蓮華

釜瑪 秋摩

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動きだす刻

第44話 麻乃 ~麻乃 1~

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 ――やっと戻ってきた。

 枇杷島に戦艦が停泊してから人目を避けて避難用のボートをこっそりと下ろした。
 見咎められて、いちいち説明をするのは面倒だったし、誰かに付き添われるのもうっとおしい。

 戦闘中になにかあっては困ると、マドルがそばに置いた側近が常に麻乃を監視しているのはわかっていた。
 どうやらその側近は他のことも任されているようで、時折、完全に麻乃から離れることがあり、その隙をついた。

 勝手知ったる泉翔の近海に、なんの不安もない。
 逸る気持ちを抑え、監視隊に見つからないルートで砦の岩場にたどり着いた。

 途中、つけられている気配を感じたけれど、麻乃を呼び止めようとしないところを見ると気づいたマドルの側近が追ってきて監視しているだけだろう。
 敵国に侵入して無謀な真似はしないと考え、放っておくことにした。

 手近な岩にボートを繋ぎ止め、岩場を登って砦の前に出ると、一度海を振り返る。
 そして、やっと戻ってきた……そう思った。
 大銀杏の木に向かって歩き、幹に両手を付いて頬を寄せた。
 その感触さえも懐かしい。

 いつものように銀杏の木に登って大振りの枝に立ち、周辺を見渡した。
 日が暮れ始めた空の茜色が見慣れた西区の景色を奇麗に染めている。

 あたりには人の気配を感じない。
 攻められることを知り、泉の森に避難でもしたのだろう。
 大陸で見ていた景色とはまったく違って、どこまでも澄んだ空が本当に美しい。

(あたしは……やっぱりこの国を心から愛している……だけど……)

 ギュッと胸が締め付けられて痛む。
 どんなにか愛していようが、この国は麻乃を拒絶する。
 家系の事情や生い立ちを知った、そのほとんどのものから向けられる冷やかな目、恐れと嫌悪を見せる視線を幾度となく受けてきた。
 中にはそんなことなど気にもせず良くしてくれた人たちもいたけれど……。

(でも、今ならわかる)

 それは決して麻乃を少しでも愛してくれていたからではなく、単に刺激をしないように、麻乃が周囲に仇を為さないようになだめ、機嫌を取るためだけだったんだ。

(最初から誰も、あたしのことなど思ってくれちゃいなかったんだ……)

 時としてそれらの優しさに救われたこともあったし、それが表面上のものでも、なにも知らなかった麻乃には心の支えだった。

 そうして信頼した結果はどうだ?

 危うく命を奪われかけ、今ではこんな姿だ。
 今この場で優しかった誰かに出会ったとしても、向けられる目は今までと同じではないのが、見なくてもわかる。
 どうしようもなく切ない思いに、そのまま枝に腰を下ろすと膝を抱え、声を殺して泣いた。

 せめて今ここに、両親がいてくれたなら……。

 そんな思いさえ頭をかすめる。
 ひとしきり泣いたあと、銀杏から飛び降りて呼吸を整えて気配を殺した。

 どのくらい時間が経ったのだろうか。
 あたりは夜の帳が降りている。
 わざわざ一人で先に泉翔へ足を踏み入れたわけを忘れてはいけない。
 なによりも大切な用があってのことだ。

『禁忌を犯したものに粛清を……』

 マドルの言葉が頭の奥に何度も響く。

(そうだ。あたしが止めなければならない。もちろん力ずくでだ)

 そして遠い昔にやり残したことを遂げなければならない。
 裏切ったやつらに必ず後悔させてやる。

 腰に帯びた夜光がひどく冷たい。
 冬の川に腰から下まで浸かっているように体じゅうが冷えていき、空になった鬼灯の鞘にそっと触れる。
 柄を握ったときの熱を思い出すと、夜光が殊更冷たく感じた。

 これから自宅に向かい、炎魔刀と紅華炎を持ち出すには、今、使いようがない鬼灯の鞘が邪魔になる。
 砦の片隅に見つからないように隠し置いた。

 砦から自宅に続く道へ出たところで、もう一度、周辺の気配を手繰った。
 柳堀の方向に多数の気配がある。
 居住区にもまだ数人、残っているようだ。

 それから詰所……。
 自宅のほうからも数人の気配を感じ、足を早めた。
 もしも誰かに炎魔刀を持ち出されたらと思うと、焦りを感じる。
 夜光に不満があるわけじゃないけれど、一刀では心許ない。

(それに……今なら……今こそ、炎魔刀を抜くことができる)

 あれさえ手にすれば、誰が相手であろうと負けはしない。
 今度は負けやしない、もう二度とあんなふうに傷つき倒れることもない。

『罪のない泉翔や大陸のものたちを守れるのは、貴女の力だけではないのですか?』

 また、マドルの言葉を思い出し、ジリッと左腕が痛んだ。
 けれど今はなにも怖くなどない。

(あたしこそが人々を守り、平穏な時間をもたらすんだ――)
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