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俺と推理と迷いと春と
第1話だ 最初からとばして行くぞ
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よう。また会ったな。
俺は探偵の「桃太郎」だ。
妙な名前だと思うだろうが、この名前には訳がある。ま、それについては、後でゆっくり話すとしよう。だって、俺は今、忙しいから。「忙しいから」は大人が言ってはいけないフレーズだが、俺は言おう。忙しい!
俺は今、悪者を追って町の大通りを走っている真っ最中だ。そう、つまり、全力疾走中! ちゅう!
この小さな田舎町でも事件は起こる。探偵は正義の仕事だ。町の平和は俺が守らねばならん。もちろん、司法手続きについては、この横の車道の向こうの警察署の中の人たちに任せるつもりだ。だが、この世には法で裁けない悪事もある……おっと、いけねえ。俺は探偵だった。処刑人でも自警団員でもない。真実の追究、これが俺の本業だ。悪者を懲らしめるのは俺の領分じゃない。が、逃げようとする奴は、つい本能的に追っちまう……という事ではないが、追いかけるには追いかけるなりの、ちゃんとした理由がある。ま、一つだけ付言すれば、俺の強い正義感がそうさせるって訳だが、細かい事は後にしてくれ。とにかく今は忙しい。そんなことを説明している暇は無い! 無い 無い 無い かっこリフレインかっこ返し。
野郎、随分と逃げ足の速い奴だぜ。それにしても、なぜ警察署から警官が一人も出てこないんだ。俺は連続窃盗犯を追っているんだぞ。しかも、全力疾走で。少しは手伝ってくれてもいいじゃないか。ていうか、手伝っているのは、俺だ! だあ! だあ だあ…… 風に流されていく俺の声。と、言っている間に、横を車がどんどん追い越していくじゃないか。ちくしょう、早え。いや、追い越していく車がな。あのコソ泥野郎には、必ず追いついてみせる! ああ、念のために言っておくが、俺は車の免許を持っていない。それにも訳がある。自慢じゃないが、俺が持っていないものは運転免許だけじゃないぞ。俺には住民票も戸籍もない。つまり俺は、よく世間で言うところの「ゴースト」とか「シャドー」とか言う部類なのさ。裏の世界で生きる俺としては、この方が都合がいい。ああ、これも言っておくが、いくら俺が「シャドー」でも、俺は日陰よりも日向の方が好きだ。しかも、仕事の都合上、ちょっとカッコイイから「裏の世界」とか言っているだけで、別にコソコソと生きているわけじゃない。正々堂々、公明正大、ポッカポカが好きだ。だから正直に言う。俺には金もない。ま、探偵には貧乏が付き物だから、これは仕方ないとしよう。ああ、そうだ。初めての奴もいるだろうから、これも言っておこう。俺は自分の年齢が分からん。年齢もなにも、そもそも誕生日を知らん。たぶん、そう歳はとっていないと思うが、子供じゃないことは確かだ。とにかく、自分で自分のことをよく分かっていない。ま、あんたと同じさ。
さて、俺はコソ泥野郎を追って町の「大通り」――と言っても片側一車線の対面道路だが、その大通りに沿って並ぶ商店街の前の歩道を走ってきた。野郎は喫茶店と信用金庫の間の狭い路地に入っていきやがった。馬鹿な奴だ。喫茶店の手前で曲がっていれば広い空き地だし、喫茶店のもう少し先で曲がっていれば、信用金庫の裏の駐車場に出られたはずなのに、わざわざ、こんな狭い路地に入り込むとは。この先は行き止まりだ。喫茶店が入っているビルは三階建てだし、突き当たりはビジネスホテルの壁だし、隣の信用金庫の敷地との境には高いブロック塀が立ててあるし、まあ、普通なら飛び越えられる高さじゃないし、追いかけてきたのは、この俺様だしね。ふふん。逃げ場は無いぜ。どれ、入ってみるか。
ああ、これも諸君に言っておこう。よく探偵モノの小説や映画なんかで、私立探偵が銃を持っているが、俺はそんな物は持っていない。この国ではご法度だからな。まあ、用心のために短い「切れ物」を隠し持ってはいるが、銃刀法に引っ掛かるようなモノじゃない。心配するな。ああ、素人はマネするなよ。いくら法律に違反しなくても、そもそも刃物なんかを持ち歩いちゃいかん。これは俺だからOKなんだ。ま、分かるよな。一応、コンプライアンスの為に言っておく。コンプライアンス。プの次のラの発音が難しい。前歯の裏に舌をつけて「ラ」だ。そう、るぁ。こんぷラいあんつ!あでっ……舌噛んだ……。
さてと、野郎はどう出てくるかな。おお、案の定、行き止まりで行き止っているぜ。ビジネスホテルの壁の前で周囲をキョロキョロと見回していやがる。馬鹿な奴だ。
お、振り返ったな。やる気か。――なんだ、震えてやがる。大人しくお縄に……あぶねっ。この野郎、殴りかかってきやがった。だが、そんな猫パンチじゃ、俺を倒すことはできないぜ。俺は探偵だ。探偵は神経を張り詰めて生きているんだ。反射神経も伊達じゃない。今のようなスローパンチじゃ、飛んでいるハエも……お、またか。もう一発かと思ったら、今度は「切れ物」を出しやがったな。おまえも持っているのか。危なかったぜ。うおっ、反対側からも切りかかってきた。この野郎、両手に刃物か。準備のいい奴だ。しかも、刃先はよく研がれているみたいだな。俺の短い髪の毛がパラパラと散りやがる。あと数ミリ前に顔を出していたら、額をザックリとやられていたぜ。あぶねえ、あぶねえ。
仕方ない、ここは得意のアレでいくしかないな。いくぞ、この右のブロック塀を利用して……三角蹴り!
俺はブロック塀に跳び、中腹の高さの部分を強く蹴ると、その反動を利用して高い角度から強烈なキックを野郎の首と肩の付け根の部分に浴びせてやった。喫茶店のビルの壁に激突した野郎は、地面に転がる。俺は軽やかに着地した。だが、気を緩めはしない。俺は構えを崩さなかった。野郎は腰が抜けたようで、震えながらヨタヨタと歩いて行く。さて、トドメの一撃を食らわすべきか否か……。
その時、喫茶店の裏口が激しく開き、中から厨房着のおじさんが出てきて怒鳴った。
「こらっ! 喧嘩はあっちでやれ!」
驚いたコソ泥野郎は、慌てて一目散に逃げていきやがった。待ちやがれ! イテっ。退けっ、おじさん! 喧嘩の仲裁は親切な事だが、今は邪魔だ、新聞紙で叩くな、おじさん。ていうか、喧嘩じゃないし。畜生、逃げられちまった。なんだよ、もう! はあ、せっかくの見せ場だったのに。今、盛り上がっていたところだろうが! ここでイッキに読者の心を、特に若い女性の心を鷲掴みする場面だぞ! 俺は鷲じゃないけど。俺は俺でワシじゃない……JAROか!
それにしても、あの野郎、どうも、この界隈では見ない顔だったぞ。あれは流しのドロボウだな。ま、これくらい痛い目に遭わせておけば、暫らくはこの地域には寄り付かないだろう。とりあえず、あとは警察に任せるか……。
俺は振り返り、おじさんに言った。
「俺だ。桃太郎だ。驚かせて悪かったな。例の連続窃盗犯を追い詰めて……」
「お、なんだ。桃ちゃんかい。ごめんな。怪我はしなかったかい?」
おじさんは良い人だ。金が無い俺に、よく昼飯を奢ってくれる。素性の知れない俺がこの町に来てからずっと、俺に優しく接してくれる人だ。
おじさんは言った。
「まったく、世知辛い世の中になったよなあ。どこの世界も競争と喧嘩ばっかりだ。うんざりするね、まったく」
「ホントだな。まあ、奴はもうこの近くには来ないと思う。当分は俺が目を光らせておくから、安心しな」
「争い事は嫌いなんだよなあ。はあ……」
おじさんは、狭い路地から大通りの方を望みながら深く溜め息を吐いた。どうやら、相当に疲れているようだ。今度は項垂れている。何か悩み事でもあるのかな。そう思った俺が声を掛けようとすると、おじさんが顔を上げた。
「あ、そうだ、桃ちゃん。いいのが有るんだ。ちょっと待ってな」
おじさんは厨房の中に戻ると、白いパックを手に持って再び出てきた。
「なんだよ、そりゃ」
「腹が減っているんだろう。それじゃあ体も動くまいて。こんな雑な出し方で悪いけど、いいモノなんだ。さっき冷蔵庫から出したばかりだから、よかったら食べてくれよ」
「お、ハムじゃないか。随分と気前がいいな。長い距離を全力疾走したんで、丁度、お腹が空いていたところだったんだ。遠慮なく頂くぜ」
「インターネットで注文した高級ハムだぞ。よーく味わって食べろよ。ランチ・セット用にスライスして準備していたんだけど、随分と余っちゃってね。切った分は明日までもたないし、どうせ、夕方からはハムサンドなんか注文する人はいないなから。これ全部食べてくれ」
どうやら、この小さな町の小さな商店街で限られた数の顧客を奪い合うのは大変らしい。ランチ・メニューの差別化を図るために、わざわざネットで高級ハムのお取り寄せか。それでも客が来ない。こりゃあ、相当な赤字だな。
俺はおじさんの顔を見た。おじさんは眉を八字に垂らし、じっとこちらを見ている。そして、また溜め息を吐くと、厨房の中に戻っていった。スチール製のドアを閉める音に力が無い。
なんか、この白いパックの中に丁寧に重ねて並べられている厚切りのハムを見ていると、何となく胸が苦しくなって、どうもハムが喉を通らないな。だけど、高級ハムらしいから、ちゃんと完食して帰ろう。残りのハムは全部まとめて頬張って……、んん……、くひはんはん(口パンパン)。うんん、うまい。今、俺の口の中では肉の旨味が大太鼓を叩いているぞ。肉汁祭りだ。トントントン……まな板を叩く包丁の音か。ああ、おじさんがネギか何かを切っている音だな。きっと、このスチール製のドアの向こうでは、おじさんがディナータイムの仕込みに勤しんでいるんだ。がんばれ、おじさん。
よし、着ているベストの襟を少し整えて、ドアの向こうのおじさんに一礼。ありがとう、おじさん。
白パックはここに置いて……もう少し右の方がいいかな、ここだど、ドアを開けて出てきたおじさんが踏んで、足を滑らせるよな。この辺に置いておくか。
さてと。じゃあ、捜査を続けるとするか。
俺は探偵の「桃太郎」だ。
妙な名前だと思うだろうが、この名前には訳がある。ま、それについては、後でゆっくり話すとしよう。だって、俺は今、忙しいから。「忙しいから」は大人が言ってはいけないフレーズだが、俺は言おう。忙しい!
俺は今、悪者を追って町の大通りを走っている真っ最中だ。そう、つまり、全力疾走中! ちゅう!
この小さな田舎町でも事件は起こる。探偵は正義の仕事だ。町の平和は俺が守らねばならん。もちろん、司法手続きについては、この横の車道の向こうの警察署の中の人たちに任せるつもりだ。だが、この世には法で裁けない悪事もある……おっと、いけねえ。俺は探偵だった。処刑人でも自警団員でもない。真実の追究、これが俺の本業だ。悪者を懲らしめるのは俺の領分じゃない。が、逃げようとする奴は、つい本能的に追っちまう……という事ではないが、追いかけるには追いかけるなりの、ちゃんとした理由がある。ま、一つだけ付言すれば、俺の強い正義感がそうさせるって訳だが、細かい事は後にしてくれ。とにかく今は忙しい。そんなことを説明している暇は無い! 無い 無い 無い かっこリフレインかっこ返し。
野郎、随分と逃げ足の速い奴だぜ。それにしても、なぜ警察署から警官が一人も出てこないんだ。俺は連続窃盗犯を追っているんだぞ。しかも、全力疾走で。少しは手伝ってくれてもいいじゃないか。ていうか、手伝っているのは、俺だ! だあ! だあ だあ…… 風に流されていく俺の声。と、言っている間に、横を車がどんどん追い越していくじゃないか。ちくしょう、早え。いや、追い越していく車がな。あのコソ泥野郎には、必ず追いついてみせる! ああ、念のために言っておくが、俺は車の免許を持っていない。それにも訳がある。自慢じゃないが、俺が持っていないものは運転免許だけじゃないぞ。俺には住民票も戸籍もない。つまり俺は、よく世間で言うところの「ゴースト」とか「シャドー」とか言う部類なのさ。裏の世界で生きる俺としては、この方が都合がいい。ああ、これも言っておくが、いくら俺が「シャドー」でも、俺は日陰よりも日向の方が好きだ。しかも、仕事の都合上、ちょっとカッコイイから「裏の世界」とか言っているだけで、別にコソコソと生きているわけじゃない。正々堂々、公明正大、ポッカポカが好きだ。だから正直に言う。俺には金もない。ま、探偵には貧乏が付き物だから、これは仕方ないとしよう。ああ、そうだ。初めての奴もいるだろうから、これも言っておこう。俺は自分の年齢が分からん。年齢もなにも、そもそも誕生日を知らん。たぶん、そう歳はとっていないと思うが、子供じゃないことは確かだ。とにかく、自分で自分のことをよく分かっていない。ま、あんたと同じさ。
さて、俺はコソ泥野郎を追って町の「大通り」――と言っても片側一車線の対面道路だが、その大通りに沿って並ぶ商店街の前の歩道を走ってきた。野郎は喫茶店と信用金庫の間の狭い路地に入っていきやがった。馬鹿な奴だ。喫茶店の手前で曲がっていれば広い空き地だし、喫茶店のもう少し先で曲がっていれば、信用金庫の裏の駐車場に出られたはずなのに、わざわざ、こんな狭い路地に入り込むとは。この先は行き止まりだ。喫茶店が入っているビルは三階建てだし、突き当たりはビジネスホテルの壁だし、隣の信用金庫の敷地との境には高いブロック塀が立ててあるし、まあ、普通なら飛び越えられる高さじゃないし、追いかけてきたのは、この俺様だしね。ふふん。逃げ場は無いぜ。どれ、入ってみるか。
ああ、これも諸君に言っておこう。よく探偵モノの小説や映画なんかで、私立探偵が銃を持っているが、俺はそんな物は持っていない。この国ではご法度だからな。まあ、用心のために短い「切れ物」を隠し持ってはいるが、銃刀法に引っ掛かるようなモノじゃない。心配するな。ああ、素人はマネするなよ。いくら法律に違反しなくても、そもそも刃物なんかを持ち歩いちゃいかん。これは俺だからOKなんだ。ま、分かるよな。一応、コンプライアンスの為に言っておく。コンプライアンス。プの次のラの発音が難しい。前歯の裏に舌をつけて「ラ」だ。そう、るぁ。こんぷラいあんつ!あでっ……舌噛んだ……。
さてと、野郎はどう出てくるかな。おお、案の定、行き止まりで行き止っているぜ。ビジネスホテルの壁の前で周囲をキョロキョロと見回していやがる。馬鹿な奴だ。
お、振り返ったな。やる気か。――なんだ、震えてやがる。大人しくお縄に……あぶねっ。この野郎、殴りかかってきやがった。だが、そんな猫パンチじゃ、俺を倒すことはできないぜ。俺は探偵だ。探偵は神経を張り詰めて生きているんだ。反射神経も伊達じゃない。今のようなスローパンチじゃ、飛んでいるハエも……お、またか。もう一発かと思ったら、今度は「切れ物」を出しやがったな。おまえも持っているのか。危なかったぜ。うおっ、反対側からも切りかかってきた。この野郎、両手に刃物か。準備のいい奴だ。しかも、刃先はよく研がれているみたいだな。俺の短い髪の毛がパラパラと散りやがる。あと数ミリ前に顔を出していたら、額をザックリとやられていたぜ。あぶねえ、あぶねえ。
仕方ない、ここは得意のアレでいくしかないな。いくぞ、この右のブロック塀を利用して……三角蹴り!
俺はブロック塀に跳び、中腹の高さの部分を強く蹴ると、その反動を利用して高い角度から強烈なキックを野郎の首と肩の付け根の部分に浴びせてやった。喫茶店のビルの壁に激突した野郎は、地面に転がる。俺は軽やかに着地した。だが、気を緩めはしない。俺は構えを崩さなかった。野郎は腰が抜けたようで、震えながらヨタヨタと歩いて行く。さて、トドメの一撃を食らわすべきか否か……。
その時、喫茶店の裏口が激しく開き、中から厨房着のおじさんが出てきて怒鳴った。
「こらっ! 喧嘩はあっちでやれ!」
驚いたコソ泥野郎は、慌てて一目散に逃げていきやがった。待ちやがれ! イテっ。退けっ、おじさん! 喧嘩の仲裁は親切な事だが、今は邪魔だ、新聞紙で叩くな、おじさん。ていうか、喧嘩じゃないし。畜生、逃げられちまった。なんだよ、もう! はあ、せっかくの見せ場だったのに。今、盛り上がっていたところだろうが! ここでイッキに読者の心を、特に若い女性の心を鷲掴みする場面だぞ! 俺は鷲じゃないけど。俺は俺でワシじゃない……JAROか!
それにしても、あの野郎、どうも、この界隈では見ない顔だったぞ。あれは流しのドロボウだな。ま、これくらい痛い目に遭わせておけば、暫らくはこの地域には寄り付かないだろう。とりあえず、あとは警察に任せるか……。
俺は振り返り、おじさんに言った。
「俺だ。桃太郎だ。驚かせて悪かったな。例の連続窃盗犯を追い詰めて……」
「お、なんだ。桃ちゃんかい。ごめんな。怪我はしなかったかい?」
おじさんは良い人だ。金が無い俺に、よく昼飯を奢ってくれる。素性の知れない俺がこの町に来てからずっと、俺に優しく接してくれる人だ。
おじさんは言った。
「まったく、世知辛い世の中になったよなあ。どこの世界も競争と喧嘩ばっかりだ。うんざりするね、まったく」
「ホントだな。まあ、奴はもうこの近くには来ないと思う。当分は俺が目を光らせておくから、安心しな」
「争い事は嫌いなんだよなあ。はあ……」
おじさんは、狭い路地から大通りの方を望みながら深く溜め息を吐いた。どうやら、相当に疲れているようだ。今度は項垂れている。何か悩み事でもあるのかな。そう思った俺が声を掛けようとすると、おじさんが顔を上げた。
「あ、そうだ、桃ちゃん。いいのが有るんだ。ちょっと待ってな」
おじさんは厨房の中に戻ると、白いパックを手に持って再び出てきた。
「なんだよ、そりゃ」
「腹が減っているんだろう。それじゃあ体も動くまいて。こんな雑な出し方で悪いけど、いいモノなんだ。さっき冷蔵庫から出したばかりだから、よかったら食べてくれよ」
「お、ハムじゃないか。随分と気前がいいな。長い距離を全力疾走したんで、丁度、お腹が空いていたところだったんだ。遠慮なく頂くぜ」
「インターネットで注文した高級ハムだぞ。よーく味わって食べろよ。ランチ・セット用にスライスして準備していたんだけど、随分と余っちゃってね。切った分は明日までもたないし、どうせ、夕方からはハムサンドなんか注文する人はいないなから。これ全部食べてくれ」
どうやら、この小さな町の小さな商店街で限られた数の顧客を奪い合うのは大変らしい。ランチ・メニューの差別化を図るために、わざわざネットで高級ハムのお取り寄せか。それでも客が来ない。こりゃあ、相当な赤字だな。
俺はおじさんの顔を見た。おじさんは眉を八字に垂らし、じっとこちらを見ている。そして、また溜め息を吐くと、厨房の中に戻っていった。スチール製のドアを閉める音に力が無い。
なんか、この白いパックの中に丁寧に重ねて並べられている厚切りのハムを見ていると、何となく胸が苦しくなって、どうもハムが喉を通らないな。だけど、高級ハムらしいから、ちゃんと完食して帰ろう。残りのハムは全部まとめて頬張って……、んん……、くひはんはん(口パンパン)。うんん、うまい。今、俺の口の中では肉の旨味が大太鼓を叩いているぞ。肉汁祭りだ。トントントン……まな板を叩く包丁の音か。ああ、おじさんがネギか何かを切っている音だな。きっと、このスチール製のドアの向こうでは、おじさんがディナータイムの仕込みに勤しんでいるんだ。がんばれ、おじさん。
よし、着ているベストの襟を少し整えて、ドアの向こうのおじさんに一礼。ありがとう、おじさん。
白パックはここに置いて……もう少し右の方がいいかな、ここだど、ドアを開けて出てきたおじさんが踏んで、足を滑らせるよな。この辺に置いておくか。
さてと。じゃあ、捜査を続けるとするか。
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