蓮華

釜瑪 秋摩

文字の大きさ
上 下
416 / 780
動きだす刻

第5話 安息 ~マドル 5~

しおりを挟む
「本当に……貴女のおかげです」

「あたしの? 違う。あたしのせいで危ない目に合わせてしまったんじゃないか」

「確かにそうかもしれません。ですが、貴女は女官に傷一つ負わせていません。そうでしょう?」

 握った手を振り解くでもなく、と言って握り返すでもなく、ただ、ジッと包んだ手を麻乃は見つめている。

「あなたは……いつもそうやって、あたしを肯定する。こんな面倒なことばかりを運んでくるあたしの……傷を治してくれるのも、手を貸してくれるのも、あなたにはなんの得にもならないだろうに」

「そんなことはありません。前にも言ったはずです。貴女は大陸に暮らす私たちの希望だ。貴女のしようとしていることは正しいのです。それだけのことです」

「……正しい? あたしが?」

 訝しげに首を傾げた麻乃にうなずいてみせた。
 それに本当に面倒なことばかりを運んでくるのは、ジェのほうだ。
 麻乃の感情を言葉一つで動かせるなら望む言葉などいくらでも言おう。
 そう考えたのを見透かすように、眉を寄せて顔を背けた麻乃は声を震わせて呟いた。

「口ではなんとでも言える……言葉なんて当てになりはしない。人を安心させるような言葉を紡ぎながら、その実なにを考えているかなど、本人にでもならないかぎりはわかりやしないんだから……」

「それでも……貴女がどう思おうとも、私たち大陸に生きる人間にとってはなくてはならない、そういう存在なのですよ」

 一言一言、ゆっくりと噛んで含むようにして伝えた。
 これまでの暮らしの中で、麻乃は自分の存在を疎む者の思考や視線に抑圧されていた部分があるようだ。
 そこを逆手に取ればたやすい。

 これから成すべきことのためには、麻乃の存在は必須だ。
 すべてが終わったあとにも描くヴィジョンには麻乃を欠くわけにはいかない。

「あなたが……あなたは、あたしを必要としてくれている……それはなんとなくわかる……」

(弱く見せてつけ入ったら、あっと言う間に手中にできた)

 いつか、リュがそう言った。
 確かに弱者には甘いようだ。
 けれど手中になど簡単に落ちやしない。
 ついさっき、感情に任せて妙な真似をしてしまうところだった自分がおかしくて、口もとが緩んだ。

 麻乃の深く紅い瞳が、マドルを見つめている。
 解こうとして引いた手をギュッと握り直すと、さっきとは違い無理に解こうとはしない。

 黙ったままで見つめ合い、赤い瞳に吸い込まれるように顔を寄せ、ほんの一瞬だけ唇を重ねた。
 嫌がることも怒り出す様子もない。
 身動きもせず、ゆっくりと瞬きだけを何度か繰り返している。

(もう一度、今度はもっと深く……)

 そう思って肩に手をかけ引き寄せようとしたとき、女官が戻ってきてしまい、仕方なく体を離した。
 運んできた水差しを机に置き、麻乃が目を覚ましているのを見た女官の顔が綻んだ。

「目を覚まされたのですね」

「ええ。もう心配は要らないでしょう」

「あのあと、ちょうど通りかかったマドルさまに事情をお話ししたんですよ。意識を失われた藤川さまを、ここまで運んでくださったのもマドルさまです」

 汲んだ水を麻乃に渡し、女官が言った。
 グラスを握った麻乃はうつむいている。

「あなたにはいつも、助けられてばかりだ」

「それはさっきも言ったとおりです。貴女が……」

「いや、いい。わかった。けど……ありがとう……」

「いえ。どれも大したことをしているわけではありません。今夜はもう遅い。また明日の朝に出直してきますから、ゆっくり休んでください」

 扉を閉めて部屋へ向かうあいだ、高揚する思いに息苦しさを感じていた。
 あまりにも急速に飛び込んできた変化に、マドル自身がついていけなくて胸がざわつく。
 こんなになにもかもを他人に振り回されるのは初めてだ。
 シャワーを浴びて横になると、疲労が押し寄せてきて、あっという間に意識が遠退いた。

 翌朝はこれまでにないほどスッキリと目が覚めた。
 城の中はまだ静まり返っていて、外からは珍しく鳥のさえずりが響いている。
 窓を開け放つとツバメが低く飛び交っていた。

(この辺りにツバメとは……ずいぶんと久しく見ていなかった)

 出航を控えた今、些細でも変わったことがあるのが、幸先が良く感じる。
 季節が変わる時期のせいか吹き込んでくる風が冷たい。
 強い風が砂埃を巻き上げる前に窓を閉じた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

主役の聖女は死にました

F.conoe
ファンタジー
聖女と一緒に召喚された私。私は聖女じゃないのに、聖女とされた。

【完結】失いかけた君にもう一度

暮田呉子
恋愛
偶然、振り払った手が婚約者の頬に当たってしまった。 叩くつもりはなかった。 しかし、謝ろうとした矢先、彼女は全てを捨てていなくなってしまった──。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

夫達の裏切りに復讐心で一杯だった私は、死の間際に本当の願いを見つけ幸せになれました。

Nao*
恋愛
家庭を顧みず、外泊も増えた夫ダリス。 それを寂しく思う私だったが、庭師のサムとその息子のシャルに癒される日々を送って居た。 そして私達は、三人であるバラの苗を庭に植える。 しかしその後…夫と親友のエリザによって、私は酷い裏切りを受ける事に─。 命の危機が迫る中、私の心は二人への復讐心で一杯になるが…駆けつけたシャルとサムを前に、本当の願いを見つけて─? (1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります)

(完)聖女様は頑張らない

青空一夏
ファンタジー
私は大聖女様だった。歴史上最強の聖女だった私はそのあまりに強すぎる力から、悪魔? 魔女?と疑われ追放された。 それも命を救ってやったカール王太子の命令により追放されたのだ。あの恩知らずめ! 侯爵令嬢の色香に負けやがって。本物の聖女より偽物美女の侯爵令嬢を選びやがった。 私は逃亡中に足をすべらせ死んだ? と思ったら聖女認定の最初の日に巻き戻っていた!! もう全力でこの国の為になんか働くもんか! 異世界ゆるふわ設定ご都合主義ファンタジー。よくあるパターンの聖女もの。ラブコメ要素ありです。楽しく笑えるお話です。(多分😅)

悪意のパーティー《完結》

アーエル
ファンタジー
私が目を覚ましたのは王城で行われたパーティーで毒を盛られてから1年になろうかという時期でした。 ある意味でダークな内容です ‪☆他社でも公開

処理中です...