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動きだす刻
第7話 安息 ~マドル 7~
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することもなく、と言って話しかけるわけにもいかず、それでもこの部屋から離れようとも思えず、ただぼんやりと、わずかにうつむいた麻乃の横顔を眺めていた。
部屋の中はまだ甘ったるい花の香が残っている。
こんなにもなにもしていない時間があるとすれば眠っているときくらいだろう。
机に乗せられたままの他の本は、マドルにとってはさして必要のないもので、手に取ろうという気にはなれず手持ち無沙汰だ。
女官もまだ戻ってこない。腕時計に視線を落とすと、ここへ来てからまだ三十分ほどしか経っていなかった。
妙にゆったりと時間が流れている気がする。
「……あるんだ」
「……えっ?」
ぼんやりとしていたせいで、麻乃が不意に発した言葉を聞き逃してしまった。
「どうしても必要なものがある。それを手にするのに枇杷島へ立ち寄るのは丁度いい、それだけのことだ」
本を開いたままで、外を眺めながら言った麻乃の表情は見えない。
最初はなんのことを言っているのか理解できないでいた。
数秒考えて、枇杷島に行くのが都合がいいと言っていたのを思い出し、今の言葉がマドルの質問にする答えだと気づいた。
「そうですか。慣れた土地で特に危険がないのであれば、あとのことはお任せします」
「心配なんて必要ない。怪我なんてしやしない」
「ずいぶんとハッキリ言い切られるのですね」
「あたしは大丈夫だ。それだけはわかる……いや。わかったんだ」
こうまで断言するのは、庸儀の兵を軽く往なしたせいだろうか。
麻乃から自信があふれているように感じ、それが一体、どこから来るのか知りたいと思った。
けれど、ここでまた余計なことを口にして機嫌を損ねたくはない。
どうするべきか迷い、なにも言えないままで麻乃を見つめた。
「疲れているなら少し休んだほうがいい」
突然そう言われて驚く。
暗に出ていけと言っているのだろうか。
「疲れている? 私が、ですか?」
「さっきからぼんやりしている。それに急に口数が少なくなった」
それはそうだろう。これでも気は遣っている。
それに、まさか麻乃に口数が少ないなどと言われようとは。
「無理を言って出航を急がせたせいで倒れたなどと言われたくない。今ここでそうしている時間があるなら休んでおいたほうがいい」
「いえ……私は……」
「自室にいちゃあ休めやしない、そんなところか。ここなら誰が来るわけでもない。横になっていけばいい」
胸の内側をギュッと掴まれたような、変な痛みが走った。
(横になっていけと言われても……)
嫌でも視線がベッドへ向いてしまい、ごまかすように時計に目を移して軽く咳払いをした。
クッと笑い声が聞こえて顔を上げると、麻乃は窓枠に頬づえをついてこちらを見つめ、反対の手で部屋の片隅を指した。
「仕切りの向こうにある机やら簡易ベッド。時々、ここの女性が使わせてもらっているけれど、全部あなたのものじゃないのか?」
そう言えば、最初に麻乃をこの部屋に連れてきた日に、間仕切りをして使えるものを持ち込んだ。
最も忙しさやジェの邪魔が入ってばかりで使うことなどありはしなかったけれど――。
それよりも、思考が偏った方向に動いてしまったことを恥じ、自分らしからぬ感情に戸惑いを覚えた。
いつでもまず、これから先のことだけを考えていたのに、この数日は特に揺さぶられて余計なことばかりを考えている。
「泉翔に渡ったら休む暇なんてありはしない。休めるうちに休んでおくことだね」
「そう……ですね。ですがまだ出航準備の件もあるでしょうし……」
「あなたがいなければ立ち行かないようなできの悪い部下ばかりなのか? そんなやつらじゃ、泉翔に戻る際にあずけられても迷惑な話しだな」
呆れた表情を見せた麻乃は、頬づえをついたままで外に向いてしまった。
もう一体、なにをどう言ったら良いのかさえわからない。
他人と話しをしていて頭が回らないのも言葉を失うのも初めてだ。
「誰か尋ねてくるとか忙しくてそれどころじゃないと言うなら、無理にとは言わないから……」
尋ねてくる、というのがジェを指しているような気がしてムッとする。
今、この瞬間にジェのことなど話題にも上らせたくはないし、思い出したいとも思わない。
最後の言葉が「帰れ」と続きそうで、強い口調でさえぎった。
「いえ。何日も留守にするわけではありませんし、少しばかり私のいない時間があっても問題はありません。尋ねてくるものがいるわけでもありませんから」
「まぁ……どっちでも構わないけどね。問題ないって言うなら好きなだけ横になっていればいい。ここにいるかぎりは誰も邪魔しはしない。目が覚めたときが起きどきだ」
部屋の中はまだ甘ったるい花の香が残っている。
こんなにもなにもしていない時間があるとすれば眠っているときくらいだろう。
机に乗せられたままの他の本は、マドルにとってはさして必要のないもので、手に取ろうという気にはなれず手持ち無沙汰だ。
女官もまだ戻ってこない。腕時計に視線を落とすと、ここへ来てからまだ三十分ほどしか経っていなかった。
妙にゆったりと時間が流れている気がする。
「……あるんだ」
「……えっ?」
ぼんやりとしていたせいで、麻乃が不意に発した言葉を聞き逃してしまった。
「どうしても必要なものがある。それを手にするのに枇杷島へ立ち寄るのは丁度いい、それだけのことだ」
本を開いたままで、外を眺めながら言った麻乃の表情は見えない。
最初はなんのことを言っているのか理解できないでいた。
数秒考えて、枇杷島に行くのが都合がいいと言っていたのを思い出し、今の言葉がマドルの質問にする答えだと気づいた。
「そうですか。慣れた土地で特に危険がないのであれば、あとのことはお任せします」
「心配なんて必要ない。怪我なんてしやしない」
「ずいぶんとハッキリ言い切られるのですね」
「あたしは大丈夫だ。それだけはわかる……いや。わかったんだ」
こうまで断言するのは、庸儀の兵を軽く往なしたせいだろうか。
麻乃から自信があふれているように感じ、それが一体、どこから来るのか知りたいと思った。
けれど、ここでまた余計なことを口にして機嫌を損ねたくはない。
どうするべきか迷い、なにも言えないままで麻乃を見つめた。
「疲れているなら少し休んだほうがいい」
突然そう言われて驚く。
暗に出ていけと言っているのだろうか。
「疲れている? 私が、ですか?」
「さっきからぼんやりしている。それに急に口数が少なくなった」
それはそうだろう。これでも気は遣っている。
それに、まさか麻乃に口数が少ないなどと言われようとは。
「無理を言って出航を急がせたせいで倒れたなどと言われたくない。今ここでそうしている時間があるなら休んでおいたほうがいい」
「いえ……私は……」
「自室にいちゃあ休めやしない、そんなところか。ここなら誰が来るわけでもない。横になっていけばいい」
胸の内側をギュッと掴まれたような、変な痛みが走った。
(横になっていけと言われても……)
嫌でも視線がベッドへ向いてしまい、ごまかすように時計に目を移して軽く咳払いをした。
クッと笑い声が聞こえて顔を上げると、麻乃は窓枠に頬づえをついてこちらを見つめ、反対の手で部屋の片隅を指した。
「仕切りの向こうにある机やら簡易ベッド。時々、ここの女性が使わせてもらっているけれど、全部あなたのものじゃないのか?」
そう言えば、最初に麻乃をこの部屋に連れてきた日に、間仕切りをして使えるものを持ち込んだ。
最も忙しさやジェの邪魔が入ってばかりで使うことなどありはしなかったけれど――。
それよりも、思考が偏った方向に動いてしまったことを恥じ、自分らしからぬ感情に戸惑いを覚えた。
いつでもまず、これから先のことだけを考えていたのに、この数日は特に揺さぶられて余計なことばかりを考えている。
「泉翔に渡ったら休む暇なんてありはしない。休めるうちに休んでおくことだね」
「そう……ですね。ですがまだ出航準備の件もあるでしょうし……」
「あなたがいなければ立ち行かないようなできの悪い部下ばかりなのか? そんなやつらじゃ、泉翔に戻る際にあずけられても迷惑な話しだな」
呆れた表情を見せた麻乃は、頬づえをついたままで外に向いてしまった。
もう一体、なにをどう言ったら良いのかさえわからない。
他人と話しをしていて頭が回らないのも言葉を失うのも初めてだ。
「誰か尋ねてくるとか忙しくてそれどころじゃないと言うなら、無理にとは言わないから……」
尋ねてくる、というのがジェを指しているような気がしてムッとする。
今、この瞬間にジェのことなど話題にも上らせたくはないし、思い出したいとも思わない。
最後の言葉が「帰れ」と続きそうで、強い口調でさえぎった。
「いえ。何日も留守にするわけではありませんし、少しばかり私のいない時間があっても問題はありません。尋ねてくるものがいるわけでもありませんから」
「まぁ……どっちでも構わないけどね。問題ないって言うなら好きなだけ横になっていればいい。ここにいるかぎりは誰も邪魔しはしない。目が覚めたときが起きどきだ」
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