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第十章

王宮の庭で

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 四日後。
 まだ夜も明けきらぬうちに、車輪の音を響かせて、王城から一台の馬車がやってきた。そこから降り立った黒装束のニ人の使者は、ミスローダとニニに一緒に来るよう要請した。命令、という言葉は使わなかったが、彼らの口調から、ミスローダの側には断るという選択肢はないことがわかった。

「わかったわ。じゃ、着がえて準備するから、ここで少し待ちなさい」
 ミスローダは言って、ドアを閉めようとする。
「ああ、そう、あとひとつ言っておきますが――」
 冷たく鋭い目をした使者の男が、黒の制帽をかぶりなおして言った。
「逃げようなどとは、ゆめ、思わぬこと。逆上して使いに手をあげるような真似もしないこと。イシュミラさまからの伝言です。悪いようにはしない、だから素直に来なさいと。そのようなお言葉を」
「余計なお世話ね。わたしも信用されなくなったものだわ。それとも何? あなた殺してほしい?」
「ご冗談を。まあしかし、お試しにならぬほうが賢明です。こちらも少しは魔法の覚えがありますゆえ、そちらも無傷とはゆかないでしょう。ああ、これは失礼。王族の方を相手に、無益な言葉を重ねてしまいました。では、少しお急ぎください。表で待っております」

✵   ☆   ☾   ✵   ☆   ☾   ✵   ☆   ☾

「で? 話って?」

 ミスローダが呼ばれたのは、城の上層にある庭園だった。
 そこには小さな森と、水をくみあげて池までが作られ、早起きの野鳥たちがあちこちの枝でさえずっている。池のほとりの小さな東屋(あずまや)で、女王イシュミラが待っていた。
「なに? あんた朝からお酒なんて飲んでるの?」
 ミスローダが近づくと、イシュミラはグラス小さく持ちあげ、そこの椅子に座るようミスローダに促した。とても疲れた顔をしている。目の下にくまがあり、髪も、いささか乱れて―― 服も、いささか女王らしくない。おそらく寝屋で着るのであろう金刺繍のナイトローブをそのままに――
「なによ? あんたもしかして寝てない? すごくテンション低いけど?」
「…夜通し書庫で調べもの。ふあ、ねむ。この話おわったら、速攻部屋もどって寝る寝る。だいたいがこれ、女の子の日のまっただ中だし。もとからカラダ、だるだる」
「朝から品のないことね。で、いったい何なのよ? ニニまで呼び出して――」
 ミスローダはそこに置かれたワイングラスには手をつけない。
 いまニニは、城の別室のどこかで待っている。
 あとからニニにも、女王からちょくせつ話があるとか、どうとか――

「話はふたつ。じゃ、いっこずついこうか」
 小卓の上にだらしなくつっぷして、イシュミラが言う。
「まずひとつ。あのニニっていう娘を、ローダ姉はもうあきらめる――」
「あきらめる? あんたそれ、本気で言ってる?」
「本気、だね。いちおう言うだけ、言ってみて――」
「殺されたいの?」
 ミスローダがイシュミラの髪をいきなり乱暴につかみ、むりやりに、目をあわせた。顏と顔とが、鼻と鼻とが、ふれるくらい近く――
「殺せるの、かな? いまのローダっちの魔力で、このイシュミラを?」
「やってほしければ、今すぐやるけど?」
「やれやれ。あいかわらず短気だねぇ、ローダ姉」
「だまれ」
「いいからききなよ」
「なにを?」
「ね、冷静になりなよ。ぶっちゃけあの子は本気でヤバいよ」
 イシュミラが、ささやくような小声で言った。
「あれはそんじょそこらの魔物じゃない。マトモじゃないんだ。しかも封印、だいぶとけてきてる。明日にも全部とけるかもしれない。でもいまなら殺せる。逆に、今やらなきゃ、あとが厳しくなる。誰にもそれ、できなくなる――」
 イシュミラが静かにささやく。ほとばしるようなミスローダの殺気にも、一瞬もたじろがない。ひとかけらの動揺もない。

「――だから、今日これからすぐにもあれを処分。それがたぶん正解。わたしならそうする。それですべてが解決。それでディススも安泰だ。もう誰も死ななくてすむ。あのノアルブ娘も、ニ度とミスローダを狙わなくなる――」
「どの舌がそれを言っている」
「ね、ききなよ、姉。わたしまじめに――」
「もう十分きいた」
 ミスローダは両手で、イシュミラのアタマをしっかりとつかんで――
 目と目が、いま、ふれるほどの距離――
 銀の瞳と、金の瞳が、いま、はげしく戦って――
「なに? ミスローダは本気でやるつもりなの? 妹のわたしと?」
「それはあんた次第。やりたければ、ここで決着つけましょう」
 ミスローダが手をはなし、
 ニ歩、三歩、しずかに後ろにさがる。
 厳しい目で、そこからじっとイシュミラを見る。その目はもう、血を分けた妹を見るものではなく、本気で敵を―― いま、目の前のこの敵を、いかにして殺すか。そのことだけを、怜悧に正確に、一点の無駄もなしに計算している――

 銀の髪の魔女が、いまそこに立ったいた。かつて「ジェバの呪われし三魔」の名で、ウルゴルンの兵士らを恐怖の底に陥れたあのおそるべき魔女が。
 だが、イシュミラの方も負けてはいない。
 最高級のディススグラスをまだ左手でもてあそび、
 しかしまったくミスローダからは目をそらさずに――
 空にかかったくっきりとした夏の終わりの朝陽が、
 その美しくも、おそろしく冷酷無慈悲な、
 一点の曇りもないイシュミラの黄金の瞳をギラリと燃え立たせ――

「ね、ところでミスローダは知っていた?」
 いきなりイシュミラが、口をひらいた。
「知っていた? なにを?」
「わたしがミスローダのこと、もう殺してバラバラにして血もぜんぶ飲み干したいほどに、じつはこっそり、好きかもしれない、とか」
「なに? こんなときに何の冗談?」
「冗談、かな?」
 イシュミラが、朝陽の中でかすかに笑った。

「ん、ま、でもいまわかった。ミスローダは、わたしを殺すのは一瞬もためらわないんだ。昔あの子のときは、あんなにためらって結局自分でやれなかったのに」
「くだらない。あんたのその舌、いますぐ焼き切ってやりたい」
「ミスローダは、あの子はまもる。たとえなにがあっても。でも、わたしのことは別にどっちでもいいわけ、よね?」
「あんたなにを言ってるの」
「でも、いい。わかった。いまここの国の権力のすべてをもった今のこのイシュミラでも、やっぱりヨルフェには勝てない。死んだ妹にはね。ずるい。わたしがあそこでヨルフェのかわりに死んでおけば、いま姉は、ひょっとしたらイシュミラのこと、もう少しは好きでいてくれたり、したのかな?」
「あんた何、さっきから、わけのわからない――」
 ミリムの海風が、ザッ、と人工の森をざわめかせ、鳥たちがおどろいて枝から逃げて行った。イシュミラのナイトローブが、朝陽の中で金色に染まる。


「いい。もうわかった。ではこれで、第一幕終了、だね」

 ぐたり、と、イシュミラが、そこの椅子にすわったまま、小卓の上にだらしなくあごをのせた。
「わかったわかった。ローダ姉のヨルフェ愛、じゃ、それなりにリスペクトしたげるよ。わたしも亡霊にまでは勝てない勝てない。しょうがない。じゃ、ま、この話はおわりってことで。」
「なにひとりで完結してるの。こっちはまだぜんぜん――」
 ミスローダが怒った顔で、正面からイシュミラをみおろす。
「も~、それ、おっきな声ださない。寝不足でアッタマいたいんだから~。もう、そこ座りなよ~。ま、じゃ、もういいから、そのつぎの『話題そのニ』にすすむすすむ~」
 イシュミラが卓の上のベルをとりあげて、チリリ、リン、と投げやりにふった。すぐにどこからか白衣の従者があらわれて、ひとことふたこと、イシュミラと言葉をかわす。従者はすぐにひっこんだ。またすぐに、こんどは別のふたりの従者が、もうひとり、小柄な女を連れて――

「おまえ――」

 ミスローダがハッとそちらを見やった。


「なんだ、おめもここ、きてたのか」

 そこに連れてこられたのは、あの、ミスローダをおそったノアルブの娘。こざっぱりした刺繍入りの上等なチュニックを着せられて、髪もそれなりに、品のよい感じにまとめられ―― 高価な髪どめまでつけて――
 そうやって清潔なよそおいをすると、なにかもうそれは、どこかのノアルブ貴族の女の子、というふうにも見えなくもない。
「ずいぶん化けたわね、あんた。髪もそれ、誰にやってもらったの?」
 ミスローダが皮肉っぽく口をとがらせた。
「うっせぇ。これ着ろって言われて、こっちこい言われて、勝手にこいつらがやっただ。おれぁべつに、こんなヒラヒラ服さ、着たくもねぇ――」
「ま、じゃ、そこ、すわるすわる。イシュミラはいまと~っても眠くて機嫌わるいから、さっさと話し、終わらせる終わらせる~」
 テーブルの上につっぷしたまま、イシュミラが言った。なにかもうほんとうに眠そうだ。

「まずは、ほい。これ。」
 
 イシュミラが、おそろしく古そうな本をニ冊、ミスローダの目の前に置いた。
「これが何?」
「地下の書庫で苦労してさがした。読むのもなにげに時間かかった。ひっさびさにアタマつかったつかった。ま、とにかく読んでよ、ローダ姉。そこの、しおりんとこね」
「なによ? これがいったい何だって――」
 ミスローダは、その、ほこりっぽい、ところどころページの破れた、赤銅色(あかがねいろ)の表紙のぶあつい本を、手にとって――
「これってジャムム神聖語? またひどくマニアックなやつを――」
 しばらく読んで、ミスローダが顔色をかえた。
 左手の指で、じぶんのひたいのあたりをコツコツ叩いて、
 いやに真剣な顔で、集中して――

「――なるほど。たしかに書いてあるわね。それっぽいのが――」

「なんだ? なにが書いてあんだ?」
 タラが、落ちつかない口調できく。彼女は前に出されたディススワインのグラスには、まったく手をつけていない。
「――どこかの歴史。というか、神話、かしらね。あるいは叙事詩、と言うべきなのか」
 ミスローダがつまらなそうに言って、ぱたん、ぱたん、と順番に本を閉じ、それをイシュミラの方に指で押し返した。

「双子の水竜。神海に住まうニ匹の魔竜。食後のたわむれに四つの大地をのみこみ、多くの国々を滅せり――」

 イシュミラが、卓の上にアタマをついたまま、眠そうな声で、ミスローダのかわりにトロトロと説明する。

「口からは毒と死とをふりまき、七月と七十七日のあいだ、悪逆のかぎりをつくす―― でもやがて光の女神アスペラが、神の一族をあつめてこれを討伐、海の底深くに封印成功。世界はふたたび光の平和で満たされましたとさ、めでたしめでたし。でもこの戦いで、神の一族は半分にまでへって、世界の陸地は、もうほとんどが水に沈んじゃいました。ちゃんちゃん。」

「な、なんの話だ、それは――」
 とまどったように、タラがイシュミラを見る。
「ククゼオルグとニニゼグル。その竜の名前。だから。ほんとにいたんだよ。その昔の、ほんとの大昔からね。だからやられたのは、キミの国がはじめてではなかった――ふわぁ。ねむ。」
 イシュミラが、ミスローダとタラから顔をそらし、テーブルの上につっぷして――
 それからいきなり、カバッと上体をおこした。ううううんん、と後ろにのけぞって伸びをすると、そのあとゆっくり、大義そうに椅子から立ち上がり、はだけたローブの胸のところをただして、腰紐を、きゅきゅっ、と器用にしばりなおした。

「ですから、おまえがわれらに語ったことは、たしかな真実として、わたくしイシュミラは深刻に受け取りました。たしかにこれは、厳格に対処すべき危険な事態です。それを知らせてくれたおまえには、むしろ感謝せねばならぬくらい――」

 とつぜん口調を切りかえて、イシュミラが威厳たっぷりに腕を組んでそこに立つ。タラは、ことのなりゆきがまだあまり理解できずに、ぽかんと口をひらいてイシュミラを見ている。

「ですが、おまえ、少し早まりましたね。これはおまえひとりで判断するような事態ではなく、最初にまず、わたくしに真摯に相談するべきでした。そのあまりの軽率さ、おまえの若さゆえの愚かな振るまいについては、わたくし少し、怒っております。おまえはもう少しで、わが愛する姉君を手にかけるところで―― じっさいおまえは傷つけもしました。知っていますか? ここでは王族への反逆は即刻死罪。いっさいの弁護を許されぬ大罪中の大罪です」
 厳しい目で、イシュミラがタラを顔を正面から見やった。
「それは――」
 タラが、言いよどむ。
「――わるかったと思う。ねらったわけでねぇが、結果的に、そっちのヒトの腕、当てちまったことは。それに、知らねがった。このヒトが、そんな、すげ、身分の高いオンナだってこと――」
「ま、それはよい。お前の言い分もよくわかる。結果として、重傷でないとは言わないが、ま、時とともに回復しうる程度の傷で済んだのも、これもまた事実。ですから今回は特別に、このことでおまえに重く罪を問うとか、そういうことはいたしません。かといって無罪放免ともいきませぬから―― ま、そこはひとつ、わたくしが配慮をすることとして。細かな処分の中身ついては、また後ほど、別の者からあらためて話があるでしょう。これがまずひとつ。そして次に――」
 イシュミラは、ちらり、とミスローダの方を目でうかがった。ミスローダは不機嫌そうに、片手でもう一方の腕をおさえて―― どこかまったく別の方を見ている。

「次に。ニニという、あの美容助手の娘の今後の処遇についてですが」
 イシュミラはおごそかに言って、海の上にかかる遠い朝陽を、まぶしそうに見やった。もともとの金の髪が、朝の光の中、まるで銀色に透けて輝いているように見える。
「あれについては、今後責任をもって、わたくしイシュミラ以下、神聖ディスス王国の公の管理および監視のもとにおかれます。言うまでもなく、いまここにいるミスローダにも、多くを手伝っていただく。というより、ここにいるこの者を、これより先、魔竜ニニゼグル封印の責任者と任じ、これに全力をかたむけて働いてもらう。そのこと、今ここに、わたくし女王の名において厳しく命令します。なにか異論はありますか?」
「……ない。そうしたければ、勝手にすればいい」
 ミスローダがあくびをしながら答えた。
「これミスローダ、そのような不遜な態度、わたくしはあまり好みませんね」
 イシュミラが、美しい眉を曲げてミスローダをにらんだ。
「が、いま、たしかに異論なしとの答えを引きだしました。ですからわたくしの命は、これより正式に発効するものとみなします。もちろん、不測の折には、わたくしイシュミラ直属の戦士団および魔道士団の中から選りすぐりの人材を派遣し、ミスローダの封印業務を適宜、補佐する。以上。これがすべて、ディスス女王令第203101として、ここにただちに発効することを宣言いたします」

「な、なんだかその、意味、わかんねけど――」
「つまり、わたしにあの緑髪ムスメの管理はまかせる、って言ってるの」
 ミスローダがタラに耳打ちする。
「で、手に負えなければ、誰か助けになる魔女なり戦士なりにも、それを手伝わせると」
「おめら、まだそんな呑気なこと言ってんのか」
 タラがミスローダに食いつく。
「んなこと、信じれね。おれはまだディススの力を、そこまで信じれね」
「では、信じられるよう、このあと、わたくしめらが、あれを封じ切ってみせるまでです」
女王イシュミラが微笑む。
「まもなくおまえは知ることになる。われわれディススの、ほんとうの力の深さを、ね」
「それはどうだか」ミスローダが鼻で笑う。「あんたもうすでに、グダグダな女王なとこ、さっきこの子に見せちゃってるから」
「ちょっとミスローダ、いまはわたくしイシュミラが話しているのです。話の邪魔はしないで頂きたいわ」
「はいはい」
「では、タラ。あともうとつだけ」
 イシュミラが、さらりとローブのすそを流して、ノアルブの娘の方にむきなおる。
「なんだ? まだ話があんのか?」
 タラが、まだ少しうたがわしそうに顔をあげた。 
「ひとつ、おまえの知りたそうなことを知らせておいてあげます。わたくし、おまえの身の上をつぶさにきいて、多少それに、わたくしとしても、同情を感じなくもない。おまえがそこで見てきたこと、失ってきたもの――」
「…………」

「ま、それで、話というのはこうです。手短に言いますよ。キリム海の対岸、ドマ大陸の小国ネイラディアの沖合で、去る月、幾艘もの、異国の船団が舵をうしなって漂流しているのを、ネイラディア海軍の小船が偶然見つけました。その不明の船団が、いったいどのような災厄に見舞われ、どういう経緯でそこまで流されたのか―― すべては謎でした。とにかくどの船も帆柱を失い、その多くが焼け焦げて―― かろうじて沈むのをまぬかれたような―― それはもう、惨憺たる有様だったそうです。そしてそのニ十隻以上にのぼる被災船のすべてに、ボロボロの服を身につけた、見なれぬ異国の人々が、おおぜい、まだ生きて、そこに乗っていたと。かれらは一様に小柄で、縮れた髪、耳慣れぬ方言を話し――」
「――なっ、そ、それは、ほ、ほんとの話――」
「ネイラディア海軍の誰何(すいか)に対し、その不明船団の代表は答えて、『われらは遠くジンバザッドを発ってきた流浪の避難船団である。』と。このように言ったと伝えられています。その後、ネイラディアは海軍総がかりで陸地までそれらを曳航し、そのあと、海岸沿いの荒れ地に、急ごしらえのキャンプをつくり、ひとまずそこに全員保護はしたものの―― その避難民の数があまりにも多く、また、文化や習慣も大きく違うとかで―― それほど財政に余力のないネイラディアの為政者たちは、この難民への対応に、ひどくあたまを悩ませていると。このような話でしたね」

「う、そ、それ、それは本当なのか! その話は、本当に本当――」
 タラがイシュミラにもう全力でかけより、イシュミラのローブの端を、ぎゅうぎゅう、思いきり引っ張って――
「ええ。話は本当よ。でもまだ、もう少し続きがあります」
 イシュミラがタラの手をやさしくとって、少し、タラを落ちつかせた。それからまた、続けた。

「先日わたくしは、このディススを代表し、ネイラディアの首脳と、ディスス沖の公海上で、船上会議をいたしました。その中でわたくしは、資源にも財政にも土地にも十分な余力のあるわがダスフォラス島に、さらにいえば、わがディスス市の近郊に―― それら難民のすべてを、ネイラディアの希望があれば、すすんんで受け入れると、このことを、提案いたしました。そして先方の首脳は―― 

「…ということは―― ということは―― まさか――」

「ええ。はやければ来月にも、その、東方からの避難民の第一陣が、わがディススの土を踏むでしょう。そのあと第ニ陣、第三陣と――」

「おお。なんということだ。なんということだ―― かみさま―― それにおとう―― まさかこんな――― こんなことが――」

 タラは池のそばの地面にがっくりとひざをつき、
 それから両手もついて、頭を下に垂れて、嗚咽を――
 それを微笑んで見ながら、イシュミラが優雅に、優美に、
 そっと、体をひくくして、片手をタラの背にあてた。
「ええ、そうです。もしも彼らが望むのであれば、彼らがここで、祖国喪失の疲労と虚脱から自らをとりもどし、そのあと、彼ら自身の国を再興自立してゆくまでの、その必要な手助けを―― それをわたくしは、いっさいここで惜しむつもりはありません。資金の面でも、その他の面でも―― まあもちろん、ここの島の土地で新たに国を作って永遠に居座られては困りますが―― 最終的にはあちらに戻ってそれをやる前提で、ね」
 そこまで言うと、イシュミラは立ちあがり、池のほとりに立って、ニコッ、と綺麗に笑った。
「どう? これを聴いて、少しは心が軽くなりましたか?」

「感謝するだ、女王――」
 タラが、涙にのどをつまらせながら、しぼりだすように言った。 
「――イシュミラさま。おれは、いま、ここにアタマをさげ、おれら国のモノの、みなのかわりに、ふかくふかく、礼をば、もうしあげねば――」
 タラは、ぺたりと地にアタマをすりつけた。
 そのままそこで、泣いている。大声をあげて、泣きじゃくっている。

✵   ☆   ☾   ✵   ☆   ☾   ✵   ☆   ☾

「許すことはできねぇだ。ぜったいにあれのやったことを、おれは、みとめることも、許すことも、笑ってもういいよと言うこともねぇ。それはぜったいのことだ」

 ずいぶんあとになって、
 タラが、まだいまも涙声で、かろうじて言った。

「だが、あれを生かすか殺すか、その決断は―― いまここでは、あんた、イシュミラさま、あんたの胸に、今はあずけるだ。先のことは、いまはまだ、わかんね。あれはほんとに危険だし、あんたらが本気でやったからと言って、それであれが、倒せるかどうかも、それは誰にもわかんね――」
「――だが、あんたのいま言った全部のコトバ―― そしてあんたが今からやろうとしてくれる、その全部のこと――」
「それとを秤(はかり)にかけて、おれは、今おれは、おれの銃を、ひとまず、下におろす。おれはあんたに―― イシュミラさま―― おれは乞いたい。さっきのコトバ、あんたが言った、あの全部のコトバ――」
「あれをぜんぶ、口だけの嘘でなく、ぜんぶ、ほんとにやってください。それだけを、おれは、いま、地べたにアタマすりつけて、あんたに、あんたに、心から、お願いします。おれらを、たすけてください。おれらを、ささえてください。それだけのことを、ほんとうに、ほんとうに――」

「さあもう頭をあげなさい、異国の娘。もとよりそのような作法は、わがディススの風習にはありません」
 イシュミラがタラの手をとった。やさしくタラを、ゆっくりと、抱き起こす。その肩に、ふわりと手をかけ、輝く瞳で、まっすぐ娘の目の奥を見つめた。
「さ、もう泣かないで。そなたの美しい顔が、このような涙で台無しになることが、もうニ度とないように。わたくしは聖女王の名にかけて、さきに言ったことすべて、忠実に言葉どおり実直に履行することを。ここにあなたに約束します。だからもう泣かないで。しっかりあたまを上げて。すべてはまだ、これからですよ。さ、涙をふいて――」


26

「ふぃ~! って、どうだったどうだった? さっきのわたしの演技演技? かなり良かったっしょ? 女優だったしょ? 秋のディスス演劇祭では最優秀女優の座を確実にゲットゲット、的な?」
 従者につきそわれてタラが行ってしまうと、藤編みの長椅子の上にだらしなく足をあげて座り、イシュミラが陽気にあははと笑った。

「――確かにいい女王だったわ、あれは。わたしもちょっと、だまされそうになるところだった」
 ミスローダがぶすっとした顔で、そこにある残りのワインをすすった。
「え~! だますとか~! あれはわたしの、真心真実そのまんまのリアル・イシュミラちゃんの姿と言葉だよ~! も~、ローダ姉ってば、そこんとこへの理解がな~い!」
 イシュミラがじたばたと足をあげて抗議する。
「でも、じっさい今回のことでは、あなたにずいぶん助けられたわ。そこはお礼を言わないといけない」
「も~、言って言って言って! もっと言っちゃってくださいそれ! わたしローダ姉からのありがとうのコトバってば、これ、もう数年来、きいたことなかった気がするする~」
「ひどい言われようね。わたしもお礼ぐらい、普通に言うわよ」
「でもでも~、でもさでもさ~ローダ姉?」
 イシュミラが、ようやくちょっとテンションをさげ、でも、まだだらしなく腕を背もたれにかけて、足も大きくひらいてふんぞりかえり、ひどく怠惰であけすけな姿で―― しかし目だけは真剣に、ちらり、とミスローダを見た。
「なによ? 急にしずかになって?」

「まじめにあれ、その、大丈夫なの? 制御できる? そこのとこ、本気でほんとに大丈夫?」
「…やるわ。やらないといけない――」
「あらら~。やっぱり出たよ。ローダ姉お得意の『やります発言』」
「何? やります発言?」
「わたしそういう、言葉だけのポジティブさって、いまいち信用できないたちでさ~。だって言うだけなら、誰でも言えるじゃん?」
「聞き捨てなわないわね。信用してないってこと?」

「はい、これ。」

 イシュミラが、ナイトローブの胸の内側からなにかをとりだし、カラン、と小卓の上に投げた。
「――これは?」
 ミスローダがそれを手に取り、朝陽の中にかざした。とても小ぶりな、精巧な彫りのついた黄金の――
「なによ、これは?」
「そんなの見りゃわかるじゃん。封印の腕輪」
「封印の?」
「も~。カンジンのとこで鈍いよね~、ローダ姉ってば」
 イシュミラが、ふわあ、と大きくあくびした。
「ん~、だからさ~、これ、あとであの娘の腕にバシッとつけちってよ。そしたらこれで、たぶん三月か四月は、かるくもつもつ~。いま現在のイシュミラのありったけの魔力をぜ~んぶ残らず惜しみなく注ぎこんだってゆー、超レアな品で~。これでなんとか、あのヨルフェ似ムスメが意図せずバケモノ化するのを止め止めできるってわけ~」
「イシュミラ、あなた――」
「でね、でね、しかもこれ、今なら無料でもってけドロボー! しかも奥さん、また先でこいつの縛りが弱くなったら、そんときゃ娘を連れてこい! イシュミラちゃんの汗と涙でこの腕輪っちに魔力注入して~、なんとか続けてあのムスメを制御できるかもかも!ってゆ~特典まで! おおっ!もうこりゃ本気でお買い得ですぜ! ってなわけわけ~。ま、そゆ話。以上。まる。」
「じゃ、なに? あんたがいま、それ、ずいぶん消耗してるのは――」
 ミスローダはいささかとまどったように、言葉を探し――
「つまり―― あんた、ひとりでこれを作ってたの? 徹夜して? そのためだけに?」
「ま、そこらへんは、ひとまずローダ姉の想像におまかせ! ってところにしましょ~か」
 イシュミラはもう一回大きくあくびをし、その勢いでポロリと流れた涙をひとつぶ、左手の指で小さくはじいた。

「ね、だけどさ、もいっかいだけ、ダメもとできくけど。ここはひとつ、ちょこっとふたりで、楽しちゃダメかな?」
「なによそれ? 楽?」
「つまりつまり~ このあとここに~ あの緑髪の娘っ子さん、ミスローダ大好きっ子のあのムスメっちを、なにげ~に縛って引っ張ってきちゃって~。んでから、わたしとミスローダっちで、笑顔でふたりでサクサクッと楽~に綺麗に殺して殺して。もうこれ終了。おわりおわりっ。めちゃくちゃ楽勝だったよ! 魔竜の復活はバッチリ阻止したのだ! …とかは、いっさい念頭になしなし? さっきのわたしのハッタリ演技、ぜんぶバシッとかる~く平気で覆してさ?」
「…だから嫌いなのよ、あなた。そういう、心の底で、本気で冷たい計算高い――」
「も~、そんなの言わない言わない~ 冗談だってば~!」
「それにあれはね、正直わたしの、ほんとに、その――」
「ほんとに、何~?」
「ほんとに、家族、みたいなものなの、だから。わたしには、いま、あれが――」
「出た出た! ローダ姉のヨルフェひとすじ愛~ 死んだ妹のそっくり娘と、夜な夜なめくるめく何とかを、やりにやりにやっちゃって、もうそれなしでは生きれない、ってヤツ~?」
「あなたね。そういう下品な勘繰りはやめてくれないかしら。わたしはまじめに話してるの」
「下品なんかじゃあ~りません。きわめ~て高尚な、愛の話をしてるだけですわこの純情派イシュミラ」
「とにかく。そういう変な関係じゃないわ。あれは、そう――― ヨルフェとはちがう。またぜんぜん別の――」
 ミスローダはその続きの言葉を、探して、探して――

「ま、いいっていいって! わたしもそ~ゆ~、ぷりぷり乙女たちの肌と肌との夜の語らいのことなんて、ま、言っちゃえばこれっぽっちも興味なしなしで! わたくしなんてったって、ほんとのところはオトコひとすじ、そこは古めかしい古典純情正統派イシュミラちゃんだから~」
「…あんただいぶ頭のネジがねじ切れてるわよ… やれやれ。さっきまであったあんたに対する素直な感謝の心が、もうだいぶ、目減りしちゃったわ。疲れたから、わたしもう家にもどっていいかしら? 肩の傷が、またちょっと痛んで――」
「ごめんごめんローダ姉! ながく引きとめちゃったね~。じゃ、すぐ、送迎をこさせる。だからこっちの長イスにでも横になって待ってて~」
「そうして頂けると助かるわ。ね、イシュミラ」
「ん? なになにローダ姉?」
 ミスローダがイスから立ち上がり、イシュミラのそばへ――
「手、だして」
「手? なに~? なにかくれるの~?」
 イシュミラが、いぶかしげに、椅子にもたれたまま顔を斜めにかたむけ、
 でも、とりあえず左手を、小さく上にさしだした。

「イシュミラ。ん、ありがと」

 イシュミラの細い冷たい手を、ミスローダがしずかに握った。
「ん、ま、それは。妹として当然の、かな」
 イシュミラが、今だしたのと反対の手で、アタマのうしろをぽりぽり掻いた。
「正直今朝は、あんたのことちょっと見直した」
「…それ、いままで評価、そうとう低かったってことよね?」
「かもね。でも、今はちょっと、だいぶあがった」
「はは。それは何より」
 イシュミラは言って、ふわああ、と両手を上にあげてあくびしながら、ゆらりと長椅子から立ち上がった。それから大義そうに、自分の肩や腰のうしろを、片手でトントンと叩いたりさすったりして――
「う~、なんか体のあっちこっちがギシギシするする。やっぱ徹夜なんてするもんじゃないね~。うしっ、じゃ、そろそろヒト、呼ぼっか。帰りの送迎の手配する。ローダ姉も、よく寝て、さっさと肩、治しちゃいなよ。しばらくは、とにかく自分を治すことに専念して――」
「ええ、そうね。そうするわ。でもあんたも休みなさい。ふらふらしてる。ぶっ倒れないように、はやめに寝たほうがいい」
「ん? どしたの? 今朝ははずいぶん優しいじゃない?」
「そうね。わたしも近ごろヤワになったわ」
「ふ。そういうヤワなローダ姉も、わたし、あんがいきらいじゃないかも」
「そういうマトモなあなたも、ま、たまには悪くはないわね」
「ははっ。なんか言ってるし。」
 それからイシュミラは、そこにあるベルをつかみあげると、それを高らかに鳴らし、張りのある声で叫んだ。
「誰かおりませぬか! すぐに馬車の準備を! ここにいる姉君と、あの助手の娘を―― ふたり一緒に、丁重にテクラ坂の自宅まで――」


【 イシュミラの物語 】

 ミスローダが行ってしまうと、わたしはまた、そこにドシッと座りなおした。
 なんだかもうなにも、やる気がおこらなくなった。
 体が冷え冷えして、ちょっぴり悪寒もした。
 わたしはそこにかけておいたセリムシルクのケープをとって、肩からかけて体に巻いた。それでも震えは止まらなかった。あまりに寒すぎた。あまりにも魔力消費がはげしすぎて、体がもう、もたなくなっている。
 姉さまに渡した腕輪。あれはじっさい、わたしのもてる力の総量の、大部分をまるごと使ってつくりあげたものだ。もうあんな作業はこりごりだ。わたしの骨の一本一本が、わたしの内臓のひとつひとつが、ひと作業ごとに大きく悲鳴をあげていた。もうほんとにあんなつらいのは、もうこりごり。こりごりだけど―― 
 
 でも、あの薄暗い魔法の小部屋でそこまでやって作ったあの封印でさえも、あの魔竜の前では、せいぜいもって四か月。それ以上の効果はまったく期待できない。
 では、またあの作業をもう一度やるのか。そんなのは、考えるのも憂鬱――
 だけど、でもきっと、ええ、
 四か月後のイシュミラは、きっとまた、あそこの陰気くさい地下の部屋にまる二日のあいだ飲まず食わずでひきこもり、またあの血を吐くようにつらい作業をひたすらひたすら繰り返し、そうして作りきったそれを、また、けらけら笑って軽口を吐きながら、迷わず姉さまに手わたすのだろう。まったくご苦労なこと――

 わたしは深いため息をつき、それから、まだちょっとふらふらする足で、池のまわりをぐるっと半周、木立の下を通り、バラの温室の前をとおって、屋上庭園の南の端まできた。
 わたしはここからの眺めがとても好き。
 いつも時間があいたときには、ここに来て、疲れた心をなぐさめる。
 ここから見える町の景色―― 
 すぐ足もとのディスス港、ミスローダが店をかまえるテクラ坂、その裏側のイフタの丘から、さらにはその向こうの山際まで―― 起伏にそって途切れなく広がる古い石造りの家並み―― いつ何度見ても、美しい町だと思う――
 いまは、ここがわたしの国だ。わたしと姉と仲間たちが、もう死ぬような思いで勝ち取り、つくり、そしてこの先も、この手でまもって大切に育てていくべき場所―― 

 でも、

 なんだか今朝は、その景色も、
 いつもの朝より、なんだかひどく、くすんで見えた。
 すべてが色あせて、ひどく味気なく見える。
 今朝の、今の、わたしの目には――

 なぜならわたしは、あれを、殺さなかった。
 わたしはあれらを、殺さず行かせた。

 ああ、ほんとにもう、女王失格だ。
 あんな愚かな決断を、女王のわたしが自分でしてしまうとは。
 それをやった今の今でも、まだ少し、信じられない気持ちでいる。
 わたしはほんとに、ほんとに――
 ほんとにおそろしく間違ったことを、今、してしまったと――
 そのことを、おそらくわたしがいちばん――
 自分のことだからこそ、他の誰よりもよくわかっている。

 ミスローダの魔力と、わたしが作る封印の腕輪、
 それでともかく、あの魔竜ニニゼグルを、なんとか封じ切れるのか?
 
 一年、二年、三年?
 その先の五年、十年、十五年?
 いつまでそれができるだろう。
 いつまであれが、無害な娘のままでミスローダの手の中にとどまるのか――

 それを思うだけで、わたしはもう、ひどく暗澹たる気持ちになる。
 そんなの、もう、できるはずもない。
 もとよりそんなこと、できるわけもないのだ。
 あの腕輪でも、せいぜい四か月。そのあと更新をくりかえし、
 一年、二年、三年――
 その程度であれば、あるいはわたしにも可能、かもしれない。
 そしてすべての幸運がこちらに味方しつづけるのであれば、
 あるいは十年程度は―― あるいは――

 でも、
 
 もうそれ以上となると――  
 ここまでくれば、そんなのはすべて、お気楽無責任な希望的観測以外の何物でもない。あり得ない。そんなに長く、わたしとミスローダが、その作業をなんの事故も妨げもなく無事に続けられるなんて。
 ムリだ。どう考えてもムリ。
 そしてわたしにもできなくてミスローダにもできないとなれば――
 もうそれは、他の誰がやったって同じこと。誰にももう、あれを止めるなんてことは――  もうそんなのはぜったいに、できなくなる。
 なにかひとつ、ひとつでも――
 小さなボタンの掛け違いがおこり――
 あのムスメの中の魔竜の力が暴走をはじめれば――

 じっさい数日前に、事実、それはもうすでにこの町でおこった。
 このディススの町のただ中で。
 あの夜あの竜は、ここで本気で目を覚ますところだった――
 あの信じがたい膨大な魔力の放出。
 いまでも鮮明にアタマに焼きついて、あのイメージが離れない。
 思い出すだけで、いきなり頭から冷水をかぶったような、ひどい恐怖におそわれる。あれをじかに感じて、怖れるなという方がムリなのだ。わたしは正直おそろしい。こわくて震えがとまらない。

 でもあの夜は、
 破滅のときの一歩手前で、いったい何をどうしたか――
 ミスローダがもうほんとに奇跡的に、どうにかあれを抑えたらしい。
 それはじっさい驚嘆すべき力だ。まさに奇跡がおこったのだ。
 さすがはローダ姉、と。
 あらためて畏怖と敬愛の念がこみあげてきた。
 もし仮にわたしがミスローダにかわってその場所にいたならば――
 きっとおそらく、失敗しただろう。たぶんそれは間違いない。
 あの夜の、あの白い魔力のすさまじい放出は、もうあのときあの時点で、
 わたしの力を、はるかに遠く凌駕していたのだから。
 
 けれど、
 
 あの夜のような稀有な幸運が、またもう一度、わたしたちに気安く望めるだろうか? 望めるだろうか?
 
 答えは明らかに、否。
 
 ムリだ、そんなもの。
 わたしがこのさき命を削ってつくりだすどのような封印も、
 そんなものは、荒れ狂い始めた暴風の前では、もうまったくの無力。
 あの手の伝説レベルの魔獣には、それがどれだけ優れた魔術師であれ、
 ひとりふたりのニンゲンの力など、ほんとうにゴミみたいなものなのだ。
 ほんとにわたしたちは塵未満なのだ。あのクラスの魔竜の目から見れば――

 なのに、

 わたしはさっき、笑ってあれを逃がしてしまった。
 いまなら今日なら、まだあれを、殺せるチャンスが確実にあったのに。
 なのに、それなのに――
 わたしはあれを、殺さなかった。
 殺さなかった。殺せなかった――
 
 だからわたしは、もう、女王としては失格だ。
 わたしはここを、まもらなかった。
 これまで大切にずっと育ててきた、この大好きなわたしの庭を――


 だけどミスローダ、
 心から愛するお姉さま――

 わたしは今でもおぼえています。
 忘れることなんて、できるはずもない。
 あなたはわたしにこう言ったのよ。
 おまえは人でなしの妹殺しだ、と。

 そう、
 あのときわたしはたしかに殺したわ。
 妹のヨルフェを。あの憎たらしい、かわいらしい妹を。 
 たしかにわたしが、この手で殺した。

 あの子があのとき、ミスローダの闇をひきうけて、
 周囲にすさまじい魔力をまき散らし、敵味方の見境なしに片っ端からむちゃくちゃに屠りはじめた、あの戦場の丘で――

 わたしはもう、わたしのすべてを投げ出して、
 命をかけて、あれに当たった。
 わたしがここで勝たなければ、勝てなければ――
 そのとき世界が、ここで終わる―― ぜんぶ終わってしまう――
 わたしはそれを知っていた。はっきりあの場でそれを感じた。
 感じていたからこそ、
 もうそのときは、あれが妹だなんて、
 そんなこともう、言っていられなかった。

 わたしはあの、おそるべき闇を、忌むべき闇を――
 わたしも含めたすべてのために――
 いまそこで逃げ惑う何万もの罪なき兵、その帰りをまつ家族たち、
 そしてその外に広がる広い広い大地、
 そこで暮らすもう数えきれない大切な人――
 名前も知らないけれど愛さずにはいられないすべての人たち――
 そして山や緑や水や鳥やそのほか全部の美しいもの、大切な場所――
 そのすべてのために、
 わたしはわたしの光の魔力で、
 わたしはもう迷わずそこにとびこんで、
 まっすぐあれのカラダに、すべてをぶつけて――


 結果、
 わたしの魔法は丘ひとつをまるごと消し去って、
 同時にあの子の命も、あとかたもなく消し去った。
 あの忌まわしい大きな穴の底、あの汚く濁った水たまりで、
 ヨルフェはみじめに、死んでいた。
 ヨルフェは。あの愛らしかった妹は。
 わたしが誰よりも憎み、けれど、同時にうらやましくもあった、あの妹が。

 わたしは穴のふちに立ち、あの子の骸を、じっと見おろしていた。
 体がふらふらした。もう自分も死んだのではないかと――
 なんだか夢を、見ているみたいで―― そしてそれが良い夢なのか、わるい夢なのか。それさえも、あまりよく、わからなくて――
 
 ミスローダが穴にかけおりて、
 あれの骸をしっかりと両手に抱き、そのあと――

 だいぶあとになって、ようやく穴から出てきた姉さまが、
 そこに立つわたしを見て最初に言ったのは、
 ありがとう、でもなかったし、
 よくやった、でも、
 感謝してるわ、でもなかった――
 
  なぜ、ころしたの?

――え?

  なぜ、ころしてしまったの?
  あれは、ふたりの、いもうと、だったのに――

――え? 

 わたしは、だから、
 いまでもローダ姉さま、あなたが、
 あなたがほんとに、許せない。
 許せなかった。ほんとに許せなかった。
 おそらくこれからも、許せることなんて一生ないと思います。
 あなたはあそこで言ったわ。

 なぜ、ころした? と。

 ねえミスローダ、
 わたしの愛してやまない唯一の姉さま、
 あれが、わたしに対する、
 わたしにかける、その言葉、だったの? ほんとにそれしかなかったの?
 もっとなにか、別の言葉は、そのときそこに、なかったですか?

 ねえミスローダ。きかせてほしい。
 わたしはそれを、いまでもききたい。
 なぜ姉さまは、あそこであんなに、わたしの心を、
 ふかく、ふかく、ふかく傷つけたの。
 もう二度と直せないほどに、バラバラに、無残に、
 わたしの心を、あのとき砕いてしまったの――


 だからわたしはもう、あんな思いは、もう二度としたくない。
 もう二度と、ぜったいに、あんな思いをしたくはない。
 したくはなかった。
 だから――

 だから今日、
 わたしは国を、裏切りました。

 わたしは、わたしがほんとに守るはずのものを、
 さっき、ぜんぶ、もう、ぜんぶ、ほんとに裏切ってしまった。
 あなたを行かせた、あのときに。
 あなたと娘を、無事に返した、あのさっきの、あの瞬間に――

 わたしは殺すべきだった。
 娘は必ず殺すべきだった。
 もしもあなたがそれを阻むなら、
 それならあなたも、あそこで殺すべきでした。
 それが国をまもるということ――
 それこそが未来をまもるということ――
 多くの人々をまもるということ――
 それこそが、王の使命だから。
 それこそが、王が王たる理由だから。

 なのにわたしは――
 わたしはその大切な役目を、今朝は、果たさなかった――
 果たせなかった――


 わたしはね、姉さま、
 わたしは、あなたにただ、好かれたかったの。
 あなたに好きと、たった一度でも、言ってほしかった。
 わたしを静かに抱きしめて、わたしのことを、ほめてもらいたかった。
 あなたにわたしを、愛してもらいたかった。
 いつもいつもヨルフェの方ばかり見ていたあなたに、
 少しでも、こっちを、あなたに見つめてほしかった。
 わたしはあなたに愛されたかった。あなただけに――

 ただ、それだけ、
 ただそれだけのために――
 
 わたしは今日、国を―― 国の未来を、捨てた――
 わたしは―― わたしは―― 


✵   ☆   ☾   ✵   ☆   ☾   ✵   ☆   ☾


 イシュミラの髪が、夏の終わりの海風に流れ――
 髪は金色にしずかに波打って、朝陽にきらきら輝いた。
 イシュミラの頬をつたって、涙の粒がこぼれおち、風がすぐにそれを拾った。その涙は風とともに、ディススの町のどこかへ――

 イシュミラはそのあとも長くそこに立っていた。
 そこからずっと、ひとり、町を見ていた。
 ただひとり、そこで――


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