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豹と小鹿の723日
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無茶苦茶に腹が空いていた。
だが高い崖から落ちた時に、うっかり木の枝で引っ掛けた後ろ脚の傷が膿んで、まだ俺はなかなか餌にありつけずにいる。
俺は200m向こうに動かない身重の鹿を見つけた。
あれならいける!
そう思って慎重に近づき、今の最大の速度で走ったが、ギリギリのところで、親鹿は赤仔を産み落とし、逃げて行った。
生まれたばかりの小鹿は、腰から後ろ脚に掛けてまだ羊膜を被り、何もわからない様子でひわひわと震えている。
目すらちゃんと見えているのか疑わしい。毛も濡れて黒々として、痩せこけている。
”飯だ。食っちまおうぜ”
俺の中の本能はそう言ったが、同時に目が合った瞬間、何故だかその小鹿を今は食うには及ばない、と感じた。
そもそも、生まれたての子鹿なんて骨と筋ばかりで肉の量が少ない。もう少し育ってから食べるのも悪くないかもしれない。俺は小鹿の周りに貼りついた粘度の高い羊膜や溜まった血を啜り、小鹿の首を咥えてねぐらへ戻った。
首を咥えられた小鹿は、本能的に暴れたが、すぐに死を察知し、おとなしくなった。
そうだ、暴れるな。暴れるとお前の首に牙が食い込む。
小鹿が食べられそうなものは何もなかったが、ちょうど牝牛がいたのでそれを死なない程度に傷つけ、動けなくした。
小鹿を牝牛の元へ連れて行く。飲むかどうかはわからなかったが、飲まなければ小鹿は死ぬ。その位わかっているだろう。死んだら俺が腹の中に入れるだけだ。
小鹿は乳の匂いを嗅ぎつけて、一生懸命牛の乳首を舐めている。牝牛も何か思う所があったのか、じっとしていた。
俺は牝牛に草を運んだ。小鹿が自分で草を食むことができるようになるまでは、こいつに生きてもらわないといけない。
小鹿がゴロゴロと転がり苦しそうにしている。牝牛が何かしてやりたそうだったが、脚を怪我しているので、あまり動けない。
「何だ?どうした?」
牝牛が目で訴えてくる。そう言えばこいつは排泄をしていない。
ゴロゴロと転がる小鹿を前足で抑えた。
「舐めてやれっていうのか」
小鹿の木の葉のような尻尾を跳ね上げ、肛門を舐めてやる。
「じっとしてろよ。爪が食い込むし、俺が我慢できなくなる」
小鹿は動かなくなり、ふるふると身体を震わせ始めた。前足で少し腹を押さえてやると、小鹿の尻からたくさんの糞が出た。
「こんな事まで世話しないといけないのか……」
だが、まだ小鹿は食べて美味いとは言い難い状態だ。
「仕方ないか」
牝牛を見ると、穏やかな表情に変わっていた。
「そいつら食わねえのか?」
同じ豹の仲間がウロウロと寄り付いてくる。
「俺の傷が治るまでの食料として取ってある。俺の獲物だ。近づくな」
「ほー。あの鹿が美味そうだ。俺も守ってやるから、食う時は半分分けろよ」
面倒なことになった。しかし自分だけで牝牛と小鹿を守るのも無理だった。
「ああ。しっかり育ってからな。まだ骨と筋だけだ」
「引き受けたぞ。楽しみだな」
それからは、ソイツと交代で見張るようになった。
アイツら変わったことやってるな、と言われながら。
小鹿は牝牛の乳を飲み、順調に育った。
ある日、小鹿が牝牛と同じ草を食んでいるのを見た。もう牝牛は用済みだ。
小鹿が寝ている間に、俺と豹の仲間は牝牛を食い尽くした。
「あー美味かった。しっかりこき使ってから食うのもいいな。怪我の功名とはこのことだ」
「ああ」
しっかりと肉を食った感覚は素晴らしく俺の心身を満たした。
きっと今夜はよく眠れる。
俺は、小鹿が目覚めると同時に目を覚ました。逃げられるわけにはいかないし、牝牛がいなくなった後の小鹿の反応も気になったからだ。
小鹿は案の定、牝牛を探し回ったが、骨になりカラスが群がっているのが牝牛だとは認識できないようだった。
「俺が食ったんだよ」
そう言ってみたが、小鹿は俺の周りを悲しそうにうろつくばかりだった。
「行くぞ」
アイツが来る前に移動しよう。まだ小鹿を食べるには育てる必要がある。
小鹿はキョロキョロと牝牛を探しながら、俺に着いてきた。
小鹿はもう自分で草を選びながら食べるようになってきた。
このまま順調に育つといい。
時折、他の肉食動物に狙われることもあったが、俺が側にいると知ると姿を消した。
脚の傷も塞がり、違和感はあるが移動にも問題が無くなってきた。
後は小鹿を育てて食うだけだ。
小鹿は俺を親だと思っているのだろうか。寝る時に身体をすり寄せてくる。だんだんと育ってくるにつれて、成獣の鹿の臭いになってきているのに俺は気付いていた。寝惚けて噛み付いてもそれはその時だ。
だから俺は、極力腹を空かさないようにしていた。リハビリしようと試しに追いかけたガゼルを仕留めた時は充実感に満たされた。走るスピードが戻った。
そしてその血と肉の美味い事。これで、しばらくは寝ている時に小鹿に噛みつく心配も無いだろう。
季節が一回りしたある日、遠くから立派な角を生やした牡鹿がこちらを見ていた。明らかに小鹿を見つめている。
いや、もう、小鹿は小鹿では無くなっていた。美しい若い雌鹿に育っていた。そうか、お前は雌鹿だったのか。それならより美味いだろうな。
雌鹿は遠くの牡鹿を見つめていた。いつまでもいつまでも。
俺がいなければ、この二匹は番っただろう。でもそうはさせない。
この雌鹿は俺のものだ。
俺が育て、俺が食う。
俺は雌鹿の側に行き、うなりながら背後から乗りかかり抑えた。遠くの牡鹿を見つめながら。
牡鹿は弾かれたように反転し走って逃げた。
きっと雌鹿が食われたと思ったに違いない。
雌鹿はおとなしく脚を折り、俺を振り返った。潤んだ丸い瞳は、小鹿が性的に成熟し雌鹿になっていることを俺に教えていた。
俺はそっと雌鹿の首を咥え、少し強めに噛んだ。
雌鹿は震えだしたが、抵抗はしない。雌鹿も気付いているだろう。俺が、本当は親ではなく捕食者だということに。
――いつか俺が、お前の肉も内臓も一片も残さず食べてやる。
雌鹿の首から大きく噛んだ顎を外すと、その場所を舐めてやった。すると、雌鹿は俺をじっと見つめ、俺の首元を舐めてきた。
「おい、やめろ」
俺たちの種族は首が弱いんだよ。やめろ。そう思ったがされるがままにしておいた。どうしたってコイツは俺を攻撃はできない。
その日、いつまでも俺たちは互いを舐めあい、いつもは行かない岩場の奥で身を寄せあって眠った。
どうしても俺の食料が捕まらない日々が続いた。狩りが上手くいかない。
腹が減った……もうコイツを食ってやろうか。
そう思いいつもよりも強めに背後から圧し掛かり雌鹿の首を噛んだ。プツッと少しの手応えがあり、首から血が流れた。
俺は動揺してしまいすぐに首から顎を放したが、完全に怯え恐慌状態になった雌鹿はぐったりと身体を横たえた。
「お前、こんな味がするんだな」
雌鹿の血の味を感じて、俺は何故か食欲が満たされた。それ以上食いちぎろうとも思わなかった。
ただ、血が止まるまで雌鹿の首を舐め続けた。
こんなに美味い血に塗れた肉ならどれだけ美味いだろうか。誰にも分けてやるものか、と思いながら。
その夜のうちに雌鹿が逃げ出すことも想定していたが、朝方、雌鹿は逃げ出すどころか、俺の顎の下に鼻先をこすりつけ、頭をペロペロと舐めだした。気持ちが良くてまた眠くなる。
まどろんでいると、腰に強い刺激を感じた。
「おい!やめろ、ダメだ、そんなところ舐めるな」
俺は立ち上がり、身体を翻した。雌鹿の丸く睫毛の長い目は大きく開かれて、どうして?という風に俺を見つめる。
雌鹿はギィー、と鳴いてみせた。また身体を摺り寄せてくる。鹿にも発情期があるのかもしれない。
お前は鹿で、俺は豹だぞ。
お前と番うことはできない。俺はお前を最後に食うだけだ。
それでも雌鹿は俺の前で無防備に俺の首を舐めてくる。
種族が違う上に意思すら通じないのに、交われるはずがない。
もうすぐ日が暮れる。その前に獲物を獲って来なくては。
雌鹿が動けないように前足でそっと押さえた。そのまま突き放し翻って身体を離すと、
「ここで隠れてろ」
いつものように一言だけ言って、俺は狩りに出た。
獲物は草食動物だけじゃない。ヒヒだって食べる。手強かったが木から引き摺り下ろして食ってやった。毛が長いヤツは口内で絡まるからいけない。俺は毛玉を吐き出すと、とりあえずの空腹を満たしてねぐらに帰った。
カサ、と音がすると雌鹿は飛び跳ねて警戒する。草食動物の本能があるのはいいことだ。そうでないと生き延びられない。
なのに、俺の唸り声が聞こえ、俺の足音だとわかると、警戒を怠る。
「おい、俺に対しても警戒しろ。同じ豹が来たら、足音の違いもわからないだろう」
俺が身体を横たえた場所に移動して来て、身体をつけて寝ようとする。俺はコイツの育て方を間違った気がする。鹿はどうだか知らないが、豹は基本単独行動なんだ。なのにこんなに長い期間一緒にいるなんて。
雌鹿がどうとかじゃないな。
俺が何かを間違ってしまった気がする。
小雨季に入った。俺は雌鹿の身体を舐め、温かさに身を寄せて眠った。
「アンタ、鹿を飼ってる変態でしょ?飼ってるうちは願い下げよ!食べてから来てちょうだい」
前から目をつけていた雌豹に圧し掛かろうとしたら逃げられ暴言を吐かれた。
「アタシに食べさせてくれたって、いいのよ?その鹿を」
「いや、俺が全部食うって決めてる」
「ふーん……自分の子ども殺して食われるよりはマシだけど、育てて食うなんてやっぱりアンタ変態よ。変態やめてから出直してきて」
そう言っている雌豹の身体は地面に身体を擦り付け、腰を上げていた。
「残念だな、そうは見えないけど」
俺は唸ると雌豹の首の後ろを噛んで力を抜かせた。
「やめてよ!」
「どうせ別の雄ともやってるだろ。きっとソイツの子どもだよ」
俺は覆い被さり速やかに挿入した。
「痛いっ!」
ネコ科の交尾は雌が痛くて当然だ。雌豹は高く吠えると、俺を振り切って腹を上にして悩ましく転がり始めた。
「もう、バカ、変態のくせに!」
「悪くなかったみたいだな。ライオンは一日に千回やるっていうけど……変態も悪くないだろ」
もう一度俺は雌豹の首の後ろを甘噛みした。
水場にはたくさんの種類の動物が集う。捕食しない者同士では和やかに水を飲み浴びる光景が見られる。
雌鹿も水を飲む必要があるので、水場に連れて行くが、もちろん俺の姿を見た草食動物たちは一斉に散らばり逃げる。時折それで逃げ遅れたものを捕まえ食べる。雌鹿はその様子になぜ?という雰囲気を漂わせていたが、じきに何も反応を見せず、ただ静かに水を飲んだ。
「おい、それ汚ないぞ?」
水溜りで泥がぬかるんでいる場所で、雌鹿は身体を泥にこすりつけた。体中ドロドロだが楽しそうな顔をしている。なんと洗い流さずに帰る様子だ。乾くまでには数日かかりそうだった。
泥だらけにも関わらず、俺にくっついて寝ようとする。
「勘弁してくれ」
俺の呟きは雌鹿に伝わらなかった。
数日経ち、ボロボロと固まった泥が落ちると、毛艶も良くすっきりとした姿になった。
「ああ、風呂代わりだったのか、あの泥は」
俺は自分の毛に付いた泥が忌々しくてたまらなかったけれど、お前は違うんだな。まだ泥汚れがうっすらと残る俺の身体の毛を、雌鹿はいつまでも舐めた。
その日はいつものように狩りに出かけた。いつものようにここで待っていろと伝えて。俺たちのねぐらは岩場の陰で、細い隙間を通ると中が洞窟のようになっていた。中に草は少ないが雌鹿の安全を考えてのことだった。
その日に限って、どうして、俺は狩りに夢中になったのか。どうして、アイツは洞窟から出て草を食みに行ったのだろう。
俺が戻った時に見たのは、同じ豹に噛まれている雌鹿の姿だった。ぐったりとして腹から血が流れている。
「おい!そいつを放せ。それは俺の物だ!」
「何を言ってる?俺が見つけた!」
「俺が育ててるんだよ!」
「何言ってん……」
次の瞬間には俺は相手の豹に飛び掛かっていた。
「お前俺のことを知らないとなると、他所から来たな⁈」
俺が雌鹿を飼っていることは、ここら辺の動物たちは皆知っている。肉食動物も俺の雌鹿には手を出さないのが不文律になっていた。
「だから何だ!」
「何だじゃねえよ、死ね!」
俺は相手に致命傷を与えたと思うが、逃がしてしまった。俺も深い傷を負った。
雌鹿に近づく。ああこんなに血が流れてしまっている。
俺は雌鹿をそっと咥え、洞窟の奥に引きずった。雌鹿を横たえると、ぐったりとして震えている。
「大丈夫か」
傷口を舐めると、どれだけ深い傷かがわかった。おそらく雌鹿は助からない。
キー、キー、と俺を呼ぶようにか細い声で鳴いた。
「苦しいだろうが、じき楽になる……」
俺は雌鹿の身体を舐め続けた。半分しか開いていない大きな瞳と目が合う。
「大丈夫だ。俺が、全部食ってやる」
雌鹿を舐め続けていると、ふいに舐められる感触があった。雌鹿が俺の傷口を舐めていた。短く息をしていて、苦しいはずなのに。
「俺のことは心配するな」
顔や頭を舐めてやった。
雌鹿の息が途切れ途切れになってきた。
もうお別れだ。
俺は後ろから覆い被さり、首の後ろを甘噛みして舐めた。雌鹿は俺がそうしても怯えず、安心すると知っていたから。
キー、とまた掠れるように小さく鳴いた。
「お前は俺のものだ」
雌鹿の身体から力が抜ける瞬間に俺は首元に強く噛み付いた。
雌鹿の血を啜り、肉を噛み千切って咀嚼し腹に入れた。
今まで食べたどんな肉よりも美味かった。内臓はハイエナにやることが多かったが、それすら誰にも分けたくなかった。
これは俺の獲物だ。最初から最後まで、身体のどこからどこまでも、ひとつ残らず。
地面に吸い込まれて行く血すらも勿体無く感じた。俺の大好きな味の血。
俺の大好きな良く育った肉、俺の大好きな……。
俺は、傷が塞がるまで雌鹿の死体を食べながら過ごした。骨についた肉の破片すら牙で削り落としながら。
一週間、いやそれ以上経っただろうか。
俺は雌鹿の脚の骨を咥えた。それから洞窟を出てある場所に向かった。俺が脚を怪我したきっかけになった高い崖。
そこに辿り着くまで、俺は水以外口にしなかった。死んだ雌鹿以上に美味いものがあるわけは無かったから。
ゆっくりと崖を見下ろす。
あの時俺が脚を怪我をしなければ、小鹿に会うことは無かった。
会ったのを後悔しているか?
いや、していない。
餌のはずの雌鹿のおかげで、結構楽しかった。
30m程後ろに下がった。
俺は雌鹿の骨を咥えたまま、今出せる最大限のスピードを出して、崖から飛んだ。
空は青く、白い雲が浮かび、遠くに草原が見えた。
とても良い景色だった。
だが高い崖から落ちた時に、うっかり木の枝で引っ掛けた後ろ脚の傷が膿んで、まだ俺はなかなか餌にありつけずにいる。
俺は200m向こうに動かない身重の鹿を見つけた。
あれならいける!
そう思って慎重に近づき、今の最大の速度で走ったが、ギリギリのところで、親鹿は赤仔を産み落とし、逃げて行った。
生まれたばかりの小鹿は、腰から後ろ脚に掛けてまだ羊膜を被り、何もわからない様子でひわひわと震えている。
目すらちゃんと見えているのか疑わしい。毛も濡れて黒々として、痩せこけている。
”飯だ。食っちまおうぜ”
俺の中の本能はそう言ったが、同時に目が合った瞬間、何故だかその小鹿を今は食うには及ばない、と感じた。
そもそも、生まれたての子鹿なんて骨と筋ばかりで肉の量が少ない。もう少し育ってから食べるのも悪くないかもしれない。俺は小鹿の周りに貼りついた粘度の高い羊膜や溜まった血を啜り、小鹿の首を咥えてねぐらへ戻った。
首を咥えられた小鹿は、本能的に暴れたが、すぐに死を察知し、おとなしくなった。
そうだ、暴れるな。暴れるとお前の首に牙が食い込む。
小鹿が食べられそうなものは何もなかったが、ちょうど牝牛がいたのでそれを死なない程度に傷つけ、動けなくした。
小鹿を牝牛の元へ連れて行く。飲むかどうかはわからなかったが、飲まなければ小鹿は死ぬ。その位わかっているだろう。死んだら俺が腹の中に入れるだけだ。
小鹿は乳の匂いを嗅ぎつけて、一生懸命牛の乳首を舐めている。牝牛も何か思う所があったのか、じっとしていた。
俺は牝牛に草を運んだ。小鹿が自分で草を食むことができるようになるまでは、こいつに生きてもらわないといけない。
小鹿がゴロゴロと転がり苦しそうにしている。牝牛が何かしてやりたそうだったが、脚を怪我しているので、あまり動けない。
「何だ?どうした?」
牝牛が目で訴えてくる。そう言えばこいつは排泄をしていない。
ゴロゴロと転がる小鹿を前足で抑えた。
「舐めてやれっていうのか」
小鹿の木の葉のような尻尾を跳ね上げ、肛門を舐めてやる。
「じっとしてろよ。爪が食い込むし、俺が我慢できなくなる」
小鹿は動かなくなり、ふるふると身体を震わせ始めた。前足で少し腹を押さえてやると、小鹿の尻からたくさんの糞が出た。
「こんな事まで世話しないといけないのか……」
だが、まだ小鹿は食べて美味いとは言い難い状態だ。
「仕方ないか」
牝牛を見ると、穏やかな表情に変わっていた。
「そいつら食わねえのか?」
同じ豹の仲間がウロウロと寄り付いてくる。
「俺の傷が治るまでの食料として取ってある。俺の獲物だ。近づくな」
「ほー。あの鹿が美味そうだ。俺も守ってやるから、食う時は半分分けろよ」
面倒なことになった。しかし自分だけで牝牛と小鹿を守るのも無理だった。
「ああ。しっかり育ってからな。まだ骨と筋だけだ」
「引き受けたぞ。楽しみだな」
それからは、ソイツと交代で見張るようになった。
アイツら変わったことやってるな、と言われながら。
小鹿は牝牛の乳を飲み、順調に育った。
ある日、小鹿が牝牛と同じ草を食んでいるのを見た。もう牝牛は用済みだ。
小鹿が寝ている間に、俺と豹の仲間は牝牛を食い尽くした。
「あー美味かった。しっかりこき使ってから食うのもいいな。怪我の功名とはこのことだ」
「ああ」
しっかりと肉を食った感覚は素晴らしく俺の心身を満たした。
きっと今夜はよく眠れる。
俺は、小鹿が目覚めると同時に目を覚ました。逃げられるわけにはいかないし、牝牛がいなくなった後の小鹿の反応も気になったからだ。
小鹿は案の定、牝牛を探し回ったが、骨になりカラスが群がっているのが牝牛だとは認識できないようだった。
「俺が食ったんだよ」
そう言ってみたが、小鹿は俺の周りを悲しそうにうろつくばかりだった。
「行くぞ」
アイツが来る前に移動しよう。まだ小鹿を食べるには育てる必要がある。
小鹿はキョロキョロと牝牛を探しながら、俺に着いてきた。
小鹿はもう自分で草を選びながら食べるようになってきた。
このまま順調に育つといい。
時折、他の肉食動物に狙われることもあったが、俺が側にいると知ると姿を消した。
脚の傷も塞がり、違和感はあるが移動にも問題が無くなってきた。
後は小鹿を育てて食うだけだ。
小鹿は俺を親だと思っているのだろうか。寝る時に身体をすり寄せてくる。だんだんと育ってくるにつれて、成獣の鹿の臭いになってきているのに俺は気付いていた。寝惚けて噛み付いてもそれはその時だ。
だから俺は、極力腹を空かさないようにしていた。リハビリしようと試しに追いかけたガゼルを仕留めた時は充実感に満たされた。走るスピードが戻った。
そしてその血と肉の美味い事。これで、しばらくは寝ている時に小鹿に噛みつく心配も無いだろう。
季節が一回りしたある日、遠くから立派な角を生やした牡鹿がこちらを見ていた。明らかに小鹿を見つめている。
いや、もう、小鹿は小鹿では無くなっていた。美しい若い雌鹿に育っていた。そうか、お前は雌鹿だったのか。それならより美味いだろうな。
雌鹿は遠くの牡鹿を見つめていた。いつまでもいつまでも。
俺がいなければ、この二匹は番っただろう。でもそうはさせない。
この雌鹿は俺のものだ。
俺が育て、俺が食う。
俺は雌鹿の側に行き、うなりながら背後から乗りかかり抑えた。遠くの牡鹿を見つめながら。
牡鹿は弾かれたように反転し走って逃げた。
きっと雌鹿が食われたと思ったに違いない。
雌鹿はおとなしく脚を折り、俺を振り返った。潤んだ丸い瞳は、小鹿が性的に成熟し雌鹿になっていることを俺に教えていた。
俺はそっと雌鹿の首を咥え、少し強めに噛んだ。
雌鹿は震えだしたが、抵抗はしない。雌鹿も気付いているだろう。俺が、本当は親ではなく捕食者だということに。
――いつか俺が、お前の肉も内臓も一片も残さず食べてやる。
雌鹿の首から大きく噛んだ顎を外すと、その場所を舐めてやった。すると、雌鹿は俺をじっと見つめ、俺の首元を舐めてきた。
「おい、やめろ」
俺たちの種族は首が弱いんだよ。やめろ。そう思ったがされるがままにしておいた。どうしたってコイツは俺を攻撃はできない。
その日、いつまでも俺たちは互いを舐めあい、いつもは行かない岩場の奥で身を寄せあって眠った。
どうしても俺の食料が捕まらない日々が続いた。狩りが上手くいかない。
腹が減った……もうコイツを食ってやろうか。
そう思いいつもよりも強めに背後から圧し掛かり雌鹿の首を噛んだ。プツッと少しの手応えがあり、首から血が流れた。
俺は動揺してしまいすぐに首から顎を放したが、完全に怯え恐慌状態になった雌鹿はぐったりと身体を横たえた。
「お前、こんな味がするんだな」
雌鹿の血の味を感じて、俺は何故か食欲が満たされた。それ以上食いちぎろうとも思わなかった。
ただ、血が止まるまで雌鹿の首を舐め続けた。
こんなに美味い血に塗れた肉ならどれだけ美味いだろうか。誰にも分けてやるものか、と思いながら。
その夜のうちに雌鹿が逃げ出すことも想定していたが、朝方、雌鹿は逃げ出すどころか、俺の顎の下に鼻先をこすりつけ、頭をペロペロと舐めだした。気持ちが良くてまた眠くなる。
まどろんでいると、腰に強い刺激を感じた。
「おい!やめろ、ダメだ、そんなところ舐めるな」
俺は立ち上がり、身体を翻した。雌鹿の丸く睫毛の長い目は大きく開かれて、どうして?という風に俺を見つめる。
雌鹿はギィー、と鳴いてみせた。また身体を摺り寄せてくる。鹿にも発情期があるのかもしれない。
お前は鹿で、俺は豹だぞ。
お前と番うことはできない。俺はお前を最後に食うだけだ。
それでも雌鹿は俺の前で無防備に俺の首を舐めてくる。
種族が違う上に意思すら通じないのに、交われるはずがない。
もうすぐ日が暮れる。その前に獲物を獲って来なくては。
雌鹿が動けないように前足でそっと押さえた。そのまま突き放し翻って身体を離すと、
「ここで隠れてろ」
いつものように一言だけ言って、俺は狩りに出た。
獲物は草食動物だけじゃない。ヒヒだって食べる。手強かったが木から引き摺り下ろして食ってやった。毛が長いヤツは口内で絡まるからいけない。俺は毛玉を吐き出すと、とりあえずの空腹を満たしてねぐらに帰った。
カサ、と音がすると雌鹿は飛び跳ねて警戒する。草食動物の本能があるのはいいことだ。そうでないと生き延びられない。
なのに、俺の唸り声が聞こえ、俺の足音だとわかると、警戒を怠る。
「おい、俺に対しても警戒しろ。同じ豹が来たら、足音の違いもわからないだろう」
俺が身体を横たえた場所に移動して来て、身体をつけて寝ようとする。俺はコイツの育て方を間違った気がする。鹿はどうだか知らないが、豹は基本単独行動なんだ。なのにこんなに長い期間一緒にいるなんて。
雌鹿がどうとかじゃないな。
俺が何かを間違ってしまった気がする。
小雨季に入った。俺は雌鹿の身体を舐め、温かさに身を寄せて眠った。
「アンタ、鹿を飼ってる変態でしょ?飼ってるうちは願い下げよ!食べてから来てちょうだい」
前から目をつけていた雌豹に圧し掛かろうとしたら逃げられ暴言を吐かれた。
「アタシに食べさせてくれたって、いいのよ?その鹿を」
「いや、俺が全部食うって決めてる」
「ふーん……自分の子ども殺して食われるよりはマシだけど、育てて食うなんてやっぱりアンタ変態よ。変態やめてから出直してきて」
そう言っている雌豹の身体は地面に身体を擦り付け、腰を上げていた。
「残念だな、そうは見えないけど」
俺は唸ると雌豹の首の後ろを噛んで力を抜かせた。
「やめてよ!」
「どうせ別の雄ともやってるだろ。きっとソイツの子どもだよ」
俺は覆い被さり速やかに挿入した。
「痛いっ!」
ネコ科の交尾は雌が痛くて当然だ。雌豹は高く吠えると、俺を振り切って腹を上にして悩ましく転がり始めた。
「もう、バカ、変態のくせに!」
「悪くなかったみたいだな。ライオンは一日に千回やるっていうけど……変態も悪くないだろ」
もう一度俺は雌豹の首の後ろを甘噛みした。
水場にはたくさんの種類の動物が集う。捕食しない者同士では和やかに水を飲み浴びる光景が見られる。
雌鹿も水を飲む必要があるので、水場に連れて行くが、もちろん俺の姿を見た草食動物たちは一斉に散らばり逃げる。時折それで逃げ遅れたものを捕まえ食べる。雌鹿はその様子になぜ?という雰囲気を漂わせていたが、じきに何も反応を見せず、ただ静かに水を飲んだ。
「おい、それ汚ないぞ?」
水溜りで泥がぬかるんでいる場所で、雌鹿は身体を泥にこすりつけた。体中ドロドロだが楽しそうな顔をしている。なんと洗い流さずに帰る様子だ。乾くまでには数日かかりそうだった。
泥だらけにも関わらず、俺にくっついて寝ようとする。
「勘弁してくれ」
俺の呟きは雌鹿に伝わらなかった。
数日経ち、ボロボロと固まった泥が落ちると、毛艶も良くすっきりとした姿になった。
「ああ、風呂代わりだったのか、あの泥は」
俺は自分の毛に付いた泥が忌々しくてたまらなかったけれど、お前は違うんだな。まだ泥汚れがうっすらと残る俺の身体の毛を、雌鹿はいつまでも舐めた。
その日はいつものように狩りに出かけた。いつものようにここで待っていろと伝えて。俺たちのねぐらは岩場の陰で、細い隙間を通ると中が洞窟のようになっていた。中に草は少ないが雌鹿の安全を考えてのことだった。
その日に限って、どうして、俺は狩りに夢中になったのか。どうして、アイツは洞窟から出て草を食みに行ったのだろう。
俺が戻った時に見たのは、同じ豹に噛まれている雌鹿の姿だった。ぐったりとして腹から血が流れている。
「おい!そいつを放せ。それは俺の物だ!」
「何を言ってる?俺が見つけた!」
「俺が育ててるんだよ!」
「何言ってん……」
次の瞬間には俺は相手の豹に飛び掛かっていた。
「お前俺のことを知らないとなると、他所から来たな⁈」
俺が雌鹿を飼っていることは、ここら辺の動物たちは皆知っている。肉食動物も俺の雌鹿には手を出さないのが不文律になっていた。
「だから何だ!」
「何だじゃねえよ、死ね!」
俺は相手に致命傷を与えたと思うが、逃がしてしまった。俺も深い傷を負った。
雌鹿に近づく。ああこんなに血が流れてしまっている。
俺は雌鹿をそっと咥え、洞窟の奥に引きずった。雌鹿を横たえると、ぐったりとして震えている。
「大丈夫か」
傷口を舐めると、どれだけ深い傷かがわかった。おそらく雌鹿は助からない。
キー、キー、と俺を呼ぶようにか細い声で鳴いた。
「苦しいだろうが、じき楽になる……」
俺は雌鹿の身体を舐め続けた。半分しか開いていない大きな瞳と目が合う。
「大丈夫だ。俺が、全部食ってやる」
雌鹿を舐め続けていると、ふいに舐められる感触があった。雌鹿が俺の傷口を舐めていた。短く息をしていて、苦しいはずなのに。
「俺のことは心配するな」
顔や頭を舐めてやった。
雌鹿の息が途切れ途切れになってきた。
もうお別れだ。
俺は後ろから覆い被さり、首の後ろを甘噛みして舐めた。雌鹿は俺がそうしても怯えず、安心すると知っていたから。
キー、とまた掠れるように小さく鳴いた。
「お前は俺のものだ」
雌鹿の身体から力が抜ける瞬間に俺は首元に強く噛み付いた。
雌鹿の血を啜り、肉を噛み千切って咀嚼し腹に入れた。
今まで食べたどんな肉よりも美味かった。内臓はハイエナにやることが多かったが、それすら誰にも分けたくなかった。
これは俺の獲物だ。最初から最後まで、身体のどこからどこまでも、ひとつ残らず。
地面に吸い込まれて行く血すらも勿体無く感じた。俺の大好きな味の血。
俺の大好きな良く育った肉、俺の大好きな……。
俺は、傷が塞がるまで雌鹿の死体を食べながら過ごした。骨についた肉の破片すら牙で削り落としながら。
一週間、いやそれ以上経っただろうか。
俺は雌鹿の脚の骨を咥えた。それから洞窟を出てある場所に向かった。俺が脚を怪我したきっかけになった高い崖。
そこに辿り着くまで、俺は水以外口にしなかった。死んだ雌鹿以上に美味いものがあるわけは無かったから。
ゆっくりと崖を見下ろす。
あの時俺が脚を怪我をしなければ、小鹿に会うことは無かった。
会ったのを後悔しているか?
いや、していない。
餌のはずの雌鹿のおかげで、結構楽しかった。
30m程後ろに下がった。
俺は雌鹿の骨を咥えたまま、今出せる最大限のスピードを出して、崖から飛んだ。
空は青く、白い雲が浮かび、遠くに草原が見えた。
とても良い景色だった。
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