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07.
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慌ただしく家に戻った華子は扉を厳重に閉め、暫くドアに凭れたまま蹲った。
それからふらふらと部屋に入り落ち着きなく立ったり座ったりしているところ、急に鳴り出したスマホの着信音に飛び上がって驚いた。
「いった! もしもし、何お母さん!」
《……ちょっと。何をばたばたしてるのよ、落ち着きのない子ねえ》
「……」
飛び上がった拍子にローテーブルに足をぶつけ、倒れるようにスマホを掴んで電話に出たのだ。……電話の向こうではそんな音まで拾ったらしい。
「別に……少しつまづいただけ。何でもないよ」
《あら、あなた風邪?》
思わずひっと息を呑む。
「う、うん。ちょっと喉がおかしくて風邪薬を探してバタバタしてたんだよねー? で、何か用?」
《えー、ちょっと大丈夫なの? 調子が悪いなら遠慮なく言いなさいっていつも言ってるのに……》
電話口から母がグチグチと心配を口にする。
実家まで電車で一時間強。
それでも通勤に時間が掛かるからと、思い切って一人暮らしを始めたのが三年前。
すっかり一人暮らしには慣れたものの、気軽に帰れる距離なので、連休などはちょくちょく休みにいっていたのだが……
「大袈裟! ちょっと疲れてるだけだから。今日明日寝てれば治るから!」
《……そう、やっぱり週末に予定が無いのね》
「……」
そんな話をされるのが嫌なので、最近は行っていない。勿論特段の用が無い限り、両親も来たりしない。
むすっと顔を顰める音でも聞こえたのか、電話の向こうから母の溜息が漏れた。
《あのね、お見合いの話があるの》
「へっ」
《……華子、どんなに娘が可愛くてもお母さんたちは親で、あんたたちより先に死ぬの。その間あんたと一緒にいてくれる人がいたら、って思うのは親の常なんだから……だからね》
華子は額に手を当てて項垂れた。突然すぎる。
《一度家に帰ってきなさい》
「分かったよ……」
でもそれ以上、何も言えない。
《あんた今年もう三十歳になるんだから……》
そして極め付けにいつもの一言に、華子は無言で通話を切った。
(分かってるってば……)
華子だって自分の年齢はちゃんと分かっている。
もう恋だの愛だのではなくて、現実を見なければならないのだという事も。
華子は昨日感じた甘酸っぱい喜びに蓋をした。
(「女の子」、だなんて言われて浮かれちゃったけど、これが現実)
ついでに先程まで身に起きた事故から目を逸らし、記憶に鍵をかける。
(何で、なんて考えちゃ駄目だ。あんなの何となく、その場の流れで、なんだから……)
溜息を飲み込んで、華子は勢いよくベッドに倒れ込んだ。
◇
そして週明け月曜日。
華子はビクビクと出社した。
……「何もありませんでしたよ」という、平然とした態度は取れそうもない。
しかしそんな華子の心情を他所に、翔悟はいつもと変わらず爽やかに挨拶を返してきやがった。
「おはようございます」
「……おはよう廉堂君」
ちょっとだけ悔しくなる。とはいえ。
(良かった……取り敢えず言った事は守ってくれるみたい)
土曜日の朝。帰り際に再三、仕事中は「絶対に」親密な雰囲気は出さないで欲しいと言い募っておいて本当に良かった。
『嫌です』
そしてそう口を尖らせる翔悟の説得は大変だったが……
『社内恋愛は自由だって聞きましたよ』
誰だそんな話を研修に盛り込んだのは。
片手で頭を押さえながら、華子は項垂れた。
もう片方の掌を翔悟に向け、一つ一つ噛み砕くように言葉を紡ぐ。
『確かにそうだけどね』
いい事? と腕を組み首を傾げる。
『仮にも指導関係にある私たちが、期間中に──だなんて、節度が無いでしょう?』
翔悟は華子の真似をして、腕を組み首を捻ってみせた。
『別に就業時間中じゃないんだけどなー……はい。分かりました、睨まないで下さい。じゃあ、あと一週間内緒にすればいいんですね?』
うぐっと喉が鳴るのを何とか堪え、華子は渋々頷いた。
『うん、そうね。それならまあ……大丈夫かな』
あと一週間もあれば、冷静になるだろう。
何ならもう後悔でもし始めているかもしれない。
(……何たって隙も可愛げもない三十路女なんだから)
そう自嘲気味に溜息を漏らすも、綺麗に取り繕われた翔悟の横顔からは、その心情は窺い知れない。
「えー、やだ廉堂君。何か色っぽい。週末に彼女できちゃったとか?」
吹きそうになった。
「ねえ仁科さん?」
いつの間にやら華子の隣に立ち、難しい顔で結芽が唸る。
「そ、そう?」
「どうも恋人関係を探ろうとすると、濁されるんですよねえ。なーんか好きな人はいるっぽいんですけど……」
「え、……そうなの?」
思わず口にした台詞に、自分でも驚く。
華子のそんな様子を気にも留めず、結芽はむぅと唇を尖らせている。
「いよいよ調査を進めないと。あと一週間しかないし……」
結芽の呟きを他所に、華子は俯いた。
(好きな人、いるんだ……)
そんなものかと思う反面。不思議と何かが胸に滲む。
「仁科さんも、何かありました?」
今度こそ吹いた。咳で誤魔化したが。
「ああ、私はね。実は親にお見合いを勧められててね……」
「ふうん?」
慌てて母との会話を呼び起こしその場を取り繕う。華子に興味は無いらしい結芽は再び翔悟に視線を戻してしまった。
(好きな人、か……)
もやもやと渦巻く気持ちを振り払い、華子は始業の準備を始めた。
それからふらふらと部屋に入り落ち着きなく立ったり座ったりしているところ、急に鳴り出したスマホの着信音に飛び上がって驚いた。
「いった! もしもし、何お母さん!」
《……ちょっと。何をばたばたしてるのよ、落ち着きのない子ねえ》
「……」
飛び上がった拍子にローテーブルに足をぶつけ、倒れるようにスマホを掴んで電話に出たのだ。……電話の向こうではそんな音まで拾ったらしい。
「別に……少しつまづいただけ。何でもないよ」
《あら、あなた風邪?》
思わずひっと息を呑む。
「う、うん。ちょっと喉がおかしくて風邪薬を探してバタバタしてたんだよねー? で、何か用?」
《えー、ちょっと大丈夫なの? 調子が悪いなら遠慮なく言いなさいっていつも言ってるのに……》
電話口から母がグチグチと心配を口にする。
実家まで電車で一時間強。
それでも通勤に時間が掛かるからと、思い切って一人暮らしを始めたのが三年前。
すっかり一人暮らしには慣れたものの、気軽に帰れる距離なので、連休などはちょくちょく休みにいっていたのだが……
「大袈裟! ちょっと疲れてるだけだから。今日明日寝てれば治るから!」
《……そう、やっぱり週末に予定が無いのね》
「……」
そんな話をされるのが嫌なので、最近は行っていない。勿論特段の用が無い限り、両親も来たりしない。
むすっと顔を顰める音でも聞こえたのか、電話の向こうから母の溜息が漏れた。
《あのね、お見合いの話があるの》
「へっ」
《……華子、どんなに娘が可愛くてもお母さんたちは親で、あんたたちより先に死ぬの。その間あんたと一緒にいてくれる人がいたら、って思うのは親の常なんだから……だからね》
華子は額に手を当てて項垂れた。突然すぎる。
《一度家に帰ってきなさい》
「分かったよ……」
でもそれ以上、何も言えない。
《あんた今年もう三十歳になるんだから……》
そして極め付けにいつもの一言に、華子は無言で通話を切った。
(分かってるってば……)
華子だって自分の年齢はちゃんと分かっている。
もう恋だの愛だのではなくて、現実を見なければならないのだという事も。
華子は昨日感じた甘酸っぱい喜びに蓋をした。
(「女の子」、だなんて言われて浮かれちゃったけど、これが現実)
ついでに先程まで身に起きた事故から目を逸らし、記憶に鍵をかける。
(何で、なんて考えちゃ駄目だ。あんなの何となく、その場の流れで、なんだから……)
溜息を飲み込んで、華子は勢いよくベッドに倒れ込んだ。
◇
そして週明け月曜日。
華子はビクビクと出社した。
……「何もありませんでしたよ」という、平然とした態度は取れそうもない。
しかしそんな華子の心情を他所に、翔悟はいつもと変わらず爽やかに挨拶を返してきやがった。
「おはようございます」
「……おはよう廉堂君」
ちょっとだけ悔しくなる。とはいえ。
(良かった……取り敢えず言った事は守ってくれるみたい)
土曜日の朝。帰り際に再三、仕事中は「絶対に」親密な雰囲気は出さないで欲しいと言い募っておいて本当に良かった。
『嫌です』
そしてそう口を尖らせる翔悟の説得は大変だったが……
『社内恋愛は自由だって聞きましたよ』
誰だそんな話を研修に盛り込んだのは。
片手で頭を押さえながら、華子は項垂れた。
もう片方の掌を翔悟に向け、一つ一つ噛み砕くように言葉を紡ぐ。
『確かにそうだけどね』
いい事? と腕を組み首を傾げる。
『仮にも指導関係にある私たちが、期間中に──だなんて、節度が無いでしょう?』
翔悟は華子の真似をして、腕を組み首を捻ってみせた。
『別に就業時間中じゃないんだけどなー……はい。分かりました、睨まないで下さい。じゃあ、あと一週間内緒にすればいいんですね?』
うぐっと喉が鳴るのを何とか堪え、華子は渋々頷いた。
『うん、そうね。それならまあ……大丈夫かな』
あと一週間もあれば、冷静になるだろう。
何ならもう後悔でもし始めているかもしれない。
(……何たって隙も可愛げもない三十路女なんだから)
そう自嘲気味に溜息を漏らすも、綺麗に取り繕われた翔悟の横顔からは、その心情は窺い知れない。
「えー、やだ廉堂君。何か色っぽい。週末に彼女できちゃったとか?」
吹きそうになった。
「ねえ仁科さん?」
いつの間にやら華子の隣に立ち、難しい顔で結芽が唸る。
「そ、そう?」
「どうも恋人関係を探ろうとすると、濁されるんですよねえ。なーんか好きな人はいるっぽいんですけど……」
「え、……そうなの?」
思わず口にした台詞に、自分でも驚く。
華子のそんな様子を気にも留めず、結芽はむぅと唇を尖らせている。
「いよいよ調査を進めないと。あと一週間しかないし……」
結芽の呟きを他所に、華子は俯いた。
(好きな人、いるんだ……)
そんなものかと思う反面。不思議と何かが胸に滲む。
「仁科さんも、何かありました?」
今度こそ吹いた。咳で誤魔化したが。
「ああ、私はね。実は親にお見合いを勧められててね……」
「ふうん?」
慌てて母との会話を呼び起こしその場を取り繕う。華子に興味は無いらしい結芽は再び翔悟に視線を戻してしまった。
(好きな人、か……)
もやもやと渦巻く気持ちを振り払い、華子は始業の準備を始めた。
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