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◆◇第四章 恋のかなう魔法◇◆

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「そうなの……」
 思慮深げに声を出して、クレアはうなずいた。
「私、見たことないわ」
「そうだろーね、この国からじゃちょっと見えないみたい」
 少女ふたりはふかふかの絨毯に寝そべって、目の前にある大きな紙には何やら殴り書きのような青の色彩がある。
「とにかくね、大っきいの。向こう岸が見えないくらい」
「王都の郊外の、湖よりも?」
「あんなの比べ物にならないって。何倍も、何十倍も大っきいんだ。で、しょっぱいの」
「しょっぱい? 何が?」
「水がよ。しょっぱい水がいっぱい入ってんの」
「そう、なの?」
 いまひとつよくわからない、と言った顔をしてクレアは首をかしげた。
「夏になったらそこで泳ぐのよ。熱い日差しの下、冷たい水! 気持ちいいんだからぁ」
「塩辛い水の中で泳ぐの……?」
 クレアは不安そうな顔をしてアーシュラを見た。
「うん、気持ちいいよ」
「そうなのね……?」
 困惑しきった顔でクレアは目をしばたたかせた。
「あんたもね、この国出られるようなことがあればぜひ見たらいいよ。人生変わる」
「そんなにすごいものなの」
 クレアは感嘆したように息をつき、アーシュラの書いた「海の絵」を見つめた。
「一度、見てみたいものだわ」
 クレアのつぶやきに、アーシュラが頬杖を突く格好で言った。
「出られないの? あんたのあの立派なにーちゃんに頼んでさ」
 アーシュラはにっこり笑ってクレアをのぞき込む。
「無理、だと思うわ」
 クレアはため息をついた。
「街に行くのでさえ、護衛が必要なのだもの。ましてや、国の外に出るなんて……。お兄様が聞いたら何とおっしゃられるか」
「そうなの? 大変なんだねぇ」
 アーシュラはごろんと体を床に預けた。
「あんたの部屋の絨毯って、気持ちいいねー、このまま寝ちゃいそう」
「まぁ、駄目よ、アーシュラ。お休みになるならちゃんと寝台の上でしないと」
「わぁお、クレアの、あの素晴らしいベッドの上に寝転んでもいいの?」
 アーシュラはぴょんと跳ねてクレアの寝台に近寄った。
「痕がつかないように、そーっと、よ。お昼間から寝台の上に乗っていたりしたら叱られてしまうから」
「痕を付けないなんて無理じゃん」
 アーシュラはあっさりと引き下がった。
「あんたも大変ねー、あれも駄目、これも駄目。お姫さまって、もっと楽しいものかと思ってたわ」
 アーシュラが肩をすくめながら言うのを、クレアは微笑みながら聞いた。
「魔法でも使えたら、そう、姿を変えて飛んでいく、なんてこともできるかもしれないけれどね」
 クレアは何の気なしにそう言った。それをアーシュラは聞き逃さず、さっとクレアの方を振り向いた。
「それよ、それ。魔法で何とかしちゃえるんじゃないの?」
「え? え?」
 アーシュラの勢いにクレアは戸惑った。
「あたしが何とかしたげるよ。姿を変えたりとかの魔法って、まだ習ってないけど一生懸命習って、そう、私がクレアに海を見せたげる」
 にっこりクレアに微笑みかけ、アーシュラは傍らの椅子に腰をかける。
「ね、そうすれば大丈夫なんじゃない? 武闘魔法もちゃんと習っとくからさ、そしたら何かあっても平気だし」
 ね? と片目を伏せられ、クレアは微笑んだ。
「嬉しいわ、アーシュラ。そんなふうに言ってもらえて」
 クレアは体を起こしてアーシュラの腰掛ける椅子の方へ近寄った。壁いっぱいに作られた窓からは、眩しい日差しが差し込む。その向こうには、粋を懲らした庭園が広がる。
「アーシュラの、そのお気持ちだけ受け取っておくわね」
 にこりと微笑みかけられて、アーシュラは声を上げた。
「なんで? 行きたくないの?」
 クレアはかぶりを振った。
「いいえ、そんなことはないわ。わたくしも、海というものを見てみたい」
「じゃ、何で?」
 アーシュラはいかにも不満そうに言った。
「あたしの魔法の腕が信じられない?」
「まさか、そんなことではないのよ」
 クレアは驚いて首を勢いよく振った。
「アーシュラの腕は確かだって聞いているわ。今まで魔法を使ったことがないのに、その成長ぶりは目覚ましいって」
 誰がそんなこと言ったの、とアーシュラが驚くのをクレアは笑って交わした。
「そうじゃないの、ただ、私はそうすべきでないというだけ」
「どういうこと?」
 クレアの視界の向こうには、緑に光る剪定された木々があった。その、美しくデザインされた刈り込みはセラフィスの指示によるものだと聞いて、その時クレアは改めて兄を誇らしく思ったものだ。
「王家に生まれたものは、全うすべき義務がある、と言うことなの。その責任を忘れたような振る舞いはできないわ」
「ふぅん」
 アーシュラは小さく言った。椅子にもたれて腕を伸ばし、まじまじとクレアを見た。
「なんなの?」
 その視線にクレアがくすぐったく首をすくめた。
「クレアってさ、そういうキャラクターだっけ?」
 アーシュラは驚いたように言った。
「お忍びとか、ずるけたりとか、そういうのがクレアの専売特許じゃなかったの?」
 クレアは笑った。
「お忍びは好きよ。お勉強も、できることならずるけてしまいたいわ」
 その笑いにアーシュラも加わった。
「そうよね、クレアはそうでないと」
 ふたりの笑いが柔らかな色彩で彩られた部屋に響く。
「でもね、やっぱり海を見るのはやめておくわ」
 アーシュラは、抗議の声は上げなかった。クレアの言葉に微笑んで見せた。
「そのうちね、また、機会があったら」
「その時は、是非ご一緒してね」
「もちろんよ」
 本当なら友達になどなれなかったはずの、本来なら会うはずもなかったはずのこの少女たちは、手を取りあって誓いを立てた。
「また、おにーちゃんの機嫌のいいときにでも聞いてみてよ。このアーシュラ様が護衛につきますからって」
 アーシュラは頼もしくクレアに言った。
「どうして、そんなに熱心にお誘い下さるの?」
 クレアはアーシュラの腰掛ける椅子の正面に、自らも腰を下ろした。
「そんなに海って素晴らしいものなの?」
 アーシュラは頭に手をやった。
「うーん、それもあるけどね」
 クレアは、そこに置いてあった小さなベルを手に取って、軽く鳴らした。白と黒のお仕着せを着た侍女が現れて、クレアは彼女にお茶の支度を言いつける。
「そういうのってさぁ」
 アーシュラはそのクレアの仕草を見つめながら言った。
「あんたと友達になるまでは、王女様の優雅な生活、って憧れていたわけよ。今まで、あたしにとっては王女様なんて雲の上の存在で、もちろんその生活どころか、お姿さえ見たことはなかったからね」
 言いにくそうにアーシュラが言うのを、クレアは首をかしげて聞いていた。
「でもさ、実際はそう優雅なばっかりでもないじゃない? 勉強だのなんだの家庭教師がびっちしついてさ、今のあたしの生活も結構窮屈と思う時もあるけど、あんたの生活ほどじゃないわ」
 クレアが聞き入るのに、アーシュラは言葉を重ねた。
「何かさ、見てて気の毒なのよ。街に行くだけでもやいのやいの言われるし、やれお辞儀の仕方がどうの、臣下に対する接し方はどうの、あたしなら気が狂っちゃう」
 いい香りが漂ってきた、と思うと、先ほどの侍女が小さな薔薇の模様をあしらった白い茶器を持って部屋に入ってきた。
「だから、あたしで良かったら、何かあんたの力になりたいのよ。気晴らしとかさ」
 お茶請けは、苺の焼き菓子。添えてある生クリームと苺の赤のコントラストがこの部屋の色彩によく似合った。
「だから、海でもなんでも見に連れていってあげたいと思ったわけ。まぁ、あたしだってあんまり出歩くなって言われてる身だけど、あんたのおにーちゃんの許可さえあればどうにかなるだろうしね」
 クレアは焼き菓子をつついた。生地がうまく切れなくて、上に乗った苺が転がり落ちた。
「それ、うまく切るの難しいよね」
 アーシュラも挑戦したが、結果は同じ。ふたりは声を立てて笑う。
「ありがとう、アーシュラ」
 クレアはクリームで包んだ苺を口に運びながら言う。
「そんなふうに言ってくれるの、アーシュラしかいないわ」
 アーシュラは小さく舌を出した。
「機会があったらお兄様に聞いてみるわね。アーシュラが付いて来てくれるんなら、もしかすると許可していただけるかもしれないから」
「そうそう、そう来なきゃ」
 アーシュラは体を乗り出した。
「ねぇねぇ、こんな魔法あるの、知ってる?」
 さぞ重大な秘密でも打ち明けるかのように、アーシュラはクレアにささやきかけた。
「人の心を変える魔法」
 クレアは驚いてフォークを取り落とした。
「まぁ、そんなのがあるの?」
 アーシュラは唇の前に人さし指を立て、しっとクレアを制して見せた。
「こないだ、ラーケンの手伝いで呪文の本整理しているときに見つけたのよ。なんでも、ものすごく難しい魔法で、ラーケンみたいに魔道師の幹部やってるような人でも成功確率は半分らしいけどさ」
 そりゃぁね、そんなに簡単じゃ困るよね、とアーシュラは笑った。
「それ、使えるようになったらいいと思わない? あんたのおにーちゃんの気だって変えられるし」
「それは無理だわ、お兄様はいつもエクス・ヴィトと一緒ですもの。エクス・ヴィトにはわかってしまうでしょう?」
 アーシュラは腕を組んで唸って見せた。国一番の魔道師にばれないように魔法をかけるのは、今のアーシュラではまずもって無理な話だろう。
「でもさでもさ、たとえば、好きな人にこっちを振り返らせることだってできるんだよ?」
 少女たちの瞳の輝きを増す言葉が現れた。
「恋のかなう魔法、ということ?」
「そうそう、そゆこと」
 曙の色と、大地の色をした二組の瞳が絡み合って光った。ふたりは食べかけのケーキのことも忘れてその話に熱を入れる。
「それは、素敵だわ」
「でしょ? 心操の術、って名前がついてたけど、絶対、恋を叶えるために使った人もいるよ」
「そうよね、私なら、そう使うわ」
 アーシュラの瞳は真剣さを増した。ぐっとクレアに体を近づけ、小さな声でささやきかける。
「ねぇ、クレアって好きな人、いるの?」
 突然の問いに、クレアの頬が熱くなる。目の前の苺のように染まってしまったのではないかと思った。
「い、いいいいないわよ」
 アーシュラの言葉をかき消すように、クレアは叫ぶ。
「そんな、いないわよ」
「怪しいなぁ、そんな慌てちゃって」
 アーシュラが顎に手をかけて横目でクレアを見る。
「ほんとはいるんじゃないの?」
「いないですって。そういうアーシュラこそどうなの?」
 そこでアーシュラも言葉に詰まる。
「いないけどさ」
「ほーら、ごらんなさい、私と一緒でではないの」
 そこで、ふたりは黙ってしまった。
「せっかく魔法見つけたのに、使い道なしかぁ」
 アーシュラががっかりしたように言った。
「でも、もしいる時があったら教えてね。それまで勉強しとくからさ」
「よろしくお願いするわ」
 ふたりは再び焼き菓子と紅茶に戻った。苺を頬張りながら、アーシュラが言った。
「でも、クレアはブラコンだからぁ、そんなのいらない?」
「まぁぁ、何を言うのっ!」
 クレアは憤慨して手を振り回した。
「そんなことありませんわっ」
「でも、おにーちゃん好きでしょ?」
「それは、それ、お兄様は妹として尊敬しているわよ」
「ほーら、ブラコン」
「だから、違いますってば」
 クレアが必死に弁解するのをアーシュラは面白そうに眺め、そして言った。
「クレアを好きになる人は大変だよねぇ、あの完全無欠の王太子殿下に比べられるわけだから。あたし、クレアよりそっちの味方したほうがいいんじゃないかなぁ」
「だから、アーシュラっ!」
 昼下がりの時間は、穏やかに過ぎていった。
「私、ブラコン、なんかじゃないわ」
 鏡に映った自分を見て、クレアは小さくつぶやいた。
「ねぇ、そうよね?」
 そこにいるもうひとりの自分は、不安そうな顔をしてこちらを眺めているだけだった。
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