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動きだす刻
第5話 安息 ~マドル 5~
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「本当に……貴女のおかげです」
「あたしの? 違う。あたしのせいで危ない目に合わせてしまったんじゃないか」
「確かにそうかもしれません。ですが、貴女は女官に傷一つ負わせていません。そうでしょう?」
握った手を振り解くでもなく、と言って握り返すでもなく、ただ、ジッと包んだ手を麻乃は見つめている。
「あなたは……いつもそうやって、あたしを肯定する。こんな面倒なことばかりを運んでくるあたしの……傷を治してくれるのも、手を貸してくれるのも、あなたにはなんの得にもならないだろうに」
「そんなことはありません。前にも言ったはずです。貴女は大陸に暮らす私たちの希望だ。貴女のしようとしていることは正しいのです。それだけのことです」
「……正しい? あたしが?」
訝しげに首を傾げた麻乃にうなずいてみせた。
それに本当に面倒なことばかりを運んでくるのは、ジェのほうだ。
麻乃の感情を言葉一つで動かせるなら望む言葉などいくらでも言おう。
そう考えたのを見透かすように、眉を寄せて顔を背けた麻乃は声を震わせて呟いた。
「口ではなんとでも言える……言葉なんて当てになりはしない。人を安心させるような言葉を紡ぎながら、その実なにを考えているかなど、本人にでもならないかぎりはわかりやしないんだから……」
「それでも……貴女がどう思おうとも、私たち大陸に生きる人間にとってはなくてはならない、そういう存在なのですよ」
一言一言、ゆっくりと噛んで含むようにして伝えた。
これまでの暮らしの中で、麻乃は自分の存在を疎む者の思考や視線に抑圧されていた部分があるようだ。
そこを逆手に取ればたやすい。
これから成すべきことのためには、麻乃の存在は必須だ。
すべてが終わったあとにも描くヴィジョンには麻乃を欠くわけにはいかない。
「あなたが……あなたは、あたしを必要としてくれている……それはなんとなくわかる……」
(弱く見せてつけ入ったら、あっと言う間に手中にできた)
いつか、リュがそう言った。
確かに弱者には甘いようだ。
けれど手中になど簡単に落ちやしない。
ついさっき、感情に任せて妙な真似をしてしまうところだった自分がおかしくて、口もとが緩んだ。
麻乃の深く紅い瞳が、マドルを見つめている。
解こうとして引いた手をギュッと握り直すと、さっきとは違い無理に解こうとはしない。
黙ったままで見つめ合い、赤い瞳に吸い込まれるように顔を寄せ、ほんの一瞬だけ唇を重ねた。
嫌がることも怒り出す様子もない。
身動きもせず、ゆっくりと瞬きだけを何度か繰り返している。
(もう一度、今度はもっと深く……)
そう思って肩に手をかけ引き寄せようとしたとき、女官が戻ってきてしまい、仕方なく体を離した。
運んできた水差しを机に置き、麻乃が目を覚ましているのを見た女官の顔が綻んだ。
「目を覚まされたのですね」
「ええ。もう心配は要らないでしょう」
「あのあと、ちょうど通りかかったマドルさまに事情をお話ししたんですよ。意識を失われた藤川さまを、ここまで運んでくださったのもマドルさまです」
汲んだ水を麻乃に渡し、女官が言った。
グラスを握った麻乃はうつむいている。
「あなたにはいつも、助けられてばかりだ」
「それはさっきも言ったとおりです。貴女が……」
「いや、いい。わかった。けど……ありがとう……」
「いえ。どれも大したことをしているわけではありません。今夜はもう遅い。また明日の朝に出直してきますから、ゆっくり休んでください」
扉を閉めて部屋へ向かうあいだ、高揚する思いに息苦しさを感じていた。
あまりにも急速に飛び込んできた変化に、マドル自身がついていけなくて胸がざわつく。
こんなになにもかもを他人に振り回されるのは初めてだ。
シャワーを浴びて横になると、疲労が押し寄せてきて、あっという間に意識が遠退いた。
翌朝はこれまでにないほどスッキリと目が覚めた。
城の中はまだ静まり返っていて、外からは珍しく鳥のさえずりが響いている。
窓を開け放つとツバメが低く飛び交っていた。
(この辺りにツバメとは……ずいぶんと久しく見ていなかった)
出航を控えた今、些細でも変わったことがあるのが、幸先が良く感じる。
季節が変わる時期のせいか吹き込んでくる風が冷たい。
強い風が砂埃を巻き上げる前に窓を閉じた。
「あたしの? 違う。あたしのせいで危ない目に合わせてしまったんじゃないか」
「確かにそうかもしれません。ですが、貴女は女官に傷一つ負わせていません。そうでしょう?」
握った手を振り解くでもなく、と言って握り返すでもなく、ただ、ジッと包んだ手を麻乃は見つめている。
「あなたは……いつもそうやって、あたしを肯定する。こんな面倒なことばかりを運んでくるあたしの……傷を治してくれるのも、手を貸してくれるのも、あなたにはなんの得にもならないだろうに」
「そんなことはありません。前にも言ったはずです。貴女は大陸に暮らす私たちの希望だ。貴女のしようとしていることは正しいのです。それだけのことです」
「……正しい? あたしが?」
訝しげに首を傾げた麻乃にうなずいてみせた。
それに本当に面倒なことばかりを運んでくるのは、ジェのほうだ。
麻乃の感情を言葉一つで動かせるなら望む言葉などいくらでも言おう。
そう考えたのを見透かすように、眉を寄せて顔を背けた麻乃は声を震わせて呟いた。
「口ではなんとでも言える……言葉なんて当てになりはしない。人を安心させるような言葉を紡ぎながら、その実なにを考えているかなど、本人にでもならないかぎりはわかりやしないんだから……」
「それでも……貴女がどう思おうとも、私たち大陸に生きる人間にとってはなくてはならない、そういう存在なのですよ」
一言一言、ゆっくりと噛んで含むようにして伝えた。
これまでの暮らしの中で、麻乃は自分の存在を疎む者の思考や視線に抑圧されていた部分があるようだ。
そこを逆手に取ればたやすい。
これから成すべきことのためには、麻乃の存在は必須だ。
すべてが終わったあとにも描くヴィジョンには麻乃を欠くわけにはいかない。
「あなたが……あなたは、あたしを必要としてくれている……それはなんとなくわかる……」
(弱く見せてつけ入ったら、あっと言う間に手中にできた)
いつか、リュがそう言った。
確かに弱者には甘いようだ。
けれど手中になど簡単に落ちやしない。
ついさっき、感情に任せて妙な真似をしてしまうところだった自分がおかしくて、口もとが緩んだ。
麻乃の深く紅い瞳が、マドルを見つめている。
解こうとして引いた手をギュッと握り直すと、さっきとは違い無理に解こうとはしない。
黙ったままで見つめ合い、赤い瞳に吸い込まれるように顔を寄せ、ほんの一瞬だけ唇を重ねた。
嫌がることも怒り出す様子もない。
身動きもせず、ゆっくりと瞬きだけを何度か繰り返している。
(もう一度、今度はもっと深く……)
そう思って肩に手をかけ引き寄せようとしたとき、女官が戻ってきてしまい、仕方なく体を離した。
運んできた水差しを机に置き、麻乃が目を覚ましているのを見た女官の顔が綻んだ。
「目を覚まされたのですね」
「ええ。もう心配は要らないでしょう」
「あのあと、ちょうど通りかかったマドルさまに事情をお話ししたんですよ。意識を失われた藤川さまを、ここまで運んでくださったのもマドルさまです」
汲んだ水を麻乃に渡し、女官が言った。
グラスを握った麻乃はうつむいている。
「あなたにはいつも、助けられてばかりだ」
「それはさっきも言ったとおりです。貴女が……」
「いや、いい。わかった。けど……ありがとう……」
「いえ。どれも大したことをしているわけではありません。今夜はもう遅い。また明日の朝に出直してきますから、ゆっくり休んでください」
扉を閉めて部屋へ向かうあいだ、高揚する思いに息苦しさを感じていた。
あまりにも急速に飛び込んできた変化に、マドル自身がついていけなくて胸がざわつく。
こんなになにもかもを他人に振り回されるのは初めてだ。
シャワーを浴びて横になると、疲労が押し寄せてきて、あっという間に意識が遠退いた。
翌朝はこれまでにないほどスッキリと目が覚めた。
城の中はまだ静まり返っていて、外からは珍しく鳥のさえずりが響いている。
窓を開け放つとツバメが低く飛び交っていた。
(この辺りにツバメとは……ずいぶんと久しく見ていなかった)
出航を控えた今、些細でも変わったことがあるのが、幸先が良く感じる。
季節が変わる時期のせいか吹き込んでくる風が冷たい。
強い風が砂埃を巻き上げる前に窓を閉じた。
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