先行投資

槇村香月

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先行投資・俺だけの人。

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「ただいま…」
モヤモヤしたものを抱えながら、家に帰る。

暗い室内。家の中はしんとしている。
どうやら、樹はまだ帰ってきてないらしい。
そのことに少しほっとして、ため息が毀れる。

時刻は9時30分を回っていた。

家にいてほしい、早く帰ってきてほしい。
樹が出ていく前はいつだって、そう思っていたのに。
今は…。

(…またくる…)
ふと、家に帰り思い出すのは、いない樹よりも、先ほど別れた蒼真の切羽詰った顔だった

繰り返される、愛の言葉。真剣な表情。
自分を卑下するな、と叱咤する言葉に、からかうような、大人の態度。

うちに閉じこもっていた自分にとって、久しぶりにできた〝知り合い〟
そして…
(キス、された…。樹じゃない人間に…。)

手が自然に、唇に伸びる。
樹とは、違う感触の、唇。

キスは、嫌じゃなかった。嫌じゃなかったけど…
樹には浮気を咎めて、キスしたくないと拒んだのに…。
他の付き合ってもいない人間にキスされて…
これじゃあ…私の方が浮気しているみたいじゃないか…。
樹の不実を咎められない…。
私だって、樹から逃げるために蒼真と…。
蒼真と、遊びに行ってしまった。樹を忘れるために。

いくら樹が私から離れようとしていても、私たちはまだ、恋人同士なのに…。

自分はつくづく、拒むのが下手だと自覚する。
今日も、樹から告白されたときも。
拒めばややこしいことにはならなかったかもしれないのに…。
一度進んだときはなかなか元に戻すことができない。

真剣に好きだと言われたものの、未だに疑いの気持ちの方が大きいのに。

(誕生日までには、離れようと思ったけど…、もっと早くがいいのかもしれない)

これ以上、樹を想い嫉妬し黒くなっていく自分が嫌だ。
これ以上、樹が誰かと一緒にいるところを見るのが嫌だ。
そして、樹を離れようとして誰かを頼ってしまう自分が嫌だ。

だったら…

(もう…別れ話を、わたしからした方が…)

「ただいま、公久さん、」

ガチャ、と背後からドアが開いた。
はぁはぁ、と荒い息を零しながら、肩にしょっていたスポーツバックを地面に下ろす樹。
服装は、シャツにジーンズというラフな格好。走ってきたのか汗を流していた。

いつもは綺麗に整えられている髪の毛も、くったりとしている。


「おかえり」
「ただいま。…ごめんね、ちょっと遅くなって…」
「いや…、別に…」

ふい、っと樹から、顔を逸らす。機嫌を損ねた訳じゃない。
樹の顔が見られなかった。
合意ではないにしろ…樹じゃない人間にキスされた、という罪悪感が重くのしかかって。
樹の顔を真っ直ぐ見られなかった。

樹はそんな私の些細な態度に、おや…?と眉をしかめる。
長年いたせいだろう、樹は私の隠し事なんかはすぐ見破ってしまう。

私の不安は気づかないのに。

でも、お相子(あいこ)かもしれない。
わたしも樹の隠し事はすぐわかるが、気持ちなんかはわからないから。

「…公久さん…?」

訝しんで、私の顔を覗きこむ樹。
青い瞳に、薄い唇。
端正な、天使といっていいほどの綺麗な顔。
綺麗で、でもかっこいい樹。
この顔が…樹の全てが、私のものだったらいいのに…。
どうして、樹の全てを独占できないんだろう。
どうして、独占しないと不安なんだろう。


怖い…。
樹を縛り付けようとする自分が。
樹に依存してしまう、自分が。
樹を好きすぎて、可笑しくなる自分が怖い。
欲しがり過ぎて、大きくなる気持ちが…
いつか飲み込まれてしまいそうで、凄く怖い。


「なぁ…樹…、もし…」
「…ん?」

優しく私を見返す樹。

「もし、私が、浮気したら、どうする…?」

もしも、の話だけど…。
もし、私が浮気したら…。
樹は怒ってくれる?
それとも、いらないって、そのまま捨てる?

「私が浮気して、樹から離れたら…そした…いたっ…」

樹は一瞬目を見開き、乱暴に私の腕を取った。
何の前触れもなく。
そして、静かに私を見据え、口を開く。
「…なに…?公久さん。浮気しているの…?」

低い、怒りを押し殺したような樹の声。
なのに、ぞっとするほどの無表情の樹。
まっすぐに見据える視線。
聞いたことのない樹の声に、ゾクリと背筋が震える。

そういえば、あの時と同じだ。
喧嘩した時と…。
私の知らない樹の顔を見せた時と…。


「いや、もしも、だよ…。
もしもの話。もし、私が浮気して、樹なんかいらないって言ったらさ、樹は…」

どうする?恐る恐る呟いた言葉。
しかし、それは全てを言う前に樹の呟きによってかき消された。


「殺す…」
「…え…?」
「そんなの考えられない。そんなの…嫌だ」
「いつ…」
「…きっと、俺、どうにかなって…壊しちゃうと思う…」

鋭い瞳が私を射ぬく。
長年一緒にいた樹なのに…どうしてだろう、まったく知らない人をみるようだった。
可愛い子供の天使、ではなく、一人の〝男〟がそこにいたのだ。

「いつき…」

ピルルルル。
私と樹を裂くように、電話が鳴り響いた。
私の携帯じゃない、樹のモノだ。

「ごめん…電話…」

言って、樹は私の腕から手を外し、ズボンのポッケから携帯を取り出した。

ぎゅ、っと掴まれていたから腕が少し赤くなっていた。

(樹は…私にいなくなってほしくないのだろうか…)

殺す、と確かに言っていた気がする。
もしも、私が浮気をしたら…樹は私を殺すほどに私を思ってくれている…?
壊れるほどに、私を愛してくれている…?
離れがたいと思ってくれる…?

期待に揺れる胸。けれど…

「溟…?どうした…?」

それはいつきが零した一言によって、またも消え失せる。
溟…。
進藤君だ。
何故樹に電話?

こんな夜中に電話だなんて、なんのようだろう。

またも、モヤモヤした、嫌な感情が胸の中に広がる。
それに気づかないふりをしてキュ、と唇を噛んだ


「え…?言っている意味がわからない…なに、言ってんの?溟」


樹の語気が荒くなっていく。
言い争いでもしているのだろうか…。
眉は吊り上り、怒鳴っている…。

私の存在なんか見えなくなってしまったように


「は?待てよ、何言ってんだよ。

そんな訳…、え?そうだよ、恋人だ。ああ、愛しているよ。

そんなんじゃない、俺は本気で愛してる。

…俺がお前にわざわざ嘘つくと思う?」

愛している…。
恋人?

なに…、それ。
樹の恋人は…。

樹の恋人は私なんじゃないのか。

なのに、なんでそんな言葉を進藤君に……


「ごめん、公久さん、今から溟に会う事になった」

樹はすまなそうな顔をしながらも、靴を履き直し、玄関のドアに手をかける。

携帯は切られていた。

最後に、「直接溟に会いたい、」と言って。

私より進藤君の方をとったのかな…
今日一緒にいたかったのに。

誕生日までもう少しだから…


「ごめんね、公久さん。今日早く帰るっていったのに…」

ごめん、だなんて言って…。行く気満々なんだろう。

私の返事も聞かないんだな。

いかないで、って言ったら、そのままここにいてくれる?進藤君のところになんかイカナイデ、って。


どうして…。
どうして、進藤君…。

私と進藤君の事で喧嘩したの忘れたのか。
その進藤君の電話に、「愛している」だなんて。

なぁ…樹、私は…。
樹の、何?
恋人だと思っているのは、わたしだけなのか。

ああ…もうなんだか……

なにも、考えたくない。



「いいよ」
「…公久さん…、」
「いきなよ…。進藤君のところ。進藤君、待っているんだろ」

胸の痛むのを隠して、ニッコリと笑みを作る。

…ちゃんと笑えているんだろうか…

もうわからない。


「う、うん…」


樹はドアを開け…、わたしの方に向き直り、

「俺、信じているからね…公久さんのこと」
「…?」
「じゃ…」

何がなんだかわからないままに…
樹は、出て行ってしまった。

 ―もしも、私が浮気をしたら…どうする?
殺すよ。
本当に…?
本当に、殺すほど好き?
殺すほど、愛してる?

全てを投げ捨ててでも。
私を…。


「はは…」

一人になり、ぺたん、と玄関の床に座る。
冷たい、床。まるで、樹との距離のようだ。
冷たい、冷たい。

心が寒い。
どうして、私を置いていくんだ。
進藤君の方にいく?
そんなに進藤君がいいのか。

長年一緒にいた私よりも、進藤君を選ぶのか。

なら、どうして、言ってくれない。
私が必要ないなら、どうして、何も言ってくれない。

なんで…なにも言わない?

今までの朝帰りも進藤君のこともみんな…

どうして…。

「私は樹だけでいいのに…樹だけが欲しいのに…。なんで…」

どうして、樹は離れてしまうのだろう。

どうして、私はいつも一人になってしまうのだろう。

「樹になら…殺されてもいいのに…」

樹になら殺されてもいい…と本気で思うだなんて。
私は狂っているのだろうか。
でも、嘘偽りない私の正直な気持ちだった。

もしも樹に殺されれば、私の世界は樹で終わるのだから。



「…この顔が、いけないのかな…」

手で自分の顔を包む。
母親に似た、中性的な、顔。

あまり表情がなく、笑わない湿気た顔。
能面な私は、子供らしくないと母親から煙たがれたっけ。

『戸塚、』

好意的だった人間が、私に嫌悪する瞬間。
まるで、目に入れるのも嫌というような、しかめられた顔。
そしてその後吐かれた言葉。
今でも覚えている。

あの日、もう恋なんかしないと決めたのに。
こうなるのは、運命なのだろうか。

所詮、私のような人間は、誰にも愛されない…。

樹だって、蒼真だって…。
私の元から去ってしまう。

私の願いは、ただ私だけを愛してくれる人、なのに。
地位も名誉もいらない。ただ愛してくれればいい、それだけなのに。

たったそれだけのことが、上手くいかない。

「疲れた…」

もう、疲れた。とりあえず、今日は寝たい。
動くのも億劫で、そのまま私は玄関で眠った。
*

次の日、またしても樹は帰ってこなかった。
もうどうでもいいや…。

どこか全て投げ遣りになっていた。

どうでもいい、どうでもいい。
私はこんな投げ遣りになるような人間だっただろうか。

その日、蒼真から電話があり、進藤君からきた電話のことを話すと蒼真は無理するな、と言ってくれた。

辛かったら、いつでも俺の元にこい、俺はお前から逃げない、っと。

私はそれを聞き、今まで胸につっかえていたものがせき止めてきて、少し泣いた。
こんな姿誰にも見られなくてよかった。
見られたら…私のプライドも粉々になって、それこそ、私が私でいられなくなっていたと思う。


「蒼真」
「うん?」
「ありがとう…、お前がいてくれて…良かった」

蒼真がいなかったら…今頃私はどうなっていただろう。
こんな風に、誰かと口をきけなかったと思う。
泣いて泣いて、もっと樹に依存するだけだったかもしれない。


「そこは、大好き、だぜ?公久」
「馬鹿」
「本気なんだけど」

蒼真は茶化すようにそういって、私を和ませる。

どうして、蒼真は恋人じゃないんだろう。
恋人じゃないのに、どうしてこうやって癒されるんだろう。

蒼真に先に合っていれば、今頃私はどうなっていたのかな。

「蒼真…、」
「ん~」
「樹より先にお前に会っていれば…私は今幸せだったのだろうか」

樹が好きなのに、弱い私はそう考えてしまう。
恋人じゃない安らぎを、私は縋ろうとしている。

弱い、私。

樹の誕生日までもうすぐだった。

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