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第26話 ユーリアン
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貴族学校最終学年の春、生徒会室ではじめてシェリーに出会った。
翳りを帯びたさみしげな瞳。
折れそうなほどに華奢な身体。
彼女は木陰にひっそりと咲く、小さな花のような風情だった。
その瞳が自分にむけられたとき、意外にも彼女の顔に微笑みが浮かんだ。
切なさを含んだその笑みに、ユーリアンの心はとらわれた。
——彼女が欲しい。
心の底からそう思った。
恵まれた生まれに栄光ある未来。
すべて持っていた自分に、その時はじめて欠落が生まれた。
この欠落を抱えて生きてはいけない。
そう思った。
それからユーリアンは欲求に突き動かされ、まったく自分らしくない行動を開始した。
理性も良心も失って——。
はじめにしたことは、情報を得るために協力者をつくることだった。
クレスウェル侯爵家の使用人からひとり、侯爵家に連なる家の学生をひとり、慎重に選んだ。
すぐに彼女には婚約者がいることがわかった。
相手は横暴な男で、ふたりの関係は良くないようだ。
ユーリアンはある時、シェリーと婚約者が一緒にいる場面を見ることに成功した。
婚約者の男が一方的に喚き散らし、シェリーは無表情に応じていた。
頭ではシェリーの心が相手の男にないと確信して安堵した。だが、心の中は煮えたぎるような怒りに満ちていた。
穏やかと言われることの多いユーリアンが、生まれてはじめて感じる猛烈な怒りだった。
情報提供者によると、彼女は毎日ひとりで食事をしているらしい。
——どうしてそばにいられないんだろう?
もちろん無関係なユーリアンがそばにいられるはずもないのだが、彼女のことを想うとポンコツになる頭でそう考えた。
そこでユーリアンは生徒会室でシェリーにお茶をいれることにした。
良い茶葉を取り寄せて、入れたこともなかったお茶のおいしい入れ方を研究した。
シェリーは集中力が高く、一度仕事に取り掛かると何時間でも無言で書類とむきあっている。
そんな彼女を息抜きと称してお茶に誘う。
お茶の時間には彼女のそばにいられる。
それに、自分に微笑みかけてくれる。
シェリーを観察するうちに、彼女は自分以外の人間に微笑んだりしないことに気付いた。
——私だけに微笑んでくれるのか……?
その特別感に心が震えた。
どうしても手に入れたい。ますますその思いを強くする。
ユーリアンはシェリーの婚約者、デューイに接触した。
話してみると、幼稚な男らしく、遠まわしにシェリーへの態度に苦言を呈しても、まったく理解できていないようだった。
何度か接触を続けると、苦手意識をもたれたのか嫌そうな顔をされるようになった。
ある日、ユーリアンは一計を案じた。
食堂でデューイに声をかけ、しばらく会話して話の流れで言った。
「婚約者がそんなに嫌いなら、替えてしまうのはどうです?」
近くのテーブルに、男子学生を侍らせて座っている女学生をちらりと見る。
彼女は学園で派手に結婚相手を探していると有名だった。
「あそこに座っているピンクブラウンの髪の女性、彼女はあなたに興味があるようですよ」
その後しばらくして、自分の言葉の効果があらわれた。
その効果は想像以上のものだった。
デューイが昼食時の食堂でシェリーに婚約破棄を告げたのだ。
衆人環視のもと婚約破棄を宣言するという、既成事実を作ってくれたことにユーリアンは満足したが、食堂をひとり出ていくシェリーの毅然とした背中に、胸がひどく痛んだ。
その日、生徒会で一度シェリーに会ったあと、彼女とはしばらく会えなくなった。
協力者の情報網がハーパー侯爵領まで届き、長男マーティンが静養しているという情報を手に入れる。
その情報をシェリーに伝えようと毎日教室に足を運ぶが、すでに帰宅してしまった後で会えなかった。
今日こそはと、門へむかうと彼女の背中が遠くに見えた。
気がはやり、駆け足で彼女に近づき声をかける。
久しぶりに会った彼女は驚いた顔で自分を見た。
その新鮮な表情にうれしくなる。
彼女に手に入れた情報を伝えた。
自然に耳に入った噂話という風を装ったが、すべて自分が協力者に調べさせた結果だった。
少しでもシェリーの婚約解消を確実にしたいという思いがあった。
その後、ふたりでしばらく話ができた。
一生懸命に自分に近況を伝えるシェリーがかわいらしいと思う。
あまり表情には出ていないが、その瞳の輝きに、彼女のよろこびが宿っている。
——ずっとこんな顔を見ていたい。
ユーリアンは自分の行動の結果、シェリーを傷つけたとわかっていた。
もう二度と傷つけたくない。
彼女の幸せこそが自分の幸せなのだと、その時思った。
伝えた情報が功を奏したのか、その後まもなく正式にシェリーとデューイの婚約は解消された。
シェリーが毒を盛られていたのは、予想外だった。
彼女が毒に倒れず、生きていてくれたことを神に心から感謝した。
彼女に毒を盛ったハーパー侯爵夫人と、その息子デューイはそれぞれふさわしい罰を受けることになった。
その後、ユーリアンはクレスウェル侯爵家の後継者候補から降りた。
父は反対していたが、次男は貴族学校の一年次主席であるし、一番下の弟も英才教育を受けている。自分が降りても結局は家の繁栄に大した影響はないのだった。
ロマンス小説好きの母は、自分の行動に反対することもなく、かえって彼女の中でユーリアンの評価は急上昇したらしい。
クレスウェル侯爵家の問題を片づけて、ようやくカヴァデール伯爵家に婚約の申し込みをした。
返事が来るまでユーリアンは本当に不安だった。
王太子の側近という立場は絶対に降りられない。
カヴァデール伯爵が婿に求めるものによっては、婚約は断られるとわかっていた。
シェリーは真面目で仕事の能力が高く、本人も領地経営や家業を継ぐことに興味を持っているようだった。カヴァデール伯爵が一代で盛り立てた事業を発展させたいという強い思いも感じられた。
伯爵家の跡継ぎとして、彼女以上にふさわしい人間はいないとユーリアンは考えていた。
ロザリンドに相談して根回しする以上のことはできず、不安に耐えて返答を待った。
そして今、王城の庭園でシェリーはユーリアンの腕の中にいる。
柔らかな髪、細い肩、そして自分の服に染み込む彼女のあたたかい涙。
シェリーの笑顔、シェリーの泣き顔、それらはユーリアンの人生の一部となった。
こうしてユーリアンの人生は一片の欠けもなく、シェリーによって満たされたのだった。
翳りを帯びたさみしげな瞳。
折れそうなほどに華奢な身体。
彼女は木陰にひっそりと咲く、小さな花のような風情だった。
その瞳が自分にむけられたとき、意外にも彼女の顔に微笑みが浮かんだ。
切なさを含んだその笑みに、ユーリアンの心はとらわれた。
——彼女が欲しい。
心の底からそう思った。
恵まれた生まれに栄光ある未来。
すべて持っていた自分に、その時はじめて欠落が生まれた。
この欠落を抱えて生きてはいけない。
そう思った。
それからユーリアンは欲求に突き動かされ、まったく自分らしくない行動を開始した。
理性も良心も失って——。
はじめにしたことは、情報を得るために協力者をつくることだった。
クレスウェル侯爵家の使用人からひとり、侯爵家に連なる家の学生をひとり、慎重に選んだ。
すぐに彼女には婚約者がいることがわかった。
相手は横暴な男で、ふたりの関係は良くないようだ。
ユーリアンはある時、シェリーと婚約者が一緒にいる場面を見ることに成功した。
婚約者の男が一方的に喚き散らし、シェリーは無表情に応じていた。
頭ではシェリーの心が相手の男にないと確信して安堵した。だが、心の中は煮えたぎるような怒りに満ちていた。
穏やかと言われることの多いユーリアンが、生まれてはじめて感じる猛烈な怒りだった。
情報提供者によると、彼女は毎日ひとりで食事をしているらしい。
——どうしてそばにいられないんだろう?
もちろん無関係なユーリアンがそばにいられるはずもないのだが、彼女のことを想うとポンコツになる頭でそう考えた。
そこでユーリアンは生徒会室でシェリーにお茶をいれることにした。
良い茶葉を取り寄せて、入れたこともなかったお茶のおいしい入れ方を研究した。
シェリーは集中力が高く、一度仕事に取り掛かると何時間でも無言で書類とむきあっている。
そんな彼女を息抜きと称してお茶に誘う。
お茶の時間には彼女のそばにいられる。
それに、自分に微笑みかけてくれる。
シェリーを観察するうちに、彼女は自分以外の人間に微笑んだりしないことに気付いた。
——私だけに微笑んでくれるのか……?
その特別感に心が震えた。
どうしても手に入れたい。ますますその思いを強くする。
ユーリアンはシェリーの婚約者、デューイに接触した。
話してみると、幼稚な男らしく、遠まわしにシェリーへの態度に苦言を呈しても、まったく理解できていないようだった。
何度か接触を続けると、苦手意識をもたれたのか嫌そうな顔をされるようになった。
ある日、ユーリアンは一計を案じた。
食堂でデューイに声をかけ、しばらく会話して話の流れで言った。
「婚約者がそんなに嫌いなら、替えてしまうのはどうです?」
近くのテーブルに、男子学生を侍らせて座っている女学生をちらりと見る。
彼女は学園で派手に結婚相手を探していると有名だった。
「あそこに座っているピンクブラウンの髪の女性、彼女はあなたに興味があるようですよ」
その後しばらくして、自分の言葉の効果があらわれた。
その効果は想像以上のものだった。
デューイが昼食時の食堂でシェリーに婚約破棄を告げたのだ。
衆人環視のもと婚約破棄を宣言するという、既成事実を作ってくれたことにユーリアンは満足したが、食堂をひとり出ていくシェリーの毅然とした背中に、胸がひどく痛んだ。
その日、生徒会で一度シェリーに会ったあと、彼女とはしばらく会えなくなった。
協力者の情報網がハーパー侯爵領まで届き、長男マーティンが静養しているという情報を手に入れる。
その情報をシェリーに伝えようと毎日教室に足を運ぶが、すでに帰宅してしまった後で会えなかった。
今日こそはと、門へむかうと彼女の背中が遠くに見えた。
気がはやり、駆け足で彼女に近づき声をかける。
久しぶりに会った彼女は驚いた顔で自分を見た。
その新鮮な表情にうれしくなる。
彼女に手に入れた情報を伝えた。
自然に耳に入った噂話という風を装ったが、すべて自分が協力者に調べさせた結果だった。
少しでもシェリーの婚約解消を確実にしたいという思いがあった。
その後、ふたりでしばらく話ができた。
一生懸命に自分に近況を伝えるシェリーがかわいらしいと思う。
あまり表情には出ていないが、その瞳の輝きに、彼女のよろこびが宿っている。
——ずっとこんな顔を見ていたい。
ユーリアンは自分の行動の結果、シェリーを傷つけたとわかっていた。
もう二度と傷つけたくない。
彼女の幸せこそが自分の幸せなのだと、その時思った。
伝えた情報が功を奏したのか、その後まもなく正式にシェリーとデューイの婚約は解消された。
シェリーが毒を盛られていたのは、予想外だった。
彼女が毒に倒れず、生きていてくれたことを神に心から感謝した。
彼女に毒を盛ったハーパー侯爵夫人と、その息子デューイはそれぞれふさわしい罰を受けることになった。
その後、ユーリアンはクレスウェル侯爵家の後継者候補から降りた。
父は反対していたが、次男は貴族学校の一年次主席であるし、一番下の弟も英才教育を受けている。自分が降りても結局は家の繁栄に大した影響はないのだった。
ロマンス小説好きの母は、自分の行動に反対することもなく、かえって彼女の中でユーリアンの評価は急上昇したらしい。
クレスウェル侯爵家の問題を片づけて、ようやくカヴァデール伯爵家に婚約の申し込みをした。
返事が来るまでユーリアンは本当に不安だった。
王太子の側近という立場は絶対に降りられない。
カヴァデール伯爵が婿に求めるものによっては、婚約は断られるとわかっていた。
シェリーは真面目で仕事の能力が高く、本人も領地経営や家業を継ぐことに興味を持っているようだった。カヴァデール伯爵が一代で盛り立てた事業を発展させたいという強い思いも感じられた。
伯爵家の跡継ぎとして、彼女以上にふさわしい人間はいないとユーリアンは考えていた。
ロザリンドに相談して根回しする以上のことはできず、不安に耐えて返答を待った。
そして今、王城の庭園でシェリーはユーリアンの腕の中にいる。
柔らかな髪、細い肩、そして自分の服に染み込む彼女のあたたかい涙。
シェリーの笑顔、シェリーの泣き顔、それらはユーリアンの人生の一部となった。
こうしてユーリアンの人生は一片の欠けもなく、シェリーによって満たされたのだった。
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