアは高温サウナの方へ向かった。
「あれ、エドガーは入らないんですか?」
「高温サウナは苦手なんです。黄土サウナの方に行きます」
「そうか。じゃあ後でな」
俺はサウナフロアへ向かい、黄土サウナに入った。60℃で保たれている黄土サウナの中には、既に数人の先客がいた。
(新陳代謝促進の効果があるんだったな…)
黄土色の土壁にはシルクロードをイメージした壁画が描かれて、異国情緒があった。その空間の中で、俺は静かに体の調子を整えていた。
サウナから出た俺は、クールルームに入る事にした。冷水浴が苦手な俺にとっては、嬉しい施設だった。
(15℃…思ったより寒いな)
俺はクールルームでしっかりと体を冷やした後、もう一度黄土サウナへ向かった。交代浴をする事で、体の新陳代謝が活発になるらしいのだ。
(ふう…熱くてすぐ出てしまった)
2回目の黄土サウナは熱く感じて、すぐに出てしまった。それでも交代浴はできたので、効果はあるだろう。
「おう、エドガーも出てきたか」
「そろそろお風呂から出ましょう」
俺達は熱めのシャワーを浴びて、大浴場を出て行った。服を着た後は涼みながら、自販機へと向かう事にした。
「エドガーはコーヒー牛乳か」
「コーヒー牛乳もいいですよね」
「フルーツ牛乳…あまり飲んだ事無いんですよね」
俺はいつも通りコーヒー牛乳を飲んでいて、レンとヨシュアはフルーツ牛乳を飲んでいた。飲み終わってしばらく涼んだ後、食事スペースへと向かった。
食事スペースで、俺達はそれぞれ別の物を注文した。レンは石焼ビビンバを注文して、ヨシュアは天笊饂飩(てんざるうどん)を注文していた。俺は少し迷った末に、肉焼きそばを注文する事にした。
「まだ熱々だな…」
「僕は先にうどん食べますね」
レンの石焼ビビンバはまだ熱々で、ヨシュアは先にざるうどんを食べ始めていた。俺も熱い焼きそばを少しずつ冷ましながら、食べる事にした。
(ここの食事はどれもそれなりに美味いな…)
スーパー銭湯の食事スペースで提供される物なので、特別美味しい訳ではなかった。しかし、また食べたいと思える、安心感のある味だった。
レンも石焼ビビンバを食べ終わって、俺達は休憩スペースで休んでいた。少しして、レンは時々手伝いに行っている孤児院について話し始めた。
「あそこで暮らしてる子達は、平和そうでいいよな…俺は…」
レンは自分の少年時代の事を、静かに語り始めた。ヨシュアは彼の過去を知っているのか、何も言う事は無かった。
少年時代のレンは孤児院には拾って貰えず、スラム街でゴミ漁りをして暮らしていた。彼のようなゴミ漁りを鼠と呼んで、蔑む者は多かった。
(食べれるのはこれだけか…)
ゴミ漁りをする中で、レンは食べ物が腐っていないかどうか判断する力を身につけた。体の調子を崩してもスラム街では誰も助けてくれないので、食べる物は慎重に選ばないといけなかった。
「今日の部品はそれだけか…じゃあ、このくらいしかあげられないな」
レンは廃棄場に捨てられたジャンクの中から、使えそうな部品を漁って、店員の大人の所へ持って行く事もあった。既に使えない部品が混ざっていて殴られる事もあったが、こうした大人達は部品と引き換えに食べ物をくれた。
(よし…今日は肉も貰えた)
この日のレンは部品と引き換えに、人参(にんじん)と玉蜀黍(とうもろこし)、玉葱(たまねぎ)と鶏肉を貰った。特に孤児達に取っては、肉は中々手に入らない物なので嬉しかった。
(しっかり火を通して…)
レンは手に入れた食べ物に火を通して、しっかり焼いてから食べた。焼いただけの肉などをそのまま食べているだけだったが、この時の彼にとってはとても贅沢だった。
本来なら小学校に入学している年齢の頃も、レンは荷物の輸送を手伝って金を稼いでいた。重労働の割には低賃金だったが、この仕事をしないと生きる事すら困難だった。
「早くしろよおい!」
「すいません…」
レンは大人達に怒鳴られながらも、懸命にその仕事を続けた。彼は学校に行く事も出来ずに、輸送の仕事を3年間続けた。
しかしある日、運送会社の社員達が自分に支払われるはずの給料の一部を横領している事を、レンは知った。孤児であるレンには何も出来ないであろうと、見下していたのだ。
「どういうつもりですか!」
「うるせぇんだよガキが!死ぬまで黙って働いてろ!」
スラム街でも、強者による弱者からの搾取は存在した。彼が集めていたジャンク品も、余った食品とは比べられないほどの価値がある物だった。
(畜生…このまま終わってたまるか)
レンはこの状況を脱する為に、会社内に保管されている資金を盗んで逃亡する事にした。爆弾の作り方はヤクザの隠れ家を覗いて覚えていて、爆薬もその時盗んだ物がある。その爆薬を使えば簡単な金庫の扉なら、容易に吹き飛ばす事ができる。
ある晩、運送会社の地下にあった金庫で、爆発が発生した。レンによる、資金を盗み出す事を目的とした犯行だった。
(このまま逃げ切ってやる!)
輸送用車両に乗り込んだレンは、追いかけてくる社員から逃げる為に、車両を発進させた。ここで捕まれば間違いなく半殺しにされて、そのまま死ぬ事になるからだ。
(ここまで逃げれば…)
レンは乱暴に車両を走らせて、スラム街を脱出した。車両の破損と燃料切れにより、旧市街の古びた屋敷の前に停めた。
「ふぅ…」
「何だ?お前がここまで走らせたのか?」
屋敷の前に来て破損した車両に驚いた老人が、レンに声をかけた。レンは追手かも知れないと思って、老人を警戒した。
「…スラム街のガキか。大方、安い給料にキレて、逃げ出して来たんだろう」
老人はレンが使っていた車両を調べて、使えるかどうか調べ始めた。元々古かった上に雑に運転していたので、エンジンがかかる事は無かった。
「さっきの爆発は、お前の仕業か…あの会社は元々怪しかったし、守ってやってもいいぞ」
「…守って、どうするんだ?」
レンは老人の事を怪しんでいたし、守ってもらった後、何を要求されるかを不信に思っていた。レンの周りにいた大人は、孤児を利用しようとする者ばかりだったのだ。
「そこのボロボロの車両のパーツを売って得た金を、お前にやる。学校に通える様にもしてやる」
「…何で?」
やはり老人に、嘘をついている様子は見られなかった。レンにとっては、老人の方に何のメリットも無いのに、何故助けてくれるのかが疑問だった。
「お前らみたいな孤児を守る為に使っても余る程の金があるんだ。俺は金に関しては余裕があるんだよ」
会社の社員達が、レンを追いかける事は無かった。孤児達を働かせていた事が明るみになって、会社の営業が立ち行かなくなったのだ。
その後、レンは中学校に通える様になって、空手を習う様になった。中学卒業後は高校に進学して、競売に出された古い屋敷を安値で買い取って、一人暮らしを始めた。
そして必死に勉強したレンは、大学に進学する事も出来た。彼は援助を受けながらも、アルバイトをして金を稼ぎながら空手部にも所属して、表の世界で生き続けている。
「そうだったんですか…」
俺は孤児の救済が行われているエリア003でも、レンの様な人がいる事に驚いていた。ヨシュアは、レンの話に口を挟む事なく静かに聞いていた。
「木村も大変なんだろ。兄が鬱病になって…」
「少しずつ、立ち直ろうとしているので、大丈夫です」
ヨシュアはソーラーパネルメンテナンスの重労働の末に、鬱病を患ってしまったらしい。今は働く事ができないが、他の事への興味は戻って来たらしい。
「まぁ…もう少しゆっくりしようぜ」
レンは自身の過去を話して疲れている様子を見せていた。俺とヨシュアも、レンと一緒に暇を潰す事にした。
「そう言えば、三浦さんを助けてくれた人って…」
「ああ、ジェラルドさんの事か?エリア004に住んでるんだぜ。かなりの金持ちで、今でも孤児達への支援をしてるみたいだな」
004はここのすぐ隣にあるエリアで、遺跡群が存在する。以前、旅行ガイドで見て、ずっと行ってみたいと思っていたのだ。
「今度旅行にいてみるのもいいかも…」
「おお!すぐ隣だし行きやすいからな!とはいえ、行くとしたら来年か…」
俺はレンやヨシュアと一緒に旅行計画を立て始めた。先程まで重い話をしていたせいか、とても楽しい気分になった。
「この3人で旅行…いいですね」
俺がレンやヨシュアと知り合ったのは、地下街のラーメン屋の屋台だった。それから子供を助ける為に、ヤクザのアジトに潜入したりしたのも数ヶ月前だ。あの時は、ここまで親しい仲になるとは思っていなかった。
「004の遺跡群は、前から見てみたかったんですよね…」
「ジェラルドさんの家の近くにも、遺跡があるみたいだぜ」
「そんなに遺跡が点在しているんですか」
ヨシュアも、市街地にも遺跡が点在していると聞いて、興味を持ち始めた様だ。俺達は休憩スペースにある旅行ガイド本を持って来て、エリア004のページを見始めた。
「004は文化財の保護を積極的にしているんですね」
「遺跡がそのまんま保管されてる博物館まであるのか…」
損傷が激しい遺跡の修復を行う職人達もいるらしく、本気で文化財を守ろうとしている事が分かった。俺はエリア004への旅行が、ますます楽しみになっていった。
「またなエドガー!」
「またね」
俺はレンやヨシュアと別れて、洋食店へと帰った。旅行に行く事という楽しみもできたので、俺の気分は明るかった。
「004への旅行か…正直羨ましいな」
エドワードさんもエリア004に対しては興味がある様だ。この晩も、俺はいつも通りに小説の続きを書いていた。
9月5日の夜、エリア092にいるエドガーの祖父、ハーマンはある人物に電話をかけていた。エリア004にいる、その人物が電話に出るのは少し時間がかかった。
「何だよこんな時間に…」
「俺だジェラルド。ハーマンだ」
ジェラルドは既に酒を飲み始めていて、面倒そうに対応していた。ハーマンはそんな彼に対しても、辛抱強く話し続けた。
「やだよ、何で俺がお前の孫の面倒見なきゃいけねぇんだよ」
「俺が書いた小説を一度も新人賞に通さなかった恨みだ」
ジェラルドはかつて出版社に勤めていた時期がある。その時の件について、ハーマンは未だに恨みを持っている様だ。
「それにお前が孫の面倒を見るんじゃ無い。孫がお前の面倒を見るんだ」
「どういう事だ…」
「以前…介護の仕事だって伝えた」
「おい、ハーマン!ッチ…」
ジェラルドはハーマンの孫への伝え方に呆れ始めていた。だが、ジェラルドは電話を切らずに、ハーマンの話の続きを聞く事にした。
「別に俺の孫の…エドガーの先生になって欲しいんじゃ無い…ただ、彼が小説を書くのを見てやって欲しいんだ」
「そのエドガーってのは、お前のところで暮らしてるのか?」
「違う、エリア003で暮らし始めて、もうすぐ1年になる」
「折角慣れてきた頃だし、無理に引っ越す必要無いだろ。それに004はすぐ隣じゃ無いか」
今回はジェラルドの方が正しいと判断したハーマンは、しばらく次の言葉が出なかった。間が空いた後、言葉を発したのはジェラルドだった。
「お前は003に行った事はあるのか?」
「ああ、エドガーにも会ったよ。桜雪庭苑に泊まって、冬の桜も見た」
ジェラルドも何度か桜雪庭苑に泊まった事があり、冬の桜を見ていた。少しの間、彼らは冬の桜の風情について語り合った。
「近いうちに、また003に行ってみろ。そうすりゃお前の孫の心境にも影響を与えられるだろ」
「ああ…分かった」
「俺も近いうちに、003に行こうと思っていたんだよ」
「孤児達に会いに行くのか?」
ハーマンは、出版社を離れたジェラルドが孤児達の保護を始めた事は知っていた。003の孤児院の多くは、ジェラルドの投資した金による物だった。
「まぁ、そんなところだ…眠いし、もう切るぞ」
ジェラルドは電話を一方的に切った後、ウォッカが入ったグラスを手に窓辺に向かった。そこからは、夜空に輝く月の光に照らされた遺跡を見る事ができた。
(…飽きない景色だ)
ジェラルドはウォッカを飲み終えた後、寝室に向かった。妻に先立たれた彼は一人、この家で暮らしている。
「はぁ…」
俺はいくつかの短編小説と、まだ連載途中のファンタジー小説で、新人賞に挑んでみた。結果は、どの作品も受かる事なく終わるというものだった。
(短編小説にはコメントかつく事も無かった…)
俺はホラー作品や恋愛小説など、今まで書いた事のないジャンルの短編小説も書いていた。しかし、それらは全て落選してしまい、評価される事も無かった。
(連載中の作品も、書籍化はされず…)
前から長く連載を続けているファンタジー小説は、一定の評価を得て佳作賞の賞金を得る事はできた。しかし、今のところ書籍化は難しいとの事だった。
(息抜きに官能小説でも書くか)
俺はしばらく連載を止めていた、官能小説の続きを書き始めた。様々な短編小説を書いていたので、こちらに手を回す時間が無かったのだ。
(しかし、この官能小説がこんなにも評価されるなんて…)
俺が書いていた男性向けの官能小説は、最低限のストーリーはあるがひたすらに官能描写が多く、性欲を満たす事に特化した作品である。しかし、手っ取り早く性欲を満たせるという点が、評価されている様だ。
(でも…これはただの趣味だ)
俺にとって、官能小説を書く事はただの趣味でしかなかった。俺はどうしても、一般向けの小説作家になりたかったのだ。
エリア003では、最初は節約による厳しい生活が続いたが、最近はアルバイトで稼いでいるので、マシになって来ている。まぁ、質素な生活で誰かに自慢できるようなものでは決してないが。
(えっと…明日は銭湯でのバイトだな)
俺は以前利用したスーパー銭湯でも、アルバイトを始めていた。風呂掃除担当の男は、中々いないらしいので歓迎された。
(次の孤児院の手伝いの日は…)
エドワードさんの頼みで、孤児院の手伝いにも定期的に駆り出されていた。木村達が運動に付き合ってくれているお陰で、子供達の体力にも少しずつ、ついていける様になっている。
(次の休日は木村と一緒に、三浦の家に遊びに行くんだったな)
最近は三浦と木村という友人もできて、人間関係が広がり始めていた。今度は三浦からの誘いを受けて、彼の家に遊びに行くのだ。
俺は小説が新人賞で落選しても、極端に落ち込む事は無かった。何だかんだ言っても、今のこの生活に満足感を覚えているのだ。
俺は自分のペースを変える事なく、小説の続きを書く。下手に成果を出す事に焦ると、小説を書く事自体が嫌いになってしまう可能性もあるからだ。
「大きいけど、古い家ですね…」
21日、俺は木村ヨシュアと一緒に、三浦レンの家に向かった。どうやら、競売に出された所を安く買ったらしい。
「耐久面にも何があるらしいよ。古代の頃なら地震で崩れるだろうね」
「地震って…えっと」
確か岩盤のずれによって発生する、地面の振動だった筈だ。古代では災害の一種でもあり、多くの人間の命を奪っていた。現在はそれぞれのエリアの人工岩盤の上で生活しているので、地震による振動もエネルギー源としているが。
「三浦先輩掃除もサボるんですよ…しかも僕に手伝えって言ってくるし…」
「俺も手伝いますよ」
ヨシュアがインターホンを押すと、すぐにレンがやって来た。レンに迎えられながら、俺達は彼の家に入る事になった。
「俺の家にようこそ」
外見通り、家の中もかなり古めかしい感じだった。縁側からの眺めは中々のもので、綺麗な街並みを見渡す事ができた。
「広い家ですね…掃除も大変じゃ無いですか?」
「大丈夫だよ。普段立ち入らない部屋は掃除してないから」
「虫が湧くから、ちゃんと掃除してください…」
レンはヨシュアに言われた通り、渋々掃除を始めた。俺も彼らを手伝って、家に害虫が湧いていないかチェックをしていた。
掃除に一区切りつけた俺達は、縁側で休憩していた。確かにこの広さだと、掃除をするのはかなり大変である。
「ゲームやろうぜ。モニターは旧式だけどいいよな?」
「本当に古いやつだね…」
レンがテレビを見たりゲームをする時に使っているモニターは、彼の言う通り旧式だった。それでも問題無く使えているので、文句を言うつもりは無かった。
レンもヨシュアも中々に上手く、俺が負ける事の方が多かった。しかし、俺のプレイスキルも上達していたので、2人相手に勝つ事もあった。
「おお…やるじゃねぇか」
「俺が手伝いに行ってる孤児院には、もっと上手い子供がいますよ」
「孤児院の手伝いですか…」
ヨシュアは孤児院について、興味が湧いたようだった。俺が孤児院の話をすると、二人とも真剣な表情で聞いていた。レンは孤児院に対して、何か思うところがある様だ。
「俺達も今度そこの手伝いに行くぜ。いいよな木村」
「え…迷惑になりませんかね?」
「エドワードさんに聞いてみるよ」
あの孤児院は清潔感は保たれているが、人手は足りていなかった。手伝ってくれる人が増えたら、職員の人達も喜んでくれるだろう。
「じゃあな!気をつけて帰ろよ」
「じゃあね」
俺が帰る時には、ヨシュアはまだレンの家にいた。レンの家の片付けを手伝わされる羽目になっている様だ。
「おかえり。レン君の家はどうだった?」
「大きいけど、古い家でした」
俺はエドワードさんに、レンとヨシュアも孤児院の手伝いをしてくれると伝えた。エドワードさんは孤児院に連絡を取って、たまに手伝いに来る人が二人増えるけどいいだろうかと伝えていた。
「歓迎するって。元々人手が足りてないからね」
「ありがとうございます!」
俺はその事についてのメッセージを、すぐにレンとヨシュアに送った。どうやら向こうの掃除にも一区切りついた様で、ヨシュアも帰宅できた様だ。
レンはいつでも行けると言い、ヨシュアは出来るだけ孤児院の手伝いを優先すると返信が来た。この2人が手伝いに来てくれれば、俺の負担も減るだろう。
(小説の題材にできそうなものも探さないと…)
俺は日常で起こる出来事も、小説のネタにしようと考えていた。ほんの些細な出来事も、印象に残る描写に出来るかも知れないのだ。
(ヨシュアやレンと一緒なら、そういう体験も出来るだろう)
そう言った意味でも、次の孤児院の手伝いの日は楽しみだった。こうしたボランティア活動でも他の人が一緒なら、いつもと違う出来事が起こるからだ。
「よーし!俺に任せろ!」
「三浦先輩はしゃぎすぎ…」
8月25日、俺はレンやヨシュアと一緒に孤児院の手伝いに行き、早速子供達の遊び相手をした。レンは子供達と一緒に元気良くサッカーをして、その様子を見たヨシュアは、少し呆れていた。
「よくあんな風に子供達に混じれますね…」
「三浦先輩はああ言う人なんです」
屋外での遊びの後は給食の時間で、俺達も食べる事になった。レンもヨシュアも好き嫌い無く食べる人で、俺も見習わないといけないと思った。
「デザートのアイス余ってるよー」
「はーい!」
デザートが余ってると聞いたレンは、子供達に混じってジャンケンを始めた。こればっかりは俺も、レンが子供っぽいと思っていた。
「うう…アイス…」
「アイスのおかわり手に入れられなかったからって、そんなにショック受ける事無いと思いますよ…」
結局子供達とのジャンケンに負けたレンは、おかわりのアイスを食べる事はできなかった。とは言え、この後は対戦ゲームで遊ぶ時間だと知っていたので、レンも早めに気を取り直した。
「この悲しみは…勝利で晴らす!」
「子供相手に本気出し過ぎないようにしてください…」
レンはやる気に満ち溢れている様子で、ヨシュアは落ち着かせようとしていた。俺も対戦ゲームをプレイするのは楽しみにしていた。
「よっしゃあ!俺の勝ちだ!」
「三浦先輩もそうですけど、エドガー君も割と大人気ないですよね…」
「遊びだからこそ、本気を出すんだよ」
俺はレンと一緒に子供達と対戦して、勝利を重ねた。一方で、ヨシュアは手加減をして、子供達にも勝たせてあげている様だ。
「つまんねーの…」
俺とレンが本気を出し過ぎていたせいで、中々勝てない子供達は飽きてしまった様だ。そこに来たのは、以前も俺と対戦した大人しそうな少年だった。
「僕も、いいですか」
「もちろんだ」
対戦相手の子供が飽きてこのまま終わりかと思っていたレンは、嬉しそうだった。俺はヨシュアに、彼のプレイスキルの高さについて伝えておいた。
「じゃあ自分も本気を出さないといけませんね」
ヨシュアも彼とは本気で戦う様で、今までとは違う真剣な目になっていた。彼もレンやヨシュアの実力に対する興味が強い様だ。
「始めようか」
レンとヨシュア、俺は実力者のあるプレイヤーである、彼との対戦を始めた。レンもヨシュアも真剣な様子で、彼との勝負に臨んでいた。
「つえぇ…」
最初に敗退したのはレンで、次に負けたのは俺だった。レンは自分があっさり負けた事に対して、言葉も出せない様子だった。
(それにしてもヨシュアは上手いな…)
ヨシュアはまだ張り合っている様子を見せていた。相手の子供の方も、ここまで強い相手は初めてだという様子だった。
最終的に負けたのはヨシュアの方だったが、かなり善戦していた。その後も何度か対戦したが、俺達が勝つ事は無かった。
「ありがとうございます」
「君…本当にすごいね」
対戦ゲームの時間は終わって、俺達は帰る事になった。ヨシュアは先程対戦した少年…オルガ・タニサキの事を気にかけている様だった。
「彼みたいな子が埋もれてくのは勿体無いよ。恵まれない子もプロゲーマーとして活躍できるような…」
「木村、それよりもちゃんと食べ物があることの方が大事だぞ」
レンはやはり孤児達と会って、ずっと考えている様子だった。ヨシュアも余計な事を喋らずに、それぞれの帰路についた。
「レンとヨシュアはどんな感じだった?」
「レンさんは子供と一緒にはしゃいでましたよ」
帰宅した俺はシャワーを浴びた後、自室に戻って小説の続きを書き始めた。しかし、レンの様子が気になっていたせいで、今日は筆が進まなかった。
(さて、どうしようかな…ん)
シャワー浴びてパジャマに着替えた俺は、これからどうするか考えていると、デバイスに電話がかかってきた。驚きながらも慌てて確認すると、爺ちゃんからの着信だった。
「爺ちゃん…どうしたの?」
「エドガー、元気にやってるか」
俺はすぐに電話に出ると、爺ちゃんの声が聞こえてきた。声色から察するに、他愛のない話をしたいだけでは無いみたいだ。
「今日はレンやヨシュアと一緒に、孤児院の手伝いに行ったんだ。それで…」
俺は今日の出来事を話そうとしたが、言葉に詰まってしまった。俺は爺ちゃんに打ち明けたい事を、素直に話す事にした。
「新人賞…俺の小説、全部受からなかったんだ」
俺は短編小説にはコメントすらつかなった事も伝えた。爺ちゃんは何も言わずに、静かに俺の話を聞いていた。
「でも…連載中のファンタジー小説は佳作賞を貰えて、これからも連載を続けるから…」
「エドガー、今の生活に満足しているのか?」
俺は爺ちゃんの言葉にどう返せばいいのか、分からなかった。決して不満がある訳では無かったが、この状況を脱したいとも思っていなかった。
「エドガーは、本気で小説家になりたいと思っているのか?」
「それはそう、だけど…」
俺は本気で小説家になりたいと思っている…つもりではある。しかし、文体を改善する方法があるのか、構成力を上げるにはどうすればいいのかが分からない。
「小説を書くのは趣味に留めて、他の生き方でもいいと思っているのか?」
俺は小説家になりたいと思っていたが、その為に全てを投げ出す覚悟も無かった。普通の生き方は嫌だったが、そうならない為に本気で努力する事もできなかったのだ。
「まぁプロの作家になるのを諦めるなら、他の仕事を紹介できなくも無いぞ」
「それって…」
爺ちゃんの紹介する仕事が何なのかは、少し気になった。尤も、小説家になるのを諦めた上での仕事だから、クリエイティブな職機では無いだろうが。
「私の知り合いの介護だ」
「介護は俺には無理」
老人介護も人手が足りていない事は知っていたし、介護士に手伝ってもらうにも金がかかる。その点、知り合いの身内である俺なら都合がいいと言う事だろう。
「その…質素だけど、こっちでもそれなりの生活はできてるから…」
「そうか…じゃあな」
そうして爺ちゃんとの通話は終わり、俺はしばらく夜景を眺めていた。確かにこのままの生活を続けていくだけでいいのか、俺は不安になり始めていた。
9月1日の午前中、俺はレンやヨシュアと一緒にいつも利用しているスーパー銭湯に向かっていた。レン達も一度は行った事がある様で、この辺りでは人気がある様だ。
「ここのスーパー銭湯いいよな。飯も美味いし」
「居心地いいですよね」
俺達はすぐに大浴場に向かい、風呂で体を温めた。体を洗った後、レンとヨシュアは高温サウナの方へ向かった。
「あれ、エドガーは入らないんですか?」
「高温サウナは苦手なんです。黄土サウナの方に行きます」
「そうか。じゃあ後でな」
俺はサウナフロアへ向かい、黄土サウナに入った。60℃で保たれている黄土サウナの中には、既に数人の先客がいた。
(新陳代謝促進の効果があるんだったな…)
黄土色の土壁にはシルクロードをイメージした壁画が描かれて、異国情緒があった。その空間の中で、俺は静かに体の調子を整えていた。
サウナから出た俺は、クールルームに入る事にした。冷水浴が苦手な俺にとっては、嬉しい施設だった。
(15℃…思ったより寒いな)
俺はクールルームでしっかりと体を冷やした後、もう一度黄土サウナへ向かった。交代浴をする事で、体の新陳代謝が活発になるらしいのだ。
(ふう…熱くてすぐ出てしまった)
2回目の黄土サウナは熱く感じて、すぐに出てしまった。それでも交代浴はできたので、効果はあるだろう。
「おう、エドガーも出てきたか」
「そろそろお風呂から出ましょう」
俺達は熱めのシャワーを浴びて、大浴場を出て行った。服を着た後は涼みながら、自販機へと向かう事にした。
「エドガーはコーヒー牛乳か」
「コーヒー牛乳もいいですよね」
「フルーツ牛乳…あまり飲んだ事無いんですよね」
俺はいつも通りコーヒー牛乳を飲んでいて、レンとヨシュアはフルーツ牛乳を飲んでいた。飲み終わってしばらく涼んだ後、食事スペースへと向かった。
食事スペースで、俺達はそれぞれ別の物を注文した。レンは石焼ビビンバを注文して、ヨシュアは天笊饂飩(てんざるうどん)を注文していた。俺は少し迷った末に、肉焼きそばを注文する事にした。
「まだ熱々だな…」
「僕は先にうどん食べますね」
レンの石焼ビビンバはまだ熱々で、ヨシュアは先にざるうどんを食べ始めていた。俺も熱い焼きそばを少しずつ冷ましながら、食べる事にした。
(ここの食事はどれもそれなりに美味いな…)
スーパー銭湯の食事スペースで提供される物なので、特別美味しい訳ではなかった。しかし、また食べたいと思える、安心感のある味だった。
レンも石焼ビビンバを食べ終わって、俺達は休憩スペースで休んでいた。少しして、レンは時々手伝いに行っている孤児院について話し始めた。
「あそこで暮らしてる子達は、平和そうでいいよな…俺は…」
レンは自分の少年時代の事を、静かに語り始めた。ヨシュアは彼の過去を知っているのか、何も言う事は無かった。
少年時代のレンは孤児院には拾って貰えず、スラム街でゴミ漁りをして暮らしていた。彼のようなゴミ漁りを鼠と呼んで、蔑む者は多かった。
(食べれるのはこれだけか…)
ゴミ漁りをする中で、レンは食べ物が腐っていないかどうか判断する力を身につけた。体の調子を崩してもスラム街では誰も助けてくれないので、食べる物は慎重に選ばないといけなかった。
「今日の部品はそれだけか…じゃあ、このくらいしかあげられないな」
レンは廃棄場に捨てられたジャンクの中から、使えそうな部品を漁って、店員の大人の所へ持って行く事もあった。既に使えない部品が混ざっていて殴られる事もあったが、こうした大人達は部品と引き換えに食べ物をくれた。
(よし…今日は肉も貰えた)
この日のレンは部品と引き換えに、人参(にんじん)と玉蜀黍(とうもろこし)、玉葱(たまねぎ)と鶏肉を貰った。特に孤児達に取っては、肉は中々手に入らない物なので嬉しかった。
(しっかり火を通して…)
レンは手に入れた食べ物に火を通して、しっかり焼いてから食べた。焼いただけの肉などをそのまま食べているだけだったが、この時の彼にとってはとても贅沢だった。
本来なら小学校に入学している年齢の頃も、レンは荷物の輸送を手伝って金を稼いでいた。重労働の割には低賃金だったが、この仕事をしないと生きる事すら困難だった。
「早くしろよおい!」
「すいません…」
レンは大人達に怒鳴られながらも、懸命にその仕事を続けた。彼は学校に行く事も出来ずに、輸送の仕事を3年間続けた。
しかしある日、運送会社の社員達が自分に支払われるはずの給料の一部を横領している事を、レンは知った。孤児であるレンには何も出来ないであろうと、見下していたのだ。
「どういうつもりですか!」
「うるせぇんだよガキが!死ぬまで黙って働いてろ!」
スラム街でも、強者による弱者からの搾取は存在した。彼が集めていたジャンク品も、余った食品とは比べられないほどの価値がある物だった。
(畜生…このまま終わってたまるか)
レンはこの状況を脱する為に、会社内に保管されている資金を盗んで逃亡する事にした。爆弾の作り方はヤクザの隠れ家を覗いて覚えていて、爆薬もその時盗んだ物がある。その爆薬を使えば簡単な金庫の扉なら、容易に吹き飛ばす事ができる。
ある晩、運送会社の地下にあった金庫で、爆発が発生した。レンによる、資金を盗み出す事を目的とした犯行だった。
(このまま逃げ切ってやる!)
輸送用車両に乗り込んだレンは、追いかけてくる社員から逃げる為に、車両を発進させた。ここで捕まれば間違いなく半殺しにされて、そのまま死ぬ事になるからだ。
(ここまで逃げれば…)
レンは乱暴に車両を走らせて、スラム街を脱出した。車両の破損と燃料切れにより、旧市街の古びた屋敷の前に停めた。
「ふぅ…」
「何だ?お前がここまで走らせたのか?」
屋敷の前に来て破損した車両に驚いた老人が、レンに声をかけた。レンは追手かも知れないと思って、老人を警戒した。
「…スラム街のガキか。大方、安い給料にキレて、逃げ出して来たんだろう」
老人はレンが使っていた車両を調べて、使えるかどうか調べ始めた。元々古かった上に雑に運転していたので、エンジンがかかる事は無かった。
「さっきの爆発は、お前の仕業か…あの会社は元々怪しかったし、守ってやってもいいぞ」
「…守って、どうするんだ?」
レンは老人の事を怪しんでいたし、守ってもらった後、何を要求されるかを不信に思っていた。レンの周りにいた大人は、孤児を利用しようとする者ばかりだったのだ。
「そこのボロボロの車両のパーツを売って得た金を、お前にやる。学校に通える様にもしてやる」
「…何で?」
やはり老人に、嘘をついている様子は見られなかった。レンにとっては、老人の方に何のメリットも無いのに、何故助けてくれるのかが疑問だった。
「お前らみたいな孤児を守る為に使っても余る程の金があるんだ。俺は金に関しては余裕があるんだよ」
会社の社員達が、レンを追いかける事は無かった。孤児達を働かせていた事が明るみになって、会社の営業が立ち行かなくなったのだ。
その後、レンは中学校に通える様になって、空手を習う様になった。中学卒業後は高校に進学して、競売に出された古い屋敷を安値で買い取って、一人暮らしを始めた。
そして必死に勉強したレンは、大学に進学する事も出来た。彼は援助を受けながらも、アルバイトをして金を稼ぎながら空手部にも所属して、表の世界で生き続けている。
「そうだったんですか…」
俺は孤児の救済が行われているエリア003でも、レンの様な人がいる事に驚いていた。ヨシュアは、レンの話に口を挟む事なく静かに聞いていた。
「木村も大変なんだろ。兄が鬱病になって…」
「少しずつ、立ち直ろうとしているので、大丈夫です」
ヨシュアはソーラーパネルメンテナンスの重労働の末に、鬱病を患ってしまったらしい。今は働く事ができないが、他の事への興味は戻って来たらしい。
「まぁ…もう少しゆっくりしようぜ」
レンは自身の過去を話して疲れている様子を見せていた。俺とヨシュアも、レンと一緒に暇を潰す事にした。
「そう言えば、三浦さんを助けてくれた人って…」
「ああ、ジェラルドさんの事か?エリア004に住んでるんだぜ。かなりの金持ちで、今でも孤児達への支援をしてるみたいだな」
004はここのすぐ隣にあるエリアで、遺跡群が存在する。以前、旅行ガイドで見て、ずっと行ってみたいと思っていたのだ。
「今度旅行にいてみるのもいいかも…」
「おお!すぐ隣だし行きやすいからな!とはいえ、行くとしたら来年か…」
俺はレンやヨシュアと一緒に旅行計画を立て始めた。先程まで重い話をしていたせいか、とても楽しい気分になった。
「この3人で旅行…いいですね」
俺がレンやヨシュアと知り合ったのは、地下街のラーメン屋の屋台だった。それから子供を助ける為に、ヤクザのアジトに潜入したりしたのも数ヶ月前だ。あの時は、ここまで親しい仲になるとは思っていなかった。
「004の遺跡群は、前から見てみたかったんですよね…」
「ジェラルドさんの家の近くにも、遺跡があるみたいだぜ」
「そんなに遺跡が点在しているんですか」
ヨシュアも、市街地にも遺跡が点在していると聞いて、興味を持ち始めた様だ。俺達は休憩スペースにある旅行ガイド本を持って来て、エリア004のページを見始めた。
「004は文化財の保護を積極的にしているんですね」
「遺跡がそのまんま保管されてる博物館まであるのか…」
損傷が激しい遺跡の修復を行う職人達もいるらしく、本気で文化財を守ろうとしている事が分かった。俺はエリア004への旅行が、ますます楽しみになっていった。
「またなエドガー!」
「またね」
俺はレンやヨシュアと別れて、洋食店へと帰った。旅行に行く事という楽しみもできたので、俺の気分は明るかった。
「004への旅行か…正直羨ましいな」
エドワードさんもエリア004に対しては興味がある様だ。この晩も、俺はいつも通りに小説の続きを書いていた。
9月5日の夜、エリア092にいるエドガーの祖父、ハーマンはある人物に電話をかけていた。エリア004にいる、その人物が電話に出るのは少し時間がかかった。
「何だよこんな時間に…」
「俺だジェラルド。ハーマンだ」
ジェラルドは既に酒を飲み始めていて、面倒そうに対応していた。ハーマンはそんな彼に対しても、辛抱強く話し続けた。
「やだよ、何で俺がお前の孫の面倒見なきゃいけねぇんだよ」
「俺が書いた小説を一度も新人賞に通さなかった恨みだ」
ジェラルドはかつて出版社に勤めていた時期がある。その時の件について、ハーマンは未だに恨みを持っている様だ。
「それにお前が孫の面倒を見るんじゃ無い。孫がお前の面倒を見るんだ」
「どういう事だ…」
「以前…介護の仕事だって伝えた」
「おい、ハーマン!ッチ…」
ジェラルドはハーマンの孫への伝え方に呆れ始めていた。だが、ジェラルドは電話を切らずに、ハーマンの話の続きを聞く事にした。
「別に俺の孫の…エドガーの先生になって欲しいんじゃ無い…ただ、彼が小説を書くのを見てやって欲しいんだ」
「そのエドガーってのは、お前のところで暮らしてるのか?」
「違う、エリア003で暮らし始めて、もうすぐ1年になる」
「折角慣れてきた頃だし、無理に引っ越す必要無いだろ。それに004はすぐ隣じゃ無いか」
今回はジェラルドの方が正しいと判断したハーマンは、しばらく次の言葉が出なかった。間が空いた後、言葉を発したのはジェラルドだった。
「お前は003に行った事はあるのか?」
「ああ、エドガーにも会ったよ。桜雪庭苑に泊まって、冬の桜も見た」
ジェラルドも何度か桜雪庭苑に泊まった事があり、冬の桜を見ていた。少しの間、彼らは冬の桜の風情について語り合った。
「近いうちに、また003に行ってみろ。そうすりゃお前の孫の心境にも影響を与えられるだろ」
「ああ…分かった」
「俺も近いうちに、003に行こうと思っていたんだよ」
「孤児達に会いに行くのか?」
ハーマンは、出版社を離れたジェラルドが孤児達の保護を始めた事は知っていた。003の孤児院の多くは、ジェラルドの投資した金による物だった。
「まぁ、そんなところだ…眠いし、もう切るぞ」
ジェラルドは電話を一方的に切った後、ウォッカが入ったグラスを手に窓辺に向かった。そこからは、夜空に輝く月の光に照らされた遺跡を見る事ができた。
(…飽きない景色だ)
ジェラルドはウォッカを飲み終えた後、寝室に向かった。妻に先立たれた彼は一人、この家で暮らしている。
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