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満員電車

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 思いがけず松山さんからいただいたお土産に嬉しい気持ちが隠せなかった。

 私はシャチが好きだ。
 イルカやクジラの方が当然人気があるけれど、シャチの、粗野な性格の中にあるあの黒々とした優しい目にとても惹かれる。松山さんは、私の好きなものを知っていたのだろうか。


 根付はいったん頭の隅に置くことにして、私は残りの仕事に取り掛かった。
 私がパソコンに向かっている間、週末を目前とした金曜だからか、一人、また一人と足早に帰宅していった。気の利いた誰かが不必要な電気をそっと消していくため、残っている人の部分だけが暗がりの中で明るく残る。夜中は電話も減り、一層静かだ。クーラーのよく効く人の少ないオフィスで私も仕事に没頭できる。キーボードとマウスの音だけしか聞こえない。私は粛々とたまった仕事を片付けていった。

「金目、帰るぞ!」
 突然の松山さんの声に私は飛び上がった。

「あと5分で会社を出るぞ、誕生日くらい、その日中に家に帰れ」
 松山さんに言われるまで、自分の誕生日のことはすっかり忘れていた。
「俺も一緒に出る。雨に降られないと良いんだがなあ」

 ビルの1階の守衛さんに挨拶をし、松山さんと私は会社を出た。
 外はムッとした暑さで満ちていて、おまけに雨がぽつぽつと降り始めていた。雨は歩いているうちにだんだん本格的になってきて、途中から走ったものの、駅に着くころには私たちはすっかり濡れてしまっていた。

 いつもと違う帰宅時間だからか、明るいホームには電車を待っている人が大勢いた。
「降られちまったなぁ」
 松山さんは雨と汗をタオルでぬぐいながら残念そうに言った。
「でも久しぶりです、こんなに早く帰るの。」と私もハンカチで自分の雨と汗を拭きつつ、明るく返した。
「金目、お前は仕事しすぎだよ、、、」と松山さんに呆れられてしまった。

 ファーンと急行電車がホームに入ってきた。
「よし、これで多少は早く帰れるな。」

 私たちは家が同じ方向で、松山さんは私よりももっと先で降りる。多少混むだろうけれど急行の方が早く帰れて良いだろう。

 電車には次々と人が乗り、私たちは奥のドアの方まで追いやられてしまった。湿度は高くても、車内はエアコンが効いていて十分涼しい。私たちは雨跡が絶え間なく流れる窓を眺めながら、時折、松山さんの現場の様子なんかについて話をした。

「凛香ちゃん、松山さんの帰りが遅いって怒ったりしないんですか?」
 私は不意に訊ねた。
 奥様は出産の時にお亡くなりになり、娘の凛香ちゃんを文字通り男手一つで育てていることを、私は以前に松山さん本人から聞いている。

「なかなか早く帰ってやれなくて、寂しい思いをさせてるかもしれないな。本人はあまりそういう素振りは見せないんだが。」
 私はそれを聞いて、まだ小さかった時の弟を思い出した。
「松山さん、子供って、あっという間に大きくなっていまいますよ。女の子ならきっと尚更です。そばにい
てあげて欲しいなぁ、、、」
 最後は独り言のようになってしまった。松山さんも黙って聞いていた。

 松山さんを含め、親しい間柄の同僚は私の生い立ちを知っている。会社で一緒にいる時間が長い分、過度に気遣いをされないよう、私は敢えてさらっと伝えるようにしていた。

 子供にはできるだけ寂しい思いをしてほしくない。
 私の中で、昔の幼い弟と、まだ会ったこともない小さな凛香ちゃんが重なった。

 松山さんと私は、お互い押し黙り、雨が打ち付ける暗い窓の外を見つめていた。時折強い風も吹き付けて、雨足は一層強くなってきている。
「金目」と松山さんが何かを言いかけた。

 その時、反対側のドアが開き、外の騒がしさで松山さんの声がかき消された。
 たちまち、ホームで待っていた沢山の人がわぁっとすごい勢いで車内になだれ込んできた。
「あっ」私はその勢いに押されてバランスを崩し転びかけた。

 本当に、一瞬だった。

 松山さんの腕がさっと伸び、私を支えてくれた。そのまま抱えられるようにしてドアの前まで引っ張られた。松山さんは素早く自分の腕とドアの間に隙間を作り、私を群勢から守る盾になってくれた。
 すぐ目の前に、鼻先に、松山さんの胸がある。雨の匂いと混ざった松山さんの匂いが私を覆った。

「っ、金目、大丈夫か?」
 私がつぶれないよう踏ん張る松山さんの声が、頭のすぐ上から降ってきた。
「大丈夫です」
 そう答えるのが精一杯だった。

 あまりにも急なことに、私はなぜだか一気に体温が上がってしまい、心臓が早鐘を打っていた。

 松山さんは上背がある方だとは思っていたが、まさかこんな形で再認識するとは思っていなかった。家族以外でこんなに人に近づいたことが、なかった。
 シャツ越しに、松山さんの体温が伝わってくる。いや、私の体温なのかもしれない。少し前まで涼しかった車内で、体が燃えるように暑かった。
 もうすぐ私の降りる駅だというのに、そこに着くまでの時間が、とてつもなく長く感じた。
 私はなぜだかいたたまれない気持ちでいっぱいで、顔を上げることができなかった。

「〇〇駅~お降りの方は足元お気をつけくださ~い」
 車内のアナウンスがそう言い、満員の乗客がのしかかっているドアが私の背後で重く開いた。
 降りる時も、私が吹き飛ばされないように松山さんがかばってくれ、そのまま扉の脇へそっと促してくれた。

「じゃあ気をつけて帰れよ、また来週な」

 人がいっぱいで騒がしいはずなのに、松山さんの声だけがくっきりと耳に残った。松山さんは何でもなかったように人でごった返す電車に戻った。

 すぐにドアが閉まり、電車は夜の暗がりの中に溶けて行ってしまった。
 けれども私は、その電車が見えなくなるまで、駅でずっと立ち尽くしていた。
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