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◆◇第十三章 決断◇◆

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 マインラード王国第二王女は、王太子が国務全般を受け持つことになってからの習慣通り、重臣たちを集めての会議に、席を占めていた。彼女の席は会議室の隅に占められ、いつも通り、彼女はそこに、両手を膝の上に乗せて座っていた。重臣たちが顔をそろえる。彼らがすべて集まったのを見届けるように、王太子が現れた。今や、彼がマインラード王国の第一権力者であった。
「そろったな」
 彼らの顔を一望して、セラフィスは自らも席についた。
「今日は、ラグラール皇国の我が国への干渉についての結論を出したい」
 ばさっと音がして、セラフィスの目の前に書類が広げられた。それを、傍らに立った書記官が読み上げる。
「今のところ、不穏な動きはない。しかし、かの国は策略に長けている。以前起こった魔道師を使った暴動といい、今後どういう手を使ってくるのかは予想はつかん」
「ラグラールの動きは、国王陛下がお倒れになったときから起こっております」
 その中のひとりが、発言を求めた。初老の男だ。
「そして、暴動は殿下が称制をお取りになった直後に起こった。この、いわば不安定な時期を待っていたものと思われます」
「君主がふたりいるような状況は、国にとってよろしくはありません」
「この状況を打破せねば、ラグラールにはつけ入られる一方です」
 別の男が発言をする。
「つまり、どうしろと」
 セラフィスの言葉に、答える者はない。答え兼ねているのか、答えがないのか。クレアは、彼らの顔を見回したが、口を開く者はなかった。
 彼女の視線が、ひとりの男の上に止まった。エクス・ヴィトだ。彼は、こう言う席ではあまり発言することはない。魔道師の頭領とはいっても比較的年若い彼は、会議でも発言を控えている節があった。
 エクス・ヴィトと、視線が合ったような気がした。見たこともない厳しいその瞳に、クレアはわけもなく背筋を震わせた。
「殿下」
 彼が口を開いた。年若い王太子の腹心に、その場のものの視線が集まる。
「殿下が、国王に即位され、国の指導者の統一を図る必要があると思われます」
 ざわめきが走った。
「しかし、陛下はまだご健在でおられる。いくら病床に伏せっておられるとはいえ、そのような冒涜、許されん」
 わめくようにひとりの男が言った。現国王に年若いころから仕えてきた男だ。
「とんでもない、陛下を冒涜することなど考えてはおりません」
 ぴしりとエクス・ヴィトは言った。
「陛下には、ご退位願いましょう。太上王として、後見に当たるという形をとっていただければ、問題はありません」
 セラフィスは、エクス・ヴィトの声に耳を傾けている。それに、ほかの重臣たちも口をつぐんだ。
「セラフィス殿下に、ご即位いただくが、最善だ」
 エクス・ヴィトは椅子にもたれ、腕を組んで目を閉じていた。今までずっと考えてきたことを、ただ口に乗せているだけ、というような流暢な言葉だった。
「しかし、即位には……」
 エクス・ヴィトが、自分の方を見たような気がした。クレアは言葉の続きを待って、ぴんと背筋を伸ばす。
「もちろん、しかるべきところから妃をお選びいただかなくてはいけませんが」
 それは、しきたりだった。王の即位には妃がいることが必要だった。そうでなくては、臣下も、民人も納得はすまい。それが、決まった形だったから。
「事は急を要します、殿下」
 エクス・ヴィトはセラフィスの方を見て言った。
「国のためです。このまま称制を続ければ、ラグラールのみならず、他国の干渉を受ける隙を与えるようなものです。殿下には、早急なご決断を」
「それが、一番いいのだろうな」
 確かめるように言ったセラフィスの声が、わずかに震えているような気がしたのは気のせいだっただろうか。エクス・ヴィトはうなずいた。
「ほかに、名案がおありなのでしたら、そちらに従いますが」
 誰も、何も言わなかった。皆、その考えに心を動かされているように見えた。
「わかった」
 セラフィスは言って、立ち上がった。
「父上にお伺いを立てねばならぬだろう。それに、妃を選ぶとは言っても、今日明日のことにはならない」
「それは、お時間をおかけください。私とて、無理強いはいたしません」
 セラフィスがうなずいて部屋から姿を消したのが、解散の合図となった。席を占めていた者たちは立ち上がる。一番最後まで腰を下ろしていたのは、クレアだった。
「姫さま」
 声をかけられて、はっと我に返る。何か、恐ろしいことを聞いたような気がしていた。
「姫さまも、王女ならおわかりになるでしょう。国のためです。国のためには、犯してはならない罪があることも、自分の思いを遂げられないこともあるということを」
「もちろん、です」
 クレアは立ち上がった。
「もちろんだわ、エクス・ヴィト。なぜそんなことを言うの?」
 エクス・ヴィトの瞳に浮かぶ色がいやだった。それを、見たくなかった。この、不思議な力を持った魔道師には、自分のすべてを見透かされている。それが恐ろしかった。そして、自分の心に渦巻く炎が一番恐ろしかった。
「エクス・ヴィトの言ったことが、一番いいのでしょうね?」
 エクス・ヴィトは何も言わず、クレアナの手を取った。部屋から出る付添を買って出たその手を、クレアは知らずと振り払っていた。
「それなら、仕方ないわ。国のためだもの」
 クレアはエクス・ヴィトを速足で追い越し、そしてくるりと振り向いて、彼を見た。
「なんて顔をしているの、エクス・ヴィト。私、何か変かしら?」
「いえ」
 言葉を濁すエクス・ヴィトに、クレアは少し首をかしげて挨拶をした。
「失礼いたします。難しいことばかり聞いて、少し頭が痛みますの」
 エクス・ヴィトは追いかけてはこなかった。クレアは、ひとつ向こうの棟にある自室に急ぐ。ドレスの裾を翻し、ただ、唯一自分のために許された空間へ。
 そこ以外、クレアには場所はない。クレアに許されたことは何もない。セラフィスは、国を継ぐだろう。その傍らに立つのは誰になるのだろう。いずれかの名門の令嬢なのだろうか。ともすれば、外国の麗しい姫君。
 これだけは確かだった。自分は、彼と人生をともにすることだけは決してないということ。それだけは許されず、そして、そのようなことが起こるべくもない。
 優しい手を思いだした。暖かな声を、懐かしい匂いを。それが、永遠に去っていってしまう。そして、二度と戻ってこない。
 北の離宮での思い出が、鮮やかに蘇るのはクレアにとっては堪え難いことだった。楽しかった日々は、今は拷問のように彼女をさいなむ。何も考えずに、ただ、兄を慕う気持ちに素直に従えた時。何も、彼女を束縛するものはなかった。何も彼女を煩らわせなかった。時は、彼女のためにあり、彼女のために日々を紡ぎ、そして喜びを生みだした。
 ただ、心のままに生きられた日々。
 人は、いつから自由を失うのだろうか。しきたりに、規則に、常識に自分を追い込み、そして自分の心から生まれた感情に名を付けることで自分を拘束する。自覚した恋心が、その名ゆえに彼女をさいなむ。それが、恋でなければ、そのような名をつけなくてはいけない感情でなければ、こんなに苦しむことはなかったのに。
 それは、恋だった。たったひとりの兄に向けた狂おしいほどの思い。許されるはずもない、禁忌の感情。それをひた隠し、殺し、そして知らないふりをすればするほど激しく燃え上がってゆく。そう、自分を戒めれば戒めるほど。
 クレアの唇からは嗚咽が洩れた。今の彼女にできる、唯一のことだった。彼女が洩らすことを許されているのは、それだけだった。心からあふれ出してしまいそうな感情を吐露することを彼女の理性が拒んだ。口にしていいのは、声をこらえた嗚咽だけ。
 そうやって、どれほどの時間を過ごしたのだろう。
 扉が鳴った。クレアは泣き腫した顔を上げた。侍女たちは下がらせたはずだ。自分が呼ぶまで誰も来ないようにと言ったはずなのに。クレアはいささか不機嫌に言った。
「誰?」
 そして、帰ってきた返事に、身を預けた寝台から転がり落ちんばかりに驚いた。小さな悲鳴さえ上げて、口もとを両手で覆う。
「私だ」
「お兄、様」
 クレアは立ち上がれなかった。必死に震える声を抑え、それに小さく答えるのが精いっぱいだった。
「なんの、ご用ですか?」
 それは、いささか冷たく響いたかもしれなかった。クレアは、唇を噛みしめた。このような素っ気ない対応をしたことは、おそらく初めてだっただろう。それに、驚いているであろうセラフィスの姿が扉のこちらからも想像できた。
「私、今、お目にかかれないのです。申し訳ありませんけど……」
「クレア、開けるんだ」
 いつになく強い口調。クレアは、びくっと肩を震わせた。
「いけません、私、お目にかかれません」
「なぜだ」
 セラフィスの声が近くなった。クレアはそれに体をすくめながら、声を小さくする。
「なぜと、お尋ねにならないでください。今は、お兄様にはお会いできません……」
「クレア」
 声が尖った。
「私が、お前に会いたいんだ。ここを開けてくれ」
 鋭い声は、怒りのためではなかった。まるで、欲しいもの手に入れられず、駄々をこねる子供のように、願いが聞き届けられず、嘆く者のように。
「鍵は、かけていません」
 うめくようにクレアは言った。
「どうぞ、お開けになってください」
 クレアは顔を覆った。こんな気持ちのまま、セラフィスに会うのはさぞ辛かろう。それは、拷問にも等しかった。
 牢獄の門のように、扉が開いた。明かりをつけない薄暗い部屋の中に、廊下の明かりが忍び込んできてクレアの上に光の帯を作った。
「クレア」
 ささやく声がした。そして再び薄闇が部屋を覆う。
「毎日ご苦労様です、お兄様」
 クレアは震える声に、セラフィスの姿を映して言った。彼は、見慣れた執務用の正装をまとってはいなかった。白い、柔らかな生地でできた室内着だった。袖は長く腕を包み、上着の裾は短く、膝を少し越えたあたりまでしかなく、そして足は、同じ布でできた靴に包まれている。そういう衣装に身を包むと、セラフィスは正装をまとっているときよりはほんの少し、幼く見えた。
「毎日の執務、さぞお疲れとお察しいたします」
「……ああ」
 クレアは、沈黙に耐える勇気がなかった。そして、他愛もないことが独りでに唇から洩れる。
「今日の会議は、いつもより短かったのですね」
 クレアは、寝台から降りていた。セラフィスは扉近くに立ったまま、動こうとはしない。そして、クレアはそれから距離を作るように、部屋の反対側の壁に後ずさりをして行った。
「お兄様、私……」
「今日の議題は、聞いていただろうね」
 セラフィスはいきなり口を開いた。言いかけたことを遮られて、クレアは戸惑う。
「もちろんです」
「どう、思った」
 まるでせかすように、セラフィスは言う。クレアは震えだす唇を、懸命に押さえた。
「どう、と申しましても……」
「エクス・ヴィトの提案だ。お前の、意見が聞きたい」
 クレアは、会議に出席は認められても、発言をしないのが約束だった。セラフィスは、彼女の意見を求めてクレアににじり寄る。
「私には、わかりません」
「お前がどう思うのか聞きたいのだ。率直な意見を言ってくれ」
 セラフィスは、容赦はしなかった。いつもの優しい表情はそこにはなかった。まるでクレアを苦しめるためにそこにいるかのように、彼女を追いつめる。
「私……」
 クレアは、壁に手を突いた。これ以上、セラフィスからは逃げられなかった。爪が、壁に這った。
「お妃様を、お娶りください、お兄様」
 声が震えていなかったか、それだけが気にかかった。
「結婚なさって、即位なさるのです。国政の安泰は、他国につけ入る隙を与えないことと、エクス・ヴィトもそう言ってましたわ……」
「お前が、そう言うのか」
 彼の声が遠かった。耳鳴りがする。頭の中がかき乱されるように、言葉が言葉にならず、考えがまとまらない。
「クレア、お前は、それがいいと思うのか」
「ええ……」
 それ以外、何と答えることができただろう。
「それが、国のために、一番いいのでしたら」
 セラフィスがこちらへ一歩踏み出した。クレアは、びくっと肩を震わせる。
「王家に生まれた者は、常に国家のことを優先して考えるべきだと、お兄様も常に……」
「クレア」
 名を呼ばれた。ふたりの間の距離は縮まってゆく。クレアは、逃げ道を探してとっさにそれに背中を向けた。壁にすがりつく。その向こうに、彼女を助けてくれるものがあるとでも言うように。
「お前が、そう言うのか」
 懐かしい温もりが伝わってきた。クレアはびくっと体を反らせる。それを、痛いほどの力で押さえられた。
「お前が、私にそれを言うのか」
「お兄様……、何を……?」
 背後から抱きすくめられて、クレアは呼吸を忘れた。
「なにをなさいます、お離しください……っ」
「クレア」
 彼女には、その行動の意味がわからない。逆らえない力で、その思考までをも止められる。その強さが、クレアにこれが尋常でないということだけは理解させた。
「お前が、クレアが、私に妃を娶れと……?」
 その声は、いかにも辛そうだった。その声が、クレアに心臓の鼓動を速める。
「だって、お兄様。それしか、ないのでしょう?」
 セラフィスの洩らすわずかな息を、耳もとに感じてクレアはすくみ上がる。
「私には、何も申し上げられません」
「クレア」
 その腕から逃げようとした。そして、そうすればそうするほど抱きしめる腕には力がこもる。
「お前は、それがいいというのだな。私に、どこかの女性を妻にして、その女性とともに一生を過ごせと……」
「お兄、様……!」
 クレアはうめいた。
「おっしゃらないでください。私を、苦しめないでください」
 力が強くなるごとに、クレアはそれに恐怖さえ感じ始めた。応えられることのないはずの思いを、セラフィスはどうしようというのだろうか。
「お兄様は、ひどい。わかっていらっしゃるのでしょう? それなのに、こうして私を試すなど」
 クレアは、胸の前で合わせられたセラフィスの手にそっと指を這わせた。もう、どうなってもいい。これ以上、どうもなりようはない。それは、クレアは、戒めを捨てた。
「お兄様」
 クレアは息を飲んだ。
「私は、お兄様を、愛しております」
 初めて口にする言葉だった。今までずっと胸の奥で鬱々と淀んできた思いは、言葉という形をとってそこから飛びだした。そして、羽が生えたようにそれを束縛するものを解き放ち、唇を突き破った。
「そうですわ、私はずっと、お兄様をお慕いしていました。幼いころから、ずっと。それが、常の世の兄妹ののりを超えたものであることを知りながらも、私にはどうしようもなかったのです」
 それは、叫びに似ていた。押し隠していた、その力の強さの反動が、その言葉に更なる力を与えた。
「そんな私を、試されるのですね。私が、お兄様のご成婚をどう思うかなど、それを、言葉にして申し上げろとおっしゃるのですね」
 抱きしめられた体がほどかれた。背を向けたセラフィスの顔が、間近に迫る。見惚れるほどのその美貌を、何度嘆息して眺めたことだろうか。そしてその面を向かい合わせに体をひねらされ、視点があわなくなるほどにそれが迫るのを見た。
 記憶が蘇る。
 それは、わずかなくちづけだった。そう、離宮を離れ、王都に向かうことになった兄との別れを惜しんでいたときだ。その時受けた、幼い唇。
 それを、なぜその時思いだしたのだろうか。クレアは、体をその力強い腕に抱きすくめられ、そして息もできないほどに唇に重なる、暖かいものを知った。
「……」
「クレア」
 名をささやかれる。
「私も、お前と同じことを思っていないとでも……?」
「……、……」
 離れた唇から洩れる、消え入りそうなささやき。まだその柔らかさが残るそれを指先で押さえ、クレアはしばし言葉を忘れた。
「私が欲しいのは、お前だけだ」
 再び抱きすくめられる。先程のような息もできない激しさではなく、柔らかく、包み込むように。背中を優しく愛撫される。
「幼いころから、お前だけを求めていた。そう、あの離宮で、お前とともにあったときから。お前と離れてからは、その思いは募るばかりだった。久方ぶりに、成長したお前を見たときの、あの喜びは言葉にならない」
 こらえていた思いを一気に吐き出すような声は、クレアと同じだった。口にすることを許されなかった、秘めた感情が暴れだすようにセラフィスの口をつく。
「クレア、私が欲しいのは、お前だけだ」
 再びのささやき。
「私が妻にと欲するのも、人生を共にと欲するのも、お前ただひとりだ」
「お兄、様……」
 彼女は、そっとセラフィスの背に手を回した。どれほど焦がれたことだろうか。ひそかに彼の名をつぶやきながら涙を流した夜を思いだした。それは、すべてこの抱擁によって贖われる。
「私も、望めるものならそう望みました」
 抱擁を解かれ、再び間近にセラフィスの顔を見た。木目きめのそろった肌と、整った造作。夜目にも鮮やかな夕暮れの色の瞳。そして、それはまっすぐに自分を見ている。
「お兄様が、私と思いを共にしてくださっていたなど私には過ぎたこと。そのようなこと、思いもしなかったこと」
「私が、お前以外の誰を愛するというのだ」
 セラフィスは言葉に力を込めた。
「私の心は、常にお前の上にあった。お前とともに過ごしていた時、離れてからの長い時間、そして、再び会った時。私は、お前以外のことは考えていなかったよ」
 さらり、クレアの髪にセラフィスの指が絡まった。流れるようにそれを梳かれる。
「ラグラールへお前をやらねばならなかった時、私がどんな思いをしたかわかるか? あちらでお前が襲撃されたとの報せを受けたとき、私がどんな思いでそれを聞いたか」
 言葉は強かったが、優しかった。
「私を愛しいと思ってくれるかい? 私を、哀れと思ってくれるかい、お前は?」
「そうでないわけが、ありません……!」
 クレアは吸い込む息でそう言った。
「私こそ、お兄様のこと以外は思いもしなかった。ラグラールの日々も、私を支えてくれたのはお兄様の存在でした。お兄様がいらっしゃらなければ、私はあそこまでの勇気は持てなかった」
 腰に腕を回され、くちづけが三度与えられた。それは、恋人に与える、優しいくちづけ。
「愛して、います。あなた以外は、なにもいらない」
「私もだよ、クレア」
 小さなつぶやき。
「愛しているよ」
「……」
 わずかに月明かりが差し込むのに気がついた。もう、そんな時間なのだ。それはとても長いようでもあったし、ほんの少しの間のような気もした。
 それは、つかの間の幸せであったのかもしれない。幸福と呼ぶには、あまりにも短い時間だった。
「お兄様」
 背に、手が添えられる。抱きしめられた体は、さきほど涙で濡らした寝台の上に横たえられた。
「ぁ……」
 小さなうめきが洩れる。痛いほどに真剣なその表情に、体がこわばる。しかし、そこにあったのは奇妙な充足感。優しく腕を押さえられ、頬をなでられ、クレアはそっと目を閉じた。
「クレア」
 今までで、一番優しい声が彼女の名を呼ぶ。その甘さに、クレアは震えた。
「お兄、……様」
 その時、ふとクレアの脳裏をかすめたことがあった。それは、兄への恋慕が心を燃やすごとに彼女を救った唯一の希望。それにすがって、クレアはこの思いを暖めてきた。
「お兄様、私たちは、血の繋がらない兄妹なのですよね……?」
 見上げるその上にある、セラフィスの瞳がぴくりと震えたように思われた。
「私たちは、お父様とお母様を同じにした兄妹ではありませんわよね」
 セラフィスは、絡めた指を解いた。そして、ささやくように言った。
「それが、お前の免罪符だったというわけか」
「お兄様?」
 クレアの頬に、セラフィスの手が添えられた。くすぐるように愛撫がかすめる。
「クレア、私は、お前の兄だ」
「……お兄様」
 セラフィスの瞳は変わらず優しかったが、そこに一滴寂しさをたらしたような影が差したことにクレアは気がついた。
「お前がいかなることを聞き知ったのかは知らない。しかし、私が国王の血を引かぬと思っているのか?」
「いいえ、いいえ……」
 クレアはその寂しさに痛みを覚えた。
「亡き王妃の血をも継がぬと? 私が、正統なる王子ではないというのか、お前は?」
「いいえ」
「では、お前がか?」
 クレアは何も言えずに首を振った。突き刺さる視線が優しいだけに、それは痛く胸を貫いた。
「……」
「クレア」
 静かな声だった。
「お前も、私も、国王陛下の、そして亡き王妃の子だ。正統なる王家の血を引く、正統なる嗣子だ」
「……、……」
 クレアの指が、セラフィスの肩に伸びた。それにそっと触れ、そしてはじかれたようにそれから離れる。
「私も、お兄様も、同じお父様とお母様を持つ、とおっしゃるのね……」
 クレアは自らの体を抱いた。小刻みな震えが、最初は目に見えぬほど、そして、やがては激しく彼女を包む。
「お兄様も、私も。同じ母から、父から生まれた体、と……」
 セラフィスは悲しげにクレアを見つめた。胸を突かれるほど、寂しい笑みだった。
「私のことを、嫌いになったか……?」
「いいえ、いいえ……」
 顔を両手で覆う。セラフィスがそれを外させようとするのに、クレアは抗った。
「いいえ、愛しております、お兄様」
 信じていたことは裏切られた。互いにまったく同じ血を受け継ぐ者、それは、決して侵されてはならない禁忌。それでも、まだこんなにセラフィスが愛しいなんて。
「私の気持ちは変わりません。私は、それでも、こんなにお兄様のことを……」
「では、その手を離しておくれ」
 クレアの顔を覆う手を、セラフィスはそっと引き離そうとした。しかし、クレアは渾身の力でそれに逆らう。
「いけません、お兄様。これは、あまりに罪深い……。神も、決してこのようなこと、お許しにはなりません……!」
「神のお怒りが、恐ろしいか」
「ええ……」
 その言葉に、クレアは震え上がった。
「お兄様は、恐ろしくはないですか? 兄妹が、血を分けた兄妹が、こんな……。ああ、決して許されるはずもないものを」
 セラフィスは小さく息をついた。クレアの取り乱し方を、気味の悪いほど静かに見つめている。
「神への信仰は、お前を愛したときに、捨てた」
「お兄様!」
 悲鳴が上がった。
「そのような恐ろしいこと、おっしゃらないで下さい。そんな、神を裏切るような……」
「神に背を向けても、私はお前への愛を捨てられはしない」
 冷たいまでの声だった。すべてを、うち捨てたような声。
「愛している、クレア」
「お兄、様……」
 流れる涙は、さきほどのそれとは違っていた。どこまでも熱い、そして恐怖に打ち震える涙。
「私は……」
 罪と愛の間で震える。セラフィスは、そんなクレアから体を放し、それを起こした。
「私は、何もかも捨てている。神の慈悲も、とうの昔に拒否した。それを受け入れるつもりは私にはない」
 開放された体に、夜の空気が冷たく染みた。クレアは体を起こした。セラフィスは、寝台の縁に腰かけ、両手を組んで祈るように言葉を紡ぐ。
「しかし、お前にもそれを強要しようとは思わない。お前が、神の意志に従って、兄である私と情を結ぶのを拒むなら、それはそれで当たり前のことだ」
 クレアは、その背中に指を伸ばした。そして、触れる前に、びくっとそれを引っ込める。
「誰も、私も、お前を責めはしない」
 クレアの指の動きに、セラフィスは気づき、そして苦笑いを洩らした。
「愛している、クレア」
 何度もささやかれた言葉が、再び洩れる。それを、求めていたはずだったのに、渇望し、涙を流すほどに望んだそれが、今は切りつける刃物のように痛い。クレアは、血の匂いのする涙を流した。
「覚えておいておくれ、それだけは変わらないよ……」
「お兄様、私……」
 すがりつけなくなった背に、せめてもと激情をぶつける。
「私も、愛しておりますわ。私が求めるのは、お兄様以外の誰でもないというのに……」
 月明かりが、セラフィスを照らした。その色よりも、ずっと切ない色をした瞳が、クレアを射ぬく。
「残酷だね、クレア」
 セラフィスは立ち上がった。クレアを優しく見つめ、疲れたような表情で、しかし、もう触れはしなかった。
「たとえ、人の道を外れたことと知っていても、それでもなおお前が欲しいと思う、私の方が狂っているのかも知れない」
 それが、茨の道というならば、手を取ってともに歩みたいと願うのに。クレアに、その手をとる勇気がない。
「愛してます、お兄様……」
 セラフィスは答えなかった。ただ、クレアの方を見、うっすらと寂しげに微笑むと、その場を去った。さきほど、セラフィスの手で開けられた扉は、再び彼の手で閉じられた。
「クレア」
 去り際に、彼は言葉を残す。
「覚えておいてくれ、この先、私たちの運命がどうなっても、私はお前だけをしていると」
「お兄様……!」
 すがりつく声は、もう、受け止められることはなく。そして、クレアは闇の中、ひとり残された。頼るものもなく、ただひとり。
「……っ……」
 彼女の洩らすのは嗚咽だけ。彼女に許されるのは、ただそれだけ。
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貧乏男爵家の末っ子・アルティアの婚約者は、何故か公爵家嫡男で非の打ち所のない男・キースである。 魔術学院の二年生に進学して少し経った頃、「君と俺とでは釣り合わないと思わないか」と言われる。 そのときは曖昧な笑みで流したアルティアだったが、その数日後、倒れて眠ったままの状態になってしまう。 すると、キースの態度が豹変して……?

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