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第十四章

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 母と昂志は、長い話をしていた。
 結局母が学校と交渉し、昂志はファミレスの調理バイトに入ることになった。彼の通っている高校はバイト禁止で、だからこれは例外的なことなのだという。
 禁止されているバイトをしてまで金銭が必要な理由を、小鳩は聞かされていない。『大人の話』を訊いてはいけないと思いつつも、こっそり小耳に挟んだのは、やはり父の残した借金が原因らしい。
 行方を眩ませた父の借金を母が払わないといけない理由は、小鳩にはわからない。しかし昂志がバイトを始めたことは、小鳩には堪えた。それは昂志が下校してすぐバイトに向かってしまい、帰宅が真夜中になることだった。
 中学校のとき、クラブでも帰宅は遅かった。しかし真夜中になるようなことはなかった。彼がバイトを始めてからは、帰宅後ほんの少し、顔を見るだけになってしまった。
 その代わり、しばしば遠峰家に顔を出すようになった人物がいる。その日も小鳩が宿題を終えたのと同時にインターフォンが鳴り、小鳩は渋々、部屋を出た。
「こんにちは」
 小鳩は、顔を歪めた。しかしそれを悟られないようにすぐに笑顔を作り、訪問者に顔を向ける。
「こんにちは、美咲さん」
「こんにちは。今日もお母さんも、昂志も遅いんでしょう? お手伝い、させてもらおうと思って」
 美咲は、手にしたスーパーの袋を振って見せた。
「今夜は、マカロニグラタンはどう? 小鳩ちゃん、好き?」
「……好き」
 それは事実だ。グラタンは小鳩の好物だった。そして昂志の好物でもある。
「付け合わせは、ホタテと絹さやの炒めもの。ホタテがね、お買い得だったの」
 まるで主婦のようなことを美咲は言う。それだけ彼女はしっかりしていて、美咲が訪ねてきたときは、小鳩はまるで手持ちぶさたなのだ。
「じゃあ、まずはお掃除しようか。小鳩ちゃん、手伝ってくれる?」
 小鳩は、むっとした。手伝うのは、美咲のほうだ。母が仕事で忙しい中、この家の主婦は小鳩なのであり、そこに踏み込んできたのは美咲のほうだ。その美咲が、小鳩に「手伝って」なんて。
 唇を噛んで、小鳩は言った。
「美咲さんは、ジュースでも飲んでて」
 そう言うと、美咲は驚いたように何度かまばたきをする。
「お掃除は、わたしがするから。グラタンも、わたしが作る。スーパーのレシート、ちょうだい? お金、払うから」
「そんな、小鳩ちゃん」
 美咲は、慌てたように言った。
「小鳩ちゃんだって、宿題とかしなきゃいけないでしょう? お掃除やお料理くらい、わたしだってできるから……わたしが来たときくらい、楽していいのよ」
「そりゃ、美咲さんは頭いいもんね」
 自分の声が、刺々しくなっていることに小鳩は気づいていた。しかしいったん堰を切った言葉は、止まらない。
「英語とか、すごくできるもんね。だから、わたしをかわいそうだって思ってくれてるの? 宿題やる暇もなくてお掃除とかお料理とかしなくちゃいけないわたし、かばってくれてるの? 美咲さんは頑張って勉強することないもんね。それで、お掃除もお料理もできて。そうやって自分がなんでもできるの、自慢してるの?」
 ひと息に、小鳩は言った。言い終えて、ひとつ息をつく。
「小鳩ちゃん……」
 美咲が、唖然と小鳩を見ている。彼女の困ったような顔に、小鳩はしまったと口を押さえたけれど、もう遅い。
 このようなこと、言うつもりはなかった。美咲を批判するようなことを言うつもりはなかった。美咲は、善意で掃除などを請け負ってくれているのだ。それはわかっている、わかっているのになぜあのようなことを言ってしまったのか。
「小鳩ちゃん、わたしは、そんなつもりじゃ……」
「帰って!」
 小鳩は叫んだ。
「帰って。買いものも持って帰って。わたし、買いものもお掃除もお料理も、全部自分できるんだから!」
 美咲の善意をわかっていて、小鳩はそんなことを言ってしまった。美咲はまだ困った、戸惑う顔をしていたけれど、やがてスーパーの袋を持って立ちあがった。
「ごめんね、小鳩ちゃん」
 玄関に向かいながら、美咲は言った。
「わたし、厚かましかったね。小鳩ちゃんがお家のこと、何でもできるのはわかってるのよ。でも、昂志もいないし……」
 昂志。美咲にひどい言葉をかけてしまったことを後悔していた小鳩は、そのひと言に再び自分の中で、燃え盛る炎が沸き立つのを感じた。
「わたしに、何か手伝えることがあるんじゃないかと思ったの。それだけなの。怒らないでね、小鳩ちゃん」
「帰って!」
 子供のように、小鳩は叫んだ。
「早く帰って! もう、来ないで!」
 地団駄を踏んでそう言う小鳩を悲しげに見やって、そして美咲は玄関のドアを抜けて出ていった。ばたん、と音がするのと同時に、小鳩は糸の切れた人形のように畳のうえに座り込む。
 目の前には、小さなビニール袋があった――スーパーの袋と一緒に美咲が持ってきて、それだけ忘れていったのだろう。中が透けて見えて、どうやらコンビニデザートが入っているらしい。小鳩の好きな、ロールケーキ――以前それを好きだと言ったのを美咲は覚えていて、買ってきてくれたのだ。
 優しい、お姉さん。そう、美咲はとても優しい。小鳩のことをあんなに気づかってくれて、あのようなことを言った小鳩のほうが、百パーセント悪い。それでも急いで走って家を出れば、まだ引き止められるところにいるであろう美咲を追いかける気にはなれなかった。つかまえて、謝る気にはとてもなれなかった。
 ――お兄ちゃんの、彼女。
 ――お兄ちゃんの、恋人。
 顔も見たくない。声も聞きたくない。二度と現われてほしくない。昂志の彼女、昂志の恋人――彼の、もっとも近くにいる人物。
 そんな彼女に感じるのは、憎しみだった。小鳩は今まで、このような感情を抱いたことはなかった。父にでさえ、恐怖を感じこそすれ憎んだりはしなかったのに。
 ――わたしは、ずるい。
 小鳩は、畳のうえに突っ伏した。ひくっ、と咽喉が鳴る。美咲への憎しみに体は震え、そのようなものを抱く自分を嫌悪した。嫌悪しながらも憎しみは消えず、それはなぜなのか、考えると小鳩の体はますます震えた。
 大嫌いよ、お兄ちゃんを独り占めする人なんて。お兄ちゃんが好きな人なんて。お兄ちゃんがキスして、服を脱がせて――あそこに、触るなんて。いや、いや、そんなこと、絶対にいや――!
 小鳩は、激しく頭を振った。
 お兄ちゃんがあそこに触ったことのあるのは、美咲さんだけじゃないんだから。わたしにも、あたしのあそこにも触ってくれたことがあるんだから。美咲さんだけじゃないの。あのとき、お兄ちゃんは怒らなかったもの。ただ、恋人同士がすることだって――。
 あの夜のことを反芻していた小鳩は、はっと息を呑んだ。昂志が家に招いた恋人は美咲だけだけれど、今までに昂志に恋人がいなかったとは思えない。キスをして、服を脱がせて、あそこに触ったことのある女性がいなかったとは言えないし、それが小鳩の知るよしもない女性で――。
 ――お兄ちゃん……!
 胸が疼く。きりきりと痛んで、小鳩は畳のうえを転がった。悶えながら転がって、するとぐちゃりと音がして、はっとした。
 美咲の持ってきてくれたロールケーキを、背中で潰してしまったのだ。せっかく、持ってきてくれたのに――ひどい言葉で追い出してしまった報いが、袋からはみ出してセーラー服の背を汚してしまったことなのだろうか。
 小鳩は、ゆっくりと起きあがった。潰れたロールケーキを拾い上げ、台所のテーブルのうえに置く。セーラー服を脱いで下着とスカートだけになると、ロールケーキの残骸をじっと見た。
 背中で潰しただけだ、食べられないことはない。食べることは、美咲への謝罪になるだろうか。食べずにごみ箱に放り込むことは、美咲への憎しみを形として現わすことになるだろうか。
 じっと、小鳩は台所のテーブルを見ていた。と、そこにがちゃがちゃと音が聞こえ、小鳩はびくりとした。
「ただいま」
「お兄ちゃん……」
 昂志だ。まだ宵の口にもなっていないのに、帰ってくるなんて。
「どうしたの……? バイトは?」
「なんか、今日は人手が足りてるから帰っていいって、店長が」
 言いながら昂志は台所に入ってきて、目を丸くした。
「小鳩、なんて格好してるんだ」
「きゃ……、きゃあ、きゃあっ!」
「きゃあはこっちだ、ちゃんと着替えてこい!」
 小鳩は、慌てて自分たちの部屋に駆け込んだ。スカートを脱ぎ、Tシャツと短パンのいつもの姿に着替えているところに、この狭い家、台所の昂志の声が聞こえた。
「美咲、来てないのか?」
 どきり、とした。テーブルのうえのロールケーキは、昂志の目に入るだろう。それを見て、彼はその無惨な有様をどう思うだろうか。
「今日、来るって言ってたのにな。晩メシ作るとか言ってたのに」
 遠峰家の誰も、携帯電話は持っていない。家庭の事情として仕方がないと思いつつもあたりまえのように持っている友達が羨ましかった小鳩だけれど、今だけはそれをありがたいと思った。
「美咲、どうしたんだろう。なんか、変なことになってなけりゃいいけど」
 着替えた小鳩は、台所に向かった。テーブルのうえの、潰れたロールケーキの入った袋を、取りあげる。
「何だ、それ?」
「何でもない」
 そう言って、小鳩はごみ箱にそれを投げ入れる。勢いよく投げつけたので、たまったごみがぷんといやなにおいをあげた。
「なんだ? コンビニの袋? なんか、買ってきたんじゃないのか?」
「いいの、別に」
 そう言って、小鳩は冷蔵庫を開ける。入っているのは牛乳に、バターに鶏肉。食材の棚には、小麦粉にローリエ、玉葱もあった。小鳩は薄く目をすがめてそれらを見る。美咲の不安そうな、戸惑ったような顔が浮かぶ。そして昂志を振り返った。
「夕ご飯、グラタンでいい?」
「おう、小鳩のグラタン、超美味いよな!」
 小鳩は微笑んだ。そして牛乳にバターを冷蔵庫から取り出し、使い古したエプロンを掛けると、夕食の支度に取りかかった。
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