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6.おもかげ

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「ケレノ──ケレノ聞こえますか──」

「セゼル……?」

 自らを呼ぶ聞き覚えのある声を、ケレノは微睡みながら聞いた。

「フレオラ様は貴女をお許しになると。すぐに戻って来なさい」

「やだ、戻りたくない……」

 その率直な拒絶に対し、声は怒りを込めて訴えた。

「その娘がそんなに大事ですか──? フレオラ様よりも?」

「フレオラは……嫌いじゃない。だけど、ルルナは……ぼくの」

「友だと、まさか、そう言うつもりですか?」

 冷たく、セゼルは指摘した。
 そして……さらに付け加える。

「目を覚ましなさい。彼女と貴女は友になどなれない。なれるはずもない。何故ならば、貴女は悪魔で、彼女、ルルナは人だからだ」

「やめて!」

 ケレノは声を荒げ、強く叫んだ。
 だが、セゼルは言葉を止めることはない。

「ルルナは貴女の表面しか知らない。仲良くなった気になっているだけなのですよ。お互いにね。いいですか、我々を受け入れてくれるのは、フレオラ様だけ──」

「違う……ルルナは……!」

「戻りなさいケレノ。ルルナの為を思うのなら、むしろ、戻るべきだ──」


 ──────


「嫌!」

 ケレノは起き上がり、目を覚ました。
 その隣では、ルルナがすーすーと寝息をたてている。
 どうやら、夢だったらしい。だが、それが単なる夢でないということも、ケレノは知っていた。
 これが鎧の悪魔セゼルの能力。他者の夢に入り込み、心を操作する力。
 悪魔同士ではそれほどの効力は無いが、今のケレノにとっては彼の言葉があまりに重々しく響いた。

「ルルナ……」

 穏やかな寝顔を見て、ケレノの心は激しく揺れる。
 彼女にとって、それは初めての感覚だった。それでも、戻らねばならないと、自分に何度も言い聞かせてみる。
 体は、凍ったように動かない。むしろ、凍ってしまえば良いとさえ願った。
 遠い過去を振り返っても、辛いことなど殆どなかったが、近い過去には、胸を焦がすような何かが、その胸をいっぱいにするほどに溢れていた。
 それを何と呼べば良いのか、彼女にはまだわからない。

「これ、返さないと……」

 ケレノは静かに立ち上がり、羽織っていたマントを、座ったままの姿勢で眠るルルナの肩にかけた。

「セゼル」

「──何です?」

 何処からともなく、声は応える。
 確固たる意思をもって、ケレノは言葉を続けた。

「ぼくは戻る。だから、せめてルルナを、安全な場所まで連れていってあげて」

「成程、まぁ、それくらいなら良いでしょう」

 その声と共に、夜の闇の中から鎧の悪魔が姿を現した。その足元は、夜よりもさらに黒く、地を焦がすように塗りつぶされている。
 彼はここから来て、また、ここからケレノを連れ帰そうとしているらしい。

「来なさい。ケレノ」
「わかった」

「まって……!」

 ……その声に、ケレノは思わず振り替えるが、どうやら、寝ぼけたルルナの寝言だったらしい。

「名残惜しいですか? そういえば、彼女を運ぶのが条件でしたね。なら、これで構わないでしょう」

 実に無感情にセゼルは述べると、ローレント王国周辺へ繋がる転移石をルルナの傍らに投げ捨てた。
 その態度と行為を見て、ケレノは紅い瞳に明確な怒りを宿らせ、無言で訴える。

「貴女がそんな目をするなど──実にゾッとしない話です。人間の情にほだされる悪魔、ましてや、それが貴女だなんて。黒蜥蜴ケレノ」

「……!」

「何故そんなにも怒るのですか? 本来なら私は、そこで眠りこけている彼女をフレオラ様の元へ連れていくつもりでした。それを、貴女への配慮で見逃すと言っているのですよ?」

 挑発ともとれるその言葉、しかし、セゼルにその意図はない。
 ただ現状に感想を述べているだけに過ぎず、それ以上も、以下もない。
 それが本来の悪魔の心というものだ。

「確かに、実にゾッとしないな。ああ、実につまらん!」

「なんだ……!?」

 突如、セゼルの背後から謎の声が響く。
 その声は、悪魔の心でさえ揺さぶるほどの、強烈な意思を宿していた。

「ただし、詰まらんのはお前だ、鎧」

 現れたのは、竜翼の少女。大魔王ファノマである。

「我は大魔王ファノマ。何故か先に言われた気がするが、まあよいわ」

「大魔王……もしかして、ルルナの友達の?」

 そう言われて、ファノマは少々意外そうに、しかし内心喜びを隠しきれないという表情で答えた。

「ふむ、近いが、ちと違うな。もっと深い関係だ。野望を共にする者とだけ、今は言っておこう」

「よくわからない……」

 悪魔二人の間へ、突然割って入るように現れたファノマ。
 彼女は、帰りの遅いルルナを心配し、その魔力を辿ってここまでやって来たのだ。
 二人の魔力の波長は良く似ており、探るのはそう難しいことではなかった。
 そしてそれは単なる偶然ではなく、実は三ヶ月前の二人の出会いは、ファノマが近しい魔力の者を探そうとした結果だったのである。

 突然現れたファノマの姿を前にしても、セゼルは動じず、あくまでも無感情に告げる。

「何者かは存じませんが、邪魔をするのなら排除いたしますよ」

「排除、か……」

 その時、ファノマの全身から、凄まじい波動が放たれる。
 それは、決して雰囲気や威圧感ではなく、確かな物理的衝撃となってセゼルを襲った。
 彼はなんとか吹き飛ばされぬよう地に手つき、両の脚へ力を込める。
 無機質な鋼鉄の体が、激しく圧し飛ばされ地を削る。

「ぐっ!?」

「悪魔ごときが、大魔王を排除できるか?」

 衝撃を受けながらも辛うじて地に伏すことなく、セゼルは眼前の敵を見据えた。

「どうやら、ハッタリではないようですね……ファノマという名は、聞いたこともありませんが」

「ま、最近始めたばかりだからなぁ」

「……解せぬのは、何故あなたが私の邪魔をするのかです。私は当初、あなたの正体が魔王ウルではないかと考えた。だが、違うらしい」

 ケレノは、ほんの僅かだけ瞬いた。
 その様子を見たセゼルは、直ぐに言葉を続ける。

「貴女は、そこにいる、黒蜥蜴ケレノと関係があるのですか?」

「無い。というか、どの辺が黒蜥蜴なんだ。渾名を付けるなら、裸ん坊将軍とかじゃないのか?」

「……」

 流石にケレノも、その渾名には不服そうな表情を浮かべている。
 セゼルは尚も質問を続けた。

「ではやはり、そちらのルルナ嬢のご友人ですか」

「ん、まー、そんな感じだな。説明が面倒だからそれで構わん。というか、いつまで寝とるんだコイツルルナは……」

 セゼルは無機質な顔に、ぼうっと、紅い瞳の輝きを灯す。
 そして妙に穏やかな口調で、ファノマへ訴えかける。

「では、こうしましょう。私は一先ず、ケレノを連れ帰ればそれで良いのです。ですから、ルルナ嬢には一切手出しはしない。それで構わないでしょう?」

「駄目だ」

 ファノマは余りに率直に答えた。
 予想外の反応に、セゼルは鎧兜の隙間から覗く紅い瞳を、僅かに濁らせる。
 そして、今度はセゼルも率直に聞いた。

「何故ですか?」

「決めるのは、そこにいる裸ちゃんだ」

「は、はだかちゃん……」

 またも酷い渾名を付けられ、ケレノは露骨に嫌そうな顔をする。
 だがファノマは気にせず、言葉を続けた。

「お前自身が決めるんだ。ルルナは我が臣下、になる予定なのだ。だから少々お節介を焼かせてもらう」

「ぼくが……決める……?」

「そうだ。勝手に消えてルルナを悲しませるのは、この我が許さん。お前が我が臣下と友になったのなら、最後までそう有って見せろ」

「ぼくは──」

 言い終わる前に、セゼルが動いた。
 その瞳が紅く夜闇を照らし、残影を吐き出しながら揺れ動くと、鋼鉄の巨体は霧のように闇へと溶け、姿を消した。

「思い出せケレノ、お前の真なる主を。彼女はお前を赦す。決して処罰したりはしない。受け入れてくれる」

 暗闇に溶けたセゼルは、静かに訴えかける。
 それは呪いとも呼ぶべき言葉。悪魔が悪魔たる所以、心揺さぶる甘言であった。

「闇に紛れて囁いて、心を惑わせる、か。その鎧姿のわりに、実に狡いな」

 ファノマは詰まらなそうに吐き捨てる。
 彼女がその拳を振り下ろし、周囲に凄まじい轟音が響き渡ったのは、それとほぼ同時だった。

「がっ……!」

「で、お話は終わりなのか?」

 堅牢な鎧が、たったの一撃で大きくひび割れた。
 セゼルは改めてファノマを見る。紅い瞳に映るそれは、人の形をした、竜。
 そこには、紛れもなく竜が立っていた。

「大魔王、か……」

 セゼルは再び、今度は一瞬にしてその姿を消し去った。
 だがファノマはそれ以上動こうとはしない。敵の気配が、跡形もなく完全に消えたからだ。
 勝てないとわかれば、直ぐ様退く。
 一見臆病ともとれる行動だが、セゼルは実に冷静に相手の実力を見極め、対応したとも言える。

「逃がしてやったよ」

 ファノマはやれやれといった感じに言う。
 それに困惑しながらも、ケレノは僅かに微笑みを返した。

「しかし、ルルナはまだ寝ておるのか……まさか、死んでないよな?」

「大丈夫、息してるから」

 その余りに真面目な返しに、ファノマは思わず吹き出す。
 ケレノにはなにがそんなに可笑しいのかわからなかったが、取り敢えず自分も笑ってみた。

「ふふっ……」

「うむ、なんか馬鹿にされてないか我? まあよいわ。おい、ルルナ、起き──」

「まって」

 ケレノは制止するように、そっとちいさな声で言った。

「朝まで寝かせておいて、あげたい」

「フーーーン……そうか。まぁ、良いだろう。我は睡眠とか取らんし、良くわからんがな。じゃあ後は任せたぞ」

 ファノマは口をとんがらせ、おどけた感じで呟く。そして傍らに、ノドロの家への転移石を転がした。

「ルルナにこれを渡しておけよ。それじゃ」

「ありがとう」

 応えるように軽く頷くと、ファノマは現れた時と同じように忽然と姿を消した。

 残されたケレノは、ルルナの傍らに寄り添うと、彼女の肩にかかっているマントをそっと手で掴み、少しだけ自分の方にもかけた。

「おい、そこまでやっていいとは言ってないぞ……」

 遠くの方で声が聞こえた気がしたが、誰の姿も見えないので気のせいだと感じ、ケレノはそのまま眠りに落ちた。


 ──────


「うーん……あれっ!? 私寝ちゃってた!?」

 早朝、ルルナはようやく目を覚ました。
 まだ使い慣れない大魔法を使ったことで、自分でも気付かぬうちに疲労が貯まっていたのだろう。
 しかし、充分な睡眠を取り、今は完全に元気を取り戻していた。

「えーっと、あれ? ここ何処だっけ? あ、グルムゲルゲの森、じゃない……あっ」

 傍らで寝ているケレノを見て、漸くルルナは全てを思い出した。

「ひゃ、ひゃあっっ!?」

 驚き、奇声を上げるルルナ。
 それに気付いたのか、ケレノはぼんやりとした顔でゆっくりと目を覚ます。

「ルルナ……」
「あ、えーっと、おはようございます」

 ルルナが少々目のやり場に困っていると、ケレノはマントを羽織り、珍しく、自ら口を開いた。

「ちゃんと眠れた?」

「え、はい! バッチリです!」

 凄いのは、あれだけの事があったというのに、全く気付かず眠り呆けていたルルナである。
 そんな彼女を安心したように見つめながら、ケレノは転移石を手渡し、ゆっくりと立ち上がった。

「これは……」

「ファノマっていう人が、渡してくれた」

 その名前を聞いて、ルルナはパッと表情が明るくなる。
 それを見て、少しばかり複雑な何かを感じながらも、ケレノは言葉を続けた。
 話したのは、昨夜のこと。セゼルの言葉と、そして自らの意思。戻らねばならないということだった。

「ぼく、もう行かないと……」

「行くって……フレオラさんの所ですか?」

 こくり、と頷いて、ケレノは無言で答える。
 ルルナはころころと表情を変え、今度は不安そうに訴えた。

「あの……やっぱり、やめた方が良いですよ! フレオラさん、怒ってるかも……良かったら、私と一緒に来ませんか?」

「大丈夫」

 微笑みをたたえ、ケレノは慈しむような声で言った。
 ……それを見ていると何故だか、ルルナはさっきまでよりもずっと不安になり、自分自身のことのように、心が重くなった。
 そして、こう叫ばずにはいられなかった。

「行かないで……!」

「っ……」

 絞り出すような悲痛な叫びに、固く誓った筈だったケレノの決心は、波のように激しく揺らいだ。
 これまでずっと自分の心にあった何かが、どろどろに溶け落ちて、重々しく自らを締め付けた。
 それでも、その感覚はただ苦しいだけでなく、決して後ろ暗くはない素直な答えへと、彼女を導いた。

「心配しないで。安心して、ルルナ。ぼくは平気だよ」

 ケレノは思い付く限りの言葉を尽くす。
 それは余りに不器用で辿々しいが、一つ一つ、決して溢れ落ちることのないように、丁寧に紡がれた。

「これから何があったとしても、ルルナのことは絶対傷つけない。約束する」

「どうして、そうまでして……」

「やらなきゃいけないことが、あるんだ。だから……」

「平気じゃ、ないよ……ケレノさん、つらそうだもん……それに、せっかく仲良くなれたのに……」

「だめだよ……泣かないで」

 悪魔ケレノは、自ずと出たその言葉の意味が、よくわからなかった。ただ、ルルナの顔を見ていたら何故だか、そんな言葉が出てきた。
 そう、まだ絞り出せる。今ならまだ、言いたいことが言葉にできる。
 別れを伝えなければ。また揺らいでしまう前に。

「石……使って」

 どちらかが先にここを去れば、どちらか一人は後に残される。
 だから、そう促した。戻れば、きっとルルナには待っている人がいるだろうから。

「また会えますよね……?」
「それも、約束」

 ルルナは顔を拭い、精一杯微笑んだ。
 そして自然と、目の前にある肩を、包むように抱きしめた。

「あ……マント、返さなきゃ」

「ううん、あげるよ。それ、師匠に貰ったんだけど……裸じゃ困るもんね」

 触れていたのは、ほんの僅かな間だった。
 それでも、お互いの手の熱が離れてから、本当に別れるまでが名残惜しくて、次の言葉が中々出てこない。
 それでもやがて、どちらともなく、そっと告げた。

「またね」

 重なりかけた二つの声は幻のように溶けて、もうそこに、ルルナの姿は無かった。
 残された影は小さく震えながら、その足元に溢れ落ちる雫のように、そっと地に沈んで、黒くうねる。やがてそれは天高く舞い上がると、その姿を鳥に変え、何処かへと飛び去って行った。

 空には、鳥が飛んでいる。
 どこかぎこちなくも、力強く飛ぶその鳥の首元には、布切れのようなものがしっかりと巻き付けられていた。


 ──────


 カーム公国領、ウェノス高原にて……

「ぐっ……馬鹿な……あり得ない……」

「何がだ? 全ては必然だ。貴様はそれなりに強いのかも知れぬが……本来、人が、悪魔に叶う道理などない」

 人間が一人、山羊頭の怪物と対峙している。
 怪物の言葉は嘲りのように、また、静かな叫びのようにも聞こえた。

「アレスと言ったか? 強き人間よ、この悪魔ヴェーガの手によって死ねることを、地獄で誇るがよい」

 怪物は腕を振り下ろした。
 人の形が遠く、引き裂かれて飛び散った。
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