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全てを忘れられたらいいのに。
時折、激しいマイナス思考の海に放り出される。
ふとした瞬間に『ソレ』は俺に襲いかかり、息苦しくなるほどの暗い後悔へと変化する。
嘘をつければよかったのに。
笑って嘘をつけるようになれば、誰も悲しまなかった。
真実など、永遠に見てみぬふりをする。感情など押し殺して流されるままでいる。
都合のいい嘘をついて、ヘラヘラ笑って偽り続けてしまえばいい。
真実なんていらない。
俺一人傷つけば終わる現実に、真なんてものは存在せぬべきではない。
愛なんて、そんなものはまやかしにすぎない。
手を伸ばし欲した瞬間に、蜃気楼のように手から消え去ってしまうのだ。
『君がいけないんだよ』
今でも耳に残る声。
『君がいけないんだ』
そう、俺がいけないんだ。
俺が……。
『記憶の代償』
彼、笹宮と初めて会話したのは、ゲイである男たちが集まる新宿の隠れ家のようなBARだった。
仄暗いネオンと古びたバーカウンター。
「お隣空いてますか?」
嫌味にならない笑顔で尋ねてきた彼に、そつない顔をしながらも俺の心臓はバクバクと跳ねていた。
“どうして、彼がここに?”
彼との会話はその時が初めてだったけれど、俺は彼を一方的に知っていた。ずっと彼という存在を想い見つめ続けていたから。
彼は俺より2つ年下で同じ大学に通っていた後輩だった。
彼は俺をしらない。
友人と同じサークルに通う彼を俺が勝手に2年間見つめ続けていただけだから彼が俺を知っているはずがない。
彼は、“あの人”にとてもよく似ていて、それでいてどこか俺にも似た空気を感じた。
なんでもそつなくこなすその顔は、人に好まれるがどこかさみしげで、同じタイプの人間にしか感じない“偽り”のお面を被っているようだった。
「あ、ああ…」
「俺、こういう店はじめてなんですが…貴方は?」
「俺は、何度か。暇な時遊んでるよ」
俺の口はスラリと嘘をつく。本当は口から心臓が飛びだしてしまいそうに緊張していたけれど、俺は努めて上手に嘘を口にした。
「暇なときですか?本命は…」
「いないよ。作る気、ないし。俺は…」
誰も愛せないから。いや、違う。
愛されてはいけないと思い込んでいるから。
言葉を噤み視線をコップへ落とした俺に、彼はそっと手を重ね、
「じゃあ、俺がこれからあんたを愛してもいいですか?
一目惚れなんです…」
どきりとするほど低い言葉で甘く囁く。
「あんたの乱れた姿がみたい」
ーダウト。
彼はとても、俺に似ている。だから、真実の言葉なんて口にできない。
彼はいつも表情に仮面をつけているが、目は雄弁にものを言う。
真実か嘘かなんて同じ嘘つきな俺はわかっていた。彼は上手に嘘をついている。
普段の俺ならばこんなおかしいと目に見えている誘いなんて乗らないのに。
俺は彼の誘いにコクリと頷いて“こなれた”男のように微笑んだ。
「いいよ、楽しませろよ?」
嘘をつくのなんか簡単だ。心なんて見せなければ、うざったいと思われることもなければ傷つくこともない。
まるで役者になった気分で俺は彼を煽った。
そのまま俺達はBAR近くのラブホテルで抱き合った。
彼に初めて抱かれた時、久しぶりに貫かれた体は、痛みだけで快楽なんて追えなかった。
ほぼ未使用の身体は、きっと笹宮にとっても抱きづらいものだっただろう。
笹宮を受け入れるまで凄く時間がかかってしまった。笹宮も男を抱くのは初めてだったみたいで、俺にあれこれ聞いてきた。ここが感じるの?とか女とは違うの?とか。
知識だけはあったから、俺はなんでもないように笹宮に男同士のセックスについて実践つきでレクチャーした。
「久しぶりだから…ごめんな…」
そう嘘をついて。
必死に彼を喜ばせたくて動いた。笹宮は最初は馴染むまで緩やかに腰を動かしていたが、次第にそのピストンは早くなっていった。
求められていることが嬉しくて身体を貫かれて、俺は少し泣いた。
「気持ちよかった?」
「…良かったです、凄く」
「それは良かったよ」
微笑んだ俺に対し笹宮は顔を赤らめながら、「あんたって…」とこぼす。
「なに?」
「いや、こんな風にいつも男と抱き合ってるのかなと思って。俺、あんたの中で何番目に良かった?」
何番目に良かったって…、ほぼ初体験みたいなものだから順位なんてないに等しい。
ガチガチの身体だったのに、笹宮はなぜか俺が男慣れしているものと思い込んでいた。
笹宮は、男同士のセックスを体験したかっただけなのか?
ずっと見つめていた笹宮があのBARにいたのは偶然か?
「1番って言って欲しい?」
「そうだね、言ってほしいよ」
「1番良かったよ」
笹宮の真意が見えなくても、彼の腕の中は温かだった。
俺に一目惚れしたから、恋人として付き合いたいとそれから笹宮は度々俺を呼び抱いた。
俺の身体のどこが気に入ったのか知らないけれど、毎回笹宮は念入りに俺を抱いてくれた。
徐々に笹宮は自分の快楽だけじゃなく俺も気持ちよくさせるようになり、今では俺のほうが彼の身体に溺れみっともなく喘いでしまうことが多くなった。
「ささみや…、そこ…んっ…」
「玉城さん……」
欲を含んだ声色で、名を呼ばれれば胸が痛いくらいに高鳴った。
名前を呼ばれているだけなのに、自分の名前が特別のものに思えた。名前なんて、自分を認識するだけのものだと思っていたのに。
唇が、俺の肌に印をつけていく。
首筋、鎖骨、うなじ……
口づけは全身に渡り、体中が熱くなった。
このまま全身に熱が回れば、足の先から頭まで笹宮がいっぱいになって、彼のことしか考えられない身体になってしまいそう。
俺の身体なのに、身体を重ねていくうちに俺のものではなくなってしまう気がした。
このまま溺れてしまえば、きっと笹宮なしでは生きていられなくなる。
危険信号が俺の中で点滅しているのに、彼と会うことをやめられない。
もっともっとと彼を貪欲に欲してしまう。最初は話せるだけでいいと思っていたのに。
「キス…していいですか?」
耳元で、俺の了承を得る笹宮。
返事をしなくても、するくせに。
黙っていたら、やっぱり笹宮は苦笑して、俺の顎をすくい口づけた。
「好き、です。玉城さん。あんたが、好きなんです」
切なげに揺れる瞳。
嘘だとわかっているのに、その瞳は俺を切望しているように見えた。
俺のことだけ考えて。
俺だけを想って。
俺が想っている、十分の一でもイイ。
俺を、好きだと、愛していると思って。
そう考えているから、願望から笹宮が俺に恋しているように見えてしまうのだろうか。
「貴方が、好きです…好き、なんです」
葛藤するような瞳が俺の視線と交わる。
「………」
俺も好き。俺は本当に、お前がスキなんだよ。
ずっと気になって、いつもお前の姿を見ていたんだ。
好きだよ。お前が思うよりずっと。
お前も本当に俺を好きでいてくれたらいいのに。
そんな言葉も口にする勇気もなくて、俺は言葉を封じ込めるように笹宮の口を塞いだ。
*
・
何も考えずに愛を受け入れられたらそれは幸せなのだろうか。
愛してる。
愛されたい。けれど昔のトラウマが消えない。
無条件に愛されることにストップがかかり、心に嘘を重ねてしまう。
笹宮の言葉に頷くこともできず、自分から愛の言葉を言うこともできない。
原因はある事件だった。
俺は、昔誘拐された事があった。
俺を誘拐したのは、当時通っていた塾の男の先生だった。
先生は気が弱くでも優しい人でみんなに人気だったから、まさか襲われるとは思わなかった。
塾帰りに先生に拉致されて、家に監禁させられた。
先生は、警察に見つかるまでの三日間、俺の身体を好きに抱いた。
『君はイケナイ子だね』
『君は男好きなんだ。君が私をこんなふうにしたんだよ』
最初は必死に、先生の言葉を否定した。
しかし何度も言われ続けていたら、次第にその言葉は事実のように俺の中で塗り替えられた。
俺はイケナイ子で、男が好きで、男を誘う淫乱なんだ、って。
警察に保護された時、俺は錯乱し、しばらく入院していた。
あの事件以降、両親は俺を腫れ物を扱うかのように接するようになり、喧嘩が絶えないようになりやがて俺を母方の親に預け離婚した。
『先生のことが忘れられない』
馬鹿な俺は、両親に真実を口にした。
『貴方が何を考えているかわからないの…』
母親は苦悩しながら、俺の前から消えた。
ある時、先生に似た男に恋をした。抱き合う寸前、どうしてもできなくて。
俺は馬鹿正直に昔のトラウマを話した。
そしたらやっぱり元恋人は俺のもとを去った。
真実を言えばいうほど、俺は一人ぼっちになっていく。
嘘を重ねれば重ねるほど、嘘がうまくなっていく。
自分を傷つけた男のことが忘れられず、男に似た人間をスキになる俺は異常者だ。
ある時から、俺は他人に偽るのが凄くうまくなっていて、とても嘘つきになった。
『君がイケナイんだよ。僕を誘うから』
あの時の言葉が脳裏から離れない。
まるで呪いのようだった。
年を重ね大人になってもあの日のことは俺の中から消えてくれなかった。
それなのに、視線を奪われるのはいつも“先生”に似た男の人だった。
笹宮もまた、先生にとてもよく似ていたのだ。
大学時代、つい姿を追ってしまうくらいには。
*
「あんたはいつもヘラヘラしてるね。何も考えてないみたいだ」
笹宮の言葉に、苛立ちが含まれたのは初めて抱かれて1年ほどたった日のことだった。
彼の嘘から始まった付き合いは少しずつ、でも確実に綻びが見え始めた。
うまく計算して、楽しむだけ楽しんで。
笹宮が飽きたらスマートに別れようってそう思っていたのに。
頭ではそう考えていたのに、心はそれに反して笹宮を欲した。
離れなければと思うたびに離れられないと、すがった。
「俺だけって顔して、俺以外のやつとも抱き合っているんでしょう?ねぇ、俺以外にどんな痴態をあんたは見せるの?」
「そんなのしてない。今は笹宮しか…」
「嘘ばっかり。あんたは俺を好きじゃないんだよ」
彼は時折、酷く俺を苛んだ。
甘い愛の言葉を口にするのに、その瞳は寒々しかった。
隠し切れていないキスマークと浮気の痕、数え切れないドタキャンに、少しずつ『好き』という言葉もなくなっていった。
些細な喧嘩も多くなって顔を合わさない日も増えた。
偽りから始まった関係なんてこんなもんだ。
いっそ別れればいい。卑怯な俺は、一度も彼へ好きだという言葉をつげていなかった。
その言葉を告げてしまえば最後、俺を守っていたものが消えてしまいそうだったから、一方的に愛のことばを貰っていただけ。
好きじゃなかった。お前なんてどうでもいい。
飽きたならさっさと別の人間にしろ
そう切り捨てればよかったのに、笹宮が何も言わないことをいいことに俺は現状を維持した。
笹宮は俺を好きなんかじゃない。
好きだと告げているけれど、その目が冷たい。
出会ったときから、目は雄弁にものを言っている。
愛してるなんて、嘘だって。
ただ抱き合う。そこに愛なんてとうに消えた関係になっていたのに。
気がつけば先生より俺の中で笹宮という存在は大きく占めていた。
偽りの愛だっていい。
嘘に気が付かなければ、まだ笹宮と一緒にいられる。
笹宮に心底惚れ込んだ俺は別れなんて切り出せなかった。
彼の真意に気づいたのは、笹宮が俺を部屋で抱いた時だった。
部屋の隅に無造作に置かれた笹宮のアルバム。
何気なしに見ていたら、“真実”はそこにあった。
俺を誘拐した先生と小さな頃の笹宮が映った写真が何枚かアルバムに収まっていたのだ。
真実なんて、永遠にしりたくなかったのに。
笹宮はわざと無造作にアルバムを部屋においていたのだろうか。
俺に見つけてほしくて。
この関係に終止符を打つべく。
『笹宮…これ…』
写真を見つけた俺に笹宮は一瞬、瞳を揺らし…
『ばれたんだ』
冷たい笑みを零した。
嘘が終わった。
幸せだった嘘が終わってしまった。
愛してるなんて、気づかないふりをしていたのに。
笹宮は、写真を持って呆然とする俺に淡々と言葉を吐いた。
『…あの事件で俺の親父は自殺して、母さんも俺を置いて出て行ったんだ』と。
そう“俺のせい”で。
俺が行けないんだと、いつぞやの先生の言葉が蘇る。
笹宮と付き合うようになって消えかけていた言葉が、また俺の脳内で優しくこだまする。
忘れるな、と。
俺がいけないんだと。
笹宮は、俺が忘れられない先生の息子だった。
『笹宮…』
『あんたはホイホイ俺に抱かれましたよね。
喘いでいる俺に縋るあんたを見ているのは気分が良かったよ。
いつ、本当の事をばらそうって…その顔が歪められるかって』
『笹宮…』
『あんたなんか嫌いだ。大嫌いだ。
いつもヘラヘラ笑ってて。本心なんて見せなくて。
今だって、自分がどんな顔してるかわかってるんですか』
『どんな…?』
どんな顔してるんだろう。
わからない。嘘だらけで、今自分がどんな顔をしているかわからない。
俺は泣きそうな顔でもしているのかな。
『なんでもないって顔してますよ』
嘘だ。こんなに悲しいのに。
でも、笹宮の言うように俺の表情はピクリとも動かない。
しっかりと貼り付けられた能面は、こんなことがあっても取れてくれない。
『そんなあんたを、俺が好きになると思ったの?
ただの、復讐相手に』
ガラガラと、好きだった“笹宮”が崩れ去る。
でも、笹宮がこうなったのは誰のせいでもない。
俺のせい。
『君がいけないんだよ』
先生の言葉通りだったんだ。
笹宮はただ、俺に復讐しただけだった。
いつだって、笹宮の目は真実を告げていた。俺を愛してなどいないと。
言葉はいつだって偽りで、目だけが真実を告げていた。
唐突に始まった嘘の真実は、実にあっけないものだった。
それ以上、笹宮の言葉を聞いていられなくて、笹宮の部屋から走りさり、そしてーーー。
『待てッ…危な……!』
たまたま、笹宮の家の前を走っていた車の前に飛び出しひかれた。
車はかなりスピードがでていたし、俺も前を見ていなかったから、あっという間に身体は舞い地面に勢いよく打ち付けられた。
死ぬなら死んでもいい。
先生も、俺が死んだら喜ぶかもしれない。
地獄に行って俺を今度こそ離さないかもしれない。
『君がいけないんだよ』
そう、全部俺がいけないんだ。全て。
*
・
*
あれだけ派手な事故だったのに、俺は生きていた。血が沢山出て事故現場は悲惨なものだったのに、人間案外図太いようだ。
ただ、代償として俺の記憶のいち部分が消えてしまった。
消したかった先生の記憶も、笹宮の温もりも思い出せなくなっていた。
病院で目を覚まして一番最初に見たのは笹宮だった。
笹宮は俺が目をさますまでずっと側にいてくれたようで記憶を失った俺に対し、恋人だといって俺の看病をかって出た。記憶を失う前の冷たい態度が夢だったみたいに、笹宮は優しく俺に接してくれた。
その表情は本当に恋人を心配する男で偽りなんて見えず、記憶を失った俺はただ与えられる笹宮の愛にオロオロしたり照れたりするばかりで今までのように気持ちを取り繕うことできなかった。
「俺が一生、あんたの面倒を見ますから」
「そんなそこまでしてもらう義理は…」
「あります。恋人なんで。それに…もう二度とあんな思いはしたくない」
笹宮の申し出を申し訳ないと断った俺に対し、彼は頑として聞かず、俺の側にいたがった。笹宮の甘やかしは嬉しい反面、人前でも構わず俺を甘やかすからとても恥ずかしくて。
ちょっと抗議してみても
「恋人なら当然です。だから、あんたは俺にもっと甘えるべきです」なんて変な理屈をたてる。
「ジロジロ見られてもいいの?男同士なのに、肩組んでさっきも見られたよ」
「ジロジロみたいやつには見せればいい。俺はただあんたを愛してるだけなんで」
記憶がない俺が、甲斐甲斐しく俺の世話を焼いて助けてくれる笹宮をまた愛してしまうのも仕方のないことだった。
頼れる相手は笹宮だけ。それが俺の笹宮への想いを加速させた。
初めて見たものを親だと感じるひよこのように、記憶をなくした俺にとって笹宮は初めて見た“唯一”になった。
「記憶なんて戻らなくてもいいよ。笹宮がずっと一緒にいてくれるなら。記憶が戻って笹宮がいなくなるなら、記憶なんていらない」
記憶が戻ったら、笹宮がいなくなってしまうと記憶をなくした俺でも無意識にわかっていたんだろうか。
俺の言葉に、笹宮はどこか泣き出しそうな顔をしていた。
記憶がなくなった俺は笹宮の苦悩の表情の理由がわからず、でも笹宮の悲しんだ顔のままにしたくなくて
「俺、笹宮の言葉なら全部信じてるから。過去なんていらない」
いつも決まって慰めるように彼の頭を撫でるのだった。そして笹宮はその手に年下の恋人らしく甘えるのだった。
記憶を失った俺は、嘘を吐くこともなかった。嘘を吐くことすらも忘れたといっていい。
だから、笹宮には嘘偽りのない言葉で接することができた。
弱音や不安も吐露したし、記憶が失う前は甘えることも遠慮していたのに、先生の記憶の記憶が消え笹宮の腕に身を委ねることができた。
「笹宮、キスしようか?」
「え?」
「したくない?」
「いやいや…!したい。したいですけど…」
「けど?」
「いや、こうやって強請られるの凄く久しぶりだったから…。いつもしたらって感じだったから」
「そうだっけ?覚えてない…」
「そう…ですよね」
「俺は過去なんていいや。今したいから」
にんやりと笑って、笹宮の唇を奪う。
記憶なんていらない。嘘でも笹宮が側にいてくれるなら、偽りの愛に溺れたままでいたい。
蓋を明けなければ、辛いことなど気づくこともなかったパンドラの箱。
それをわざわざ開けることはない。
キツく蓋をして、心の奥で鍵をかけてしまおう。
二度と開くことのないように。
けれど俺の願いとは裏腹に、パンドラの箱は勝手に開いてしまった。それは、皮肉にも笹宮が俺を抱いた時だった。
好きですという甘い言葉と優しい愛撫で気づいてしまったのだ。
こんな記憶、ありえないっと。脳がありえない異常に記憶を戻してしまった。
正しい記憶はこっちだと思い出させるように。夢からさめろと、パンドラの箱を勝手に開け現実に呼び戻した。
笹宮から甘やかされて、俺も何も疑わず彼へ甘えられる。そんな甘い夢を見てしまったら、もう前の自分には戻れなかった。笹宮には申し訳ないことをしているとわかっていても、 記憶が戻っても俺は、また笹宮に嘘を付き始めた。
簡単だ、嘘なんて。気持ちなんて覆い隠して、嘘を吐いてそうすればずっと幸せだから。
*
*
「玉城さんが、好きです」
今日も俺は笹宮の腕の中。笹宮の愛を信じ切る“ピエロ”を演じる。
笹宮の言葉に、愛撫に感じ身体に熱が灯る。
何度となく抱き合った後も、笹宮は毎度のように俺に愛の言葉を囁く。
「玉城さんの一番になりたかった。
俺は、ずっとあんたに愛されたかったんです…」
俺も愛しているのに。
言葉には口にできないけれど愛していたのに。
いつまで笹宮は俺に愛を告げるのだろう。
笹宮は、まだ俺を傷つけたいのだろうか。
まだ復讐したいと想っているのか。
逃げたい。
でも、逃げたくない。
俺は笹宮を、愛しているから。
笹宮の両親を奪ったのは俺だから。
復讐させて、あげたい。笹宮の気がすむまで。
だから記憶が戻っても戻ってないフリをする。
笹宮の復讐が終わるまで。
笹宮の気が晴れるまで。
俺は笹宮が、好きだから。
笹宮が本当に好きな人ができたら、こんな偽りの憎しみにまみれた愛なんて捨てて、今度こそ俺の前から消えてしまうかもしれないけれど。
俺は…ーー
「笹宮…?」
「…ごめんなさい。そんな顔させてしまうのは俺のせいですね…」
笹宮はぎゅっと俺を抱きしめたまま
「ごめんなさい…」
そう何度も口にした。
止まらぬ謝罪に苦しげに潜められた眉。
怪訝に思い笹宮の頬に伸ばした手。
笹宮は泣き出しそうな顔で、その手に己の手を重ねた。
「笹宮…?」
「ずっと、苦しかったですか?」
「…え」
「記憶、戻ったんでしょう?知ってますよ」
さぁ、と顔から血の気がひく。
いつから?いつから気づいた?どうして俺は気づかなかった?
ああ、そうだ。笹宮の目があの頃と違って「嘘」を言っていないから。だからわからなかったんだ。
記憶を失う前の俺に対しての態度と違うから。その目がどこまでも優しいから。
記憶を失う前の俺に対して、笹宮は何を言った?
また記憶を失う前の関係に戻ってしまうのか…ーーー
咄嗟にベッドから逃げ出そうとする俺を笹宮の腕が捉える。
縋るように向けられた視線に、足は止まった。
「許してくれないかもしれませんが、言ってもいいですか。
あんたに、愛してるって…」
「嘘…だって…ーー」
「あんたが記憶をなくしてから…戻ってもずっと後悔してた。
どうやって謝ろうって、タイミングばかり考えてーー」
「な、なんで記憶戻ったってわかったの?」
俺の嘘は完璧だったはず。
ちゃんと演技できていたはずなのに。
「記憶がなくなって、あんたはずっと嘘が下手で泣いていたから。
あんたはただ、誰よりも嘘が上手だったんだって気づいたんだ。
気づいてる?玉城さん。記憶をなくす前、玉城さんはけして泣くことはなかったんだよ。俺の言うことばかり聞いて、俺から離れても平気だって、そんな顔してた。」
記憶を失う前の俺は、嘘ばかりついていた。
笹宮の言葉を信じて、愛に溺れて傷つきたくないと。笹宮に嘘ばかりついていた。
そんな笹宮も意地になって、辛く当たったり浮気のようなことを繰り返していた。
俺達は似たもの同士だったんだ。
お互い本心が見えないから、嘘に嘘を重ねて、傷つけあっていた…。
「俺ばかりが好きなんだって、俺あんたを陥れようとしてたのに、気づいたら凄くあんたのこと好きになっていたんだ。
あんたのことを傷つけるのは俺だけでいいって想った。親のことなんて忘れればいいって…。俺に愛してるって言ってほしいと」
愛してる。
言えなかった言葉。言う必要もないと想っていた言葉を、この男はずっと待ち望んでくれていたのだろうか。
愛を諦めた俺の言葉をずっと待っててくれたのだろうか。
「苦しんでいるあんたのこと俺は何も見えてなかった。
俺よりもずっと俺の親のことで傷ついていた。俺の目的は親を誑かした男を見ること。
最初はそれだけだったのに。
どんどん惹かれていったんです。不器用に嘘をつくあんたに。
あんたが事故にあって血まみれで倒れた時、自分のした馬鹿なことを本気で後悔した。あんたが、いなくなったらと思ったら怖くて仕方がなかった。なんでこんなことしたんだろうって」
「笹宮」
「ごめんなさい…。謝って許されることじゃないけど…。
何度責めたっていい。だから、どうか…」
一人で傷つかないでください。
俺はぎゅっと笹宮の背に腕を回した。
記憶を失う前は泣けなかった能面だった俺の瞳から、つぅっと涙がこぼれ落ちた。
なぜだろう、涙が止まらない。
今まで『いけない』と思い込み消した“俺”を肯定してくれた気がした。
他ならぬ、一度俺を傷つけた笹宮によって。
「ねぇ、笹宮。俺も言っていいかな。ずっと秘密にしてたこと」
真実なんて辛いから、嘘をつく。
でも、俺はもう嘘をつけそうにない。
嘘を上手につけるほど、役者でもなかったみたいだ。
でも、それでいい。
俺はもう真実しか彼に伝えたくない。
「俺も、愛してるよ。お前を」
そういえば、笹宮は一瞬大きく目を見開いてへにゃりと情けなく笑いながら俺に囁いた。
「愛してます…」
願わくば、今後俺の記憶は彼で埋め尽くされればいい。
今度は偽りじゃない、真実の愛で。
全てを忘れられたらいいのに。
時折、激しいマイナス思考の海に放り出される。
ふとした瞬間に『ソレ』は俺に襲いかかり、息苦しくなるほどの暗い後悔へと変化する。
嘘をつければよかったのに。
笑って嘘をつけるようになれば、誰も悲しまなかった。
真実など、永遠に見てみぬふりをする。感情など押し殺して流されるままでいる。
都合のいい嘘をついて、ヘラヘラ笑って偽り続けてしまえばいい。
真実なんていらない。
俺一人傷つけば終わる現実に、真なんてものは存在せぬべきではない。
愛なんて、そんなものはまやかしにすぎない。
手を伸ばし欲した瞬間に、蜃気楼のように手から消え去ってしまうのだ。
『君がいけないんだよ』
今でも耳に残る声。
『君がいけないんだ』
そう、俺がいけないんだ。
俺が……。
『記憶の代償』
彼、笹宮と初めて会話したのは、ゲイである男たちが集まる新宿の隠れ家のようなBARだった。
仄暗いネオンと古びたバーカウンター。
「お隣空いてますか?」
嫌味にならない笑顔で尋ねてきた彼に、そつない顔をしながらも俺の心臓はバクバクと跳ねていた。
“どうして、彼がここに?”
彼との会話はその時が初めてだったけれど、俺は彼を一方的に知っていた。ずっと彼という存在を想い見つめ続けていたから。
彼は俺より2つ年下で同じ大学に通っていた後輩だった。
彼は俺をしらない。
友人と同じサークルに通う彼を俺が勝手に2年間見つめ続けていただけだから彼が俺を知っているはずがない。
彼は、“あの人”にとてもよく似ていて、それでいてどこか俺にも似た空気を感じた。
なんでもそつなくこなすその顔は、人に好まれるがどこかさみしげで、同じタイプの人間にしか感じない“偽り”のお面を被っているようだった。
「あ、ああ…」
「俺、こういう店はじめてなんですが…貴方は?」
「俺は、何度か。暇な時遊んでるよ」
俺の口はスラリと嘘をつく。本当は口から心臓が飛びだしてしまいそうに緊張していたけれど、俺は努めて上手に嘘を口にした。
「暇なときですか?本命は…」
「いないよ。作る気、ないし。俺は…」
誰も愛せないから。いや、違う。
愛されてはいけないと思い込んでいるから。
言葉を噤み視線をコップへ落とした俺に、彼はそっと手を重ね、
「じゃあ、俺がこれからあんたを愛してもいいですか?
一目惚れなんです…」
どきりとするほど低い言葉で甘く囁く。
「あんたの乱れた姿がみたい」
ーダウト。
彼はとても、俺に似ている。だから、真実の言葉なんて口にできない。
彼はいつも表情に仮面をつけているが、目は雄弁にものを言う。
真実か嘘かなんて同じ嘘つきな俺はわかっていた。彼は上手に嘘をついている。
普段の俺ならばこんなおかしいと目に見えている誘いなんて乗らないのに。
俺は彼の誘いにコクリと頷いて“こなれた”男のように微笑んだ。
「いいよ、楽しませろよ?」
嘘をつくのなんか簡単だ。心なんて見せなければ、うざったいと思われることもなければ傷つくこともない。
まるで役者になった気分で俺は彼を煽った。
そのまま俺達はBAR近くのラブホテルで抱き合った。
彼に初めて抱かれた時、久しぶりに貫かれた体は、痛みだけで快楽なんて追えなかった。
ほぼ未使用の身体は、きっと笹宮にとっても抱きづらいものだっただろう。
笹宮を受け入れるまで凄く時間がかかってしまった。笹宮も男を抱くのは初めてだったみたいで、俺にあれこれ聞いてきた。ここが感じるの?とか女とは違うの?とか。
知識だけはあったから、俺はなんでもないように笹宮に男同士のセックスについて実践つきでレクチャーした。
「久しぶりだから…ごめんな…」
そう嘘をついて。
必死に彼を喜ばせたくて動いた。笹宮は最初は馴染むまで緩やかに腰を動かしていたが、次第にそのピストンは早くなっていった。
求められていることが嬉しくて身体を貫かれて、俺は少し泣いた。
「気持ちよかった?」
「…良かったです、凄く」
「それは良かったよ」
微笑んだ俺に対し笹宮は顔を赤らめながら、「あんたって…」とこぼす。
「なに?」
「いや、こんな風にいつも男と抱き合ってるのかなと思って。俺、あんたの中で何番目に良かった?」
何番目に良かったって…、ほぼ初体験みたいなものだから順位なんてないに等しい。
ガチガチの身体だったのに、笹宮はなぜか俺が男慣れしているものと思い込んでいた。
笹宮は、男同士のセックスを体験したかっただけなのか?
ずっと見つめていた笹宮があのBARにいたのは偶然か?
「1番って言って欲しい?」
「そうだね、言ってほしいよ」
「1番良かったよ」
笹宮の真意が見えなくても、彼の腕の中は温かだった。
俺に一目惚れしたから、恋人として付き合いたいとそれから笹宮は度々俺を呼び抱いた。
俺の身体のどこが気に入ったのか知らないけれど、毎回笹宮は念入りに俺を抱いてくれた。
徐々に笹宮は自分の快楽だけじゃなく俺も気持ちよくさせるようになり、今では俺のほうが彼の身体に溺れみっともなく喘いでしまうことが多くなった。
「ささみや…、そこ…んっ…」
「玉城さん……」
欲を含んだ声色で、名を呼ばれれば胸が痛いくらいに高鳴った。
名前を呼ばれているだけなのに、自分の名前が特別のものに思えた。名前なんて、自分を認識するだけのものだと思っていたのに。
唇が、俺の肌に印をつけていく。
首筋、鎖骨、うなじ……
口づけは全身に渡り、体中が熱くなった。
このまま全身に熱が回れば、足の先から頭まで笹宮がいっぱいになって、彼のことしか考えられない身体になってしまいそう。
俺の身体なのに、身体を重ねていくうちに俺のものではなくなってしまう気がした。
このまま溺れてしまえば、きっと笹宮なしでは生きていられなくなる。
危険信号が俺の中で点滅しているのに、彼と会うことをやめられない。
もっともっとと彼を貪欲に欲してしまう。最初は話せるだけでいいと思っていたのに。
「キス…していいですか?」
耳元で、俺の了承を得る笹宮。
返事をしなくても、するくせに。
黙っていたら、やっぱり笹宮は苦笑して、俺の顎をすくい口づけた。
「好き、です。玉城さん。あんたが、好きなんです」
切なげに揺れる瞳。
嘘だとわかっているのに、その瞳は俺を切望しているように見えた。
俺のことだけ考えて。
俺だけを想って。
俺が想っている、十分の一でもイイ。
俺を、好きだと、愛していると思って。
そう考えているから、願望から笹宮が俺に恋しているように見えてしまうのだろうか。
「貴方が、好きです…好き、なんです」
葛藤するような瞳が俺の視線と交わる。
「………」
俺も好き。俺は本当に、お前がスキなんだよ。
ずっと気になって、いつもお前の姿を見ていたんだ。
好きだよ。お前が思うよりずっと。
お前も本当に俺を好きでいてくれたらいいのに。
そんな言葉も口にする勇気もなくて、俺は言葉を封じ込めるように笹宮の口を塞いだ。
*
・
何も考えずに愛を受け入れられたらそれは幸せなのだろうか。
愛してる。
愛されたい。けれど昔のトラウマが消えない。
無条件に愛されることにストップがかかり、心に嘘を重ねてしまう。
笹宮の言葉に頷くこともできず、自分から愛の言葉を言うこともできない。
原因はある事件だった。
俺は、昔誘拐された事があった。
俺を誘拐したのは、当時通っていた塾の男の先生だった。
先生は気が弱くでも優しい人でみんなに人気だったから、まさか襲われるとは思わなかった。
塾帰りに先生に拉致されて、家に監禁させられた。
先生は、警察に見つかるまでの三日間、俺の身体を好きに抱いた。
『君はイケナイ子だね』
『君は男好きなんだ。君が私をこんなふうにしたんだよ』
最初は必死に、先生の言葉を否定した。
しかし何度も言われ続けていたら、次第にその言葉は事実のように俺の中で塗り替えられた。
俺はイケナイ子で、男が好きで、男を誘う淫乱なんだ、って。
警察に保護された時、俺は錯乱し、しばらく入院していた。
あの事件以降、両親は俺を腫れ物を扱うかのように接するようになり、喧嘩が絶えないようになりやがて俺を母方の親に預け離婚した。
『先生のことが忘れられない』
馬鹿な俺は、両親に真実を口にした。
『貴方が何を考えているかわからないの…』
母親は苦悩しながら、俺の前から消えた。
ある時、先生に似た男に恋をした。抱き合う寸前、どうしてもできなくて。
俺は馬鹿正直に昔のトラウマを話した。
そしたらやっぱり元恋人は俺のもとを去った。
真実を言えばいうほど、俺は一人ぼっちになっていく。
嘘を重ねれば重ねるほど、嘘がうまくなっていく。
自分を傷つけた男のことが忘れられず、男に似た人間をスキになる俺は異常者だ。
ある時から、俺は他人に偽るのが凄くうまくなっていて、とても嘘つきになった。
『君がイケナイんだよ。僕を誘うから』
あの時の言葉が脳裏から離れない。
まるで呪いのようだった。
年を重ね大人になってもあの日のことは俺の中から消えてくれなかった。
それなのに、視線を奪われるのはいつも“先生”に似た男の人だった。
笹宮もまた、先生にとてもよく似ていたのだ。
大学時代、つい姿を追ってしまうくらいには。
*
「あんたはいつもヘラヘラしてるね。何も考えてないみたいだ」
笹宮の言葉に、苛立ちが含まれたのは初めて抱かれて1年ほどたった日のことだった。
彼の嘘から始まった付き合いは少しずつ、でも確実に綻びが見え始めた。
うまく計算して、楽しむだけ楽しんで。
笹宮が飽きたらスマートに別れようってそう思っていたのに。
頭ではそう考えていたのに、心はそれに反して笹宮を欲した。
離れなければと思うたびに離れられないと、すがった。
「俺だけって顔して、俺以外のやつとも抱き合っているんでしょう?ねぇ、俺以外にどんな痴態をあんたは見せるの?」
「そんなのしてない。今は笹宮しか…」
「嘘ばっかり。あんたは俺を好きじゃないんだよ」
彼は時折、酷く俺を苛んだ。
甘い愛の言葉を口にするのに、その瞳は寒々しかった。
隠し切れていないキスマークと浮気の痕、数え切れないドタキャンに、少しずつ『好き』という言葉もなくなっていった。
些細な喧嘩も多くなって顔を合わさない日も増えた。
偽りから始まった関係なんてこんなもんだ。
いっそ別れればいい。卑怯な俺は、一度も彼へ好きだという言葉をつげていなかった。
その言葉を告げてしまえば最後、俺を守っていたものが消えてしまいそうだったから、一方的に愛のことばを貰っていただけ。
好きじゃなかった。お前なんてどうでもいい。
飽きたならさっさと別の人間にしろ
そう切り捨てればよかったのに、笹宮が何も言わないことをいいことに俺は現状を維持した。
笹宮は俺を好きなんかじゃない。
好きだと告げているけれど、その目が冷たい。
出会ったときから、目は雄弁にものを言っている。
愛してるなんて、嘘だって。
ただ抱き合う。そこに愛なんてとうに消えた関係になっていたのに。
気がつけば先生より俺の中で笹宮という存在は大きく占めていた。
偽りの愛だっていい。
嘘に気が付かなければ、まだ笹宮と一緒にいられる。
笹宮に心底惚れ込んだ俺は別れなんて切り出せなかった。
彼の真意に気づいたのは、笹宮が俺を部屋で抱いた時だった。
部屋の隅に無造作に置かれた笹宮のアルバム。
何気なしに見ていたら、“真実”はそこにあった。
俺を誘拐した先生と小さな頃の笹宮が映った写真が何枚かアルバムに収まっていたのだ。
真実なんて、永遠にしりたくなかったのに。
笹宮はわざと無造作にアルバムを部屋においていたのだろうか。
俺に見つけてほしくて。
この関係に終止符を打つべく。
『笹宮…これ…』
写真を見つけた俺に笹宮は一瞬、瞳を揺らし…
『ばれたんだ』
冷たい笑みを零した。
嘘が終わった。
幸せだった嘘が終わってしまった。
愛してるなんて、気づかないふりをしていたのに。
笹宮は、写真を持って呆然とする俺に淡々と言葉を吐いた。
『…あの事件で俺の親父は自殺して、母さんも俺を置いて出て行ったんだ』と。
そう“俺のせい”で。
俺が行けないんだと、いつぞやの先生の言葉が蘇る。
笹宮と付き合うようになって消えかけていた言葉が、また俺の脳内で優しくこだまする。
忘れるな、と。
俺がいけないんだと。
笹宮は、俺が忘れられない先生の息子だった。
『笹宮…』
『あんたはホイホイ俺に抱かれましたよね。
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『笹宮…』
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いつもヘラヘラ笑ってて。本心なんて見せなくて。
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『どんな…?』
どんな顔してるんだろう。
わからない。嘘だらけで、今自分がどんな顔をしているかわからない。
俺は泣きそうな顔でもしているのかな。
『なんでもないって顔してますよ』
嘘だ。こんなに悲しいのに。
でも、笹宮の言うように俺の表情はピクリとも動かない。
しっかりと貼り付けられた能面は、こんなことがあっても取れてくれない。
『そんなあんたを、俺が好きになると思ったの?
ただの、復讐相手に』
ガラガラと、好きだった“笹宮”が崩れ去る。
でも、笹宮がこうなったのは誰のせいでもない。
俺のせい。
『君がいけないんだよ』
先生の言葉通りだったんだ。
笹宮はただ、俺に復讐しただけだった。
いつだって、笹宮の目は真実を告げていた。俺を愛してなどいないと。
言葉はいつだって偽りで、目だけが真実を告げていた。
唐突に始まった嘘の真実は、実にあっけないものだった。
それ以上、笹宮の言葉を聞いていられなくて、笹宮の部屋から走りさり、そしてーーー。
『待てッ…危な……!』
たまたま、笹宮の家の前を走っていた車の前に飛び出しひかれた。
車はかなりスピードがでていたし、俺も前を見ていなかったから、あっという間に身体は舞い地面に勢いよく打ち付けられた。
死ぬなら死んでもいい。
先生も、俺が死んだら喜ぶかもしれない。
地獄に行って俺を今度こそ離さないかもしれない。
『君がいけないんだよ』
そう、全部俺がいけないんだ。全て。
*
・
*
あれだけ派手な事故だったのに、俺は生きていた。血が沢山出て事故現場は悲惨なものだったのに、人間案外図太いようだ。
ただ、代償として俺の記憶のいち部分が消えてしまった。
消したかった先生の記憶も、笹宮の温もりも思い出せなくなっていた。
病院で目を覚まして一番最初に見たのは笹宮だった。
笹宮は俺が目をさますまでずっと側にいてくれたようで記憶を失った俺に対し、恋人だといって俺の看病をかって出た。記憶を失う前の冷たい態度が夢だったみたいに、笹宮は優しく俺に接してくれた。
その表情は本当に恋人を心配する男で偽りなんて見えず、記憶を失った俺はただ与えられる笹宮の愛にオロオロしたり照れたりするばかりで今までのように気持ちを取り繕うことできなかった。
「俺が一生、あんたの面倒を見ますから」
「そんなそこまでしてもらう義理は…」
「あります。恋人なんで。それに…もう二度とあんな思いはしたくない」
笹宮の申し出を申し訳ないと断った俺に対し、彼は頑として聞かず、俺の側にいたがった。笹宮の甘やかしは嬉しい反面、人前でも構わず俺を甘やかすからとても恥ずかしくて。
ちょっと抗議してみても
「恋人なら当然です。だから、あんたは俺にもっと甘えるべきです」なんて変な理屈をたてる。
「ジロジロ見られてもいいの?男同士なのに、肩組んでさっきも見られたよ」
「ジロジロみたいやつには見せればいい。俺はただあんたを愛してるだけなんで」
記憶がない俺が、甲斐甲斐しく俺の世話を焼いて助けてくれる笹宮をまた愛してしまうのも仕方のないことだった。
頼れる相手は笹宮だけ。それが俺の笹宮への想いを加速させた。
初めて見たものを親だと感じるひよこのように、記憶をなくした俺にとって笹宮は初めて見た“唯一”になった。
「記憶なんて戻らなくてもいいよ。笹宮がずっと一緒にいてくれるなら。記憶が戻って笹宮がいなくなるなら、記憶なんていらない」
記憶が戻ったら、笹宮がいなくなってしまうと記憶をなくした俺でも無意識にわかっていたんだろうか。
俺の言葉に、笹宮はどこか泣き出しそうな顔をしていた。
記憶がなくなった俺は笹宮の苦悩の表情の理由がわからず、でも笹宮の悲しんだ顔のままにしたくなくて
「俺、笹宮の言葉なら全部信じてるから。過去なんていらない」
いつも決まって慰めるように彼の頭を撫でるのだった。そして笹宮はその手に年下の恋人らしく甘えるのだった。
記憶を失った俺は、嘘を吐くこともなかった。嘘を吐くことすらも忘れたといっていい。
だから、笹宮には嘘偽りのない言葉で接することができた。
弱音や不安も吐露したし、記憶が失う前は甘えることも遠慮していたのに、先生の記憶の記憶が消え笹宮の腕に身を委ねることができた。
「笹宮、キスしようか?」
「え?」
「したくない?」
「いやいや…!したい。したいですけど…」
「けど?」
「いや、こうやって強請られるの凄く久しぶりだったから…。いつもしたらって感じだったから」
「そうだっけ?覚えてない…」
「そう…ですよね」
「俺は過去なんていいや。今したいから」
にんやりと笑って、笹宮の唇を奪う。
記憶なんていらない。嘘でも笹宮が側にいてくれるなら、偽りの愛に溺れたままでいたい。
蓋を明けなければ、辛いことなど気づくこともなかったパンドラの箱。
それをわざわざ開けることはない。
キツく蓋をして、心の奥で鍵をかけてしまおう。
二度と開くことのないように。
けれど俺の願いとは裏腹に、パンドラの箱は勝手に開いてしまった。それは、皮肉にも笹宮が俺を抱いた時だった。
好きですという甘い言葉と優しい愛撫で気づいてしまったのだ。
こんな記憶、ありえないっと。脳がありえない異常に記憶を戻してしまった。
正しい記憶はこっちだと思い出させるように。夢からさめろと、パンドラの箱を勝手に開け現実に呼び戻した。
笹宮から甘やかされて、俺も何も疑わず彼へ甘えられる。そんな甘い夢を見てしまったら、もう前の自分には戻れなかった。笹宮には申し訳ないことをしているとわかっていても、 記憶が戻っても俺は、また笹宮に嘘を付き始めた。
簡単だ、嘘なんて。気持ちなんて覆い隠して、嘘を吐いてそうすればずっと幸せだから。
*
*
「玉城さんが、好きです」
今日も俺は笹宮の腕の中。笹宮の愛を信じ切る“ピエロ”を演じる。
笹宮の言葉に、愛撫に感じ身体に熱が灯る。
何度となく抱き合った後も、笹宮は毎度のように俺に愛の言葉を囁く。
「玉城さんの一番になりたかった。
俺は、ずっとあんたに愛されたかったんです…」
俺も愛しているのに。
言葉には口にできないけれど愛していたのに。
いつまで笹宮は俺に愛を告げるのだろう。
笹宮は、まだ俺を傷つけたいのだろうか。
まだ復讐したいと想っているのか。
逃げたい。
でも、逃げたくない。
俺は笹宮を、愛しているから。
笹宮の両親を奪ったのは俺だから。
復讐させて、あげたい。笹宮の気がすむまで。
だから記憶が戻っても戻ってないフリをする。
笹宮の復讐が終わるまで。
笹宮の気が晴れるまで。
俺は笹宮が、好きだから。
笹宮が本当に好きな人ができたら、こんな偽りの憎しみにまみれた愛なんて捨てて、今度こそ俺の前から消えてしまうかもしれないけれど。
俺は…ーー
「笹宮…?」
「…ごめんなさい。そんな顔させてしまうのは俺のせいですね…」
笹宮はぎゅっと俺を抱きしめたまま
「ごめんなさい…」
そう何度も口にした。
止まらぬ謝罪に苦しげに潜められた眉。
怪訝に思い笹宮の頬に伸ばした手。
笹宮は泣き出しそうな顔で、その手に己の手を重ねた。
「笹宮…?」
「ずっと、苦しかったですか?」
「…え」
「記憶、戻ったんでしょう?知ってますよ」
さぁ、と顔から血の気がひく。
いつから?いつから気づいた?どうして俺は気づかなかった?
ああ、そうだ。笹宮の目があの頃と違って「嘘」を言っていないから。だからわからなかったんだ。
記憶を失う前の俺に対しての態度と違うから。その目がどこまでも優しいから。
記憶を失う前の俺に対して、笹宮は何を言った?
また記憶を失う前の関係に戻ってしまうのか…ーーー
咄嗟にベッドから逃げ出そうとする俺を笹宮の腕が捉える。
縋るように向けられた視線に、足は止まった。
「許してくれないかもしれませんが、言ってもいいですか。
あんたに、愛してるって…」
「嘘…だって…ーー」
「あんたが記憶をなくしてから…戻ってもずっと後悔してた。
どうやって謝ろうって、タイミングばかり考えてーー」
「な、なんで記憶戻ったってわかったの?」
俺の嘘は完璧だったはず。
ちゃんと演技できていたはずなのに。
「記憶がなくなって、あんたはずっと嘘が下手で泣いていたから。
あんたはただ、誰よりも嘘が上手だったんだって気づいたんだ。
気づいてる?玉城さん。記憶をなくす前、玉城さんはけして泣くことはなかったんだよ。俺の言うことばかり聞いて、俺から離れても平気だって、そんな顔してた。」
記憶を失う前の俺は、嘘ばかりついていた。
笹宮の言葉を信じて、愛に溺れて傷つきたくないと。笹宮に嘘ばかりついていた。
そんな笹宮も意地になって、辛く当たったり浮気のようなことを繰り返していた。
俺達は似たもの同士だったんだ。
お互い本心が見えないから、嘘に嘘を重ねて、傷つけあっていた…。
「俺ばかりが好きなんだって、俺あんたを陥れようとしてたのに、気づいたら凄くあんたのこと好きになっていたんだ。
あんたのことを傷つけるのは俺だけでいいって想った。親のことなんて忘れればいいって…。俺に愛してるって言ってほしいと」
愛してる。
言えなかった言葉。言う必要もないと想っていた言葉を、この男はずっと待ち望んでくれていたのだろうか。
愛を諦めた俺の言葉をずっと待っててくれたのだろうか。
「苦しんでいるあんたのこと俺は何も見えてなかった。
俺よりもずっと俺の親のことで傷ついていた。俺の目的は親を誑かした男を見ること。
最初はそれだけだったのに。
どんどん惹かれていったんです。不器用に嘘をつくあんたに。
あんたが事故にあって血まみれで倒れた時、自分のした馬鹿なことを本気で後悔した。あんたが、いなくなったらと思ったら怖くて仕方がなかった。なんでこんなことしたんだろうって」
「笹宮」
「ごめんなさい…。謝って許されることじゃないけど…。
何度責めたっていい。だから、どうか…」
一人で傷つかないでください。
俺はぎゅっと笹宮の背に腕を回した。
記憶を失う前は泣けなかった能面だった俺の瞳から、つぅっと涙がこぼれ落ちた。
なぜだろう、涙が止まらない。
今まで『いけない』と思い込み消した“俺”を肯定してくれた気がした。
他ならぬ、一度俺を傷つけた笹宮によって。
「ねぇ、笹宮。俺も言っていいかな。ずっと秘密にしてたこと」
真実なんて辛いから、嘘をつく。
でも、俺はもう嘘をつけそうにない。
嘘を上手につけるほど、役者でもなかったみたいだ。
でも、それでいい。
俺はもう真実しか彼に伝えたくない。
「俺も、愛してるよ。お前を」
そういえば、笹宮は一瞬大きく目を見開いてへにゃりと情けなく笑いながら俺に囁いた。
「愛してます…」
願わくば、今後俺の記憶は彼で埋め尽くされればいい。
今度は偽りじゃない、真実の愛で。
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