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第十八章

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 小鳩が家に帰ってきたのは、次の日の朝だった。
 遠峰家のインターフォンが鳴ると、飛び出してきたのは昂志だった。彼は制服のままで、女性の警察官に付き添われたジャージ姿の小鳩を見ると、その場に座り込んでしまう。
「気づかってあげてください。体の傷は……その」
 警察官は、言い淀んだ。強姦されたわりには、犯人たちは紳士的だったようで小鳩の怪我は比較的少なかった。もちろん、歩くたびに両脚の間に耐え難い鈍痛が走るのだけれど。
「でも、心の傷のほうが……だいぶ、大きいと思いますので」
 小鳩は、じっと立ち尽くしていた。警察官は立ちあがった昂志に小鳩を託し、犯人の手がかりがあればこちらに連絡するように、と名刺を渡して立ち去った。
「小鳩……」
 昂志の手が、小鳩の肩にかかる。小鳩は、はっと顔をあげた。目の前には、昂志の顔がある。無理やり作り上げた幻想ではない、確かに昂志の顔を見て、小鳩はそっと、つぶやいた。
「制服……、ぼろぼろになっちゃった」
 昂志は、何も言わなかった。ひざまずいて小鳩の靴を脱がせてくれ、家に上げてくれる。
「びりびりになっちゃって、どうやったって直せないの。新しい制服なんか買うお金、ないのに……」
 台所に入り、腰に手を添えて座らせられたとき、小鳩はびくりと体を震わせた。
「いや……っ……」
「小鳩」
「いや、いや……、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん!」
 両手を空でぶんぶんと振りまわし、小鳩は叫ぶ。腕を取ろうとする昂志を拳で避けて、なおも叫びながら腕を振りまわす。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃんっ!」
「小鳩、俺はここだ!」
 ――聞きたかった、声がする。
 小鳩は、腕を振りまわすのをやめた。と、抱きしめられた。椅子に腰を落とした小鳩を肩の上から抱きしめ、ぎゅっと力を込められた。
「お、兄ちゃん……?」
 ああ、と彼は言った。ますます強く、決して離さないとでもいうように抱きしめられる。その腕の強さ、彼の温もり、涼やかに優しい匂い――小鳩は、大きく息をついた。
「お兄ちゃん、なの……?」
「うん。俺だ。お兄ちゃんだ」
「お兄ちゃん……」
 紛れもなく、愛しい兄。そんな彼に抱きしめられて、小鳩はしばし、呆然としていた。昂志の腕の力は変わらない。それはまるで小鳩を守ろうとしているようで、兄に守られる悦びに小鳩は微笑み――すると、昂志がほっとため息を吐いた。
「もう、大丈夫だから」
 昂志は小鳩の横に椅子を引っ張ってくると、隣同士に座る。彼は小鳩の肩を抱き、そうやって決して離れないようにとでもしているようだった。
「大丈夫……、もう、大丈夫だ。小鳩、もう大丈夫だから」
「お兄ちゃん……、お兄ちゃん」
 お互い、それしか言葉を知らないかのように繰り返した。身を寄せあい、抱きあい、互いを呼びあい、少しずつ落ち着いてきた小鳩は、咽喉が渇いたと言った。
「わかった」
 昂志は、そっと小鳩から手を離した。いきなり立ちあがって小鳩が驚かないようにとでもいうのか、まるで壊れものを扱うように小鳩に接してくれる。
 小鳩の背後で、ざぁ、と音がする。すぐに、昂志は戻ってきた。
「これしかないんだ、ごめんな」
 差し出されたのは、グラスに入った水だった。小鳩はこくりとうなずき、グラスを手にする。ひと口飲み、しかしぶはっと噎せてしまった。
「小鳩!」
 グラスが床に落ち、がちゃんと割れる音がする。しかしそれよりも、というように昂志は小鳩の背を撫でてくれた。
 大きな、兄の手。温かい手。水を飲むこともできない状態の小鳩だったけれど、昂志の手で落ち着いた。粉々になってしまったグラスを見下ろし、謝った。
「ごめんなさい。壊して」
「いいんだ、そんなこと」
 優しい声。涼やかな匂い。なおも背を撫でてくれる手。それらすべてに、小鳩は胸の奥の何かがちぎれてしまったように感じた。今まで、ずっと張りつめていた胸の奥の糸。それがぷちんと音を立て、切れた瞬間、小鳩の目に涙が浮かんだ。
「お兄ちゃん……!」
 そう叫び、彼の膝に突っ伏す。涙が、次から次からあふれてくる。男たちに犯されているときも、無惨な恰好で放置されていた小鳩を見つけてくれた犬の散歩中の老爺の前でも、警察でも泣かなかったのに。そのときの涙、すべてがあふれ出るように小鳩は泣き、泣いて、泣いて、泣き続けた。
 ようやく小鳩の涙がとまったのは、一時間もしてからかもしれない。顔をあげた小鳩は、昂志と視線が合って目を伏せた。
「学校、行きたくない」
「ああ」
「制服、ないし。友達にも……会いたく、ない」
「わかった。行きたくないんなら、行かなくてもいい」
 優しい声で、昂志は言った。小鳩は、沁み入る昂志の柔らかい声にうなずく。制服、とふと気がつくと、昂志の制服のズボンの膝はびしょびしょになっている。
「ごめんなさい……」
「小鳩が謝らなくちゃいけないことなんて、何もない」
 そう言って、昂志は小鳩の頭を撫でてくれた。それに深い息をつき、小鳩は再び昂志に抱きつく。
「小鳩を、こんな目に合わせたやつ」
 その声は、小鳩も震えてしまうくらいに冷えきっていた。
「許さない。俺が、殺してやる」
「だめ……!」
 思い出したくもない――しかし脳裏に焼きついて離れない、あの三人の男たちの姿を思い起こした。
「だって、ものすごく力も強くて、大きな体で……あんな人たち相手にしたら、お兄ちゃんのほうが死んじゃう!」
「だからって、警察に任せて俺はぼんやりしていればいいっていうのか? 小鳩を……俺の妹を、こんな目に遭わせたやつなのに」
 昂志は、拳を握っていた。それはわなわなと震えていて、小鳩は、それだけで充分だと思った。
「お兄ちゃんの、気持ちは嬉しい。でも、わたしはもう大丈夫だから」
 小鳩は、昂志の膝をそっと撫でた。びしょびしょの膝。小鳩の流した、悲しみと屈辱の涙のあと。
「それよりも、お兄ちゃんが殴られたりとか……そうなるほうが、いやなの。お兄ちゃんが痛い目に遭ったりするくらいなら、わたしがもう一度同じ目に遭ったほうがいい」
「ばか、冗談でもそういうこと、言うな!」
 昂志の手が伸びてくる。また、ぎゅっと抱きしめられる。彼の腕、匂い、吐息、温もり。それらに包まれて、小鳩はすべてがなかったような――あの悪夢は本当に夢で、自分は凄惨な目になど遭っていないような気がしてくる。
「お兄ちゃん……」
 抱きしめられたまま、小鳩は言った。
「わたしのこと、かわいそうだって思ってくれる?」
「かわいそう、なんて……」
 ぎゅっと唇を噛みしめて、昂志は答える。
「そんな言葉じゃ、足りない。全然、足りない」
 彼の唇に食い込む歯の力が、強くなった。
「足りない……、おまえをそんな目に遭わせて……俺が、何もできなかったことも」
「そんなの、お兄ちゃんのせいじゃない」
 自分も腕をまわして、昂志を抱きしめる。兄妹は、互いに抱きしめ合った。
「お兄ちゃんが、自分を責めることない。そんなことされたら、わたしが辛い」
「小鳩……」
 本当に、自分が許せないのだろう。昂志はなおも唇を噛みしめていて、だから小鳩は、にこりと笑った。笑い、そして唇に食い込む彼の歯を、ぺろりと舐めた。
「お、おいっ!」
「あはは、お兄ちゃん、びっくりした?」
 わざと明るく、小鳩は言った。
「そんなに噛んだら、血が出ちゃう。――お兄ちゃんと一緒。わたしもお兄ちゃんに、傷ついてほしくなんかないの」
 昂志は、きょとんとしている。小鳩は、もう一度彼に唇を寄せた。彼の歯はもう唇から離れていて、だから今度は、彼の歯の痕のついた唇をちゅくりと舐める。
 ――ファーストキスだ。
 そう思った。――これが、わたしのファーストキス。お兄ちゃんとの。
 ――相手が、お兄ちゃんでよかった。わたしの初めてが、お兄ちゃんでよかった。
 小鳩は、なおも微笑んだ。その表情に、傷が多少なりとも癒えたと思ったのだろう。驚いた顔をしていた昂志は、やがて笑い顔を作る。彼の胸に甘えて頭を擦りつけながら、小鳩は胸の中で繰り返した。
 ――そう、わたしの初めては、お兄ちゃん。わたしのすべては、お兄ちゃんのもの。
 そんな小鳩の心を、昂志はわかっているのではないだろうか。男たちに犯されながら、お兄ちゃん、と叫んでいた自分を彼は知っていたのではないだろうか。なぜか、そう思った。だから彼はこれほどに優しくて、小鳩に初めてのキスをくれるのだ。
 ――私たちは、通じあっている。同じ血を持っているってだけじゃない、心が通じあっている。だからお兄ちゃんはこれほどわたしを心配してくれて――キスだって、受け入れてくれて。
 それは、幸せな考えだった。小鳩は不幸を忘れ、身の奥の鈍痛を忘れ、ただただ、兄の優しさに、匂いに、温かさに、酔った。
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