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9章
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しおりを挟むそれから、狼は狐を苛むのを辞めました。
代わりに狐から、沢山のことを教えて貰いました。
とても頭がいい狼でしたが、狐が狼に教えてくれる知識はそれまで知りもしなかったものばかりでした。
春のポカポカした日には二匹で昼寝をし、夏の暑い日には、二人で木陰で涼みました。
秋の日には彩りゆく紅葉を肩を寄せ合ってみて、冬の寒い日にはぴったりと身を寄せあいました。
一人でいれば億劫だったことも、二人でいれば楽しくて、また驚きの連続でした。
「狐、お前はとっても暖かいな」
「そうですか…」
「ああ、とても暖かい」
狼は毎夜、まるで宝物のように大事に狐を抱きしめます。
狐を抱きしめると決まって心がポカポカするのです。また、狐がいなくなればその心は決まって冷たくなり、狐の姿を探すようになりました。
心がポカポカするなんて、一人ではなかった変化に狼は首を傾げました。
それを狐にいえば、狐はゆるりと口を緩めて、
「本当に大事なものはきっと目に見えなくて、でも大切なモノできっと心がポカポカするものかもしれませんね」と優しく狼に言いました。
それまで狼は知らなかったのですが、どうやらずっと狼は寂しかったようでした。
ずっとずっと他の動物たちから恐れられ、怖がられ、時に殺されかけて、誰も信じられず心は冷たくなっていました。
だから、誰に泣かれたところで、心は動くことなくまた冷酷でいられたのです。
誰に何をいわれようと、凍った心には傷一つつかなかったのです。
狐が狼が可哀想だといった意味も、少しはわかりました。狼は、この温かな気持ちをずっと知らずに生きてきたのです。
この温かで幸せを感じる感情を、ずっと狼は知らなかったので、狐は狼を可哀想だといったのです。
心が冷たく凍り辛くなると、その感情は寂しいのだと狼は学びました。
狐といて、狼は初めて他人のぬくもりを知りました。そして、寂しさもしりました。
狂おしいほどの愛しさもしりました。
狐と知り合い、初めて生を受けたように狼の冷たく凍った心は溶け、きちんと動くようになったのです。
それまで、狼は楽しい感情はあれど、幸せだなと思ったことは1度もありませんでした。
けれど、狐といて狐と笑い合い、狼は初めて幸せだなと思ったのです。
狼と知り合い、凍っていた心臓が溶け、ようやく動き出したかのようでした。
華を見て綺麗だなと穏やかな気持ちで思えるのも、それまでになかったことでした。
狼は狐と一緒にいて、それまで知らなかった世界に新たに生まれた気がしました。
「狐には、怖いものはないのか?」
「ありますよ…。私にだって怖いものが。たくさんたくさん、あります」
「たくさん?でも、俺は怖がらなかったじゃないか」
「だって、貴方は怖くありませんもん。
私が怖いものはもっと〝別〟のものですよ。
それより、狼さんこそ、ないのですか?貴方は確かに1番強い。でも怖いものの1つや2つ、あるのではないですか?」
「ない…。
だって俺はこの森で1番強いのだから」
それは、狼がもう何度もついた嘘のひとつでした。
ずっと自分が1番の狼にも、怖いものができました。怖くて怖くてたまらないものが。
でも、それは口にすることはなく、狼は嘘を続けました。
「なにがあっても、俺は動じない。怖いものなどない」
狐はその言葉に少しだけ瞳を揺らし、「そうですか…」と小さく呟きました。
狼がついた嘘を、狐は気づかないようでした。
「ねぇ、狼さん。私は貴方を好きですよ。貴方を愛しております」
ある日、狐は狼に愛の言葉を送ってくれました。しかし、狼はその言葉を受け入れることができず、拒絶しました。
狼も狐を愛しておりました。けれど、狐も自分を愛してくれるとは到底思えなかったのです。
狼は狐を傷つけてばかりいました。
出会った時などは、狐の身体に沢山牙と爪を立てて殺しかけました。
狐の同胞も沢山沢山殺したことがあります。
なので、恨みこそあれば、愛されることなどけしてありはしないと、狐の言葉を受け入れることができなかったのです。
自分が愛されることなど、ありはしないとその言葉を拒絶しました。
「俺はお前を愛してない」
だから、決まって狐の愛の告白に、狼はそう返すのでした。また、狐もその返事に「存じております」と少し悲しげにそう返すのでした。
二人の別れは突然でした。
狼が獲物を狩りに少し狐の傍から離れていたのですが、戻った時にはいつもの笑顔はなく狐は真っ赤な血を流し地面に倒れておりました。
急いで狼がかけよると、狐の体温は既にほとんどなくなっており、狐はうつろな目をしておりました。
狼が好きな蒼い瞳は濁り、その色は今にも消えてしまいそうでした。
それでも、狼の存在がわかると、息もたえだえ、「狼さん」と口を開きました。
「ごめんなさい…。私は貴方に大きな嘘をついてました…。ごめんなさい…」
震える手で、狼は狐を抱きます。
狐は狼の顔を見つめながら言葉を続けます。
「本当は…、貴方に沢山謝罪しなければなりません。寂しがり屋なあなたに…私は大きな大きな嘘をつきました…」
「うそ…?」
狼が聞き返すと、狐は、小さくはい、と返します。
「本当は…、私の瞳は、もうほとんど見えていないのです…。
貴方が好きな藍色の瞳は、もうほとんど世界を映してはいなかったのです。貴方と出会った時、貴方は自分を怖がらないのかと聞きましたね。
怖くなどありませんでした。だって、見えなかったのです…貴方の姿が、見えなかったのです。
恐ろしいはずの狼の姿が見えなかったから、私は貴方を怖がらずにいられました。だから、別に私が特別というわけではないのです。
もし見えていたら、私は愚かにも他の同胞と同じように寂しがり屋の貴方を怖がっていたかもしれません」
「ずっと、見えなかった…」
「はい…。
私は同胞に裏切られ、この瞳の色を奪われました。世界は途端真っ暗になって、私は真っ暗の世界に1人取り残されたようでした…。
その暗闇が怖くて、辛くて、寂しくて、泣き出したい気持ちのまま生きてきました。
たった一人暗闇に落とされ、周りには誰もいず、まるで、死んでしまったかのようでした。
手負いの獣と誰が一緒にいるでしょう?私が目が見えないとしると、周りは厄介者扱いしました。
だって、傷を負ったものなど、狙われるだけでしたから…」
そういうと、ごほごほっと数回狐は咳をし、口からは血を吐きだしました。
狼はガタガタと震えながら、狐を抱きしめて、傷を舐めます。ですが、ちっとも血は止まってはくれません。
「狼さん…」
「もう、喋るな…もう…」
「いいえ、お願いだから聞いて下さい。これが、最後のお願いです」
最期なんて聞きたくありませんでした。
なので、狼はぶんぶんと首を振りました。
それでも狐は息も絶え絶え言葉を続けます。
「私の絶望は仲間に見捨てられたこと。そして世界に色がなくなったことでした。
そんな暗闇の世界にいた私は貴方と出会いました。皆に恐れられる、この森で一番恐ろしい狼さん、貴方と。
正直、貴方と出会った時私は殺されてもいいとすら、思ったのです。
どうせ、この世界は真っ黒で視界がほとんどきかない私では、じきに他の動物の餌食になると思っていましたから。
だから貴方に牙を向けられた時も、これでいいとすら思ったのです。私は世界に絶望していたのです。
だから、怖いとは思いませんでした…。
貴方を恐ろしいとも思いませんでした。
でも…」
そっと彷徨わせるように、狐は腕をあげて、狼の頬に添わせます。狼はその手に、己の手を重ねました
「今は、怖くてたまりません…。貴方をおいてしまうことが…、私は怖くてたまらないのです…」
「狐…」
「この世界に色を失ってからは、何を願うこともありませんでした。
ただ死んでいくだけだと思っていました。
でも、貴方に会って、私の世界は色づいたのです。
暗闇のたった一人の世界で、貴方だけが私の傍にいてくれたのです。
ただ一人、貴方だけが…、私の世界に色をつけてくれました…狼さん。貴方は私の光でした。
暗闇の中にいた私のただ一人の光だったのです。
叶うことなら、この手の温もりだけじゃなく貴方の手を知りたかった。貴方の唇の温度だけじゃなく、貴方の唇の色を知りたかった…
叶うことなら…私は…最後に一目貴方をこの瞳に映したかった」
「映せばいい。これから、山ほど。ずっと一緒に居よう。もしかしたら、いつか見えるようになるかもしれない…」
傷ついたものが急に治るなんて、そんなことはあり得ません。狼もそれは知っています。
傷つけたものは、簡単には治らない事を。
それでも言わずにはいられませんでした。
狼は狐の手を握り閉めながら、じわじわと瞳にこみ上げる熱いものに気づきました。
「狐…おい、狐…」
「狼さん、私は貴方に大きな嘘をついていました。
でも、貴方を想う気持ちは嘘をついていた私の嘘偽りのない真でした…」
おおかみさん、大好きですよ。
そういって、そっと、狐は瞳を閉じました。
狐の手が、ふと力がなくなり狼の頬から離れました。
ポタリ、と狐の綺麗な顔に一粒雫が落ちました。狼の顔からは、一筋の涙が毀れておりました。
狼は泣きました。
初めて初めて泣きました。
初めて、誰かの為に泣きました。
悲しくて、辛くて、まるでどうしようもない事柄に、神様に祈るように泣きました。
たくさんたくさん、泣きました。
涙が枯れるまで、泣きました。
声が枯れ喉から血が流れても泣きました。
それでも、狐は戻ってきません。
狼は延々と泣きました。
涙腺が壊れてしまったように、ずっとずっと泣きました。
「愛してる…愛してる…、お前を…お前を愛してるんだ…。ほんとは…ほんとは、誰よりも、誰よりも…」
冷たい躯は動きません。
狼が殺した沢山の動物の様に、もうけして動くことはありませんでした。
狼がなによりもこわかったこと。
それは唯一、孤独だった狼の傍にいてくれた狐がいなくなることでした。
それがなにも怖くなかった狼の唯一怖かったことでした。
「狐…愛してる…から…。愛しているから…、お願いだから…」
何度泣いても、何度ほんとうの言葉を言い募っても、もう、狐は遠いところへいってしまったのです。
狼の手の届かない場所へ。
狐は再び目をあけることはありませんでした。
もう二度と、愛の言葉を紡ぐことはありませんでした。
幾日かがたって、狼は狐を土に埋めました。
狼は狐をうめた土のうえに、そっと身を丸めました。
たくさん、たくさん、泣きました。
たくさん、たくさん、狼は悔やみました。
それでも、狼の中に最後に残った感情は狐に対する、感謝の気持ちでした。
たくさんの、ありがとうでした。
ねぇ、仁さん。
僕も狐の様に嘘つきだったらどうする?
自分の為だけに仁さんの傍にいるのなら。
そして、狐のように突然いなくなったら。
仁さんは狼の様に、泣いてくれるかな?
それとも、怒っちゃうのかな?
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