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第九章
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小鳩が中学生になった夏は、記録的な猛暑だった。
遠峰家の母は、相変わらず働きづめの毎日だが、エアコンを買うだけの余裕はなかった。扇風機と団扇で凌ぐ夜、小鳩はタオルケットを腹の上に置いて、眠っていた。
隣には、昂志がいる。ふたりの部屋は相変わらず奥の六畳間で、布団を並べて扇風機が唸る音をBGMに、静かな夜が更けていった。
「……ん」
ふと、小鳩は目が覚めた。なぜ目が覚めたのかと寝惚けた頭であたりを見回す。すると、扇風機が切れている。小鳩がまだ赤ん坊のときから使っているものだから、仕方がないといえば仕方がない。それにしても、今壊れなくてもいいのに、と思う。
「あつ……」
小鳩は、小さくつぶやいた。しかし条件は一緒のはずなのに、昂志は安らかな顔で眠っている。規則正しい寝息は、目が覚めてしまった今ではかえって小鳩を覚醒させるものでしかなく、小鳩は安眠の中にある昂志が憎らしくなって、思わず投げ出された彼の右手を軽くつねった。
「ん……ん」
しかし昂志は、起きる様子はない。いわゆる、レム睡眠の最中というところなのだろうか。つねってしまって悪かった、と小鳩は昂志の手を撫で――同時に、どくりと高鳴るものを感じた。
――お兄ちゃん。
小鳩は、そっと昂志の手を取った。暑いせいで、今の小鳩はタンクトップとショーツだけだ。そろそろと、昂志の手をショーツに誘った。
――お兄、ちゃん。
そっと、拡げた両脚の間に昂志の手を招く。じわり、と体の奥から生ぬるいものが湧きあがる。それが何であるか、小鳩はもう知っていた。
まだ父がいたとき、それが原因で吐くほど殴られた、グラビア雑誌。あそこに載っていた体験告白手記、兄妹の告白には似たようなものがたくさんあって、そういうものは一読すれば捨てられてしまうものであることを、小鳩は知った。
こっそりと、人目につかない場所に捨ててあるそれらを拾い集め、兄妹ものの告白を貪るように読んだ。どれもこれも同じようなもので、しかしそれぞれがどこか違った。
何よりも小鳩を惹きつけたのは、常に兄が、妹が、真剣に愛しあっているということだった。許されぬ関係だからこそ惹かれあうふたりに小鳩は憧れ、そして常にそのふたりを昂志と自分に置き換えてきたのだ。
――お兄、ちゃ……。
昂志の指を、微かに濡れた股間に擦りつける。兄の指が、自分の秘部を愛撫している。そのことは暑ささえ忘れさせるほど小鳩を興奮させた。呼気が荒くなるのを懸命に抑え、彼を起こさないように、それでいて告白手記にあったように、ぐちゅぐちゅと音がするまで――。
「……あ、っ……ぁ……!」
それは、今まで体験したことのない絶頂だった。手記にあったとおり、否、想像していたよりも、もっと激しく熱い欲望。頭のてっぺんからつま先まで走り抜ける、激しすぎる快感。小鳩は声を殺し、それでも全身を引きつらせて、予想以上の快楽に酔った。
「は、ぁ……、っ、……」
そして、はっと気づく。いつの間にか昂志の手を強く握っていたのだ。彼が目を覚ましていないか、慌てて確認する。
昂志は変わらず規則正しい寝息を立てていて、小鳩はほっとする。彼の手を離すと、そっとタオルケットの中に収めた。そのとき、濡れているであろう彼の指先を拭うことも忘れなかった。
扇風機の音の途切れた部屋は、奇妙に静かだ。小鳩はまだ荒い息を治められないまま横になって、自分もタオルケットを被って眠ろうとする。
眠れるはずがない――体はまだ強く痺れていて、頭は霞がかかったようにぼんやりとしている。
お兄ちゃんの、手で――その興奮がなおいっそう小鳩を煽り、彼が横で眠っているからこそ、どうしても眠気は訪れない。やがて体の欲望が治まっても、小鳩の目はぱっちりと開いたままだった。
お兄ちゃんの手で、わたしは――。そう考えると頭が沸騰したようになり、また、もう一度、と情欲が叫ぶ。理性と本能のせめぎ合いに翻弄されたまま小鳩は一夜を過ごし、朝一番の鳥が鳴き出すまで一睡もできなかった。
□
扇風機は、新しいものになった。
おかげで、寝苦しさに悩まされることはなくなった。しかし小鳩は暑さのせいではなく目を覚ましている真夜中が多くなった。
昂志は、寝つきもいいし眠りも深い。そんな彼の手を取って自分の股間に導き、指を擦らせて絶頂を迎えた夜――たった一度のそれは小鳩の秘密で、隠しごとで、何にも比しての享楽の半夜だった。
その、ある深い夜。小鳩は目を見開いたまま、昂志の寝息を聞いていた。規則正しい呼気は、しかし小鳩を昂ぶらせるばかりだ。
あの夜みたいに、お兄ちゃんの手で、早くわたしを――どき、どきと胸が鳴る。あのときと同じことを――そう思うと緊張と興奮は高まって、その背徳が小鳩をますます追いつめる。
昂志の寝息が規則正しくなったのを見計らって、そっと手を伸ばした。昂志の手を取って、自分の股間に引き寄せ――そこで、小鳩ははっと目を見開いた。
「お兄ちゃん……?」
そこには、豆電球ひとつの暗がりの中、開いた瞳があった。その黒々とした艶さえわかるくらいにはっきりと見開かれた、目。
「小鳩」
彼は、はっきりと言った。
「だめだ、こういうことは」
「おに、ちゃ……」
小鳩は、唇を震わせた。指先も同時に小刻みに震えだし、やがてわななきは、全身に広がった。
「気づ、いて……?」
「はっきりわかったのは、今さっきだ」
怒るのではない、責めるのでもない。ごく落ち着いた口調で、昂志は言った。
「こないだ、扇風機が壊れた夜も、何かおかしいって思ってた。でも、夢かって」
ふぅ、とひとつ昂志はため息をつく。
「……違った、みたいだな」
がたがたと、小鳩は震撼する。そんな小鳩を、昂志はやはり冷静な目で見つめていた。
「こういうこと、興味ある歳だってのはわかる」
まるで、保護者のように昂志は言った。
「でも、だめだ。こういうのは。こういうのは、恋人同士とかがすることだ」
「だって……、だって……」
わたしは、わたしは、と小鳩は声をあげようとした。
――お兄ちゃんが、好き。
その言葉は、小鳩の胸に響く。好き、好き、好き。言葉は小鳩を苦しめるほどに、甘やかな感情へと導いた。
――いつも優しいお兄ちゃんが好き。怪我したわたしを慰めてくれて、かばってくれて、いつだって守ってくれるお兄ちゃんが、好き。
「だって、わたし……」
昂志が手を伸ばしたので、小鳩はびくりとした。彼は右手の人差し指を立てて、小鳩の唇に押し当てる。小鳩に、何も言わせないようにとでもいうようだ。
「おまえは、錯覚してるんだ」
彼は、何もかもを知っているような口調で言った。
「気持ちいいのが、好きなだけなんだ。兄貴の俺だったら、そこらの変な男とかみたいに、おかしなことになる心配はないからな。女に性欲がないとかは言わないけど、こういうのは、だめだ」
「せい、よく……?」
唖然と、小鳩は言った。
「うん」
困った声で、昂志は言った。妹に性教育を施さなくてはいけないのかと戸惑ったのかもしれない。しかし、性欲という言葉を小鳩は知っていた。学校の保健の時間に習ったのだ。もっともそれが具体的に何を指すのか、どういう状態を指すのかは教師が言葉を濁して口早に片づけてしまい、小鳩は首を捻ったものだったけれど。
「こういうの……性欲? なの?」
これが、性欲? 子供を作るのに必要なこと? それが――こんなに、気持ちいいことなの?
「そうじゃなかったら、なんなんだ」
少し苛立ったように、昂志は言った。小鳩はびくりとし、この暗がりでも、それは昂志に伝わったようだった。
「好奇心旺盛なのはわかるけどな。そういうの、興味……俺も、ないわけじゃないし」
「好奇心……?」
昂志は、小鳩の行為を単なる好奇心からの欲望でしかないと思っているのだ。違う――そう言いたかった。しかし小鳩に、いったい何が言えただろう。兄の手で、自分の股間を擦って――気持ちよくなかったなんて言えない。それならやはり、小鳩の行為は性欲ゆえの好奇心でしかないのだろうか。
小鳩の目の前は、真っ暗になった。お兄ちゃん、大好き――その気持ちも、結局は性欲ゆえでしかないのだろうか。
「そんな顔、するな」
ひとつ、ため息をついて昂志は言った。
「だから、怒らないって」
もうひとつ。彼は困ったような息をつく。
「怒ったりしないけど、もうやめろ。少なくともこういうので、俺の手使ったりするな」
「ごめん、なさい……」
そう、冷静に考えれば、昂志には気味の悪いことに違いない。妹が、眠っている自分の手を使って自慰をするなんて。自分の行為のあまりの奇異を思い知らされ、小鳩は唇を噛んでうつむいた。
「ごめ……、な、さ……」
「そんなに、謝らなくていいから」
なだめるように、昂志は言う。それでもその口調から苛立ちは抜けていなくて、小鳩は顔をあげることができない。
昂志は、精いっぱいというように鷹揚な口調で言った。
「もう、するな。女がどういうふうにするとか、よく知らないけど……でも、こういうのはよくないから」
昂志はそう言って、そして微笑んだ。目の端に映った彼の笑顔に、小鳩ははっと目を見開く。
彼は、怒鳴りたいのかもしれない。おかしなことをする妹を殴りたいのかもしれない。それでもこうやって笑顔を見せて、小鳩を脅えないように気づかってくれるのだ。それを前に、小鳩の行為はやはり単なる性欲ばかりではないと自分で思う。
単純な性欲ならば、相手は誰だっていいのではないか。しかし小鳩は、昂志以外はいやだ。クラスの男子や、担任の教師――吐き気がする。昂志以外は考えられなくて、それはやはり昂志のいうような簡略なものではないはずだ。
「いい子だから、小鳩」
やはり穏やかな口調で、昂志は言った。
「もう、寝よう。明日も学校なんだから」
「……うん」
もう先ほどのことは忘れてしまったかのように、昂志は明るくそう言った。無理やり忘れようとしているのかもしれない。妹の奇矯な行動を、脳裏から追い出そうとしているかのように彼は布団に横になり、しばらくすると聞き慣れた寝息が聞こえてきた。
――お兄ちゃん。
小鳩も、布団に横になった。しかし眠れるはずもなく、ただ兄の安らかな寝息を聞きながら、じっと薄い布団に身を横たえていた。
こんなに好きなのに、大好きなのに、こんなことになってしまって。明日からどう接すればいいのだろうか。朝になれば、いつものようにおはよう、と明るい表情で言えるのだろうか。
言える気が、しない。
それどころかもう二度と、兄の顔を見ることができないかもしれない。思い出すたびに自分の愚かさを思い知り、恥ずかしくて顔なんてあげられないかもしれない。
自分の浅薄さが、兄との距離を広げてしまった。二度と、まともに話すことなんてできない。彼を見るたびに拾い集めたあの告白手記のことを思い出し、そこに載っている絡みあう兄妹を自分たちに重ねていたことが小鳩の迂愚さを示していて。それが、兄との隔たりを作ってしまった――。
――ばか、ばか、ばか。わたしの、ばか。
小鳩は、自分を責めた。責めて、責めて、責めて、責めて、どうしようもなくなった小鳩の目には、うっすらとカーテン越しに射し込む薄い朝陽が見えた。
眠らずに朝を迎えるなんて、初めてだ。しかし小鳩には一向に眠気は訪れず、目覚ましが鳴るまで自分を責め続けながら、今まで一番重い朝を迎えた。
遠峰家の母は、相変わらず働きづめの毎日だが、エアコンを買うだけの余裕はなかった。扇風機と団扇で凌ぐ夜、小鳩はタオルケットを腹の上に置いて、眠っていた。
隣には、昂志がいる。ふたりの部屋は相変わらず奥の六畳間で、布団を並べて扇風機が唸る音をBGMに、静かな夜が更けていった。
「……ん」
ふと、小鳩は目が覚めた。なぜ目が覚めたのかと寝惚けた頭であたりを見回す。すると、扇風機が切れている。小鳩がまだ赤ん坊のときから使っているものだから、仕方がないといえば仕方がない。それにしても、今壊れなくてもいいのに、と思う。
「あつ……」
小鳩は、小さくつぶやいた。しかし条件は一緒のはずなのに、昂志は安らかな顔で眠っている。規則正しい寝息は、目が覚めてしまった今ではかえって小鳩を覚醒させるものでしかなく、小鳩は安眠の中にある昂志が憎らしくなって、思わず投げ出された彼の右手を軽くつねった。
「ん……ん」
しかし昂志は、起きる様子はない。いわゆる、レム睡眠の最中というところなのだろうか。つねってしまって悪かった、と小鳩は昂志の手を撫で――同時に、どくりと高鳴るものを感じた。
――お兄ちゃん。
小鳩は、そっと昂志の手を取った。暑いせいで、今の小鳩はタンクトップとショーツだけだ。そろそろと、昂志の手をショーツに誘った。
――お兄、ちゃん。
そっと、拡げた両脚の間に昂志の手を招く。じわり、と体の奥から生ぬるいものが湧きあがる。それが何であるか、小鳩はもう知っていた。
まだ父がいたとき、それが原因で吐くほど殴られた、グラビア雑誌。あそこに載っていた体験告白手記、兄妹の告白には似たようなものがたくさんあって、そういうものは一読すれば捨てられてしまうものであることを、小鳩は知った。
こっそりと、人目につかない場所に捨ててあるそれらを拾い集め、兄妹ものの告白を貪るように読んだ。どれもこれも同じようなもので、しかしそれぞれがどこか違った。
何よりも小鳩を惹きつけたのは、常に兄が、妹が、真剣に愛しあっているということだった。許されぬ関係だからこそ惹かれあうふたりに小鳩は憧れ、そして常にそのふたりを昂志と自分に置き換えてきたのだ。
――お兄、ちゃ……。
昂志の指を、微かに濡れた股間に擦りつける。兄の指が、自分の秘部を愛撫している。そのことは暑ささえ忘れさせるほど小鳩を興奮させた。呼気が荒くなるのを懸命に抑え、彼を起こさないように、それでいて告白手記にあったように、ぐちゅぐちゅと音がするまで――。
「……あ、っ……ぁ……!」
それは、今まで体験したことのない絶頂だった。手記にあったとおり、否、想像していたよりも、もっと激しく熱い欲望。頭のてっぺんからつま先まで走り抜ける、激しすぎる快感。小鳩は声を殺し、それでも全身を引きつらせて、予想以上の快楽に酔った。
「は、ぁ……、っ、……」
そして、はっと気づく。いつの間にか昂志の手を強く握っていたのだ。彼が目を覚ましていないか、慌てて確認する。
昂志は変わらず規則正しい寝息を立てていて、小鳩はほっとする。彼の手を離すと、そっとタオルケットの中に収めた。そのとき、濡れているであろう彼の指先を拭うことも忘れなかった。
扇風機の音の途切れた部屋は、奇妙に静かだ。小鳩はまだ荒い息を治められないまま横になって、自分もタオルケットを被って眠ろうとする。
眠れるはずがない――体はまだ強く痺れていて、頭は霞がかかったようにぼんやりとしている。
お兄ちゃんの、手で――その興奮がなおいっそう小鳩を煽り、彼が横で眠っているからこそ、どうしても眠気は訪れない。やがて体の欲望が治まっても、小鳩の目はぱっちりと開いたままだった。
お兄ちゃんの手で、わたしは――。そう考えると頭が沸騰したようになり、また、もう一度、と情欲が叫ぶ。理性と本能のせめぎ合いに翻弄されたまま小鳩は一夜を過ごし、朝一番の鳥が鳴き出すまで一睡もできなかった。
□
扇風機は、新しいものになった。
おかげで、寝苦しさに悩まされることはなくなった。しかし小鳩は暑さのせいではなく目を覚ましている真夜中が多くなった。
昂志は、寝つきもいいし眠りも深い。そんな彼の手を取って自分の股間に導き、指を擦らせて絶頂を迎えた夜――たった一度のそれは小鳩の秘密で、隠しごとで、何にも比しての享楽の半夜だった。
その、ある深い夜。小鳩は目を見開いたまま、昂志の寝息を聞いていた。規則正しい呼気は、しかし小鳩を昂ぶらせるばかりだ。
あの夜みたいに、お兄ちゃんの手で、早くわたしを――どき、どきと胸が鳴る。あのときと同じことを――そう思うと緊張と興奮は高まって、その背徳が小鳩をますます追いつめる。
昂志の寝息が規則正しくなったのを見計らって、そっと手を伸ばした。昂志の手を取って、自分の股間に引き寄せ――そこで、小鳩ははっと目を見開いた。
「お兄ちゃん……?」
そこには、豆電球ひとつの暗がりの中、開いた瞳があった。その黒々とした艶さえわかるくらいにはっきりと見開かれた、目。
「小鳩」
彼は、はっきりと言った。
「だめだ、こういうことは」
「おに、ちゃ……」
小鳩は、唇を震わせた。指先も同時に小刻みに震えだし、やがてわななきは、全身に広がった。
「気づ、いて……?」
「はっきりわかったのは、今さっきだ」
怒るのではない、責めるのでもない。ごく落ち着いた口調で、昂志は言った。
「こないだ、扇風機が壊れた夜も、何かおかしいって思ってた。でも、夢かって」
ふぅ、とひとつ昂志はため息をつく。
「……違った、みたいだな」
がたがたと、小鳩は震撼する。そんな小鳩を、昂志はやはり冷静な目で見つめていた。
「こういうこと、興味ある歳だってのはわかる」
まるで、保護者のように昂志は言った。
「でも、だめだ。こういうのは。こういうのは、恋人同士とかがすることだ」
「だって……、だって……」
わたしは、わたしは、と小鳩は声をあげようとした。
――お兄ちゃんが、好き。
その言葉は、小鳩の胸に響く。好き、好き、好き。言葉は小鳩を苦しめるほどに、甘やかな感情へと導いた。
――いつも優しいお兄ちゃんが好き。怪我したわたしを慰めてくれて、かばってくれて、いつだって守ってくれるお兄ちゃんが、好き。
「だって、わたし……」
昂志が手を伸ばしたので、小鳩はびくりとした。彼は右手の人差し指を立てて、小鳩の唇に押し当てる。小鳩に、何も言わせないようにとでもいうようだ。
「おまえは、錯覚してるんだ」
彼は、何もかもを知っているような口調で言った。
「気持ちいいのが、好きなだけなんだ。兄貴の俺だったら、そこらの変な男とかみたいに、おかしなことになる心配はないからな。女に性欲がないとかは言わないけど、こういうのは、だめだ」
「せい、よく……?」
唖然と、小鳩は言った。
「うん」
困った声で、昂志は言った。妹に性教育を施さなくてはいけないのかと戸惑ったのかもしれない。しかし、性欲という言葉を小鳩は知っていた。学校の保健の時間に習ったのだ。もっともそれが具体的に何を指すのか、どういう状態を指すのかは教師が言葉を濁して口早に片づけてしまい、小鳩は首を捻ったものだったけれど。
「こういうの……性欲? なの?」
これが、性欲? 子供を作るのに必要なこと? それが――こんなに、気持ちいいことなの?
「そうじゃなかったら、なんなんだ」
少し苛立ったように、昂志は言った。小鳩はびくりとし、この暗がりでも、それは昂志に伝わったようだった。
「好奇心旺盛なのはわかるけどな。そういうの、興味……俺も、ないわけじゃないし」
「好奇心……?」
昂志は、小鳩の行為を単なる好奇心からの欲望でしかないと思っているのだ。違う――そう言いたかった。しかし小鳩に、いったい何が言えただろう。兄の手で、自分の股間を擦って――気持ちよくなかったなんて言えない。それならやはり、小鳩の行為は性欲ゆえの好奇心でしかないのだろうか。
小鳩の目の前は、真っ暗になった。お兄ちゃん、大好き――その気持ちも、結局は性欲ゆえでしかないのだろうか。
「そんな顔、するな」
ひとつ、ため息をついて昂志は言った。
「だから、怒らないって」
もうひとつ。彼は困ったような息をつく。
「怒ったりしないけど、もうやめろ。少なくともこういうので、俺の手使ったりするな」
「ごめん、なさい……」
そう、冷静に考えれば、昂志には気味の悪いことに違いない。妹が、眠っている自分の手を使って自慰をするなんて。自分の行為のあまりの奇異を思い知らされ、小鳩は唇を噛んでうつむいた。
「ごめ……、な、さ……」
「そんなに、謝らなくていいから」
なだめるように、昂志は言う。それでもその口調から苛立ちは抜けていなくて、小鳩は顔をあげることができない。
昂志は、精いっぱいというように鷹揚な口調で言った。
「もう、するな。女がどういうふうにするとか、よく知らないけど……でも、こういうのはよくないから」
昂志はそう言って、そして微笑んだ。目の端に映った彼の笑顔に、小鳩ははっと目を見開く。
彼は、怒鳴りたいのかもしれない。おかしなことをする妹を殴りたいのかもしれない。それでもこうやって笑顔を見せて、小鳩を脅えないように気づかってくれるのだ。それを前に、小鳩の行為はやはり単なる性欲ばかりではないと自分で思う。
単純な性欲ならば、相手は誰だっていいのではないか。しかし小鳩は、昂志以外はいやだ。クラスの男子や、担任の教師――吐き気がする。昂志以外は考えられなくて、それはやはり昂志のいうような簡略なものではないはずだ。
「いい子だから、小鳩」
やはり穏やかな口調で、昂志は言った。
「もう、寝よう。明日も学校なんだから」
「……うん」
もう先ほどのことは忘れてしまったかのように、昂志は明るくそう言った。無理やり忘れようとしているのかもしれない。妹の奇矯な行動を、脳裏から追い出そうとしているかのように彼は布団に横になり、しばらくすると聞き慣れた寝息が聞こえてきた。
――お兄ちゃん。
小鳩も、布団に横になった。しかし眠れるはずもなく、ただ兄の安らかな寝息を聞きながら、じっと薄い布団に身を横たえていた。
こんなに好きなのに、大好きなのに、こんなことになってしまって。明日からどう接すればいいのだろうか。朝になれば、いつものようにおはよう、と明るい表情で言えるのだろうか。
言える気が、しない。
それどころかもう二度と、兄の顔を見ることができないかもしれない。思い出すたびに自分の愚かさを思い知り、恥ずかしくて顔なんてあげられないかもしれない。
自分の浅薄さが、兄との距離を広げてしまった。二度と、まともに話すことなんてできない。彼を見るたびに拾い集めたあの告白手記のことを思い出し、そこに載っている絡みあう兄妹を自分たちに重ねていたことが小鳩の迂愚さを示していて。それが、兄との隔たりを作ってしまった――。
――ばか、ばか、ばか。わたしの、ばか。
小鳩は、自分を責めた。責めて、責めて、責めて、責めて、どうしようもなくなった小鳩の目には、うっすらとカーテン越しに射し込む薄い朝陽が見えた。
眠らずに朝を迎えるなんて、初めてだ。しかし小鳩には一向に眠気は訪れず、目覚ましが鳴るまで自分を責め続けながら、今まで一番重い朝を迎えた。
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