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夕暮れの時計塔 兄の本心 カエデの想い

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8010年7月14日、本格的に夏が来て暑くなり始めた。この日は振替休日だったので、朝からアルバイトをしていた。

エリア003への旅行に行く事自体にもかなりの金がかかる上に、冬の桜を見ることができる庭園への入園料もかなり高かった。
その為、アルバイトの量を増やして少しでも多く金を稼ぐ事にした。早めに多くのバイトをこなして、年末が近づいたら旅行の準備に専念できるようにしたかったのだ。
俺は要領が悪いなりに、アルバイトをこなし続けた。接客業は苦手だったが客からの評判は決して悪くなく、元気がありすぎるよりはいいと言われていた。
一緒にバイトしている同僚との付き合いは苦手だった。バイト仲間と遊び歩く事が好きな人達と一緒にいるのは、俺にとってはとても疲れる事だ。
もちろんそうした誘いは、全て断るようにしている。俺が書いている官能小説を読んでくれる人はまだいるので、そちらの執筆も進める必要があったのだ。
とは言え、俺は体力がある方では無かったので、かなり疲れる毎日を送っていた。それも、心地よい疲労感ではなく、追い込まれて疲弊している感じがするものだった。
それでも俺はハードなスケジュールでの生活を続けた。どうしても花を象った超巨大ソーラーパネルと、冬の桜を見たかったのだ。

しかし、この日は猛暑日と言われるほどに気温が高くなる予定だった。俺は気温の高くない朝の内から、この日の最初にバイトする店へと向かった。
レジの仕事だったが、今回は客の少ない時間帯なので比較的ラクだった。迷惑な客が来ると俺はすぐに店長を呼ぶようにしていたが、今回はその必要も無かった。
最初のバイトが終わる頃には、午前11時になっていた。既に太陽は高く上り、地上を灼熱の地へと変えていた。
俺は炎天下の中を歩く事になり、汗を流して体力を奪われて行った。どうも予想よりも大幅に気温が上昇しているようだ。
次の仕事は、店の倉庫の物品の整理をする仕事だった。倉庫の中は空調が効いていたが、重い荷物も多かったのでかなりの重労働だった。
食欲が無かったせいで、昼飯はほとんど食べれなかった。その状態でも俺は働き続けて、終わったのは午後2時だった。
2時の頃には凄まじい酷暑となり、屋外での行動は中止するようアナウンスがされていた。俺はその中を歩いて、次のバイト先へ移動する事になってしまった。
俺は必死に目的地に向かって歩いていたが、明らかに体力の限界だった。俺は公園の木陰を見つけて、そこで涼もうとしたが意識が遠のいて倒れてしまった…

「よぉ…目は覚めたか?」
「…兄さん」
俺が目を覚ました場所は、自宅のリビングだった。俺に声をかけた男はライネス・メイソン、俺の兄だった。
「熱中症になるまでバイトするなんてな…お前らしくないぞ」
「そうだな…」
俺は通行人が呼んだ救急車に乗せられてその中で治療を受けた後、兄が駆けつけて家まで運んでもらったらしい。俺は経口補水液を飲みながらソファーで横になって休んでいた。
「お前なぁ…マジで死ぬとこだったんだぞ」
「死ぬのか…悪くはないな…」
「…暑い中で死ぬのはやだろ」
「それはそうだな」
俺は確かに暑い中で死ぬのは嫌だなと思いながら、シャワーを浴びにいった。髪を洗ってシャンプーを流した後、しばらく俺は鏡に映った自分を見つめていた。
(まだ…死にたくはないな)
俺はそう思って浴室を出て髪を乾かして、新たに用意した服を着た。取り敢えず自分は生きている、だから小説を書き続けるし、冬の桜を見たいと思うのだ。

「兄さん…エリア017はどうだった?」
ライネスはエリア017に、出張のために向かっていた。もっとも俺は、今日が兄の帰ってくる日である事を、すっかり忘れていた訳だが。
「今回は治安が良い街での勤務だったから、普通に良かったよ。あと、お土産」
「これ遺跡の出土品だ!ありがとう!」
ライネスが買って来てくれた土産は、遺跡から発掘された品だった。俺はこうした遺物を見るのが好きだったが、値段が高くつくものなので中々買えなかった。
「宇宙ステーションも見て来れたよ。昔より住みやすくなってるらしいな」
エリア017では、軌道エレベーターで地上と繋がっている宇宙ステーションも人々の生活圏内である。昔は人工重力システムも完成していなかったので劣悪な環境だったらしいが、今では移住者も多い住宅エリアもある。
「軌道エレベーターの改修工事はまだ終わってないんだよね」
「老朽化を防ぐためにも、整備は続けなきゃいけないからな…」
エリア017の2本の軌道エレベーターは整備が続けられているが、どのエリアでもそうとは限らない。エリア006やエリア013の軌道エレベーターは老朽化したまま放置されている部分も多く、専門家が何度も危険だと警告している。
「エリア202の新造のエレベーターも凄いけどな」
「あれって202を建造するときに一から建てたんだよね」
今の時代の軌道エレベーターのほとんどは昔の物を流用しているが、エリア202は例外の一つである。既に軌道エレベーターを再現できるほど、現代の技術は進歩しているのだ。
「…そう言えばお前、旅行に行きたいのか?」
「え…どうしてそれを」
「本棚から引っ張り出したような、古い旅行ガイドがテーブルに置きっぱなしだったからな」
「あ…」
俺は旅行ガイドを本棚に戻すのを忘れてしまっていたようだ。旅行に行く事を想像する事に、夢中になっていたのだ。
「新しい旅行ガイドならここにあるぞ」
ライネスは鞄から旅行ガイドを取り出して、テーブルの上に無造作に置いた。俺はそれを手に取って読み始めると、幾つか情報が変わっている事が分かった。
「旅行に行きたくてあんなに必死になってバイトしてたのか」
「そうだけど…」
ライネスは俺がアルバイトの量を増やしていた理由を知って、納得している様子だった。俺は大幅に情報が更新されているエリアは無いか、真剣に確認していた。
「お前…旅行に行ったら帰りたくなくなるんじゃないか?エリア092嫌いだろ」
「…092自体はそこまで嫌いじゃない」
俺にとって、この家の居心地が悪いのは確かだった。だから別のエリアへの移住を、一瞬ではあるが考えたのだ。
「…エリア004には行った事ある?」
「無いな。仕事で行ったことも無い」
俺が一番住みたいと思っているのはエリア004だった。しかしライネスが004に行ったことは、一度も無いようだ。
「じゃあエリア003は…」
「….俺が003の会社に勤めていた時に住んでたが」
「そうだっのか…」
「忘れてたのかよ…」
俺はすっかり忘れていたが、エリア003でライネスは一時期暮らしていた事があった。003の会社に入社する事になったので、一度引越したのだ。
「しかし003に行きたいのか…向こうでお世話になった人に頼めば…」
「…誰か頼れる人がいるのか」
ライネスには、003で世話になった人がいるようだ。俺の旅行を助けてくれるなら、ライネスに頼み込んで協力してもらうつもりだった。
「向こうで下宿先にしていた店に、俺がこいつは弟だって言って頼めば住まわせてくれるかもな。当然そこで働く事になるだろうが」
「え…」
エリア003に移住できる可能性が出てくるのは、俺にとって予想外の展開だった。俺としては数日間向こうに旅行しに行って、092に帰って来るつもりだったのだ。
「いいのか…」
「お前は進学したいと思ってるのか?」
「それは…」
「小説家になりたいんだろ。もちろん大学に通いながら書くというのも良いだろうが…」
正直、俺はどうするべきか未だに答えを出せずに、迷い続けていた。大学に進学したところで、何を学べば良いのかも分からなかったのだ。
「小説の書き方を…学ぶタイプじゃ無いか、お前は」
「もう書き始めてるから…今更変えられない」
「じゃあ一度003で暮らしてみるのもありなんじゃ無いか?…あと俺が住んでいた部屋はこんな感じ」
「おお…」
ライネスが住んでいた部屋は古かったが、003の街並みが見える部屋だった。ここの店で働きながら生計を立てて、夜はこの部屋で小説を書く…悪い生活では無い。
「その…ありがとう、兄さん」
「おいおい、断られる可能性もあるんだぜ?」
俺は自分に利が無いのに、俺の望みを叶える事を手伝おうとしてくれる兄に感謝した。もちろん兄の言う通り、移住出来なくなる可能性もあるのだが。
「じゃあアルバイトの量は減らして…後高校は卒業しろよ」
「ああ…分かってる」
俺は高校の卒業には問題無かったので、バイトの量を減らしつつ小説を書き続ける事にした。向こうでの生活を元に、新たな長編小説を書く事もできるかもしれない。
「とにかく、無理はするなよ。体力の限界を越えて、死にかける事もあるんだからな」
それは兄の言う通りだった。俺はどうしても冬の桜を見たいから、無理をして体を壊さないようにする必要があった。

「そう言えば兄さんは003での仕事がキツすぎたせいで辞めて、今の会社で働いてるんだよね」
「ああ…」
ライネスは003に移住して働いていたが、数年前に092に戻って来たのだ。どうやら向こうでの仕事量が異常だったらしくて、今は092の会社で働いている。
「ソーラーパネルのメンテナンスにも関わってたんだっけ」
「メンテナンスを未だに人の手で行っている場所もある…あれは人間の作業にしてはいけない」
俺はソーラーパネルのメンテナンスがどのような仕事かは知らなかった。兄はゆっくりと、どんなに過酷な業務かを語り始めた。

ソーラーパネルの大半は大型で、高所に設置されている。それだけでも命の危険に関わるのに、繊細かつ緻密な作業を要求されるのだ。
「おいおい…この量を1日でやれってのか?」
さらにはスケジュールも、超がつくほど過密なものだった。そのスケジュールを続ければほとんどの人間は過労死してしまうと言えるほどに、過酷なものだった。
「メンテナンスマシンは導入しないんですか?」
「ああ。うちの会社じゃ無理だな」
ソーラーパネルのメンテナンス用ロボットは、既に開発されていた。しかし、非常に高価な機械なので、中小企業が購入できる物では無かったのだ。
「くそ…熱い…」
ソーラーパネル発電は、太陽光で発電するシステムだが、パネル周辺の気温が高くなりやすかった。凄まじい熱に体力を奪われて、労働者が倒れてしまう光景も珍しいものでは無かった。
「冬の桜はなんで咲くんだ?こんなんじゃ咲く前に燃え尽きるだろ…」
「あそこのソーラーパネルは金をかけて作った、最高傑作だかららしいぞ…」
エリア003の中心に存在する花を象った超巨大ソーラーパネルは、放熱による気温の上昇も殆ど無いとの事だ。どうやら桜の庭園を作るために設計して、金をかけて作った物らしい。
「おい…モートンはどうした?」
「メンテナンス中にソーラーパネルに転落して、死んだらしいぞ」
ライネスの同僚だったモートンは体力が回復しない中で働かされて、ソーラーパネルに転落した。放熱中のソーラーパネルの温度は凄まじいレベルに上がるため、想像できないほどの苦しみだった事は明らかだろう。
「同僚が死んだんですよ‼︎労働環境をすぐにでも改善して下さい‼︎」
「そんな暇は無い。お前らの代わりなんていくらでもいる」
ライネスは他の同僚と協力し、会社に対して労働環境改善の嘆願書を提出した。しかし、労働者達を見下している会社は、嘆願書を完全に無視した。
(ふざけるな…このままじゃ仕事に…会社に殺される‼︎)
そう思ったライネスはすぐに退職して、エリア092に戻って来た。幸い、ソーラーパネルのメンテナンス職に就いていた経験が役に立ち、すぐに別の職を見つけることができた。

「明らかに異常な会社じゃん…ブラック企業なんてレベル通り越してるし…」
「まぁ…大学出たって、良い企業に入れない可能性があるって事だ」
俺はライネスが勤めていたエリア003の会社の話を聞いて、衝撃を受けていた。今の時代にここまで異常なレベルの会社があるとは、想像も出来なかったのだ。
「そうだ、たまには買い物に付き合えよ。あんな重苦しい話をしちまったしな」
「まぁ…いいよ」
俺は兄と共に、エリア092の商業区画へと向かった。ここにはショッピングモールやデパートなどがあり、大体のものを買う事ができる。

「はぁ…もう夕方だな…」
「こうして見る景色も悪く無いけど…暑いし帰ろうよ」
俺は兄と一緒に家に帰る途中だったが、以前見た事がある少女を見かけた。向こう側も俺の存在を覚えていたようで、こちらに近づいて来た。
「あの…カエデさん…久しぶり…」
「暑いしここじゃ話したくない。近くにお気に入りのカフェがあるの」
カエデのお気に入りのカフェには、すぐに到着した。そこは評判がいいが、割と値段が高いチェーン店である「OLDstar」だった。
「この店は入った事ないぞ…」
「OLDstarは作業する環境として最適なの」
ライネスはカエデがOLDstarの常連である事に驚いているが、彼女が既にメジャーデビューしている作曲家だと知ればさらに驚くだろう。俺達は3人分の席を確保して商品を注文する事になったが、ライネスはこの店での注文の仕方が分からないようでオドオドしていた。
「えっとサイズの注文は…」
ライネスもカエデに教えてもらう事で、何とか注文する事ができた。俺が頼んだのはアフォガートで、ライネスとカエデが頼んだのはアイスコーヒーだった。

「マジか…作曲家だったの…」
「やっぱり驚いてる….」
俺達が頼んだ物が届く間に、カエデは俺の兄にも正体を明かした。ライネスはカエデが作曲家である事を知り、俺の予想通りに驚いていた。
「じゃあ俺が見たあのドラマの…」
「"昨日の白"の主題歌は作ったけど」
ライネスが見ていたドラマの主題歌も、カエデが作ったものだった。俺は知らなかったので検索して、「white Night」を再生してみた。
「おお…これだよ!」
「…曲調も歌詞もどちらもすごい」
「褒め方下手すぎ」
やや暗めの曲調にネガティヴ過ぎない歌詞は好きなのだが、カエデの言う通り俺はうまく褒めるのが苦手なタイプだった。そのせいで、購入した商品のレビューを書くのも苦手である。
「前、ガリレオガリレイの旅が好きだって言ってたよね。私はシリアスなアニメの中では、獅子の王の方が好きなんだ。原作も読んだし」
「それ、俺も好きなアニメです!」
俺とカエデが好きなアニメの話で盛り上がっている間に、店員がアフォガートとアイスコーヒー二つを席に持って来てくれた。アニメの話題についていけないライネスは、すぐにアイスコーヒーを飲み始めた。
「アフォガート…初めて食ったけど美味いな」
「お前はコーヒー飲めないもんな…」
「作業をする時はコーヒーに限る…という感じはしますね」
冷たいバニラアイスに熱々のエスプレッソがかけられる事で、アイスは溶け始める。エスプレッソは苦かったが、バニラアイスの甘さと混ざり合う事で程よいハーモニーを生み出していた。ちなみに、俺はブラックコーヒーがどうしても苦手だった。
「エリア017の軌道エレベーターにもOLDstarのチェーン店があってね。そこからの夜景を見ながら曲作りを進めるのが、好きなんだ」
「えっ?017の軌道エレベーターにこのカフェあったの?」
カエデはOLDstarが本当にお気に入りなのだと、俺はアフォガートを食べながら思った。ちなみに、ライネスは軌道エレベーターにOLDstarが開店している事を本当に知らなかった様だ。
「ニナちゃん、かなり好きなキャラなんだよね」
「私も好きだよ。ニナちゃんが出ると、和む感じになるから」
「獅子の王」の話をしているうちに、俺とカエデは好きなキャラクターも共通している事が分かった。カエデはニナ・シエラというキャラクターだけでなく、担当声優であるモモコ・ヒサカワも好きだと語っていた。
「私はやっぱり、シリアス一辺倒なものはあんまり好きじゃないかな。物語の中くらい、和むシーンが欲しくなるし」
カエデはガリレオガリレイの旅があまり好きではない理由も教えてくれた。作曲家として悩みながら生きているので、あまりに辛い物語は好きにはなれないらしい。

「そう言えばカエデさんの出身は…」
「エリア013」
ライネスはカエデの出身が何処かを聞くと、彼女は苦い顔をしながら答えた。よほど、自分が生まれた場所が嫌いなのだろうか。
「その…013について詳しく教えてくれませんか。俺の父親が生まれた場所なのに何も知らないので」
「…分かった。どんな景色があるのか、何がエリアを支配しているのかを教えてあげる」
アフォガートを食べ終わった俺は、改めてエリア013について聞いてみた。カエデはゆっくりと、そして苦々しそうに語り始めた。

カエデ・ツキシマ…エリア013風に言えば月島楓は、片田舎で生まれ育った。家は貧しく、贅沢な食べ物はとても買える環境じゃ無かった。
両親は中小企業に勤めて必死に働いていたが、それでも所得は低かった。中間に入るヤクザが重税を課して、金を吸い上げているのだ。
エリア013の支配者はヤクザだ。013のあらゆる場所にヤクザの監視があり、店を開くだけでも大量の場所代を取られる。もちろん、公共の交通機関の乗車料金も他のエリアと比べて、遥かに高く設定されている。
そんな環境で生まれ育ったカエデは、音楽とは無縁の人生を送るはずだった。学校に通って「013で生まれた者」としての普通の人生を送るはずだった。
ヤクザが支配する013では、小学生の頃から何らかの派閥に所属する者が殆どである。派閥同士の喧嘩は後を絶たない上に、拳銃などを用いた殺し合いに発展する事すらある。カエデが通っていた学校では起きなかったが、校内で銃撃事件が起きて死人が出たというニュースも、エリア013では日常茶飯事だった。
また、行方不明者の数も他のエリアとは比べ物にならないほど多かった。行方不明者の殆どが子供や健康な大人で、老人はあまり狙われなかった。
誘拐の目的は人身売買や臓器売買、女性の場合は売春などが多く、行方不明になっていた中学生の少女が商店街の近くにあるマンションの一室で、強制的に売春に従事させられていた事もよくある。中には少年兵にしたり、強制労働をさせるために、紛争が発生しているエリアに売り飛ばされるケースもある。
カエデはそういった暴力に関わらない様に、危険を回避するためだけの生き方をしていた。エリア013では、多くの人間がそうやって生きているのだ。
「ねぇ…ヘッドホンでどんな曲聴いてるの?」
「聴いてみる?」
しかし、9歳の時に隣の席になったマリアという少女と仲良くなって、カエデは彼女が音楽好きであると知る。カエデも、マリアの好きな曲を聴いて、様々な音楽を愛するようになっていった。
「デスクトップミュージック…」
「パソコンと作成ソフトがあれば、音楽は作れるんだよ」
カエデは、マリアの父親の物であるDTMを作るためのソフトが入っていたパソコンを見て、自分も音楽を作って見たいと思い、マリアの家で音楽の基礎を学び始めた。カエデは才能があったのか、すぐに曲作りの基礎をマスターする事ができた。
「貸してくれてありがとうございます」
「いや…持て余していたんだ。好きに使って欲しい」
10歳になったカエデは、マリアの父親からパソコンを借りて楽曲制作を始めた。そして、一ヵ月かけて制作した、人生で初めての曲をネットにアップロードした。音声ソフトによる歌が入ったポップミュージックだ。
「一曲目からこんなに人気が出るなんてすごいよ!」
「すごい…才能ってのはこうやって発掘されるものなんだな…」
カエデが作った初めての曲はかなり好評で、期待の新人だとネット上で持て囃されていた。カエデは二曲目をそれなりに早く完成させて、アップロードした。今度はボーカル無しのハードテクノミュージックだった。
「今回も評価はそれなりに高い。でも最初に発表した曲作りほどじゃない」
カエデはその後も楽曲を制作して、精力的に発表し続けた。自分はどの様な曲を作るのに向いているのかを模索しながら、曲を作り続けた。
「これは…」
「渾身の一作だよ…」
「すごい…世界中から評価されているよ!」
カエデが発表した9曲目の楽曲である重々しいラブソング、「終わりをあなたと共に」は世界中から高い評価を得た。カエデをトップクラスのクリエイターと評する声も多く、ある作家からノベライズ化を提案するメールも届いた。
「終わりをあなたと共の小説版も大人気…すっかり大人気のアーティストだね」
「チャンネルは収益化してるから収入もかなり入ってる…」
カエデは周囲にアーティスト活動をしている事は伝えてなかったが、今ではマリアだけでなく親からも応援されていた。ある日、マリアからメジャーデビューを本格的目指す事を提案された。
「でも013じゃ…」
エリア013にはヤクザの目が行き届いていない場所は存在しない。カエデはチャンネルの収益は得ていたが、その途中でヤクザが裏についている会社によって、かなりの金額を吸い上げられていた。
「別のエリアに引っ越せばいいよ!」
「えっ…それは…」
カエデはチャンネルの収益のおかげで、かなりの貯金が溜まっていた。別のエリアのアパートでの一人暮らしなら、既に可能なほどだった。
「017はどうかな?あのエリアには、色んなアーティストがいるし」
「軌道エレベーター…013のより綺麗…」
017は様々な産業が発達している、最も栄えているエリアの一つだった。013の軌道エレベーターはソーラー発電用の建造物でしかなく一般人は立ち入り禁止だったが、017には2本の軌道エレベーターがあり、地上と繋がっている宇宙ステーションでも人々が暮らしているのだ。
「もう少し…考える」
「私…応援してるからね」
カエデはメジャーデビューを目指すかどうかは保留にして、その日はマリアと別れた。今までと同じマリアと会ったのは、この日が最後になった。マリアが暴行事件の被害に遭ったのだ。
容疑者として逮捕されたのは、暴力団の構成員の男だった。父親も母親が留守で、マリアが一人で家にいるところを、金銭目当てで押し入った。
暴力団構成員に暴行されたマリアは、精神的に深く傷ついた。彼女が何をされたのかは、報道される事は無かった。
「マリアは…」
「エリア006の親戚の家に引っ越したよ…ずっと苦しそうだった」
カエデは、窃盗の被害にも遭ったマリアの家に向かったが彼女はいなかった。もうマリアはこの世界のどこにもいないのではないかと想像したカエデは急いで、彼女の父親に行方を聞いた。精神的に深く傷ついたマリアは、既にエリア006の親戚の元に引っ越したようだ。
「カエデさん…楽曲制作を続けて欲しい。いつかマリアにも届くかも知れない…」
「頼まれちゃ…しょうがないかな」
カエデはすぐにエリア013を出て、エリア017に移住した。017のアパートの部屋を借りる事が出来たカエデは、通信制の中学校を選択した。幸い、013から引っ越して来たと学校側に伝えた事で、学費は安くなった。
カエデは有名な歌手にドラマの主題歌の曲を書いて、メジャーデビューを果たした。その後も、方向性に悩みながら、曲を作り続けている。

きっとマリアにも届いていると、願いながら。

「で…曲作りのインスピレーションのためにも、エリア092に引っ越して来たってわけ。ずっと同じアパートに住んでて飽きたってのもあるし…017に戻る時はもっと良いマンションに住みたいな」
「中々…ヘビーですね」
カエデはエリア013での生活について、語り終えた。ライネスは疲れ切っている様子だが、俺も兄と同じ気分だった。
「その…マリアさんは…」
「会ったことはあるけど、まだ苦しそうだった…もう少し時間がかかると思う」
マリアはあまり音楽を聴かなくなってしまったが、カエデが作った曲はたまに聴いているようだ。カエデが作り続けている曲は、マリアにちゃんと届いていると分かる。
「でも、マリアは私が作る曲を好きだって言ってくれてる」
「…良かったです」
カエデは、マリアと一緒に暮らしてる親戚からも、彼女の様子を聞いていた。親戚によると、カエデが作った曲を聴いている時のマリアは、幸せそうだと言うのだ。
「私はコーヒーも飲み終わってないし、もう少し作曲作業をする。連絡先くらい交換しとく?」
「はい…じゃあ」
俺はカエデと連絡先を交換し合った。人との繋がりができた事に、俺は喜びを感じていた。
「俺と兄さんは、もう帰る事にします」
「うん。じゃあね」
俺はライネスと一緒に会計を済ませて、OLDstarから出た。そのまま家に帰る事にしたが、ライネスは俺に思う事があるようだ。
「お前…なんだかんだ言って人との繋がりに飢えてるんだな」
「そう…だね」
ライネスは俺の心に隠していた感情を見抜いていたようだ。兄には、こうやって心の中を見抜かれてしまうものなのだろうか。
「さて…早く帰るぞ、今夜は俺が料理を作るからな」
「あ…兄さん、俺も手伝うよ」
今日は兄であるライネスと話せた事も、嬉しかった。家に帰って少し休んだ俺と兄は、料理の準備を始めた。俺は、兄と一緒に何かするのはいつ以来だろうと思っていた。
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