皇女の鈴

月森あいら

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第五章

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 夜更けのことだった。
 吉備には就寝の挨拶を済ませ、明かりを消し自らも寝所に入ろうとしていた紫野は、ふと庭先で、馬のひづめの音を聞いたような気がした。
「どうしたの?」
 まだ寝んでいなかった同じ年ごろの女儒が、紫野が立ち止まったことに振り返った。
「なにか……聞こえなかった?」
「いいえ」
 彼女は、首をかしげながらかぶりを振る。
「馬のひづめのようだったのだけれど」
「もし、万が一のことがあるようだったら」
 紫野の心配にも、女儒は暢気な声で答えるばかりだ。
「宿直の舎人たちが黙っているわけはないわ。そのように心配しなくても、大丈夫よ」
「それは、そうなのだけれど……」
「わたくし、もう寝むわね」
 そう言って女儒は寝所へと踵を返す。しかし紫野はその場に立ったまま、音のしたほうを伺った。
「……!」
 やはり、聞こえる。紫野は部屋を飛び出した。どんどん小さくなっていく馬の足音は、しかし確かに耳に入った。そしてその音の、聞こえて来た先は。
「……氷高さま?」
 紫野はとっさに踵を返した。吉備の宮の向こう、氷高の宮の方から音は聞こえてきた。そちらにももちろん宿直の舎人はいるはずだが、紫野の心はなぜか、急いた。
 庭に降り、滑るように走った。宵も深いこの時間すれ違う近習はなく、紫野は氷高の寝所近くにたどり着く。
「氷高さ……」
 紫野は言葉を飲み込んだ。寝所への扉は少し開いている。その隙間から氷高と、そして吉備の影が見えたからだ。
 紫野は思わず身を潜め、耳を澄ませた。ふたりの低い話し声は、この距離ではほぼ聞き漏らすことなく耳に届く。
「わたくしには、したいことがあるの」
 氷高の声は低く優しく、子供に物語を聞かせてやる母親のようだった。
「だからあなたが、わたくしに気を使うことなどないのよ」
 少しだけ開いた扉の隙間からこぼれる氷高の影が、ゆるゆると首を振ったのが分かった。
「あなたは、どうなの? あなたが望むことは、なんなの?」
「わたくしは……!」
 声をあげる吉備に、氷高は微笑んだのだと思った。吉備の声は、何かに飲まれたように途中で途切れたままだ。
「あなたは、どうなの? あなたの心次第。お母さまも、あなたの意に添わぬ結婚をさせるおつもりはないでしょう」
 結婚。今まであまりにも縁遠かったそんな言葉に、紫野は眩暈さえ感じた。
「あなたのしたいようになさい。あなたが幸せになってくれることが、私たちの望み」
「……どうして?」
 いつぞや紫野にしたのと同じ問いを吉備は、氷高にも向けた。
「どうしてなの? ご自分がお幸せになることも、大切ではないの?」
 氷高の影は動かない。吉備は、彼女の膝にすがるように身を反らせた。
「お姉さまは? お姉さまは、それで構わないとおっしゃるの?」
「わたくしには、やらねばならないことがあるの」
 吉備の声を抑えるように、氷高の声は静かに、落ち着いている。
「それを成すことが、私の望み。私の幸せなの」
 氷高の手が伸びて、吉備の髪を撫でた。彼女の長い髪を指先でもてあそぶように、何度も、何度も撫でる。
「あなたの思っているようなことは、なにもないの」
 その声は、今までの調子とは少し違うように紫野の耳には届いた。沈むように、悲しむように。氷高の言葉とは、それは裏腹の色を持っているように感じられた。
「だから、吉備。幸せに、なってちょうだい」
 しばらく、静けさだけがあたりを包んだ。ややあって紫野の耳に届いたのは、吉備のすすり泣く声だった。
「わたくしは……長屋のお兄さまが……」
 吉備は、小さく息を飲む。
「長屋さまが、……好きなの」
「ええ」
 紫野の驚きは、氷高の反応とは正反対のものだった。氷高の声は当然のことを聞いた、とでもいうようにただ、穏やかに綴られた。
「祈っているわ。あなたの、恋が実ることを」
 恋、そして結婚。今までその意味を考えることもなかった、遠い言葉。そして吉備がひそかに胸に抱いていたその相手の名を目の前に、紫野は呆然と落ちた影を見ていた。氷高の膝に顔をうずめる吉備、そしてその頭を撫でる氷高の姿がそこにはあった。


 「申し訳ございません」
 紫野が深く頭を下げると、吉備は困ったように笑った。その笑みでさえ、あの夜を垣間見てしまったあとでは、紫野の知らない大人びた色を備えているように思える。
「決して、よこしまな思いからではございません。氷高さまの宮に、なにかよからぬ者が入り込んだのでは、と思いまして」
「それは、長屋さまよ」
 なんでもないことのように、吉備は言った。
「お姉さまのもとにいらしたのよ」
「あんな、夜更けに?」
「男の方が女のところに夜更けやって来るというのが、どういう意味か分からないわけじゃないでしょう?」
「それは……」
 吉備は、じっと紫野を見た。そして、恐縮したように身をすくめる紫野を慰めるように、にっこりと笑う。
「長屋さまは、お姉さまのもとにいらしたのよ」
「……ええ」
「でも、お姉さまは拒まれた」
 紫野が言葉を探すうちにも、吉備は大人びてさえいる笑顔を浮かべている。
「だから長屋さまは、お戻りになった。それだけのことよ」
「どうして、吉備さまがあそこに?」
「お前と同じよ」
 悪戯っぽく、吉備は笑った。
「わたくしも、お姉さまの宮のお庭で、物音を聞いたの。……もっともわたくしは、あれをよからぬ者だなんて思わなかったけれどね」
 さもおかしげな笑い声に、紫野はいたたまれなく、肩をすくめた。
 ちり、と涼やかな音が立つ。紫野が顔を上げると、吉備の手には金色の小さな鈴が握られていた。
「それは……」
 懐かしさに、目を細める。吉備もにこりと笑い、首をかしげた。
「これをいただいたときから」
 鈴を、手の中で転がす。それは、最初見たときの金色の輝くような艶を失ってはいたが、それでもなお、煌めくようなその音は初めて紫野の耳に届いたときと同じだった。
「わたくしはきっと、長屋さまを好きだったのよ」
「吉備さま……!」
 屈託なく自分の胸のうちを吐露する吉備に、しかし紫野には不安があった。
「吉備さまは、真実ご自分のお心から、長屋さまをお慕いでいらっしゃいますか?」
「……どういう意味?」
 鈴の音が、とまった。
「長屋さまと氷高さまが、いずれは妹背になられるのではないか、とおっしゃっておいでだったのは、吉備さまではいらっしゃいませんか」
「そうね」
 吉備は動ずる様子もなく、うなずいた。
「でも、そうじゃないと分かっただけのことよ。そういうふうに見えたとしても、おふたりのお心がそうでなければ、それはただ、間違いだっただけよ」
「吉備さま……!」
 吉備は紫野を見やり、にっこりと笑う。
「分かってるわ、お前の心配は」
 鈴を持ったままの吉備の手が、紫野に伸びる。そして彼女を勇気づけるように、手を握ってきた。
「わたくしのお姉さまへの憧れが、お慕いする男の方までお姉さまの真似をしたなどと、そのようなことを考えているのではないの?」
「……!」
 紫野は言葉を飲んだ。そんな彼女の動揺を目に、吉備はとがめ立てするでもなくゆっくりと首を左右に振り、そして変わらず、優しく微笑んだ。
「でも、言ったでしょう? わたくしは決めたの。わたくしは、幸せになるわ。お祖母さまも、お姉さまもそうと望んで下さった通り、わたくしは幸せになるの。そしてわたくしを幸せにして下さるのは長屋さまだけなのだと、そう確信しただけよ」
「お心から……?」
「ええ、もちろんよ」
 吉備は、深くうなずいた。
「それが、わたくしの生きる道なのだから」
「……」
 吉備の言葉の意味を計ろうと顔を上げた紫野の目には、ただ吉備の微笑みだけが映った。
「もちろん、長屋さまがわたくしを拒まれたら、それは仕方のないことだけれどね」
「そんな……!」
 紫野は驚いて、かぶりを振る。
「吉備さまに真摯なお心で想われて、それを拒む方などおいででしょうか」
 吉備の笑みは崩れない。紫野の必死の言葉を、ただ優しく柔らかい表情で聞いているままだった。
「そうね、そうだといいわね……」
 窓から吹き込む風に髪を揺らされながら、吉備は外を見た。その表情が、誰かを待っているもののようで。紫野もまた、窓の方へと顔をやった。
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