壊すのならば、どうかわたしを。

月森あいら

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第五章

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 訪問者があったのは、そろそろ梅雨に入ろうかというある晴れた夕方だった。
 きちんとインターフォンを鳴らした訪問者は、迎えに出た小鳩に少し不思議そうな顔をし、言った。
「ああ、遠峰くんの妹さんだね」
「はい。遠峰小鳩です」
 そう言って、父の酒を買ってもらうとき大家にそうするように頭を下げた小鳩を、訪問者は不思議そうに見た。
「私は丹野といって、遠峰くんの担任なんだ。お母さんはいるかな?」
「お母さんは、いません」
 ふたりの母は、父の酒代とギャンブル代のために働きづめだ。昼間は弁当の工場、夜は警備の仕事。小鳩が知っているのはそれだけで、小鳩が寝てから帰って来、起きたときにはもう出勤している母の顔を、そろそろ忘れてしまいそうだ。
「うーん……、じゃあ、お父さんは?」
 色よい返事を期待しない口調で、丹野は言った。
 そのとき、誰だ、と出てきた父が酔っていなかったのは、彼にとって幸いだっただろう。いつものだらしない恰好ではなく、衿のついたシャツとチノパンをまとっていたのは、今からパチンコに行くつもりだからだと小鳩は知っていた。
「あ、遠峰くんのお父さんですか」
 丹野は、ほっとしたように言った。しかし父は不機嫌を隠しもせずに、じろりと丹野を見た。
「なんですかね」
「あの、遠峰くんのことですが」
 兄は、留守だった。友達の家に遊びに行っていたのだ。彼は、小鳩を父とふたりにすることをためらっていたが、父がパチンコに行くと言ったこと。そして兄の楽しみを邪魔したくない小鳩が「大丈夫」と言ったことに、後ろ髪を引かれつつ出かけていった。
「昂志が、どうしましたか」
「いえ、その……」
 丹野は、家の中をちらりと見た。ビール瓶の割れたかけらも、カップ酒の残骸もない。たまたま昂志と小鳩が片づけたあとだったからだけれど、それもまた、父には幸いだっただろう。
 家に上げてもらえるものだと思っていたのだろう。しかし父にはそのつもりはまったくなかったらしい。丹野が招かざる客であることを隠しもせずに、玄関の前に立っている。
 諦めたらしい丹野は、アイロンのかかったハンカチで額を拭った。
「よく、怪我をね、してるんですよ。遠峰くん」
 それが、なにゆえかわかっていないのはこの場では丹野だけだ。ひとりは加害者で、ひとりは昂志同様の被害者だ。
「いじめかと思ったのですが、どう調べてみてもそのような形跡はない。ご両親ならご存じかと思って、お訪ねしたのですが」
「いじめでしょう」
 父は、にべもなく言った。
「いじめられて、怪我させられてるんですよ。そういうことも把握できんのか、あんたのところは」
「いや、しかしですね、いじめの事実はまったくなく……」
 なおも額を拭きながら、丹野は言った。
「ご両親なら、何かご存じかと……」
「では、何だ。俺に原因があるっていうのか、あんたは!」
 父の怒声には慣れてる小鳩でさえ、びくりとしてしまうような大声で父は言った。
「俺が昂志に何かしてるっていうのか? 文句を言いに来たのか?」
 いつも以上の罵声に、丹野は縮こまる。
「訴えるか? 出るところに出るっていうんなら、出ようじゃないか!」
「いえ、そういうことではなくてですね……」
 額を拭う丹野の手は、忙しなくなった。
「ただ、事情を伺いに……」
「だから、いじめだといってるだろうが。あんたのところの管理が悪いんだ、それをうちのせいにされちゃ困る!」
「そういうわけでは……」
「帰ってもらおう!」
 父は、まるで威厳のある王のようにそう言った。
「いつまでもしつこく居座るようなら、テレビ局にでもどこにでも行くぞ! 児童の親に妙な言いがかりをつけて、自分たちの責任を放棄してるってな!」
 丹野は震えあがった。それは父の大声のせいだったのか、言った内容に対してなのか、小鳩にはわからなかった。
 すみません、と彼自身は悪くないのに丹野は縮み上がってそう言った。そして小鳩たちにくるりと背を向けると、ただでさえぎしぎしいう階段を、今にも壊れそうな音を立てて駆け下りていってしまった。
「何だ、あの男は」
 けっ、と吐き捨てるように父は言った。
「まったく、つまらんことで邪魔しやがって。気が削がれた」
 そう言って、父はいったんはまとったシャツを脱ぐ。チノパンも脱いで下着姿になり、部屋の真ん中に投げ捨てると、声をあげた。
「おい、小鳩! 酒だ酒!」
 今度縮み上がったのは、小鳩だった。兄もいないのに、父と家にふたりきり。しかも父は、酒を呑もうとしている。
「早くしろ、この愚図!」
 慌てて冷蔵庫からビール瓶を出しながら、小鳩は震えた。恐ろしいことが起こらないように、父の機嫌が悪くならないように――。
 小鳩は、祈る。
 ――お兄ちゃん、早く帰ってきて。
 ――お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん!
 繰り返し、小鳩は胸の奥で兄を呼び続けた。それだけが、よすがであるかのように。それだけが、小鳩のすべてであるかのように――。
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