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第六章
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また、あの夢だ。
文秀は、そんなことを思いながら夢を見ていた(・・・・)。
鶴のいる、池のほとり。抱き合う男女。以前見たときとは、そのまとう衣がまた違っていることに、文秀は気がついた。
「……誠源さま……」
華虹は、そうつぶやいた。男の手が、華虹の背を撫でる。
あの男は、誠源というのか。文秀は、華虹の肩に埋められて見えない男の顔を凝視しようとする。顔ははっきりと見えなくても、その姿格好、結い上げた髪の形から、以前と同じ男だということはわかっているのだけれど。
「もう、待てない……華虹」
誠源はつぶやく。抱きしめられた華虹は、彼の腕の中で頷いた。
「お前に会いたい。会って、本当に抱きしめたい。こんな、幻の中ではなくて……」
「私も……誠源さま」
華虹はつぶやく。文秀の、聞いたことのないような声で。
「早く、早く……」
「けれど、人間の足は遅く、塹星壇は遠く……。ゆけどもゆけども、なかなか辿り着けませぬ」
「待っている、華虹」
改めて彼女を抱きしめて、誠源は言う。
「お前を、お前だけを……ただ、ずっと」
ふたりの声は、悲痛だった。引き裂かれた恋人同士の悲しみが伝わってくる。見つめる文秀の胸にもその痛みは感じられ、同時に別の痛みも文秀を襲う。
(華虹さまは、いったい何を隠しておられる)
それは彼女に直接訊くわけにはいかない、だからこそ文秀をせつなくさせる。彼女の秘密はこの誠源という男と、塹星壇という場所に隠されていて、文秀にはそれが何なのか確かめる術がない。
(いったい、何を目指しておられる……)
ふたりの姿が消えていく。夢が終わるのだ、と文秀は感じた。
「うわぁぁぁ――っ!?」
自分の悲鳴で、文秀は目が覚めた。同時に感じたのは、衿に首を締め上げられる苦しさ、続けて高いところから落とされて叩きつけられる痛みだ。
「いっ、てぇ……」
いったいここはどこで、自分はどうなっているのか。考える間もなく、地面に転がった文秀はしきりに自分の臀を撫でた。
「いててて、ててて……」
まわりを見回す。文秀は深い草の中にいた。衿に締め上げられる感覚は、まるで虎の姿の順興にくわえ上げられたときのようだったが、しかし叩きつけられる痛みは何だ。そしてまわりには華虹も順興も、闇青も飛仙児も無窮花もおらず、文秀はただひとりなのだ。
「どう、して……」
「早くお起き!」
ぶつけて痛む臀を、蹴り上げられた。文秀はぐぉ、とも、うぉ、ともつかない呻き声を上げて、その場に転がる。
「たいしたことないでしょう。いつまでも痛がっていないで、私の問いに答えなさい!」
きんきんぶつけられる厳しい声に、文秀はゆっくりと顔を上げる。振り向いたところにいるのは、黄色の裳に緑の短衣の女性。年のころは、華虹と同じくらいだ。
「華虹さまはどこ? 答えないと、もっとひどい目にあわせるわよ!」
「ひえぇ、それは勘弁してください~!」
わけもわからずに、とりあえず謝る。頭を抱えてその場にうずくまった文秀は、再び臀を蹴られて悲鳴を上げる。
「華虹さまは、どこ!?」
文秀は、臀を撫でながらあたりを見回す。しかし広がるのは緑ばかり、妖魔の森ほどではないがそれなりに緑の茂った森の中、見慣れた姿はどこにもない。
「知りません……」
「知らないはずないでしょう! お前はずっと、華虹さまと一緒にいたはず! 黙ってると、もっともっとひどい目にあわせるわよ!?」
「本当にわからないんですぅ、私は今まで眠っていて、気づいたらこんなところに……」
「虎が、お前の襟首をくわえて走ってたじゃないの!」
よく見ると、女性の傍らには白い鳥がいた。女性ひとりくらいなら乗れそうな、大きな鳥だ。
そして思い出す。以前、順興が文秀の襟首をくわえて走ったとき。あれは、華虹を追っていた者から逃げてのことだった。その理由を、華虹は彼女が何かを持って逃げたからだと言っていた。
この女性は、あのときの追っ手だ。先頭で、華虹を呼んでいた。印を結んで光の粒を飛ばし、文秀の体に無数の青い痣を作った。
ということは、先ほどの衝撃は眠っていた文秀を順興がくわえて走り、しかし途中で落とされて地面に転がった。それ以外に考えられない。
「順興め……落とさないって言ってたくせに……!」
「華虹さまはどこ!」
なおも目をつり上げて問う女性の前、文秀はがっくりと肩を落とす。
「そんなの、私が知りたいですよ……」
大きく息をついて、文秀は言った。
「あなたを見て、華虹さまは逃げられたんでしょう。私は落とされて、置いていかれたので知りません」
「お前が囮になって、華虹さまを逃がしたのではないの?」
「そうだったらいいんですけどね。私は、純粋に落とされただけです。どこにいらっしゃったのかなど、私が聞きたい」
女性は、ぐっと言葉に詰まった。文秀が嘘をついていないということがわかったのだろう。にわかに困った顔になって、下唇を噛みしめている。
華虹の行き先を考えてでもいるのか、彼女の手はしきりに鳥を撫でている。しかし鳥を慈しんでの愛撫ではないから、その手つきは少々乱暴だ。鳥は迷惑そうに、逃げ出したいが主人を前にそうもいかないとでもいうような、複雑な様子を見せている。
「あなたは、どなたです?」
文秀は聞いてみた。関係ないと一蹴されるかと思ったものの、女性は意外に素直に答えてくれた。
「金美礼。華虹さまの侍女よ」
「侍女、ということは……華虹さまは」
両班の身分か何か。そう問いかけて、以前華虹を追っていた美礼が、華虹を『姫さま』と呼んでいたことを思い出した。
(姫さま、ってことは……)
王族でしかあり得ない。文秀は、にわか自分の顔が引きつるのを感じた。王族の姫。そういえば、王の姫の中に『華虹』という名の方がいたような気もする。
記憶が曖昧なのももっとも、王家など文秀には縁遠い、普通に暮らしていれば一生会うこともない存在である上に、政治に関係しない女性となると、名前を聞いたことがあるようなないような、庶民にはその程度でも仕方がないのだ。
「我が国の、第十三王女であらせられます」
文秀の臀を蹴飛ばしていたときとは打って変わって、恭しい口調で美礼は言った。
「華虹姫にあらせられては、縁組み整いお輿入れの直前でいらっしゃいました。されど婚約者の御方は隣国との戦場にて陣没なされ、悲嘆に暮れられた華虹さまは、ある日、城を出られて……」
「わぁぁっ!」
文秀が慌てたのは、美礼が突然涙を流し始めたからだ。涙が彼女の丸い頬を次々と伝い流れ、文秀は慌てて雑嚢を降ろすと、昨日洗って干したばかりの手拭いを出して、美礼に差し出した。
「いりません、そんな汚いの」
しかし美礼は、にべもない。そうですか、と肩を落として手拭いをしまう文秀は、ふと振り返って美礼に尋ねた。
「その婚約者って、誠源ってお名前ですか?」
「どうしてご存じなの?」
大きく目を見開く美礼に、しかし夢で見たとは言えない。そのようなことを言っても信じてくれるとは思えないし、それよりも文秀は、自分の中にあるさまざまの疑問を、目の前の美礼に解いてもらう方法を思いついた。
「華虹さまに聞いたんです」
いけしゃあしゃあと、文秀は言った。
「華虹さまは私を信用してくださっていて、いろいろお話してくださるんです。華虹さまが王女であらせられるのも、婚約者がおいでだったのも、そのお方が戦死なされたのも、お名前が誠源とおっしゃるのも、すべて華虹さまから伺いました」
「うそー、うそー」
声が聞こえる。無窮花の声だ。この緑の中に、無窮花の木があるらしい。しかし目の前の美礼には聞こえていなさそうなのは、無窮花が実際の声ではなく、文秀の頭の中にのみ話しかけているからなのか。
「まぁ、そうでしたの……」
美礼の口調が変わる。文秀が華虹と親しいというのを信じたらしい美礼を前に、文秀は俄然、張り切った。
「なら、順興のこともご存じですわね。華虹さまにお仕えしている、虎の精霊ですわ」
「ええ、もちろん。いつも仲よくしていただいています」
「仲よくぅ?」
文秀は、後ろ手に茂みをぱしっと叩いた。痛っ、と声がしたところを見ると、無窮花の茂みは文秀のすぐ後ろにあるらしい。
「あの虎が、華虹さまを連れ出したのですわ。あの虎を、華虹さまはことのほかおかわいがりになっておられて……」
そこで美礼は、ひとつ息をついた。
「ご存じです? あの虎は人間になりたいとの願いを持っていたものの、神の与えた、百日間洞に籠もるという試練に耐えられず、人間になれなかったんですの」
少々の侮蔑を込めての言葉に、文秀は驚いて目を丸くする。頷きながら、美礼は話を続ける。
「以来ある森に潜み、旅人を脅し精霊を従え、森の長として君臨していたのですけれど、ある日遠乗りに出られた華虹さまと会ったのですわ」
その光景が目に浮かぶようだ。真っ赤な裳を揺らめかせ、背を伸ばして立つ乙女と、鮮やかな模様を持つ大きな虎が、対峙するさま。
「華虹さまは襲いかかってきた順興を恐れもせず、凜と『その強さは、穢れなき心から出たものに違いない。それを正しく生かせないことが、そなたの不運。我が、そなたを導いてやろう』とおっしゃったんですの」
そのときのことを思い出したかのように、美礼はうっとりと空を見やる。
「順興はそのお心の強さと美しさに打たれ改心して、それ以来、華虹さまの従僕になったのですわ」
「なるほど……」
人間になり損ね世を僻んでいた者がそのような言葉を聞けば、どう感じるだろう。順興の盲目的なまでの華虹への信服は、そのようなことがあってゆえのことなのかと、文秀は心底納得した。
「しかし、順興は人型を取ることができますよね? あれは、人になったとは言わないのですか?」
美礼は、少し不思議そうな顔をした。まずい質問だったかと思ったが、美礼はすぐに答えてくれた。
「あれは、あくまでも見かけの話ですわ。術師だって、動物になったり草木になったりするでしょう?」
「……ええ、まぁ」
そのようなことができるのか、と文秀は心の中にこっそりと書き留めた。何しろ『未熟』な、自分でその自覚さえない術師なのだ。知らないことが多すぎる。
「でも動物の姿になっても、魂が人間であることは変わりませんわ。それと同じ。順興が人型を取っても、魂は虎のものであることには変わりありませんわ。百日間洞に籠もることができていたら、人間の魂を手に入れていたのかもしれませんけれど」
どうやら、美礼はおしゃべりな性質らしい。文秀の言葉が、実は華虹たちのことどころか術師のことさえをもよく知らないがゆえの問いだということに気づくよりも、自分の口を動かすことのできるきっかけを喜んでいるようだ。
「とにかく、順興が元凶なのですわ!」
怒りを露わにして、美礼は言う。
「誠源さまを失って毎日涙にくれる華虹さまは、王宮の書庫で懸命に何かを調べておいででした。いったい何を調べておいでだったのか……」
そこで、美礼は言葉を切った。眉を曇らせ、不安を隠さない表情をする。
「でも、華虹さまおひとりでおいでになれるわけがありませんもの。順興がいたからこそ、華虹さまは旅に出られる決意をされた。順興がいたから、順興がいたからこそ……!」
美礼は唇を噛む。ぎゅっと手を握りしめ、呻くようにつぶやく。
「そうやってある日、華虹さまは城を出られてしまったのです。一言、行きます、とだけ書き置きを残して」
「剣と鏡と、鈴を持たれて出て行かれたのですね」
「……まぁ」
美礼は、大きく目を見開く。まじまじと文秀を見たので、何か間違ったことを言ったかと心配になった。
「そこまで華虹さまは、お話しですのね。よほど、あなたのことを信用していらっしゃるのでしょう」
どうやら、間違ってはいなかったようだ。文秀は密かに胸を撫で下ろした。
「ならご存じでしょうけれど、あの天符印は、王の王たる証であり、王家の秘宝中の秘宝。むやみやたらに持ち出していいものではありません。私たちは王の、天符印を取り返せとの密命に従って、鳥を駆ってまいりました。けれど私は、天符印以上に華虹さまの御身が心配で……」
あの剣と鏡と鈴は、天符印というのか。文秀は再び、密かに心の中に書き取った。
また美礼は涙を流した。頬を濡らした涙を拭い、美礼は顔を上げる。文秀の手を取って、男なら誰でも心動かされずにはいられないような表情で、言った。
「お願いします、……」
そこで美礼は言葉を切って、じっと文秀を見た。
「あなたさま、お名前は何とおっしゃいますの?」
「あ、文秀です。朴文秀」
「では、文秀さま」
改めて、美礼は言った。
「文秀さまを信頼していらっしゃった華虹さまなら、文秀さまに何かをおっしゃっていたはず。どこへいらっしゃったか、せめて手がかりだけでもありませんでしょうか……?」
「手がかりと、申しましても……」
文秀は、はたと困って眉間に皺を寄せた。
最初はあてのない旅だと言っていた華虹には、しかしどうやら目的地があるようだ。それは推測できているものの、行き先については見当もつかない。憶測で言ったことが今まではとりあえず正しかったものの、迂闊なことを言ってぼろを出したくはない。
夢で見たことは、ただの夢ではない。それが誠源の名で確かめられた。実際にあったことを夢で見たらしい、という文秀の術師としての力が関係あるのかもしれないが、とにかく未熟、未熟と罵られる術師だ。どこまでが本当なのか、慎重に話す必要がある。
「華虹さまは、どこかを目指しておられました。しかしそれがどこなのか、私には教えてくださらなかった。ですが、その場所は……」
美礼が耳を澄ます。夢の中で聞いた言葉、あの場所の名を言っていいものか。あれは、真実なのか。
しかし、誠源の名が正しいものであったことが、文秀の背を押す。夢は真実を告げていたのだと、文秀を後押しする。
「塹星壇……」
「きゃああ――っ!!」
目の前の美礼が、大声を上げた。何ごとかと驚く文秀の耳に、無窮花の声が聞こえた。
「文秀、うしろうしろーっ!」
「なにっ!?」
文秀は振り向いた。そこにいたのは大きな蜘蛛。単純に大きな、などという言葉では表現できない。見上げるばかりに巨大な蜘蛛は禍々しい気を放ち、その前脚を蟷螂のように掲げている。その脚には無数の刃が光っていて、ひとつひとつが、文秀の雑嚢の中に入っている小刀よりも大きい。
「こ、んな……」
「きゃぁーっ、きゃぁーっ、きゃぁーっ!!」
美礼はくるりと文秀に背を向けると、走り出した。白い鳥も、ぎゃ、ぐわ、と声をあげながら走る。美礼は鳥に乗って、鳥は飛んで逃げればいいのだろうが、それぞれあまりの驚きに、そこまで頭が回らないらしい。
傍らの茂みから、尖った小枝が飛び出す。無窮花の武器だ。しかしそれらは巨大蜘蛛の体に刺さりはするものの、とても致命傷になどはならないようだ。それほどに蜘蛛は大きく、体は固そうだ。蜘蛛は、大きな脚を文秀に向かって振り下ろしてきた。
「うわぁーっ!」
文秀は大声で叫び、その場に転がる。転がって逃げたことで蜘蛛の脚の攻撃からは逃げられたが、鋭い脚の突き刺さったところからは、しゅうしゅうといやな匂いのする煙が上がっている。それを少し吸い込んでしまい、頭がくらりとした。
「毒か……!?」
ぞっとした。あの脚に少しでも触れれば、きっと命はない。文秀はとっさに体勢を立て直したものの、もう一本の脚が頭上に降ってくる。
「わぁ、ぁーっ!」
また地面を転がってかわす。しかし蜘蛛の脚は六本。一本がだめでももう一本、次々降ってくる脚に立ち上がることもできず、美礼のように逃げることもできなかった。とっさに天の神の言葉ひとつも思い出せないのは、初めて順興に会ったときと同じだ。
(もっと真面目に、術師としての攻撃でも学んでおけばよかった――!)
後悔が脳裏を貫く。何しろ同行者は華虹に順興、闇青に無窮花。新しく加わった飛仙児にしても、いずれも文秀程度の術師の才など必要としない術者に精霊。自分が強くある必要などなかったものだから、今まで何も学ばずに来てしまったのだ。
(呪語のひとつでも、教えていただいていればよかった。せめて、妖魔相手に逃げる術ぐらい……)
また一本、蜘蛛の脚をかわしながら激しく後悔する。無窮花の放つ棘に、蜘蛛は煩わしそうに顔を向け、その隙に文秀は立ち上がろうとしたが、その前に別の脚が振り下ろされる。
(だめだ……!)
文秀は、死を覚悟した。蜘蛛が脚を振り下ろすたびにしゅうしゅうと上がる、毒煙。避けきれずに何度もそれを吸ってしまったことで、頭もぼんやりし始めている。
(もう、私は……ここで)
目を閉じかけた刹那、頭を貫いたものがあった。桓雄、檀君。風伯・雨師・雲師。
それらの言葉は、闇青を倒したとき華虹が口にしていた呪語にあった名だ。信心深い者のように神を敬ったことは今までにはなかったが、浮かんだ名を口にしてみようという気になった。
「神檀樹に降りし、桓因が子……桓雄……」
思い出せるかぎり、華虹の言葉をなぞってみる。
「桓雄が子、檀君……風伯、雨師、雲師……風と雨と雲を司りし、風伯、雨師、雲師よ……」
無窮花の茂みから、棘が飛ぶのが見えた。その棘を凝視しながら、文秀は叫ぶ。その棘に毒が宿り、この巨大蜘蛛を倒せと念を込める。
「我が手に、力を及ぼしたまえ!」
無窮花の棘が、蜘蛛に刺さる。今まで棘が刺さっても、煩わしいというような仕草しかしていなかった蜘蛛が、牙の生えた口を大きく開ける。
ぎゃあ、と悲鳴が聞こえたような気がした。振り下ろされた脚はそのまま、なぜか別の脚が振り上げられることはなく、蜘蛛はそのまま固まってしまっている。
「ど、どうして……」
しかし、理由などどうでもいい。とにかく蜘蛛は動かない。文秀は立ち上がった。美礼たちが逃げた方に、懸命に駆ける。
「文秀さま!」
美礼が声をあげた。木の陰に隠れて、こちらを伺っていたらしい。
「早く、この子にお乗りになって!」
「待っててくれたんですか?」
「華虹さまの大切な方を、お見捨て申し上げるわけにはまいりませんわ!」
そのわりには真っ先に逃げ出しはしなかったか、と首をひねりながらも、とにもかくにも促されるままに美礼の後ろ、鳥の背に乗る。鳥は大きな翼を広げたが、何度もばさばさと羽ばたくものの、飛び上がらない。
「ああ、重すぎるんですわ……」
美礼が、絶望的な声をあげた。文秀は唇を噛む。自分が降りればいい。そう思ったが、同時にほかの考えも浮かんだ。
「……桓雄よ、檀君よ、風と雨と雲を司りし、風伯・雨師・雲師よ……」
先ほどよりは、もう少したくさん思い出すことができた。華虹の口にしていた呪語を、少しでも正確になぞろうとする。
「その旧族よ! 我が手に力を及ぼしたまえ!」
ばさり、と鳥が羽を動かした。何度かはばたたかせる動きは先ほどよりも大きく、やがて空気を孕んで、鳥の体は宙に浮いた。
「やった!」
「やりましたわ! 飛べましたわ!」
美礼が、両手を打ち合わせて喜んでいる。鳥はやがて木々よりも高く飛びあがり、力強く羽根を動かし、飛び始めた。
「文秀さまは、優秀な術師でいらっしゃるのですね……」
彼女の言葉が、どこかうっとりしたものであることに気がついた。まさか、朧気な記憶を辿ってあやふやなまま口にした言葉だったとは言えず、文秀はぽりぽりと頭を掻いた。
「いやぁ……こう見えても、華虹さまにも頼りにしていただいているんですよ」
「まぁ、そうですの! それは、優秀な方で当たり前ですわね」
ここは上空、突っ込みを入れてくる無窮花はいない。文秀はいっぱしの術師になった気分で、気持ちよく眼下を見下ろした。
「うわぁ……」
「文秀さまは、鳥に乗られるのは初めて?」
「初めてです。うわぁ、すごいなぁ、何もかもが小さく見える」
文秀はわくわくと、あたりを見回した。先ほどまでいた森も、その向こうを流れる川も、池も、向こうの山も何もかも、このような場所から見ることがあるとは思いもしなかった光景だ。ここからなら、先ほどの巨大蜘蛛も、普通の大きさに見えるだろう。
呑気に上空散歩を楽しんでいる文秀とは裏腹に、美礼は目を懲らし、あたりを懸命に見やっているようだ。
「美礼どの、どうなさいました」
「華虹さまを、お捜ししているのですわ!」
美礼の言葉に、はっとした。そう、彼女は華虹を捜しにここまで飛んできたのだ。そして今も懸命に、華虹を捜している。
「文秀さま、華虹さまがどちらに行かれたのか、ご存じじゃありませんこと?」
そう言われて、はっとした。あの巨大蜘蛛に襲われる前、文秀には言いかけたことがあったのだ。もしかすると、華虹の行き先かもしれないところ。まさかと思い、しかしあの夢が本当なら――恐らく真実であること。
「塹星壇を、ご存じですよね」
文秀の言葉に、美礼は驚いた顔をして振り向いた。
「摩尼山の……? ええ、もちろん知っておりますわ。でも、華虹さまがそんなところに……?」
無理もない。文秀も夢でその場所の名を聞いただけ、そこに何があるのかはわからないのだ。本当に、華虹がそこを目指しているのかも。
「塹星壇に……何があるんですの?」
美礼の問いに、文秀は詰まった。知らないと言っては、華虹に信用されているという言葉が嘘だということがばれてしまうかもしれない。しかし答えなどあろうはずがなく、今までいい加減なことを言い連ねてきたことを、後悔した。
「桓雄よ、檀君よ……」
小さく唱えてみたものの、何かが起こるはずもない。華虹が塹星壇に向かった理由が突然頭にぽんと浮かぶはずもなく、答えを待つ美礼の前、文秀はこれ以上はないくらいに困り果てた。
「いえ、それは……」
そのときだった。ひゅっと頬を掠めるものがある。何かと思えば、黒い鳥だ。それは文秀の肩に止まり、頬をくちばしでつついてきた。
「いたっ、いたっ、いたたたたた!」
「こんなところで何やってるんだよ、文秀!」
「飛仙児!」
燕の姿に、驚いた。飛仙児は文秀の肩の上で毛繕いしながら、黒い目でちらりと文秀を見上げてくる。
「華虹さまがお前を捜すように、僕に申しつけられたんだよ」
「華虹さま、ですって!?」
声をあげたのは美礼だ。美礼はいきなり振り返り、すると乗っている鳥がぐらぐらと揺れた。
「わぁっ、美礼どの、動かないで!」
「華虹さまですって!? お前、華虹さまのおいでになる場所を知ってるの!?」
美礼は、今にも飛仙児を握りつぶしでもしそうだ。文秀は必死で美礼を止め、鳥の上から転がり落ちそうになった。
「だ、誰これ……?」
「私は、華虹さまの侍女、美礼よ! いいから案内しなさい、華虹さまのもとに!」
「恐いよぅ……」
このままでは本当に握りつぶされるとでも思ったのか、心底恐ろしいという仕草を見せた飛仙児は、ひょいと美礼の手から抜け出し、飛んだ。白い鳥の前、一回大きく旋回してから振り返る。
「着いてきて。華虹さまは、あっちのほうでお待ちだよ」
「あっちって、どっち?」
勢い込んで尋ねる美礼からできるだけ遠のきながら、飛仙児は言った。
「摩尼山のふもとだよ」
文秀は、息を呑んだ。
文秀は、そんなことを思いながら夢を見ていた(・・・・)。
鶴のいる、池のほとり。抱き合う男女。以前見たときとは、そのまとう衣がまた違っていることに、文秀は気がついた。
「……誠源さま……」
華虹は、そうつぶやいた。男の手が、華虹の背を撫でる。
あの男は、誠源というのか。文秀は、華虹の肩に埋められて見えない男の顔を凝視しようとする。顔ははっきりと見えなくても、その姿格好、結い上げた髪の形から、以前と同じ男だということはわかっているのだけれど。
「もう、待てない……華虹」
誠源はつぶやく。抱きしめられた華虹は、彼の腕の中で頷いた。
「お前に会いたい。会って、本当に抱きしめたい。こんな、幻の中ではなくて……」
「私も……誠源さま」
華虹はつぶやく。文秀の、聞いたことのないような声で。
「早く、早く……」
「けれど、人間の足は遅く、塹星壇は遠く……。ゆけどもゆけども、なかなか辿り着けませぬ」
「待っている、華虹」
改めて彼女を抱きしめて、誠源は言う。
「お前を、お前だけを……ただ、ずっと」
ふたりの声は、悲痛だった。引き裂かれた恋人同士の悲しみが伝わってくる。見つめる文秀の胸にもその痛みは感じられ、同時に別の痛みも文秀を襲う。
(華虹さまは、いったい何を隠しておられる)
それは彼女に直接訊くわけにはいかない、だからこそ文秀をせつなくさせる。彼女の秘密はこの誠源という男と、塹星壇という場所に隠されていて、文秀にはそれが何なのか確かめる術がない。
(いったい、何を目指しておられる……)
ふたりの姿が消えていく。夢が終わるのだ、と文秀は感じた。
「うわぁぁぁ――っ!?」
自分の悲鳴で、文秀は目が覚めた。同時に感じたのは、衿に首を締め上げられる苦しさ、続けて高いところから落とされて叩きつけられる痛みだ。
「いっ、てぇ……」
いったいここはどこで、自分はどうなっているのか。考える間もなく、地面に転がった文秀はしきりに自分の臀を撫でた。
「いててて、ててて……」
まわりを見回す。文秀は深い草の中にいた。衿に締め上げられる感覚は、まるで虎の姿の順興にくわえ上げられたときのようだったが、しかし叩きつけられる痛みは何だ。そしてまわりには華虹も順興も、闇青も飛仙児も無窮花もおらず、文秀はただひとりなのだ。
「どう、して……」
「早くお起き!」
ぶつけて痛む臀を、蹴り上げられた。文秀はぐぉ、とも、うぉ、ともつかない呻き声を上げて、その場に転がる。
「たいしたことないでしょう。いつまでも痛がっていないで、私の問いに答えなさい!」
きんきんぶつけられる厳しい声に、文秀はゆっくりと顔を上げる。振り向いたところにいるのは、黄色の裳に緑の短衣の女性。年のころは、華虹と同じくらいだ。
「華虹さまはどこ? 答えないと、もっとひどい目にあわせるわよ!」
「ひえぇ、それは勘弁してください~!」
わけもわからずに、とりあえず謝る。頭を抱えてその場にうずくまった文秀は、再び臀を蹴られて悲鳴を上げる。
「華虹さまは、どこ!?」
文秀は、臀を撫でながらあたりを見回す。しかし広がるのは緑ばかり、妖魔の森ほどではないがそれなりに緑の茂った森の中、見慣れた姿はどこにもない。
「知りません……」
「知らないはずないでしょう! お前はずっと、華虹さまと一緒にいたはず! 黙ってると、もっともっとひどい目にあわせるわよ!?」
「本当にわからないんですぅ、私は今まで眠っていて、気づいたらこんなところに……」
「虎が、お前の襟首をくわえて走ってたじゃないの!」
よく見ると、女性の傍らには白い鳥がいた。女性ひとりくらいなら乗れそうな、大きな鳥だ。
そして思い出す。以前、順興が文秀の襟首をくわえて走ったとき。あれは、華虹を追っていた者から逃げてのことだった。その理由を、華虹は彼女が何かを持って逃げたからだと言っていた。
この女性は、あのときの追っ手だ。先頭で、華虹を呼んでいた。印を結んで光の粒を飛ばし、文秀の体に無数の青い痣を作った。
ということは、先ほどの衝撃は眠っていた文秀を順興がくわえて走り、しかし途中で落とされて地面に転がった。それ以外に考えられない。
「順興め……落とさないって言ってたくせに……!」
「華虹さまはどこ!」
なおも目をつり上げて問う女性の前、文秀はがっくりと肩を落とす。
「そんなの、私が知りたいですよ……」
大きく息をついて、文秀は言った。
「あなたを見て、華虹さまは逃げられたんでしょう。私は落とされて、置いていかれたので知りません」
「お前が囮になって、華虹さまを逃がしたのではないの?」
「そうだったらいいんですけどね。私は、純粋に落とされただけです。どこにいらっしゃったのかなど、私が聞きたい」
女性は、ぐっと言葉に詰まった。文秀が嘘をついていないということがわかったのだろう。にわかに困った顔になって、下唇を噛みしめている。
華虹の行き先を考えてでもいるのか、彼女の手はしきりに鳥を撫でている。しかし鳥を慈しんでの愛撫ではないから、その手つきは少々乱暴だ。鳥は迷惑そうに、逃げ出したいが主人を前にそうもいかないとでもいうような、複雑な様子を見せている。
「あなたは、どなたです?」
文秀は聞いてみた。関係ないと一蹴されるかと思ったものの、女性は意外に素直に答えてくれた。
「金美礼。華虹さまの侍女よ」
「侍女、ということは……華虹さまは」
両班の身分か何か。そう問いかけて、以前華虹を追っていた美礼が、華虹を『姫さま』と呼んでいたことを思い出した。
(姫さま、ってことは……)
王族でしかあり得ない。文秀は、にわか自分の顔が引きつるのを感じた。王族の姫。そういえば、王の姫の中に『華虹』という名の方がいたような気もする。
記憶が曖昧なのももっとも、王家など文秀には縁遠い、普通に暮らしていれば一生会うこともない存在である上に、政治に関係しない女性となると、名前を聞いたことがあるようなないような、庶民にはその程度でも仕方がないのだ。
「我が国の、第十三王女であらせられます」
文秀の臀を蹴飛ばしていたときとは打って変わって、恭しい口調で美礼は言った。
「華虹姫にあらせられては、縁組み整いお輿入れの直前でいらっしゃいました。されど婚約者の御方は隣国との戦場にて陣没なされ、悲嘆に暮れられた華虹さまは、ある日、城を出られて……」
「わぁぁっ!」
文秀が慌てたのは、美礼が突然涙を流し始めたからだ。涙が彼女の丸い頬を次々と伝い流れ、文秀は慌てて雑嚢を降ろすと、昨日洗って干したばかりの手拭いを出して、美礼に差し出した。
「いりません、そんな汚いの」
しかし美礼は、にべもない。そうですか、と肩を落として手拭いをしまう文秀は、ふと振り返って美礼に尋ねた。
「その婚約者って、誠源ってお名前ですか?」
「どうしてご存じなの?」
大きく目を見開く美礼に、しかし夢で見たとは言えない。そのようなことを言っても信じてくれるとは思えないし、それよりも文秀は、自分の中にあるさまざまの疑問を、目の前の美礼に解いてもらう方法を思いついた。
「華虹さまに聞いたんです」
いけしゃあしゃあと、文秀は言った。
「華虹さまは私を信用してくださっていて、いろいろお話してくださるんです。華虹さまが王女であらせられるのも、婚約者がおいでだったのも、そのお方が戦死なされたのも、お名前が誠源とおっしゃるのも、すべて華虹さまから伺いました」
「うそー、うそー」
声が聞こえる。無窮花の声だ。この緑の中に、無窮花の木があるらしい。しかし目の前の美礼には聞こえていなさそうなのは、無窮花が実際の声ではなく、文秀の頭の中にのみ話しかけているからなのか。
「まぁ、そうでしたの……」
美礼の口調が変わる。文秀が華虹と親しいというのを信じたらしい美礼を前に、文秀は俄然、張り切った。
「なら、順興のこともご存じですわね。華虹さまにお仕えしている、虎の精霊ですわ」
「ええ、もちろん。いつも仲よくしていただいています」
「仲よくぅ?」
文秀は、後ろ手に茂みをぱしっと叩いた。痛っ、と声がしたところを見ると、無窮花の茂みは文秀のすぐ後ろにあるらしい。
「あの虎が、華虹さまを連れ出したのですわ。あの虎を、華虹さまはことのほかおかわいがりになっておられて……」
そこで美礼は、ひとつ息をついた。
「ご存じです? あの虎は人間になりたいとの願いを持っていたものの、神の与えた、百日間洞に籠もるという試練に耐えられず、人間になれなかったんですの」
少々の侮蔑を込めての言葉に、文秀は驚いて目を丸くする。頷きながら、美礼は話を続ける。
「以来ある森に潜み、旅人を脅し精霊を従え、森の長として君臨していたのですけれど、ある日遠乗りに出られた華虹さまと会ったのですわ」
その光景が目に浮かぶようだ。真っ赤な裳を揺らめかせ、背を伸ばして立つ乙女と、鮮やかな模様を持つ大きな虎が、対峙するさま。
「華虹さまは襲いかかってきた順興を恐れもせず、凜と『その強さは、穢れなき心から出たものに違いない。それを正しく生かせないことが、そなたの不運。我が、そなたを導いてやろう』とおっしゃったんですの」
そのときのことを思い出したかのように、美礼はうっとりと空を見やる。
「順興はそのお心の強さと美しさに打たれ改心して、それ以来、華虹さまの従僕になったのですわ」
「なるほど……」
人間になり損ね世を僻んでいた者がそのような言葉を聞けば、どう感じるだろう。順興の盲目的なまでの華虹への信服は、そのようなことがあってゆえのことなのかと、文秀は心底納得した。
「しかし、順興は人型を取ることができますよね? あれは、人になったとは言わないのですか?」
美礼は、少し不思議そうな顔をした。まずい質問だったかと思ったが、美礼はすぐに答えてくれた。
「あれは、あくまでも見かけの話ですわ。術師だって、動物になったり草木になったりするでしょう?」
「……ええ、まぁ」
そのようなことができるのか、と文秀は心の中にこっそりと書き留めた。何しろ『未熟』な、自分でその自覚さえない術師なのだ。知らないことが多すぎる。
「でも動物の姿になっても、魂が人間であることは変わりませんわ。それと同じ。順興が人型を取っても、魂は虎のものであることには変わりありませんわ。百日間洞に籠もることができていたら、人間の魂を手に入れていたのかもしれませんけれど」
どうやら、美礼はおしゃべりな性質らしい。文秀の言葉が、実は華虹たちのことどころか術師のことさえをもよく知らないがゆえの問いだということに気づくよりも、自分の口を動かすことのできるきっかけを喜んでいるようだ。
「とにかく、順興が元凶なのですわ!」
怒りを露わにして、美礼は言う。
「誠源さまを失って毎日涙にくれる華虹さまは、王宮の書庫で懸命に何かを調べておいででした。いったい何を調べておいでだったのか……」
そこで、美礼は言葉を切った。眉を曇らせ、不安を隠さない表情をする。
「でも、華虹さまおひとりでおいでになれるわけがありませんもの。順興がいたからこそ、華虹さまは旅に出られる決意をされた。順興がいたから、順興がいたからこそ……!」
美礼は唇を噛む。ぎゅっと手を握りしめ、呻くようにつぶやく。
「そうやってある日、華虹さまは城を出られてしまったのです。一言、行きます、とだけ書き置きを残して」
「剣と鏡と、鈴を持たれて出て行かれたのですね」
「……まぁ」
美礼は、大きく目を見開く。まじまじと文秀を見たので、何か間違ったことを言ったかと心配になった。
「そこまで華虹さまは、お話しですのね。よほど、あなたのことを信用していらっしゃるのでしょう」
どうやら、間違ってはいなかったようだ。文秀は密かに胸を撫で下ろした。
「ならご存じでしょうけれど、あの天符印は、王の王たる証であり、王家の秘宝中の秘宝。むやみやたらに持ち出していいものではありません。私たちは王の、天符印を取り返せとの密命に従って、鳥を駆ってまいりました。けれど私は、天符印以上に華虹さまの御身が心配で……」
あの剣と鏡と鈴は、天符印というのか。文秀は再び、密かに心の中に書き取った。
また美礼は涙を流した。頬を濡らした涙を拭い、美礼は顔を上げる。文秀の手を取って、男なら誰でも心動かされずにはいられないような表情で、言った。
「お願いします、……」
そこで美礼は言葉を切って、じっと文秀を見た。
「あなたさま、お名前は何とおっしゃいますの?」
「あ、文秀です。朴文秀」
「では、文秀さま」
改めて、美礼は言った。
「文秀さまを信頼していらっしゃった華虹さまなら、文秀さまに何かをおっしゃっていたはず。どこへいらっしゃったか、せめて手がかりだけでもありませんでしょうか……?」
「手がかりと、申しましても……」
文秀は、はたと困って眉間に皺を寄せた。
最初はあてのない旅だと言っていた華虹には、しかしどうやら目的地があるようだ。それは推測できているものの、行き先については見当もつかない。憶測で言ったことが今まではとりあえず正しかったものの、迂闊なことを言ってぼろを出したくはない。
夢で見たことは、ただの夢ではない。それが誠源の名で確かめられた。実際にあったことを夢で見たらしい、という文秀の術師としての力が関係あるのかもしれないが、とにかく未熟、未熟と罵られる術師だ。どこまでが本当なのか、慎重に話す必要がある。
「華虹さまは、どこかを目指しておられました。しかしそれがどこなのか、私には教えてくださらなかった。ですが、その場所は……」
美礼が耳を澄ます。夢の中で聞いた言葉、あの場所の名を言っていいものか。あれは、真実なのか。
しかし、誠源の名が正しいものであったことが、文秀の背を押す。夢は真実を告げていたのだと、文秀を後押しする。
「塹星壇……」
「きゃああ――っ!!」
目の前の美礼が、大声を上げた。何ごとかと驚く文秀の耳に、無窮花の声が聞こえた。
「文秀、うしろうしろーっ!」
「なにっ!?」
文秀は振り向いた。そこにいたのは大きな蜘蛛。単純に大きな、などという言葉では表現できない。見上げるばかりに巨大な蜘蛛は禍々しい気を放ち、その前脚を蟷螂のように掲げている。その脚には無数の刃が光っていて、ひとつひとつが、文秀の雑嚢の中に入っている小刀よりも大きい。
「こ、んな……」
「きゃぁーっ、きゃぁーっ、きゃぁーっ!!」
美礼はくるりと文秀に背を向けると、走り出した。白い鳥も、ぎゃ、ぐわ、と声をあげながら走る。美礼は鳥に乗って、鳥は飛んで逃げればいいのだろうが、それぞれあまりの驚きに、そこまで頭が回らないらしい。
傍らの茂みから、尖った小枝が飛び出す。無窮花の武器だ。しかしそれらは巨大蜘蛛の体に刺さりはするものの、とても致命傷になどはならないようだ。それほどに蜘蛛は大きく、体は固そうだ。蜘蛛は、大きな脚を文秀に向かって振り下ろしてきた。
「うわぁーっ!」
文秀は大声で叫び、その場に転がる。転がって逃げたことで蜘蛛の脚の攻撃からは逃げられたが、鋭い脚の突き刺さったところからは、しゅうしゅうといやな匂いのする煙が上がっている。それを少し吸い込んでしまい、頭がくらりとした。
「毒か……!?」
ぞっとした。あの脚に少しでも触れれば、きっと命はない。文秀はとっさに体勢を立て直したものの、もう一本の脚が頭上に降ってくる。
「わぁ、ぁーっ!」
また地面を転がってかわす。しかし蜘蛛の脚は六本。一本がだめでももう一本、次々降ってくる脚に立ち上がることもできず、美礼のように逃げることもできなかった。とっさに天の神の言葉ひとつも思い出せないのは、初めて順興に会ったときと同じだ。
(もっと真面目に、術師としての攻撃でも学んでおけばよかった――!)
後悔が脳裏を貫く。何しろ同行者は華虹に順興、闇青に無窮花。新しく加わった飛仙児にしても、いずれも文秀程度の術師の才など必要としない術者に精霊。自分が強くある必要などなかったものだから、今まで何も学ばずに来てしまったのだ。
(呪語のひとつでも、教えていただいていればよかった。せめて、妖魔相手に逃げる術ぐらい……)
また一本、蜘蛛の脚をかわしながら激しく後悔する。無窮花の放つ棘に、蜘蛛は煩わしそうに顔を向け、その隙に文秀は立ち上がろうとしたが、その前に別の脚が振り下ろされる。
(だめだ……!)
文秀は、死を覚悟した。蜘蛛が脚を振り下ろすたびにしゅうしゅうと上がる、毒煙。避けきれずに何度もそれを吸ってしまったことで、頭もぼんやりし始めている。
(もう、私は……ここで)
目を閉じかけた刹那、頭を貫いたものがあった。桓雄、檀君。風伯・雨師・雲師。
それらの言葉は、闇青を倒したとき華虹が口にしていた呪語にあった名だ。信心深い者のように神を敬ったことは今までにはなかったが、浮かんだ名を口にしてみようという気になった。
「神檀樹に降りし、桓因が子……桓雄……」
思い出せるかぎり、華虹の言葉をなぞってみる。
「桓雄が子、檀君……風伯、雨師、雲師……風と雨と雲を司りし、風伯、雨師、雲師よ……」
無窮花の茂みから、棘が飛ぶのが見えた。その棘を凝視しながら、文秀は叫ぶ。その棘に毒が宿り、この巨大蜘蛛を倒せと念を込める。
「我が手に、力を及ぼしたまえ!」
無窮花の棘が、蜘蛛に刺さる。今まで棘が刺さっても、煩わしいというような仕草しかしていなかった蜘蛛が、牙の生えた口を大きく開ける。
ぎゃあ、と悲鳴が聞こえたような気がした。振り下ろされた脚はそのまま、なぜか別の脚が振り上げられることはなく、蜘蛛はそのまま固まってしまっている。
「ど、どうして……」
しかし、理由などどうでもいい。とにかく蜘蛛は動かない。文秀は立ち上がった。美礼たちが逃げた方に、懸命に駆ける。
「文秀さま!」
美礼が声をあげた。木の陰に隠れて、こちらを伺っていたらしい。
「早く、この子にお乗りになって!」
「待っててくれたんですか?」
「華虹さまの大切な方を、お見捨て申し上げるわけにはまいりませんわ!」
そのわりには真っ先に逃げ出しはしなかったか、と首をひねりながらも、とにもかくにも促されるままに美礼の後ろ、鳥の背に乗る。鳥は大きな翼を広げたが、何度もばさばさと羽ばたくものの、飛び上がらない。
「ああ、重すぎるんですわ……」
美礼が、絶望的な声をあげた。文秀は唇を噛む。自分が降りればいい。そう思ったが、同時にほかの考えも浮かんだ。
「……桓雄よ、檀君よ、風と雨と雲を司りし、風伯・雨師・雲師よ……」
先ほどよりは、もう少したくさん思い出すことができた。華虹の口にしていた呪語を、少しでも正確になぞろうとする。
「その旧族よ! 我が手に力を及ぼしたまえ!」
ばさり、と鳥が羽を動かした。何度かはばたたかせる動きは先ほどよりも大きく、やがて空気を孕んで、鳥の体は宙に浮いた。
「やった!」
「やりましたわ! 飛べましたわ!」
美礼が、両手を打ち合わせて喜んでいる。鳥はやがて木々よりも高く飛びあがり、力強く羽根を動かし、飛び始めた。
「文秀さまは、優秀な術師でいらっしゃるのですね……」
彼女の言葉が、どこかうっとりしたものであることに気がついた。まさか、朧気な記憶を辿ってあやふやなまま口にした言葉だったとは言えず、文秀はぽりぽりと頭を掻いた。
「いやぁ……こう見えても、華虹さまにも頼りにしていただいているんですよ」
「まぁ、そうですの! それは、優秀な方で当たり前ですわね」
ここは上空、突っ込みを入れてくる無窮花はいない。文秀はいっぱしの術師になった気分で、気持ちよく眼下を見下ろした。
「うわぁ……」
「文秀さまは、鳥に乗られるのは初めて?」
「初めてです。うわぁ、すごいなぁ、何もかもが小さく見える」
文秀はわくわくと、あたりを見回した。先ほどまでいた森も、その向こうを流れる川も、池も、向こうの山も何もかも、このような場所から見ることがあるとは思いもしなかった光景だ。ここからなら、先ほどの巨大蜘蛛も、普通の大きさに見えるだろう。
呑気に上空散歩を楽しんでいる文秀とは裏腹に、美礼は目を懲らし、あたりを懸命に見やっているようだ。
「美礼どの、どうなさいました」
「華虹さまを、お捜ししているのですわ!」
美礼の言葉に、はっとした。そう、彼女は華虹を捜しにここまで飛んできたのだ。そして今も懸命に、華虹を捜している。
「文秀さま、華虹さまがどちらに行かれたのか、ご存じじゃありませんこと?」
そう言われて、はっとした。あの巨大蜘蛛に襲われる前、文秀には言いかけたことがあったのだ。もしかすると、華虹の行き先かもしれないところ。まさかと思い、しかしあの夢が本当なら――恐らく真実であること。
「塹星壇を、ご存じですよね」
文秀の言葉に、美礼は驚いた顔をして振り向いた。
「摩尼山の……? ええ、もちろん知っておりますわ。でも、華虹さまがそんなところに……?」
無理もない。文秀も夢でその場所の名を聞いただけ、そこに何があるのかはわからないのだ。本当に、華虹がそこを目指しているのかも。
「塹星壇に……何があるんですの?」
美礼の問いに、文秀は詰まった。知らないと言っては、華虹に信用されているという言葉が嘘だということがばれてしまうかもしれない。しかし答えなどあろうはずがなく、今までいい加減なことを言い連ねてきたことを、後悔した。
「桓雄よ、檀君よ……」
小さく唱えてみたものの、何かが起こるはずもない。華虹が塹星壇に向かった理由が突然頭にぽんと浮かぶはずもなく、答えを待つ美礼の前、文秀はこれ以上はないくらいに困り果てた。
「いえ、それは……」
そのときだった。ひゅっと頬を掠めるものがある。何かと思えば、黒い鳥だ。それは文秀の肩に止まり、頬をくちばしでつついてきた。
「いたっ、いたっ、いたたたたた!」
「こんなところで何やってるんだよ、文秀!」
「飛仙児!」
燕の姿に、驚いた。飛仙児は文秀の肩の上で毛繕いしながら、黒い目でちらりと文秀を見上げてくる。
「華虹さまがお前を捜すように、僕に申しつけられたんだよ」
「華虹さま、ですって!?」
声をあげたのは美礼だ。美礼はいきなり振り返り、すると乗っている鳥がぐらぐらと揺れた。
「わぁっ、美礼どの、動かないで!」
「華虹さまですって!? お前、華虹さまのおいでになる場所を知ってるの!?」
美礼は、今にも飛仙児を握りつぶしでもしそうだ。文秀は必死で美礼を止め、鳥の上から転がり落ちそうになった。
「だ、誰これ……?」
「私は、華虹さまの侍女、美礼よ! いいから案内しなさい、華虹さまのもとに!」
「恐いよぅ……」
このままでは本当に握りつぶされるとでも思ったのか、心底恐ろしいという仕草を見せた飛仙児は、ひょいと美礼の手から抜け出し、飛んだ。白い鳥の前、一回大きく旋回してから振り返る。
「着いてきて。華虹さまは、あっちのほうでお待ちだよ」
「あっちって、どっち?」
勢い込んで尋ねる美礼からできるだけ遠のきながら、飛仙児は言った。
「摩尼山のふもとだよ」
文秀は、息を呑んだ。
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