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事情聴取
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三が日も終わり、僕の会社は明日から仕事始めだ。
「アオイさん、気分変えたいから美容室行ってくるね」
「一人で行けそう?」
「うん、大丈夫。すぐ近所のとこだし。徒歩五分だよ、黄色い美容室あるでしょ?」
「ああ、あの店か。気を付けて」
バルコニーから彼女を見るのはいつ以来だろう。今日はよく晴れている。エントランスを出るとすぐ右に折れて、ハーフコートを着たキキョウの姿が見えなくなった。
キキョウを送り出して5分も経たないうちにスマホが鳴る。
画面を見ると警察署からだ。ああ、この問題は終わっちゃいなかった。
「はい、もしもし」
「あ、櫃木さんですか?松岡ですが、先日お話を伺った件についてなんですが」
電話はやっぱり刑事の松岡さんからだった。
「もう少し詳しくお話を伺いたいので署までお越し願えますか」
「僕にですか?お話しできることは全て話しましたが」
「んー、ちょっとめんどくさい事を言い出しましてね、先方が」
キキョウを殴った男がおおかた僕とキキョウの仲を疑っているのだろう。
「わかりました。午後1時なら行けます」
「おやすみの所を申し訳ありません。ご協力痛み入ります。ではその時間で」
これもキキョウの為だ。行ってこよう。
もうすぐ午前11時。
僕は昼食の準備をした。
おせちにも飽きたから、パスタでいいか。準備をしながら思う。どうして、彼女が殴られないといけなくて、殴った奴が偉そうに文句を言っているのか。
殴っていいならそいつをボコボコにしてやりたいところだけど。
そう思いながらパスタを揚げたら玄関の開く音がした。
「ただいまー!」
キキョウの明るい声が聞こえる。
「おかえり!わ、バッサリいったね」
「うん、すっきりしたくて、何年振りかな、こんなに短くするの!」
キキョウは肩まである髪を切り、ショートカットになっていた。ピアスホールが目についた。きっと少し大きめのシンプルなものをつけたら髪型にも合って引き立つだろうな、と思う。
「意外と似合ってるね」
「そう?ありがとう!」
「もうすぐできるから、皿出してもらえるかな」
「うん。あ、カルボナーラ?やったー!大好物」
キキョウがそう言いながら食器棚からパスタ皿を出した。僕が熱を出している間に、あらかたの物の位置は把握したらしい。
「いただきまーす」
キキョウが器用にくるくるとパスタを巻き取る。
「どうかな?」
「美味しい!やっぱりアオイさん料理が上手だね」
「それなら良かった。今日は上手くいったから素直に褒められとこう」
「うん、そうして」
器用にパスタを巻き取るくせに、キキョウの口にはカルボナーラのソースがはみ出してついていた。
「あー美味しかった!」
「キキョウさん、口にソースがたくさんついてるよ」
「ん?ほんと?」
舐めているけどこってり目に作った黄色いソースはくっついているし、唇の下に着いたのは気づいてないみたいだった。
「ほら、ここも」
全く躊躇いも考える事も無く、僕は親指でキキョウの下唇を拭った。
「あ……」
キキョウが驚いている。
――しまった。自分がやってしまった事に気付いたが、もう黄色いソースは僕の指にべったりとついていた。
そのまま彼女の唇にソースのついた親指をそっと押し当てた。唇が開き僕の指をくわえると、キキョウの温かい舌が僕の指を舐めとっていく。
思い切り噛んで跡でも残してくれたらいいのになと思う。そしたら行き場のない僕の気持ちもはっきりするのに。
「……ごちそうさま」
「どういたしまして」
「……食器は、私が洗うから」
「うん、お願いします」
肌の温もりも、口の中がどんな風に湿っているのかも知っているのに、この人は僕の恋人じゃない。
逃げ込んでくるまでは知らなかった隣人。それを証明しに今から警察署に行くのだ。
「キキョウさん」
「はーい?」
「警察にまた呼ばれたから、行ってくるよ」
「え?アオイさんが⁈……私には連絡ないよ?」
キキョウが食器を洗う手を止めた。
「今日明日にでもあると思うよ、多分ね。もし、俺が行ってる間に今どうしてるか訊かれたら、一緒に住んでるの言わない方がいい」
「どうして?私……」
「わかってるだろ?君が不利になる」
僕は、キキョウがそれ以上言わないように言葉を被せた。
「配達来るかもだけど、危ないし出なくていいから。行ってくる」
くたびれてきたスニーカーに足をねじ込み、僕はドアの鍵を外からかけた。
警察署は何度来ても慣れない。どうして灰色なんだろう。一階は交通関係だから真っ直ぐ二階に向かう。
二階に上がると署員が一斉に僕を見る。視線が痛い。
「お待ちしてました。どうぞ」
警察官にしては愛想のよい松岡さんが近づいてきた。また不必要に白い取調室か。どうも今日の僕は機嫌が悪い。
「松岡さん、どうして、また僕に話を聞く必要があるのか教えていただけますか?」
パイプ椅子が軋んで座り心地がよくない。松岡さんはいつもの調子で話し始める。
「先日の被疑者が、櫃木さんと森丘さんが以前から恋仲だったっていうもんだから、再度確認をさせてもらおうと思って」
やっぱりそうか。
「逃げ込んできた知らない人を庇ってそんなことを言われるのは心外です」
「その前に彼女が殴られるの見たでしょ?で、櫃木さん声を掛けてる」
ああ、何やってんだ、ってバルコニーから言った時か。
「はい、僕は徹夜した日は朝の空気を吸ってから寝るので。上から見えたからびっくりして注意しました。それが隣の人とは知りませんでした。どちらのお隣とも没交渉でしたから」
「逃げてきたのはその夜?」
「そうです」
「本当にそれからの付き合い?」
「はい。僕の仕事の時間記録や進捗調べてもらってもいいですよ。在宅勤務なので全部オンラインでログイン時間もで本社に送ってありますから」
松岡さんはそこまで言うなら、という顔をした。
「いえ、それならいいです。櫃木さんと森丘さんが当日以前から付き合いがあったかどうかの確認だけだったので」
「仮に隣の人を知っていても殴る理由にはならないでしょう」
「……彼女に不利になる場合があるからね、刑事でも民事でも。被疑者が情状酌量されるのは割に合わないと思いませんか」
「それはそうです」
「被疑者は騒音だけなら注意ですんだけど、警察官を殴ったからね。それで逮捕したわけだけど、被害届も出てるので今捜査中なんですよ」
「なるほど」
「……森丘さんとは付き合ってるの?」
「まさか!」
「でも一緒に住んでるでしょう」
背筋に冷や汗が流れる。
「……捜査中だから。嘘はつかないでくださいよ。こちらでちゃんと写真も撮ってあるからね」
松岡さんが、僕とキキョウが一緒に出掛けている時の写真を出してきた。
「申し訳ないけど僕たちも仕事だから、調べさせてもらってますよ」
「…………はい。一緒には住んでます。親兄弟も頼れないと言われたので」
「なんて聞いてますか?」
「一人っ子で、父親は再婚、母親は亡くなったと」
「ふーん、それなら本当のこと言ってるんですね」
キキョウの事を疑ってるのか。
「彼女は嘘を吐くような人間じゃないですよ」
「まあまあ。世の中には平気で狂言をする女性もいるのでね」
「あの部屋を見たでしょう!彼女は震えてましたよ、荷物を取りに行った時に!」
思わず僕は声を荒げた。僕が知っているキキョウはそういう人間じゃない。
「……櫃木さん、もう一度確認しますね。今、森丘さんとはお付きあいしてるんですか?」
「……いいえ」
僕はゆっくりと首を振って言った。
「非常時なので部屋を貸してるだけです」
「他にお付き合いしている方は?」
「今はいませんけど、それが何か関係ありますか?」
「今はお一人なんですね?前の方とはいつ別れたんです?」
「ちょっと待ってください、僕のことは関係ないでしょう」
本当に不愉快だ。僕は声を強めた。
「じゃあ、質問を変えましょう……森丘さんと肉体関係は?」
「は?付き合っても無いのにあるわけないでしょう!いい加減にしてください!」
思わず立ち上がり、パイプ椅子が倒れて派手な音を立てた。
「櫃木さん、まあまあ落ち着いて!今は色々な関係性があるから確認したまでですから」
「暴力で逃げてきた人といきなりそんな関係になるように見えますか?心外です」
「……いやほら、肩を抱いて歩いてたでしょう~?年末に」
年末のショッピングモールまで張り付いてたのか。あんなに混んでたのに。被害を届けに行った警察に見張られていたんて。信じられない。
「あれは、病み上がりで人とぶつかって痛いと言っていたから支えていただけですよ」
「ふーん、なるほどね……」
「松岡さん、僕が嘘を吐いて何の得があるんですか」
参考で話を聞かれるどころか、僕はキキョウと関わることで当事者になっていた。
ボロボロになって帰ってきたキキョウを思い出す。こんな風に疑われ下らない事まで訊かれたのだろう。痛む身体で。なのに僕には悔しいとは言っても、痛くて辛いとは一言も言わなかった。
「彼女は、体中が痛くても一言も辛いと言わなかった……雨の日に転んだ小学生を助けるような優しい人です。僕は、隣人だと知らずにずっと見てたんだ……」
涙が溢れて止まらなかった。
キキョウがどれほど人に優しく、自分の事は後回しにする性格なのかを、僕は本当にやっと今、理解した。自分が病み上がりなのに、僕の看病をあんなにしてくれた。どれだけ手を掛けさせたことだろう。
「……朝、バルコニーから?」
「そうです……だから、そういう人だから、殴るような男とでも、ずっと一緒にいたんじゃないですか……!疑うのは、止めてあげてください……森丘さんは、狂言をするような人じゃない……」
手で顔を覆いながら僕は泣いた。ずっと張りつめていた気持ちが切れたのだと思う。
キキョウが疑われ、またこんな風に酷い事情聴取をされると思うととても耐えられなかった。それなのに、僕は彼女を自分の大切な人だとも恋人だとも言えず、守ってやることもできない。
「……もし被疑者が起訴されたら、保釈金を積めば釈放される。その間示談を持ちかけてくるかもしれないし、もしかしたら正月も明けたからすぐにも関係者から連絡があるかもしれない。可能であれば弁護士を間に立てることをお勧めしますよ」
「……それをなぜ僕に、言うんですか」
「恋人じゃなくても、今一番森丘さんに近いのはあなたでしょう。くれぐれも一人にしないように。奴は彼女を恨んでるから」
「……わかりました」
「今日はご足労をお掛けしました。お気をつけて」
松岡さんが灰色の取調室のドアを開けた。
いい歳した男が泣き腫らした目で歩いてるとかみっともないな。それでもキキョウの元に帰らないと。帰り着くまでに目の腫れが戻っていてほしい。赤くなった鼻も。
「……ただいま」
なるべくキキョウと顔を合わせまいと、すぐに洗面所に入って冷たい水で顔を洗った。鏡で見るとやっぱり目がまだ腫れて少し充血している。
「おかえりアオイさ…‥ん……」
後ろでキキョウの声がして、濡れたままの僕の顔と鏡越しに目が合った。
「どうしたの⁈」
「何でもないよ、目にゴミが入っただけ」
手を伸ばし棚からタオルを取ってゆっくりと顔を拭いた。見られないようにしないと。タオルで顔を覆ったまま僕は言った。
「立件するつもりで捜査してるって。僕たちが一緒に住んでるのも警察は知ってた。そこは誤魔化せなかったな。すーごい訊かれたよ、キキョウさんが逃げてくるずっと前から知ってたろって」
僕は振り向くと、伸びきった前髪で目元を隠して、口を精一杯開きつつ笑顔を作ってみせた。
「当日以前は知らないって言っといた――」
言っといたから、という言葉を言い終わる前に、キキョウが僕の胸に飛び込んできた。
「私のせいでたくさん嫌な思いしたんでしょ?ごめんねアオイさん……!」
背中に回る手が温かい。キキョウは涙を目に溜めて僕を見上げ、それでも眼の縁からそれを零さないように堪えていた。
「謝るなよ。ここにいてもいいって言ったのは俺なんだから」
「ううん、私が来たばっかりに……」
「……キキョウさんすごいしんどかったのに、わかってなくてゴメン」
キキョウの目から涙が溢れる瞬間、僕は彼女を抱きしめた。
好きなのに、そう言えない。こんな我慢に何の意味があるんだろう。
けれど、あの男が裁かれるまでは。僕はキキョウに気持ちを伝えまい。
「あったかいの何か飲もうよ、俺作るから」
「ミルクティーがいい……」
「牛乳あったっけ」
「……うん、ある」
「泣くなよ……」
持っていたタオルでキキョウの涙を拭いた。泣いているのに、お互いの事で涙を流していることが僕は何だか嬉しかった。
「アオイさん、気分変えたいから美容室行ってくるね」
「一人で行けそう?」
「うん、大丈夫。すぐ近所のとこだし。徒歩五分だよ、黄色い美容室あるでしょ?」
「ああ、あの店か。気を付けて」
バルコニーから彼女を見るのはいつ以来だろう。今日はよく晴れている。エントランスを出るとすぐ右に折れて、ハーフコートを着たキキョウの姿が見えなくなった。
キキョウを送り出して5分も経たないうちにスマホが鳴る。
画面を見ると警察署からだ。ああ、この問題は終わっちゃいなかった。
「はい、もしもし」
「あ、櫃木さんですか?松岡ですが、先日お話を伺った件についてなんですが」
電話はやっぱり刑事の松岡さんからだった。
「もう少し詳しくお話を伺いたいので署までお越し願えますか」
「僕にですか?お話しできることは全て話しましたが」
「んー、ちょっとめんどくさい事を言い出しましてね、先方が」
キキョウを殴った男がおおかた僕とキキョウの仲を疑っているのだろう。
「わかりました。午後1時なら行けます」
「おやすみの所を申し訳ありません。ご協力痛み入ります。ではその時間で」
これもキキョウの為だ。行ってこよう。
もうすぐ午前11時。
僕は昼食の準備をした。
おせちにも飽きたから、パスタでいいか。準備をしながら思う。どうして、彼女が殴られないといけなくて、殴った奴が偉そうに文句を言っているのか。
殴っていいならそいつをボコボコにしてやりたいところだけど。
そう思いながらパスタを揚げたら玄関の開く音がした。
「ただいまー!」
キキョウの明るい声が聞こえる。
「おかえり!わ、バッサリいったね」
「うん、すっきりしたくて、何年振りかな、こんなに短くするの!」
キキョウは肩まである髪を切り、ショートカットになっていた。ピアスホールが目についた。きっと少し大きめのシンプルなものをつけたら髪型にも合って引き立つだろうな、と思う。
「意外と似合ってるね」
「そう?ありがとう!」
「もうすぐできるから、皿出してもらえるかな」
「うん。あ、カルボナーラ?やったー!大好物」
キキョウがそう言いながら食器棚からパスタ皿を出した。僕が熱を出している間に、あらかたの物の位置は把握したらしい。
「いただきまーす」
キキョウが器用にくるくるとパスタを巻き取る。
「どうかな?」
「美味しい!やっぱりアオイさん料理が上手だね」
「それなら良かった。今日は上手くいったから素直に褒められとこう」
「うん、そうして」
器用にパスタを巻き取るくせに、キキョウの口にはカルボナーラのソースがはみ出してついていた。
「あー美味しかった!」
「キキョウさん、口にソースがたくさんついてるよ」
「ん?ほんと?」
舐めているけどこってり目に作った黄色いソースはくっついているし、唇の下に着いたのは気づいてないみたいだった。
「ほら、ここも」
全く躊躇いも考える事も無く、僕は親指でキキョウの下唇を拭った。
「あ……」
キキョウが驚いている。
――しまった。自分がやってしまった事に気付いたが、もう黄色いソースは僕の指にべったりとついていた。
そのまま彼女の唇にソースのついた親指をそっと押し当てた。唇が開き僕の指をくわえると、キキョウの温かい舌が僕の指を舐めとっていく。
思い切り噛んで跡でも残してくれたらいいのになと思う。そしたら行き場のない僕の気持ちもはっきりするのに。
「……ごちそうさま」
「どういたしまして」
「……食器は、私が洗うから」
「うん、お願いします」
肌の温もりも、口の中がどんな風に湿っているのかも知っているのに、この人は僕の恋人じゃない。
逃げ込んでくるまでは知らなかった隣人。それを証明しに今から警察署に行くのだ。
「キキョウさん」
「はーい?」
「警察にまた呼ばれたから、行ってくるよ」
「え?アオイさんが⁈……私には連絡ないよ?」
キキョウが食器を洗う手を止めた。
「今日明日にでもあると思うよ、多分ね。もし、俺が行ってる間に今どうしてるか訊かれたら、一緒に住んでるの言わない方がいい」
「どうして?私……」
「わかってるだろ?君が不利になる」
僕は、キキョウがそれ以上言わないように言葉を被せた。
「配達来るかもだけど、危ないし出なくていいから。行ってくる」
くたびれてきたスニーカーに足をねじ込み、僕はドアの鍵を外からかけた。
警察署は何度来ても慣れない。どうして灰色なんだろう。一階は交通関係だから真っ直ぐ二階に向かう。
二階に上がると署員が一斉に僕を見る。視線が痛い。
「お待ちしてました。どうぞ」
警察官にしては愛想のよい松岡さんが近づいてきた。また不必要に白い取調室か。どうも今日の僕は機嫌が悪い。
「松岡さん、どうして、また僕に話を聞く必要があるのか教えていただけますか?」
パイプ椅子が軋んで座り心地がよくない。松岡さんはいつもの調子で話し始める。
「先日の被疑者が、櫃木さんと森丘さんが以前から恋仲だったっていうもんだから、再度確認をさせてもらおうと思って」
やっぱりそうか。
「逃げ込んできた知らない人を庇ってそんなことを言われるのは心外です」
「その前に彼女が殴られるの見たでしょ?で、櫃木さん声を掛けてる」
ああ、何やってんだ、ってバルコニーから言った時か。
「はい、僕は徹夜した日は朝の空気を吸ってから寝るので。上から見えたからびっくりして注意しました。それが隣の人とは知りませんでした。どちらのお隣とも没交渉でしたから」
「逃げてきたのはその夜?」
「そうです」
「本当にそれからの付き合い?」
「はい。僕の仕事の時間記録や進捗調べてもらってもいいですよ。在宅勤務なので全部オンラインでログイン時間もで本社に送ってありますから」
松岡さんはそこまで言うなら、という顔をした。
「いえ、それならいいです。櫃木さんと森丘さんが当日以前から付き合いがあったかどうかの確認だけだったので」
「仮に隣の人を知っていても殴る理由にはならないでしょう」
「……彼女に不利になる場合があるからね、刑事でも民事でも。被疑者が情状酌量されるのは割に合わないと思いませんか」
「それはそうです」
「被疑者は騒音だけなら注意ですんだけど、警察官を殴ったからね。それで逮捕したわけだけど、被害届も出てるので今捜査中なんですよ」
「なるほど」
「……森丘さんとは付き合ってるの?」
「まさか!」
「でも一緒に住んでるでしょう」
背筋に冷や汗が流れる。
「……捜査中だから。嘘はつかないでくださいよ。こちらでちゃんと写真も撮ってあるからね」
松岡さんが、僕とキキョウが一緒に出掛けている時の写真を出してきた。
「申し訳ないけど僕たちも仕事だから、調べさせてもらってますよ」
「…………はい。一緒には住んでます。親兄弟も頼れないと言われたので」
「なんて聞いてますか?」
「一人っ子で、父親は再婚、母親は亡くなったと」
「ふーん、それなら本当のこと言ってるんですね」
キキョウの事を疑ってるのか。
「彼女は嘘を吐くような人間じゃないですよ」
「まあまあ。世の中には平気で狂言をする女性もいるのでね」
「あの部屋を見たでしょう!彼女は震えてましたよ、荷物を取りに行った時に!」
思わず僕は声を荒げた。僕が知っているキキョウはそういう人間じゃない。
「……櫃木さん、もう一度確認しますね。今、森丘さんとはお付きあいしてるんですか?」
「……いいえ」
僕はゆっくりと首を振って言った。
「非常時なので部屋を貸してるだけです」
「他にお付き合いしている方は?」
「今はいませんけど、それが何か関係ありますか?」
「今はお一人なんですね?前の方とはいつ別れたんです?」
「ちょっと待ってください、僕のことは関係ないでしょう」
本当に不愉快だ。僕は声を強めた。
「じゃあ、質問を変えましょう……森丘さんと肉体関係は?」
「は?付き合っても無いのにあるわけないでしょう!いい加減にしてください!」
思わず立ち上がり、パイプ椅子が倒れて派手な音を立てた。
「櫃木さん、まあまあ落ち着いて!今は色々な関係性があるから確認したまでですから」
「暴力で逃げてきた人といきなりそんな関係になるように見えますか?心外です」
「……いやほら、肩を抱いて歩いてたでしょう~?年末に」
年末のショッピングモールまで張り付いてたのか。あんなに混んでたのに。被害を届けに行った警察に見張られていたんて。信じられない。
「あれは、病み上がりで人とぶつかって痛いと言っていたから支えていただけですよ」
「ふーん、なるほどね……」
「松岡さん、僕が嘘を吐いて何の得があるんですか」
参考で話を聞かれるどころか、僕はキキョウと関わることで当事者になっていた。
ボロボロになって帰ってきたキキョウを思い出す。こんな風に疑われ下らない事まで訊かれたのだろう。痛む身体で。なのに僕には悔しいとは言っても、痛くて辛いとは一言も言わなかった。
「彼女は、体中が痛くても一言も辛いと言わなかった……雨の日に転んだ小学生を助けるような優しい人です。僕は、隣人だと知らずにずっと見てたんだ……」
涙が溢れて止まらなかった。
キキョウがどれほど人に優しく、自分の事は後回しにする性格なのかを、僕は本当にやっと今、理解した。自分が病み上がりなのに、僕の看病をあんなにしてくれた。どれだけ手を掛けさせたことだろう。
「……朝、バルコニーから?」
「そうです……だから、そういう人だから、殴るような男とでも、ずっと一緒にいたんじゃないですか……!疑うのは、止めてあげてください……森丘さんは、狂言をするような人じゃない……」
手で顔を覆いながら僕は泣いた。ずっと張りつめていた気持ちが切れたのだと思う。
キキョウが疑われ、またこんな風に酷い事情聴取をされると思うととても耐えられなかった。それなのに、僕は彼女を自分の大切な人だとも恋人だとも言えず、守ってやることもできない。
「……もし被疑者が起訴されたら、保釈金を積めば釈放される。その間示談を持ちかけてくるかもしれないし、もしかしたら正月も明けたからすぐにも関係者から連絡があるかもしれない。可能であれば弁護士を間に立てることをお勧めしますよ」
「……それをなぜ僕に、言うんですか」
「恋人じゃなくても、今一番森丘さんに近いのはあなたでしょう。くれぐれも一人にしないように。奴は彼女を恨んでるから」
「……わかりました」
「今日はご足労をお掛けしました。お気をつけて」
松岡さんが灰色の取調室のドアを開けた。
いい歳した男が泣き腫らした目で歩いてるとかみっともないな。それでもキキョウの元に帰らないと。帰り着くまでに目の腫れが戻っていてほしい。赤くなった鼻も。
「……ただいま」
なるべくキキョウと顔を合わせまいと、すぐに洗面所に入って冷たい水で顔を洗った。鏡で見るとやっぱり目がまだ腫れて少し充血している。
「おかえりアオイさ…‥ん……」
後ろでキキョウの声がして、濡れたままの僕の顔と鏡越しに目が合った。
「どうしたの⁈」
「何でもないよ、目にゴミが入っただけ」
手を伸ばし棚からタオルを取ってゆっくりと顔を拭いた。見られないようにしないと。タオルで顔を覆ったまま僕は言った。
「立件するつもりで捜査してるって。僕たちが一緒に住んでるのも警察は知ってた。そこは誤魔化せなかったな。すーごい訊かれたよ、キキョウさんが逃げてくるずっと前から知ってたろって」
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「当日以前は知らないって言っといた――」
言っといたから、という言葉を言い終わる前に、キキョウが僕の胸に飛び込んできた。
「私のせいでたくさん嫌な思いしたんでしょ?ごめんねアオイさん……!」
背中に回る手が温かい。キキョウは涙を目に溜めて僕を見上げ、それでも眼の縁からそれを零さないように堪えていた。
「謝るなよ。ここにいてもいいって言ったのは俺なんだから」
「ううん、私が来たばっかりに……」
「……キキョウさんすごいしんどかったのに、わかってなくてゴメン」
キキョウの目から涙が溢れる瞬間、僕は彼女を抱きしめた。
好きなのに、そう言えない。こんな我慢に何の意味があるんだろう。
けれど、あの男が裁かれるまでは。僕はキキョウに気持ちを伝えまい。
「あったかいの何か飲もうよ、俺作るから」
「ミルクティーがいい……」
「牛乳あったっけ」
「……うん、ある」
「泣くなよ……」
持っていたタオルでキキョウの涙を拭いた。泣いているのに、お互いの事で涙を流していることが僕は何だか嬉しかった。
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