槇村焔

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8章

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「まりん…」
「…仁…」

記憶にある面影より少しだけ変わった彼女が、俺の姿を見つめるなり、目を丸めた。
アーモンド形の瞳が驚きに見開いている。
きっと、俺も同じような表情を彼女に返しているだろう。
なんの前触れもない再会にお互いに驚いたようで、しばし俺たちは無言でお互いの顔を見つめあった。


まりん。
まるで、熱病のように浮かされ好きだった彼女。
愛をこい、何度となく身体を重ねあったことのある、元恋人。

 少し前までは誰よりも大切で、結婚すらも考えていたのに一方的に別れを告げられた恋人。
そんな彼女との久しぶりの再会にまず真っ先に俺を襲った感情は驚きだった。

合わなかったのはほんの1年ほど。
付き合った月日よりも短い時間。
そんな短い時間のはずなのに、俺の思い出の彼女と今目の前にいる彼女とでは、若干の誤差があるようだった。
同じ彼女であるはずなのに…。自分の中にある、記憶のままではなかった。


 彼女の綺麗な顔立ちはそのままだった。
でも、俺は彼女の姿を見るなり、あのころとは違うと瞬時に思ってしまった。



「久しぶり…ね…」

言葉を発したのはまりんからだった。

「あぁ…」
「元気だった…?」
「あぁ…」
「…そう、よかったわ…」

彼女は口端をうっすらとあげ、笑った。
緩い弧を描いた唇。
ふんわりとした今まで見たことない柔らかな笑みに、一瞬反応が遅れた。

本当に目の前にいるのは、自分が知る彼女なのか…。
こんな穏やかに笑う彼女は付き合った時は一度も見たことがなかった。

記憶の中の彼女は、自分が可愛いと理解した上でいつも愛らしく微笑んでいたから。

自分の可愛さを知っていて、それを理解したうえで一番可愛い笑みを故意的に浮かべていたから。
 こんなふんわりとした柔らかな落ち着いた笑顔を見るのは初めてだった。
付き合ったころにも見れなかった穏やかな笑みにまじまじと凝視してしまう。


「仁…?」
「す、すまない…。じろじろ見て…」

別れてから1年ほどしかたっていない。
たった1年だ。
記憶の彼女は誰よりも美しく、誰よりも愛らしく…。
毎日高いハイヒールを履いて、化粧をして、男の元をひらひらと舞い遊ぶ蝶のようだった。
誰のものになる訳でもなく。
彼女は男から男へと舞い遊び、戯れに俺を繋ぎ止めていた。

しかし、今の彼女はあの頃のような綺麗な蝶ではなくなったように見える。
彼女のお気に入りだった自慢の亜麻色の巻き毛は、昔に比べ落ち着いた色をしていた。

隈も心なしかうっすら出ており、顔に何よりも気を使っていた彼女らしくなかった。

子供ができたといっていたから、やはり子育てで忙しいのだろうか。

少女のようであったまりんだったが、いまは化粧も控えめで靴もヒールの靴じゃなく動きやすそうな黒のスニーカーだった。

服装も付き合ったころの様に派手ではないし、よくよくみてみればあれだけこっていたネイルもしていなかった。
少女から大人になったかのような変わりように、少し驚いた。


「買い物帰りか…」
「ええ、そうよ…」
「そうか…」

買い物袋からは、入りきらなかった長ネギが出ていた。
料理、するんだろうか。
彼女が…?


彼女と付き合っていた頃の食事は大体外食であった。
こうして彼女が食材を買ってくるということは、俺の記憶の中ではほとんどなかった。
彼女は大体がコンビニ弁当か惣菜、もしくは外食ですませていた。
彼女自身もそんなに料理は得意ではないようで、好んで作ったことはなかった。

だから、今目の前で買い物袋を提げている彼女が本当に俺が知る彼女なのだろうか…と、俺は何度も彼女を凝視してしまった。

結婚して落ち着いたのだろうか。
俺が後輩に変わったように見えると言われたように、まりんも俺と別れ変わったのだろうか。


離れていた年月は、彼女を大人にさせたのか。
彼女も、俺と同じようにパチパチと目を瞬かせながらどこか観察するように俺を見つめていた。

互いに、探る様な視線を交し合う。


「なんか…」
「ん…」
「あわない間に少し変わった…?本当に仁って…ちょっとびっくりしちゃった」
「君もね…。なんか変わったよ…」

離れていた月日は、そんなに長いものではないのに。
彼女も俺じゃない、〝誰か〟によって変わったのだろうか。
俺が駿と生活し変わったように。
まりんも誰かと過ごすことで、俺の記憶の中の彼女と変わってしまったのだろうか。

 
有耶無耶のままに別れた彼女。
クリスマスイブの日まで、ずっと心は宙ぶらりんな状態で駿に何を言われても心の中ではずっと姿のない彼女を思い続けていた。
クリスマスイブの日は、わき目もふらず彼女の幻影を追いかけていた。
それほどまでに好きだった彼女なのに。

久しぶりにあった彼女を見ても、心揺れる事もときめくことはなかった。沸き立つような感情もない。
優しく微笑むまりんを見てもイブの日の様に逃げられないようにと衝動的行動に移ることもなかった。
それに安堵した。


好きじゃない。もう、好きじゃない。
まりんを前にしても、ちゃんとそう思えたから。

ようやく、駿にもきちんと自分の気持ちを伝えてもいい気がした。

俺にとってまりんは過去の人。

いま、心を揺るがすのは、ただ一人。

もう、俺の心を揺るがすのはお前しかいない…と。
駿を抱きしめて、思いを告げてもいい気がした。

きっと駿がいなければ、俺はみっともなく今も彼女を想ったままだったと思う。いない彼女の面影を憎んで、彼女を忘れられずあの部屋でぐだぐだと戻らない時を悔いていた気がする。

「仕事帰り?」
「ああ。君も…こんな時間にどうした…?」

呑みにいった帰りなので、時刻はあと数時間で終電がなくなる時間帯だった。

今いる場所は住宅地で、電灯が多くつけられており明るいものの、赤ん坊を連れながら、こんな真夜中に若い女が1人歩いているなんて不自然であった。

問えば彼女は、「仕事をしていたの…」と返事を返した。


「仕事…?こんな遅くまで…?」
「…そうよ…。」
「こんな夜中まで…?」
「ええ。この子を育てないといけないから…」
「この子…?子供か…。
でも君が仕事なんてしなくても…旦那さんが…」

そう口にすると、まりんは悲しげに目を伏せた。

「頼る人、いないから…」
「まりん?」
「この子、可愛いでしょ?
いま、一人で育てているの。私一人でよ?信じられる…?」

どこか無理したような笑顔で、彼女は洋画などで外人がよくやるリアクションのように両肩を大げさにあげてみせた。

「君が…?」
甘えてばかりの彼女が、子供をひとりで育てているという言葉に、失礼だが驚いてしまい、聞き返す。

「ええ。そう…。仁には我儘ばかりいっていたこの私が。なにもできなかった私がよ…」
凄いでしょ…、と誇らしく笑うから、釣られて俺も笑った。
不思議だ。こうして彼女と笑い合えるのが。
彼女に出会えば、もっと激しい感情が自分を襲うとそう思っていたのに。


「凄いな…」
「ふふ…」

その笑顔をみても、ときめくことはない。

まるで仲のいい妹でも見るようだった。


俺の中でとっくに過去の恋愛になっていたんだろう。
だから、別れたときあんなに荒れたやさぐれた気持ちだったのに、今は穏やかに話ができた。
もしかしたら、彼女が変わったと思ったのは、俺の中で彼女への恋心がなくなっていたから、それまでの彼女と違って見えたのかもしれない。もう彼女を思う気持ちはないので昔の様に視線を奪われることもないだろう。
俺の恋は、もう完全に終わっていたんだ。
見ないふりをしていただけで。

「突然だったけど…、久しぶりに顔見れて嬉しかったわ…」

じゃぁ…、と彼女は一声かけて、また緩い坂道をベビーカーを押し登る。
しかし歩き出した途端、よろり…っと体制を崩した。
咄嗟に、ベビーカーを押す彼女の手に自分の手を重ね、彼女の身体を支えた。


「仁…?」
「大丈夫か…。さっきから、ふらついていたから…」
「大丈夫…」
ちょっと疲れているのかも…、と、まりんは緩く微笑む。

「…送るよ…危ないから…。荷物も重いだろ。送ったらすぐ帰るから…」
「いいの…?」
「送るだけならな…」
「ありがとう…」

まりんの下げていた荷物と、ベビーカーを押す。
男の俺の手ではそれほど苦ではなかったが、まりんの細腕だったら大変だっただろう…とそんなどうでもいいことを思いながら歩を進めた。

どうして、そこで彼女と別れなかったんだろう。そこで別れたら、それから悩むことはなかったのに。

****

****

大切なモノは自分でも気づかないうちにそばにある。でも、その大切なモノに気付かないで、傷つけて壊れてしまったあと、後悔することもある。


『ねぇ、仁さん。
嘘つき狐と嘘つき狼って話しってる?
知らない?じゃあ、教えてあげる』

知らない、といった首を振った俺に、駿は少し得意げな顔をして語り始めた。

嘘つきな狼と、狐の話。
その話に出てくる狐と狼は、まるで俺たちのようだったのに…どうして、俺は話を聞いていたのに〝これから〟を案じる事ができなかったのだろうか。

『ねぇ、仁さん。仁さんは狼の様に泣いてくれるかな…。それとも、怒っちゃうのかな…』




彼女と夜道を歩き、連れられた先は駅から少し離れた住宅地だった。
住宅地の中に紛れたマンションは、近くに公園がある、静かなとおりだった。
車は一台もとおっておらず、人影も俺たち以外にいない。

 マンションは外装は茶色の煉瓦の作りで、外観は汚れひとつないたてたばかりの新築のようなマンションだった。
彼女の部屋は、そんなマンションの4階にあった。オートロックを解いてもらい、マンションの中へと通された。


「仁…あの…」
伏し目がちに彼女は自分の名前が書かれたプレートの前で立ち止まった。
俯き少し悲しげなその表情は、心細そうでいて頼りなく、ずっと見ているとその気はないのに守ってやりたくなるような、可笑しな気分になってしまいそうだった。
変わったように思えたが、彼女の人を無意識に不思議な魅力はそのままだったらしい。


「じゃ…俺はこれで…」
彼女の色香に充てられる前に急いで帰ろうと身体を反転させれば…

「待って…」
まりんに腕をとられ、呼び止められた。

「話たいことがあるの…」
「話…?」
「うちに…こない?」

言われた言葉を理解するのに、数秒かかった。

別れる前、彼女がよく家へと招くときに同じように誘われた。
うちこない?そういって、彼女は俺の手をひいて妖艶な笑みで俺を誘った。
あの時と同じ言葉で同じようにいった彼女に、言葉が一瞬奪われた。

「ねぇ…駄目…」
「旦那さんがいるだろ…。
こんな夜にいきなり尋ねたら気分を害するよ」
「今日はいないの…」

だから…、と言って彼女は俺の掌に己の手を重ね、ことり、と俺の胸に頭を預けた。
誘惑するようなその仕草に、どきり、と胸が跳ねる。


「いくらなんでもいけないよ」
「そう…よね…」

しゅん…と効果音がつきそうなくらい、彼女は落ち込み俯く。
だがまたすぐに

「じゃあ、外で少し話さない?」と顔をあげて、食い下がった。

「外で…?今から」
「ええ…」
「無理だよ…。
こんな夜遅く…。君も赤ん坊がいるだろう?」
「そう…よね…」
そういって、彼女は俺の手に重ねた手を離し俺の身体から離れた。

その顔があまりにも悩んでいるようで…


「明日…、外で会うんなら…」
ついそう言葉を続けてしまった。
もう会わないで。
そう駿と約束していたのに。

「いいの…?」
彼女の伏し目がちだった瞳が、少しだけ期待に輝いた。

「ああ…」
「ありがとう…」

彼女が優しく笑うから、やっぱり断ろうと思った言葉は、口から紡がれることはなかった。

指キリまでした約束は、あっさり破ることになってしまった。


『嘘をつき続けた狼の真の言葉は、はたして、狐には届いたのでしょうか。狼は…』

心の中には、確かに駿の事を考えていたのに、彼女を優先した俺は、多分とっても卑怯な男なんだろう。




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