切なさよりも愛情を

槇村焔

文字の大きさ
上 下
11 / 61
さむい、寂しい、会いたい。

11

しおりを挟む
 
ピピピピ…チチチ…。
すずめの陽気な鳴き声を小耳に、意識が覚醒する。
 ごしごしと菜月は寝ぼけ眼をこすりながら、ベッドわきに置いていた目覚ましに手を伸ばした。

「ああ…そんなぁ…」
時計の時刻をみるなり、菜月はがっくりと、落胆の声をあげる。

目の前の時計は8時を指していた。
6時には起きるつもりであったのに、これでは大遅刻である。

(寝ないでおきたままのほうが良かったかな。
でも、俺が寝ないと心配かけちゃうし…。
だから、早起きしようって思ったのに。)

目的の時間に起きられなかったことに、悔しい思いを隠せない。
目覚ましをかけていたはずなのに、offになっていた。


がっかりした気分のまま、リビングへいくと、テーブルには簡単な朝食がおかれており、朝食の隣には一枚のメモが置かれていた。

朝食は、トーストとサラダ、それからウィンナー数本にスクランブルエックとスープがプレート皿に綺麗に盛り付けられていた。

喫茶店の朝メニューにでも出てきそうな朝食に、ぐぅぅ…と菜月のお腹が空腹を訴える。

テーブルに無造作におかれた十センチほどの無地の白い紙に、ボールペンで書かれた少し右肩上がりの字。

"昨日は魘されていたが、大丈夫だったか?
不躾かもしれないが、君の苦しそうな声が聞こえて心配で部屋に入ってしまった。
目覚ましは、止めた犯人は私だ。起こすのは忍びなかったんだ。許せ。
今日も遅くなる。先に食べていてくれ。無理はするな…"とメモには、はしりがきされていた。



 急いで書いたのだろう。
字は、けして綺麗な字ではない。
でも、その心遣いだけで、菜月の胸はいっぱいになった。
メモの文字に自然と、頬が綻んでいく。
(日下さん…、おかしいな。
いやな夢見た日はいつもその日は嫌な気分が消えないのに)

菜月は胸にメモをかき抱いて、メモの主を思い、自分でも無意識のうちに胸を高鳴らせた。




利弥との生活は、まるで、ぬるま湯に入っているようだった。
冷たくもなく、暑すぎることもなく、ずっとつかっていたいくらいの、ちょうどいい温度。ずっとこのままこの場にとどまっていたいくらい、居心地がいい。

この状態になれてしまうのが怖くて、何度やっぱり世話になるのを辞めようか…と思ったことだろう。
やっぱり出ていこう、そう何度も決意するものの、その決意は大体、利弥から与えられる優しさを前に消え去ってしまう。

菜月がまともに動けない間、利弥は甲斐甲斐しく菜月の世話をしてくれた。
でろでろになるくらい、甘やかして優しくしてくれる利弥に、今更出ていきます、なんて到底言えなくて、甘んじて利弥の世話になっていた。





日下利弥くさかとしや
33歳という若さでありながら、会社を一から起こした、実業家。
怪我をしている菜月は、まともに動けないため、昼間は利弥に借りたパソコンで時間を潰したり、簡単な家事を行っている。
試しにと、利弥のことをネットで調べてみると、ネットでも芸能人さながら検索でhitした。
界隈では、有名人のようだ。


社長といっても大きいものから小さいものまであるが、利弥が経営している会社は大きく有名な部類に入る。
利弥はお飾り社長で、仲間がやりたがらなかったから、責任を押しつけられただけだと笑っていたが。
でも、それは謙遜で、利弥はお飾りの社長ではないと菜月は感じている。
でなければ、ここまで会社は大きくなるはずがないだろうから。


ネットではわからない、利弥のことも一緒に住んでいて知ることができた。
気むずかしそうに見えるものの、真面目、非常に思慮深く、時折子供のように揶揄ったりする。
知識も豊富で、でもそれをはなにかけることもない。

菜月が疑問に思ったことも、的確に答えてくれるし、なにもできない菜月を家においてくれる、包容力もある。
菜月が生活に困らないように、気を使ってくれて、なおかつ、自分のことを厳かにしない。


長身の利弥は、顔も、テレビに出てくる俳優のように整っているし、ふとした瞬間に菜月に見せる笑顔は誰よりもかっこよかった。
凄味がある瞳は初対面だと、臆してしまうかもしれないが、ワイルドで男らしい。

まだ一緒にいて数日であるけれど、菜月は利弥の長所をいくつもいえる自信があった。


菜月と利弥は13歳ほど差があるのだが、どれだけ頑張っても利弥のように落ち着きのある人間にはなれない…と思う。
そもそも、中卒ですぐ働きにでた菜月と、会社社長の利弥を比べられるレベルではないとも菜月は思っているのだが。

(俺と日下さんは…、あの事故がなければ、会うこともなかった運命なんだから…)

けして、交わることのないはずだった利弥と菜月の人生。
そう、あの“事故”さえなければ、今頃はこの空間にいることもなかった。
ただ淡々とした毎日を送っていただろう。

なにも感じず。
迷い子のようにこれからなにをしたらいいのか、人生に迷いを感じていただろう。



「日下さん…」

そっと顔を伏せ、菜月はギブスで固定された動かない右手を見つめた。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

薬師は語る、その・・・

香野ジャスミン
BL
微かに香る薬草の匂い、息が乱れ、体の奥が熱くなる。人は死が近づくとこのようになるのだと、頭のどこかで理解しそのまま、身体の力は抜け、もう、なにもできなくなっていました。 目を閉じ、かすかに聞こえる兄の声、母の声、 そして多くの民の怒号。 最後に映るものが美しいものであったなら、最後に聞こえるものが、心を動かす音ならば・・・ 私の人生は幸せだったのかもしれません。※「ムーンライトノベルズ」で公開中

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

白い部屋で愛を囁いて

氷魚彰人
BL
幼馴染でありお腹の子の父親であるαの雪路に「赤ちゃんができた」と告げるが、不機嫌に「誰の子だ」と問われ、ショックのあまりもう一人の幼馴染の名前を出し嘘を吐いた葵だったが……。 シリアスな内容です。Hはないのでお求めの方、すみません。 ※某BL小説投稿サイトのオメガバースコンテストにて入賞した作品です。

あなたが好きでした

オゾン層
BL
 私はあなたが好きでした。  ずっとずっと前から、あなたのことをお慕いしておりました。  これからもずっと、このままだと、その時の私は信じて止まなかったのです。

俺の彼氏は俺の親友の事が好きらしい

15
BL
「だから、もういいよ」 俺とお前の約束。

運命の番はいないと診断されたのに、なんですかこの状況は!?

わさび
BL
運命の番はいないはずだった。 なのに、なんでこんなことに...!?

さよならの合図は、

15
BL
君の声。

貴方の事を心から愛していました。ありがとう。

天海みつき
BL
 穏やかな晴天のある日の事。僕は最愛の番の後宮で、ぼんやりと紅茶を手に己の生きざまを振り返っていた。ゆったり流れるその時を楽しんだ僕は、そのままカップを傾け、紅茶を喉へと流し込んだ。  ――混じり込んだ××と共に。  オメガバースの世界観です。運命の番でありながら、仮想敵国の王子同士に生まれた二人が辿る数奇な運命。勢いで書いたら真っ暗に。ピリリと主張する苦さをアクセントにどうぞ。  追記。本編完結済み。後程「彼」視点を追加投稿する……かも?

処理中です...