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しおりを挟む仕事後、僕は先輩さまに寮へ案内された。事務所と同じく、赤い空間にぽつりと建てられたそこは六階建てで、まるで小綺麗なマンションのようだった。
「想像してたよりずっと綺麗だ」
「汚い宿舎なんて誰が使いたがるんだよ」
「福利厚生に力を入れているの? 地獄だなんて真っ黒そうな会社なのに、職員に対しては白い対応をするんだね」
「暴動起こされて血で赤くなるよりはマシなんだろ」
「先輩方が勝ち取ってきた権利な訳だ。有難くあやかるとするよ」
「寮の管理者は一階の一番端の部屋にいる。後のことは適当に聞いといて。一応伝えとくけど、俺の部屋は四階だから」
「夜這いに来て欲しいって?」
「四階で騒いだから開いた口の数だけ爪剥がしてその口に詰めるから。じゃあ」
冗談かな。冗談だと良いけれど彼は多分やるだろうな。騒ぐ時は気をつけるとしよう。
自室へと戻っていく彼を見送り僕は言われた通り寮の管理者がいるという部屋へ向かった。
「今日から入寮するんだ。懇切丁寧に説明ともてなしをしてくれ」
「お前の部屋の鍵を犬に食わせたくなってきた」
「犬がいるの? 犬は好きだよ。大型犬だと良いな」
「お前だって飲み込めるぐらいでかいよ。四階の404号室が空いてる。清掃と消毒は済ませてる。家具も備え付けのものがある。そっちも点検済みだ。冷蔵庫の中には保存食がいくらか入ってる。全部自由に使っていい」
「至れり尽くせりだね。いい会社だ。どうやら転職活動に成功したみたいだ」
「前は何をしてたんだ?」
「何だろうね。プールの監視員とかそんなのだよ」
ドクロのキーホルダーが付けられた余りセンスの良くない鍵を受け取ってからはたと僕は気付いた。
「四階って言った? 僕の先輩さまと同じ階だ。仕事でも顔をつき合せるのに部屋まで近いなんてなんだか嫌だな」
「先輩さま? 誰だ?」
「名前……なんだっけな。髪が橙色で僕と同じぐらいの背の悪鬼だよ」
「ああ、あのキチガイか。あいつは403号室だよ」
「隣じゃないか!」
「良かったな」
「というか今キチガイって言った?」
「階段は向こうだ。エレベーターはこの間のボヤ騒ぎで修理中だ。それについては文句言うなよ。しばらくすりゃ直る」
「なんだいボヤって。危ないな。僕の仕事のマニュアルも燃やされたって聞いたし、ここの人は随分火遊びが好きなんだね」
呆れながら言うと、寮の管理人はへえと少し感心したように相槌を打った。
「あのキチガイが気に入らない同僚ごと燃やしたあれな。よく知ってるな。エレベーターもそれで燃えた」
「……頭おかしいのかい?」
「お前の知ってるキチガイって単語は俺の知ってるやつと意味が違うのか?」
先行き不安だ。本当に。
◇◇◇
隣であることは嫌だけれど、挨拶をしないのも変だと思い、僕は先輩さまの部屋を訪ねた。
「引越しの挨拶がてらに媚でも売ろうか?」
「喧嘩売ってんの?」
「僕の部屋隣なんだ。よろしくね。引越し祝いは現金でいいよ」
「そうだね」
軽い相槌と共に顔を殴られた。拳で、しかもそれなりの勢いでだ。僕はよろめき顔を押さえた。
「いや、待って。流石に理不尽すぎないかな。いじめ? 僕は根に持つよ?」
「俺に寄越した金全部偽物だろ」
「え?」
そういえばそんなものも渡したかな。
「参ったな。ただ人をからかう為に持ち歩いていた玩具がやっと日の目を見たというのに、渡した相手が最悪だった」
「いい度胸してるよ。誰彼構わず喧嘩売るのが趣味? 賢明だとは思わないけど」
「今実感してるよ」
手を見てみれば赤くなっている。鼻血が出てしまったようだ。
「煤にまみれて首を痛めて、挙句に鼻血、今日はあまり良くない門出だ」
「部屋寄っていく?」
「先輩さまの情緒が不安だよ。なんで誘おうと思ったの?」
「君は一人で酒飲んで楽しいの?」
「あんまりお酒飲まないから分からないよ」
「なんでもいいよ」
促されるまま部屋の中へと足を踏み入れた。間取りは僕の部屋と同じ1LDK。家具も大差ない。とても綺麗という訳でもないし、汚いという訳でもない、普通の部屋だ。部屋のローテーブルには酒が並べられていた。その脇には灰皿。
「いつも晩酌を?」
「今日はたまたまだよ」
「あ、もしかして僕を口説こうと? お酒で口説くなんて古風だね。僕はもっと斬新な手法の方が好きだよ」
「灰皿で頭殴り付けようか」
「それで芽生えるのは恋心じゃなくて殺意だよ」
僕は汚くも綺麗でもない床に腰を降ろしテーブルに置かれたビール瓶を手に持った。
「お酌でもしようか先輩さま」
「その先輩さまって何なの?」
「何を隠そう実は君の名前覚えてないんだ」
「全く堂々と言う事じゃないね」
「そんな君こそ僕の名前覚えてるかい? 口当たりがよく味わい深いとても良い名前だよ」
「スラッジだろ」
先輩さまの口から何もつっかえる事無く名前が出てきたのが意外で僕は固まってしまった。
「君への好感度が少し上がったよ。米粒ぐらいは」
「何にも嬉しくない」
「横に寝かせた米粒じゃなくて縦に立たせた米粒ぐらいだよ」
「そんな微々たる差も君からの好感度もどうでもいい。酒ついで」
差し出されたコップに僕はそっとビールを注いだ。こんなことをするのは初めてだ。
「今日は鋸で人間を削いでいったらどれくらいで死ぬのかと実演講習になったけれど、明日からはどんなことを?」
「んー、ここに人間を連れて来てから戻すまでの流れの説明とか、色々。あんま考えてないけど。しばらくいれば仕事なんて自然と覚えるだろ」
「丁寧な指導をした方が早く戦力が増えるとは思わない?」
「別に人手には困ってない。人間なんて、最悪適当に血の池に突っ込んでおけば勝手に苦しむんだから」
「血の池かぁ。本当にあるんだね。中の血は誰の?」
「今まで地獄にいた人間の血。あと使い古した道具の錆」
「もしかしてゴミ捨て場にしてる?」
「廃棄するのにも金がかかるんだよ。人間の口に押し込んだって、あいつらは消化しないし」
「酷いことをする」
「笑って相槌打つような奴が何言ってんの?」
先輩さまはビールを一息で呷った。あまりいい飲み方とは思えない。お酒には強いんだろうか。
もし酔いつぶれるようなら優しく介抱してあげよう。そのついでに部屋の中でも漁ろう。
「寮の中は見て回った?」
「え? まあ、少しだけ。三階のエレベーター付近が悲惨な有様だったよ」
「ああ、先週燃やしたから」
「一体何があったんだい。お陰で僕のいたいけな足は五十二段も階段を登る羽目になったのだけれど」
「わざわざ段数数えてんの? 気持ち悪い。先週は……なんだったかな」
「覚えてすらないのかい」
「どうでもいい事だったのは覚えてる」
「些細な事で火事を起こさないでくれ」
中身の消え去ったグラスに更にビールを注いだ。彼は危険思考の持ち主としか思えない。媚びを売っておいても損は無いはずだ。
「君も飲む?」
「ビールは好きじゃないんだ」
「ならワイン? ウイスキー? ハイボールもあるけど」
「ううん、どれもあまり飲まないよ」
「いつもはアルコールの原液でも呷ってんの?」
「飲む前提なのが頂けないかな。そもそも飲まないんだ。貰い物なら、まあ、飲むこともあるけれど」
「酔い潰れて無様な有様晒してる奴を眺めるのは楽しいのに」
「僕は飲むにしても自制はきちんとするよ」
「つまんないの」
彼はまた一息で酒を胃に収めていく。この言い分なら彼自身が酔いつぶれることはないだろう。もしなったならとんだ笑い草だ。
「寮の裏手に懲罰室として使ってた小屋がある」
「へえ? 反抗的な社員なんかをお仕置するの? 凄く古典的だ」
「会社側はもう使ってないよ。もっぱら私刑に使われてる」
「愉快な職場だね」
「君みたいなのは近付かない方がいいよ」
「まるで僕が周りから恨みや反感を買うみたいな言い方だ。僕は善良でとても友好的なのに」
「君って鏡見た事ないの?」
「やだな、鏡に性格は映らないよ」
彼は鼻で笑った。
「俺がしてるのはそもそも顔の話だよ」
◇◇◇
先輩さまの部屋から出て自室に帰ろうとしていたら、僕は別の先輩に声をかけられた。そのまま拉致されて懲罰室に連れてこられ先輩方に取り囲まれてしまった。鼻息荒く僕を見下ろす先輩方は、とてもじゃないけれど歓迎会なんかを開いてくれるような様子ではない。
「そっか、そうだね、先輩さまのような奴が罵倒されるだけで許容されている場所だ。他にもそんな奴がいたとしてもおかしくないって想像するべきだった。そして僕は自分の外見的魅力についてもっと自覚するべきだった」
「うるせえな」
ごつりと顔に拳が落とされた。一切躊躇を感じられない手つきだ。鈍痛と共に鉄臭い匂いがする。ああ、また鼻血が出て来てしまったようだ。
僕を取り囲む先輩方は僕の手足を押さえ込むと服をはぎ取ろうとしてくる。
「僕もね、いやらしいことは嫌いじゃないんだよ。もっとゆっくりと丁寧に、優しさをもってやるならの話だよ。君らに優しさがあるなら手心ぐらい加えてくれ。そうしたら僕だって乗り気になるかも、」
ごつりとまた殴られ目眩と痛みに意識が飛びかけた。先輩方の内の一人はお粗末なものを強引に僕の口に捩じ込んでくる。
「ん、ぐぅ……かひひっれもひらなひはらね」
「何言ってんのか分かんねえよ。もう喋んな。悲鳴ならあげていいぞ」
最悪だ。
◇◇◇
よたよたと歩きながら部屋に戻ろうとしてると、寮の裏手でゴミ袋を持った先輩さまと鉢合わせた。飲み終わった酒の缶でも捨てようとしていたのだろう。
「随分愉快な顔になったね。ハロウィンはまだ先だけど?」
「これが本当にコスプレを楽しんでいるように見えるのかい」
僕はぐすっと鼻を啜った。殴られた顔とお腹が痛い。顔はきっと無惨なまでに腫れ上がっている。強引に抑え込まれていたあらゆる関節が痛い。腰も痛い。恐らく切れているお尻の穴も痛い。痛くない箇所の方が少ない。
「近寄るなって言ってあげたのに」
「引きずり込まれたんだよ。僕のせいじゃない」
「ご愁傷さま」
全く同情していないだろう声色だ。ますます泣けてくる。
「君の声、部屋のベランダにいても聞こえてたよ」
「なら助けてくれよ。トラウマになりそうだ」
「君も傷付くんだね」
「当たり前だろう。僕をなんだと思ってるんだ」
「んー……屑? 餓鬼? 狸?」
「もういいよ」
先輩さまはごみ捨て場でもないだろう場所にゴミ袋を投げ捨てると、何故か僕の手を取り、僕を連れて寮へと歩き出した。
「まさか僕を慰めてくれるのかい? 君にも優しさが?」
「君は殴ってもへらへらしてるからそこらの鬼と同じようにプライドと生命力だけ高い面倒な奴なんだと思ってた」
「へ?」
「痛い時に痛いって喚いて、苦しい時に苦しいって泣くような素直な奴は好きだよ」
不穏な気配に怖気がして反射的に手を振りほどこうとした。しかし彼の力は強く振り解けないばかりか、逆に逃がすかと言わんばかりに更に強く握りこまれた。
彼は機嫌が良さそうだ。それはそれは良さそうだ。人間を痛め付けていた時と同じぐらい。
ああそうだ、僕は知ってたじゃないか。彼がどれだけ趣味が悪いか。
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