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外伝:藤川麻乃 ~生い立ち~
第3話 利き手
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ようやく西浜の持ち回りになった隆紀が久しぶりに家に戻ってきた。
道場でのことを相談してみるも、隆紀はそんなに急がなくていいんじゃあないかという。
復帰時期が早まるかもと、麻美は少しだけ期待したけれど、隆紀のいう通り小幡の道場へは、通例通りでお願いすると連絡をした。
小幡は残念がっていたけれど、どのみちすぐに通うようになるのだからと納得してくれた。
三人そろっての食事も久しぶりで、麻美は気合いを入れて隆紀の好きなものをたくさん作った。
家族で食卓を囲んで「いただきます」と手を合わせるだけの行為が、麻美にはとても懐かしくて胸に沁みる。
子どものころ、両親とそうやって笑いあって食事をしていた。
「なぁ、麻美……麻乃さ……まさかとは思うけど、左利きか……?」
「え? ああ、そうかも。道場へ通うようになったら、矯正してあげないといけないかもね」
スプーンを持ってご飯を食べている麻乃をみる隆紀の顔が、妙に強張って見える。
急に箸の進みも悪くなった。
「どうかしたの?」
麻美が聞くと、ハッとして顔をあげ、食事も途中のまま「ちょっと神殿に行ってくる」とだけ言い残して出ていってしまった。
あまりにも突然で、なにが起きたのかわからない。
「なんなのよ……こんなにおかず作ったのに……」
タッパーに残りを詰め、翌朝に食べることにした。
この日、隆紀が神殿から戻ったのは、深夜になってからだった。
翌日から、隆紀は人が変わったようになった。
麻乃に対してひどく厳しい。
「麻乃、そっちの手じゃあなくて、こっちで持ちなさい」
左手でなにかをしようとするたびに、右手に持ち替えさせている。
まだ右も左も曖昧なころなのに、矯正するにしても麻乃自身、よくわかっていないはずだ。
その証拠に、隆紀の前で委縮しているような態度を取るようになった。
「だから左手じゃあなくて右手で持ちなさい!」
突然の怒鳴り声に、麻美は外で洗濯物を干していた手を止めて家に駆け戻った。
隆紀の前で、麻乃が半べそをかいている。
「ちょっと! なんなのよ? 矯正するにしても言いかたってもんがあるでしょう! それにまだ早い……」
「――駄目なんだよ! 左利きは……左利きは駄目なんだ!」
「だからって……まだこんなに小さいのに……麻乃をみてよ! 委縮しているのがわからないの?」
麻乃に一瞬だけ目を向けた隆紀は、少しは罪悪感があるのか、辛そうな顔をみせる。
叩いでまで直させようとはしないけれど、まさか怒鳴るとは思わなかった。
それからも隆紀の厳しさは異常で、何度も麻乃を泣かせては、麻美と口論になった。
高田や房枝に窘められても、隆紀は麻乃を叱るのをやめない。
それに、たびたび神殿に出かけていくようになった。
それは二歳を迎えるころまで続いた。
「信じられないわよ、もう! あいつがあんなヤツだったなんて思いもしなかった!」
「あんなにかわいがっていたのに、なにがあったのかしらねぇ?」
柳堀の熊吉の店で、房枝とお茶を飲みながら、麻美は憤りが抑えられずにいた。
「理由もなくそんなに叱るわけがないんだから、一度、ちゃんと話しを聞いてみたほうがいいよ」
「そうよォ。二人で話しにくいんだったら、高田にでも同席してもらったらいいじゃないの」
房枝と熊吉にそう諭され、仕方なくいったん家に戻って隆紀と話しをすることにした。
家の中は静まりかえっている。
居間には誰もいない。
「隆紀? 麻乃?」
散歩にでも出たんだろうか?
台所へ入ると、流しの前に麻乃がいた。
右手に包丁を握りしめ、左手に向けている。
背筋がゾッとした。
驚かせて手が滑りでもしたら……。
ゆっくりと近づきながら、手を差し出した。
「麻乃……危ないからね。それ、お母さんにちょうだい?」
「手って……ないない……」
初めて麻乃が喋った!
けれど、そんな感動などなかった。
「ないないしなくていいの。手っては、ないと駄目なのよ」
しょんぼりとうつむく麻乃の手から包丁を取り上げると、届かないように棚の上に隠した。
麻美の感情が我慢の限界を超えた。
喧嘩をみせたくなくて麻乃を居間に待たせておく。
隆紀の部屋のドアを勢いよく開けると、机に突っ伏して眠っている姿があった。
子どもを放ったまま眠っていたことにも腹が立つ。
「隆紀!!!」
思いきり怒鳴ると、ビクッと体を震わせて隆紀が目を覚ました。
「麻乃が……麻乃が喋った!」
「えっ……ホントか? 一体なんて……」
隆紀の表情が喜んだようにみえたけれど、麻美にとって今はそんなことは関係ない。
「手って、ないない!」
「え……?」
「信じられない……ねえ、初めて喋った言葉が、お母さんでもお父さんでもなくて、手ってないない、よ? どうなっているの? そんな子、ほかのどこにいるのよ!」
隆紀の表情がサッと曇った。
その胸ぐらをつかんで揺さぶりながら、麻美は感情のおもむくまま怒鳴り続けた。
「たった今! 包丁を握りしめて! 左手を切ろうとしてた!」
「そんな……」
「あんたはなんで麻乃を一人きりにして寝てんのよ! ねえ! そんなに麻乃のことが嫌なの?」
「違う! そうじゃあなくて……ただ……左利きが……」
「左利きがなんだっていうの! あんな小さいのに、手を切ってなくそうと思わせるほど……よくもそれだけ追い詰めてくれたものね! 自分の子だっていうのに!」
「でも……早く右利きに……」
この期に及んでまだ利き手のことをいう隆紀を、思いきり引っぱたいた。
隆紀は茫然として麻美をみつめる。
「離婚よ。離婚しましょう。麻乃は私が引き取る。今すぐ出ていくわ。今後のことはあとで話し合いましょう」
「ちょっと待てよ! ちゃんと話す。だから……」
「話しなんてなにもない。これ以上、ここにいたら……麻乃は死んでしまうかもしれないじゃない!」
隆紀の部屋を出て居間へ向かう。
とにかく麻乃を連れて、早くこの家を出なければ。
「麻乃?」
居間に麻乃の姿がない。
台所をみてもいない。
「嘘……やだ……どこに行ったの……?」
道場でのことを相談してみるも、隆紀はそんなに急がなくていいんじゃあないかという。
復帰時期が早まるかもと、麻美は少しだけ期待したけれど、隆紀のいう通り小幡の道場へは、通例通りでお願いすると連絡をした。
小幡は残念がっていたけれど、どのみちすぐに通うようになるのだからと納得してくれた。
三人そろっての食事も久しぶりで、麻美は気合いを入れて隆紀の好きなものをたくさん作った。
家族で食卓を囲んで「いただきます」と手を合わせるだけの行為が、麻美にはとても懐かしくて胸に沁みる。
子どものころ、両親とそうやって笑いあって食事をしていた。
「なぁ、麻美……麻乃さ……まさかとは思うけど、左利きか……?」
「え? ああ、そうかも。道場へ通うようになったら、矯正してあげないといけないかもね」
スプーンを持ってご飯を食べている麻乃をみる隆紀の顔が、妙に強張って見える。
急に箸の進みも悪くなった。
「どうかしたの?」
麻美が聞くと、ハッとして顔をあげ、食事も途中のまま「ちょっと神殿に行ってくる」とだけ言い残して出ていってしまった。
あまりにも突然で、なにが起きたのかわからない。
「なんなのよ……こんなにおかず作ったのに……」
タッパーに残りを詰め、翌朝に食べることにした。
この日、隆紀が神殿から戻ったのは、深夜になってからだった。
翌日から、隆紀は人が変わったようになった。
麻乃に対してひどく厳しい。
「麻乃、そっちの手じゃあなくて、こっちで持ちなさい」
左手でなにかをしようとするたびに、右手に持ち替えさせている。
まだ右も左も曖昧なころなのに、矯正するにしても麻乃自身、よくわかっていないはずだ。
その証拠に、隆紀の前で委縮しているような態度を取るようになった。
「だから左手じゃあなくて右手で持ちなさい!」
突然の怒鳴り声に、麻美は外で洗濯物を干していた手を止めて家に駆け戻った。
隆紀の前で、麻乃が半べそをかいている。
「ちょっと! なんなのよ? 矯正するにしても言いかたってもんがあるでしょう! それにまだ早い……」
「――駄目なんだよ! 左利きは……左利きは駄目なんだ!」
「だからって……まだこんなに小さいのに……麻乃をみてよ! 委縮しているのがわからないの?」
麻乃に一瞬だけ目を向けた隆紀は、少しは罪悪感があるのか、辛そうな顔をみせる。
叩いでまで直させようとはしないけれど、まさか怒鳴るとは思わなかった。
それからも隆紀の厳しさは異常で、何度も麻乃を泣かせては、麻美と口論になった。
高田や房枝に窘められても、隆紀は麻乃を叱るのをやめない。
それに、たびたび神殿に出かけていくようになった。
それは二歳を迎えるころまで続いた。
「信じられないわよ、もう! あいつがあんなヤツだったなんて思いもしなかった!」
「あんなにかわいがっていたのに、なにがあったのかしらねぇ?」
柳堀の熊吉の店で、房枝とお茶を飲みながら、麻美は憤りが抑えられずにいた。
「理由もなくそんなに叱るわけがないんだから、一度、ちゃんと話しを聞いてみたほうがいいよ」
「そうよォ。二人で話しにくいんだったら、高田にでも同席してもらったらいいじゃないの」
房枝と熊吉にそう諭され、仕方なくいったん家に戻って隆紀と話しをすることにした。
家の中は静まりかえっている。
居間には誰もいない。
「隆紀? 麻乃?」
散歩にでも出たんだろうか?
台所へ入ると、流しの前に麻乃がいた。
右手に包丁を握りしめ、左手に向けている。
背筋がゾッとした。
驚かせて手が滑りでもしたら……。
ゆっくりと近づきながら、手を差し出した。
「麻乃……危ないからね。それ、お母さんにちょうだい?」
「手って……ないない……」
初めて麻乃が喋った!
けれど、そんな感動などなかった。
「ないないしなくていいの。手っては、ないと駄目なのよ」
しょんぼりとうつむく麻乃の手から包丁を取り上げると、届かないように棚の上に隠した。
麻美の感情が我慢の限界を超えた。
喧嘩をみせたくなくて麻乃を居間に待たせておく。
隆紀の部屋のドアを勢いよく開けると、机に突っ伏して眠っている姿があった。
子どもを放ったまま眠っていたことにも腹が立つ。
「隆紀!!!」
思いきり怒鳴ると、ビクッと体を震わせて隆紀が目を覚ました。
「麻乃が……麻乃が喋った!」
「えっ……ホントか? 一体なんて……」
隆紀の表情が喜んだようにみえたけれど、麻美にとって今はそんなことは関係ない。
「手って、ないない!」
「え……?」
「信じられない……ねえ、初めて喋った言葉が、お母さんでもお父さんでもなくて、手ってないない、よ? どうなっているの? そんな子、ほかのどこにいるのよ!」
隆紀の表情がサッと曇った。
その胸ぐらをつかんで揺さぶりながら、麻美は感情のおもむくまま怒鳴り続けた。
「たった今! 包丁を握りしめて! 左手を切ろうとしてた!」
「そんな……」
「あんたはなんで麻乃を一人きりにして寝てんのよ! ねえ! そんなに麻乃のことが嫌なの?」
「違う! そうじゃあなくて……ただ……左利きが……」
「左利きがなんだっていうの! あんな小さいのに、手を切ってなくそうと思わせるほど……よくもそれだけ追い詰めてくれたものね! 自分の子だっていうのに!」
「でも……早く右利きに……」
この期に及んでまだ利き手のことをいう隆紀を、思いきり引っぱたいた。
隆紀は茫然として麻美をみつめる。
「離婚よ。離婚しましょう。麻乃は私が引き取る。今すぐ出ていくわ。今後のことはあとで話し合いましょう」
「ちょっと待てよ! ちゃんと話す。だから……」
「話しなんてなにもない。これ以上、ここにいたら……麻乃は死んでしまうかもしれないじゃない!」
隆紀の部屋を出て居間へ向かう。
とにかく麻乃を連れて、早くこの家を出なければ。
「麻乃?」
居間に麻乃の姿がない。
台所をみてもいない。
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