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終章
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水が出なくなって、電気が絶えて。ガスレンジが火をあげることはとうになく、食べもののストックは、わさびやドレッシングさえなくなった。
家の中には、濃い腐臭が満ちている。そんな中畳のうえで裸の小鳩と昂志は抱き合い、互いに肌を擦り合わせる。
しかし昂志の男性は反応せず、小鳩も濡れることはない。ただ、それぞれの肌のぬくもりを感じるだけ。抱きあうと、互いの骨がごつごつと当たる。
「お腹、すいたね……」
「そうか?」
掠れた声で、昂志が言った。とぎれとぎれ、絞り出すようなしゃべりかたは、小鳩も同じだ。空腹と渇きで体中脱力していて、声もうまく出せないのだ。
「俺は、おまえがいればいいから」
「わたしも、お兄ちゃんがいればいいけど」
濃密な腐臭は、ふたりを包んでいる。しかしそのにおいは、昂志と小鳩の甘やかな時間を祝福するにおいで、ふたりのための時間は、常にこのにおいとともにあったのだ。
昂志は、ぎゅっと小鳩を抱きしめた。骨ばかりになってしまった腕は、初めて彼に抱かれたときのような強さはなかった。それでも、兄に抱きしめられているという事実が小鳩を満足させる。自らも、兄に縋りつく。
「俺、ずっと……おまえのことが好きだったんだな……」
しみじみと、噛みしめるように昂志は言った。
「好きになったと思った女は、何人もいたけど……結局、おまえだけを好きだったんだ」
「わたしは、ずっとずっと小さいときから、お兄ちゃんだけしか好きじゃなかったよ」
ゆっくりと、乾いた声で小鳩は言った。
「覚えてるよね? お兄ちゃんの手使って、ひとりエッチしてたの」
昂志は、くすりと笑う。
「ひとりエッチじゃないだろう? 俺の手、使ってたんだから」
そして、乾いたままの小鳩の股間に手をやった。小鳩は、ぶるりと身を震わせる。
「で、お兄ちゃんにすぐばれて。叱られて」
「そうだな。恋人同士がやることだって、俺は言って。でも、お前のほうが正しかった」
小鳩も、手を伸ばす。力ない昂志の欲望を手にし、緩慢な動作で、擦った。彼自身が反応することはなかった。しかし昂志は少し掠れた声を洩らすと、小鳩の額の、幼いころの傷にキスをした。
「あのころから……もしかしたら、その前から。ひとりエッチなんか知らないころから、お兄ちゃんが好きだった。わたしが好きになったのは、好きなのは、お兄ちゃんだけだよ」
「負けだよ、小鳩」
水気のない笑い声とともに、昂志は言った。
「負けだ。俺は、ばかだった。おまえが好きでいてくれたのに、全然気づかなくて……ばかだ。本当に、ばかだ」
昂志の声は、掠れてはいたが彼の心の真実を伝えていると思った。濃厚な腐臭の中、食べるものも飲むものも何もなくて、互いに身を擦り合わせるだけの時間の中、彼はやっと真実に気がついたのだ。
「嬉しい。お兄ちゃん」
小鳩は、掠れた声を弾ませた。
「嬉しい」
やはり骨だけの腕で、小鳩は昂志に抱きつく。弱々しい抱擁を繰り返す。ふたりは抱きあい、改めて互いの体温を確かめ合う。
「あ」
かさかさ、と音がしたのを小鳩は聞いた。気怠く頭を動かすと、そこにいたのは茶色いゴキブリだった。昂志も小鳩と同じ方向を見た。
昂志は、ゴキブリが嫌いだった。見るだけで悲鳴をあげて逃げまどい、そんな彼を小鳩は母とともに笑ったものだった。
しかし今の昂志は、少し眉根を寄せただけだった。声をあげることもしない。小鳩は、手を伸ばした。いつもならものすごい勢いで逃げていくゴキブリの動きは、しかしのそのそとゆっくりしている。餌になるごみすらないこの家で、ゴキブリも弱っているのだろう。
小鳩は、手を伸ばした。ゴキブリを掴んだ。手の中でうごめくゴキブリの触角が、ゆらゆらと揺れている。
「お兄ちゃん」
小鳩は、触角の生えたゴキブリの頭を、口もとに運ぶ。
「ポッキーゲームだよ」
そう言うとゴキブリをくわえ、尻の部分を昂志の口もとに寄せる。昂志は抵抗することもなく、口を開ける。
ふたりの歯は、極上の食材のようにゴキブリをしゃくしゃくと咀嚼した。ふたりして同時に、ごくりと飲み込んだ。
「美味しいね」
「うん」
昂志は、微笑んだ。小鳩のゴキブリを食べた口に、くちづけをしてくる。互いに舌を差し入れ、口の中に残っているかけらを舌先ですくい、互いの咽喉に押し込んだ。ごくり、と飲み込み、そして唇を離して笑いあう。
「美味しい、ね」
「そうだな」
ふたりは、同じ言葉を繰り返す。そしてまたキスをして、互いの存在を確かめ合う。
「好き、お兄ちゃん。好き」
「好きだ、小鳩」
同じ言葉を繰り返す。キスをして、互いの存在を――。
「好き。好き――お兄ちゃん」
漂う腐臭の中、小鳩はささやく。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん――」
声は、だんだんと掠れていって。小さくなって。そして――。
〈終〉
家の中には、濃い腐臭が満ちている。そんな中畳のうえで裸の小鳩と昂志は抱き合い、互いに肌を擦り合わせる。
しかし昂志の男性は反応せず、小鳩も濡れることはない。ただ、それぞれの肌のぬくもりを感じるだけ。抱きあうと、互いの骨がごつごつと当たる。
「お腹、すいたね……」
「そうか?」
掠れた声で、昂志が言った。とぎれとぎれ、絞り出すようなしゃべりかたは、小鳩も同じだ。空腹と渇きで体中脱力していて、声もうまく出せないのだ。
「俺は、おまえがいればいいから」
「わたしも、お兄ちゃんがいればいいけど」
濃密な腐臭は、ふたりを包んでいる。しかしそのにおいは、昂志と小鳩の甘やかな時間を祝福するにおいで、ふたりのための時間は、常にこのにおいとともにあったのだ。
昂志は、ぎゅっと小鳩を抱きしめた。骨ばかりになってしまった腕は、初めて彼に抱かれたときのような強さはなかった。それでも、兄に抱きしめられているという事実が小鳩を満足させる。自らも、兄に縋りつく。
「俺、ずっと……おまえのことが好きだったんだな……」
しみじみと、噛みしめるように昂志は言った。
「好きになったと思った女は、何人もいたけど……結局、おまえだけを好きだったんだ」
「わたしは、ずっとずっと小さいときから、お兄ちゃんだけしか好きじゃなかったよ」
ゆっくりと、乾いた声で小鳩は言った。
「覚えてるよね? お兄ちゃんの手使って、ひとりエッチしてたの」
昂志は、くすりと笑う。
「ひとりエッチじゃないだろう? 俺の手、使ってたんだから」
そして、乾いたままの小鳩の股間に手をやった。小鳩は、ぶるりと身を震わせる。
「で、お兄ちゃんにすぐばれて。叱られて」
「そうだな。恋人同士がやることだって、俺は言って。でも、お前のほうが正しかった」
小鳩も、手を伸ばす。力ない昂志の欲望を手にし、緩慢な動作で、擦った。彼自身が反応することはなかった。しかし昂志は少し掠れた声を洩らすと、小鳩の額の、幼いころの傷にキスをした。
「あのころから……もしかしたら、その前から。ひとりエッチなんか知らないころから、お兄ちゃんが好きだった。わたしが好きになったのは、好きなのは、お兄ちゃんだけだよ」
「負けだよ、小鳩」
水気のない笑い声とともに、昂志は言った。
「負けだ。俺は、ばかだった。おまえが好きでいてくれたのに、全然気づかなくて……ばかだ。本当に、ばかだ」
昂志の声は、掠れてはいたが彼の心の真実を伝えていると思った。濃厚な腐臭の中、食べるものも飲むものも何もなくて、互いに身を擦り合わせるだけの時間の中、彼はやっと真実に気がついたのだ。
「嬉しい。お兄ちゃん」
小鳩は、掠れた声を弾ませた。
「嬉しい」
やはり骨だけの腕で、小鳩は昂志に抱きつく。弱々しい抱擁を繰り返す。ふたりは抱きあい、改めて互いの体温を確かめ合う。
「あ」
かさかさ、と音がしたのを小鳩は聞いた。気怠く頭を動かすと、そこにいたのは茶色いゴキブリだった。昂志も小鳩と同じ方向を見た。
昂志は、ゴキブリが嫌いだった。見るだけで悲鳴をあげて逃げまどい、そんな彼を小鳩は母とともに笑ったものだった。
しかし今の昂志は、少し眉根を寄せただけだった。声をあげることもしない。小鳩は、手を伸ばした。いつもならものすごい勢いで逃げていくゴキブリの動きは、しかしのそのそとゆっくりしている。餌になるごみすらないこの家で、ゴキブリも弱っているのだろう。
小鳩は、手を伸ばした。ゴキブリを掴んだ。手の中でうごめくゴキブリの触角が、ゆらゆらと揺れている。
「お兄ちゃん」
小鳩は、触角の生えたゴキブリの頭を、口もとに運ぶ。
「ポッキーゲームだよ」
そう言うとゴキブリをくわえ、尻の部分を昂志の口もとに寄せる。昂志は抵抗することもなく、口を開ける。
ふたりの歯は、極上の食材のようにゴキブリをしゃくしゃくと咀嚼した。ふたりして同時に、ごくりと飲み込んだ。
「美味しいね」
「うん」
昂志は、微笑んだ。小鳩のゴキブリを食べた口に、くちづけをしてくる。互いに舌を差し入れ、口の中に残っているかけらを舌先ですくい、互いの咽喉に押し込んだ。ごくり、と飲み込み、そして唇を離して笑いあう。
「美味しい、ね」
「そうだな」
ふたりは、同じ言葉を繰り返す。そしてまたキスをして、互いの存在を確かめ合う。
「好き、お兄ちゃん。好き」
「好きだ、小鳩」
同じ言葉を繰り返す。キスをして、互いの存在を――。
「好き。好き――お兄ちゃん」
漂う腐臭の中、小鳩はささやく。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん――」
声は、だんだんと掠れていって。小さくなって。そして――。
〈終〉
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