暗がりの光

とぶまえ

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 軽く掃除しただけでそのままにしていたスラッジの部屋を片付けることにした。あの部屋は先代が使っていた時のまま、今は使っていないものも多く置いているからスラッジには使いにくいだろうと思ったからだった。
 よく晴れた日にもう使わない家具を外に出して部屋を掃除に取り掛かった。

「わあ、見た事のない量の埃だ。こんなに溜まっていたなんて思わなかったよ」
「喉は大丈夫だったの?」
「問題ないよ。だってこんなに汚れていたことに気付かなかったぐらいだ」

 床を拭けば雑巾は真っ黒になる。先代が死んだのは何年前だったか。その時から全く掃除をした記憶が無い。
 換気すれば大丈夫だろうとスラッジをこの部屋に寝かせていたことを今更後悔した。スラッジも、よく何も文句を言わなかったものだ。

「棚の上も凄いね。物を動かしたらその跡がはっきり残るよ」

 スラッジは腕まくりをしてから棚の上の物をどかして拭いていた。あそこの上の物ももう要らないものも沢山あるし、捨てないといけない。

「パラス、これ何かな?」

 スラッジが棚の上にあった細い小瓶を揺らしている。見覚えるはあるけれど、すぐに何だったのか思い出せるほどは印象にない。何とか記憶を辿った。

「……清水」
「せいすい。これが?」
「悪魔から身を守れるとか何とか、先代が言ってた気がする。もし儀式に失敗しても、自分の身だけは守れるとか、どうとか」
「そんな凄い物ならこんな所に置いて置かない方が良いんじゃないかい?」
「良いんだよ。ただの水だから」

 俺がまだ小さかった時、こんな風に掃除をしていてうっかり零してしまったことがある。床に少し零れて手にもかかったけれど、匂いも感触も、ただの水でしかなかった。
 スラッジは小瓶の蓋だけを摘むようにして中を眺めている。

「それ、蓋外れやすいから──」
「あ」

 気を付けて、と言おうとした瞬間に蓋は外れて、瓶は床に落ちていった。ああ、また掃除する場所が増えた。
 乾いたタオルを用意しながら服は濡れて無い? とスラッジに聞いた。返事はない。
 見れば、スラッジは自分の腕をじっと見ていた。

「スラッジ?」

 どうかしたのかと、スラッジに近付いて腕を覗き込む。ただ水がかかっただけだ。瓶が当たった訳でもなさそうだった。怪我をしたという事じゃないだろうと、そう思っていたのに、そこは火傷でもしたように爛れていた。
 足元に転がった容器を見た。あの日、零した後俺はただ雑巾で床を拭いて手は流し場で洗い流した。俺は何とも無かった。だから、清水なんて名前を付けられているくせに、何の変哲もない水じゃないかと、そう思ったんだ。

「……スラッジ?」

 先代は悪魔から身を守れると言った。

「君って、なに?」

 俺は人間で、あれに触っても何とも無かった。
なら、スラッジは何なんだ。

 スラッジは笑いながら穏やかに言った。

「なに、って、なに? 僕はスラッジだよ。どうしてそんなことを聞くの? この怪我のせい? ちょっと皮膚が溶けただけじゃないか。君だって硫酸でもかけられたら溶けてしまうだろ? きっと、中身が君の言ったものとは違ったんだね」
 
 スラッジは、こんなにゆっくりと喋る奴だっただろうか。
 俺は今のスラッジを信用出来なかった。違うものなのかどうか確かめようと、床に屈んで水に触ろうとした。スラッジは俺の腕を掴んで止める。

「何をしてるの。危ないよ。君も溶けてしまう」
「……」

 心配げな顔をしているのに、腕を掴んでくる力は骨が軋みそうなほど強い。怪我をしているとは思えないほどだった。
 スラッジは俺の手を離さない。
 けれど、もう、水に触るまでも無かった。スラッジの腕の傷が消えていっていた。初めて見る光景だった。人間では絶対に有り得ない速度で皮膚が修復されていた。

「……君って、人間じゃないの?」   

 腕の傷はもう無くなってる。
 スラッジは静かに俺の腕を離した。袖を降ろして腕を隠してから話し始めた。いつも通りの明るい声だった。

「いつか君に僕には帰る場所がないと言ったけれど、本当はあるんだ。光の届かない寒い場所。君がいつも、食事を運んで来てくれるところ」

 それはあの洞窟しかない。それなら、スラッジは、この村の伝承の悪魔だ。

「……どうしてそんな奴が、俺に近付いてきたんだ」

 自分の声が随分遠くから聞こえているような気がした。地に足が付いていないような、現実感が全くない。

「僕はずっと前から君のことを知ってるんだ。それこそ、君の親のことだって知っているよ。ずっと一人だった君が憐れで仕方なくて、見ていられなかったんだ」

 スラッジは微笑んでいた。声は明るくて優しい。

「だって君は寂しいと腕を切る」

 もうその笑みは不気味なものにしか見えなかった。

「僕は君の生まれた瞬間を見ていたよ。あの感動をどう伝えれば良いだろうか。早く胃におさめくてたまらないあの感覚。あれほど人の誕生を祝福した日はないよ。
君の両親が君の腕にうさぎと書いた時、僕はどれほど興奮したことだろう。
でも、先代のあいつは君を僕に渡さなかった。腕の文字を洗い流して、自分のものにした。許せなかったよ。僕に食べ物を運ぶことだけが仕事なのに、それすら果たさないんだ」 

 もういなくなったから良いけれどとスラッジは続ける。

「僕は君を食べたくて堪らない。自殺なんてつまらないこと、絶対にして欲しくなかったんだ」

 出会った日からずっと、友好的で、優しく、側で笑ってくれていたスラッジの考えていたことはそれが全てだった。
 俺は腕を切らなくなった。スラッジが支えてくれて、庇ってくれていたから、死にたいなんて思わなかった。そんなことをする必要がなかった。
あれが全部嘘だと言うのか。

「なんで、どうしてそんな回りくどいことをしたんだよ。死ぬ前に、さっさと食い尽くせば良いだけだろ」
「君は年々美味しくなるんだ。昨日より今日が、今日よりも明日が、きっと美味しい。ご馳走を一番美味しい時に食べないなんて考えられないよ」

 激しい眩暈を感じた。足元がふらつく。あの楽しい日々は餌を与えられている家畜のものでしかなかった。

「僕にいなくなって欲しい?」

 スラッジは笑顔で言う。
 消えろと叫ぶような勇気は俺には無かった。怒りよりも強い恐怖心があった。

「ここに……いてくれ」

 一人になる事が何よりも恐ろしかった。死への恐怖にも勝った。家畜だったとしても、幸せだったことには変わりなかった。

「勿論。ずっと君の傍にいよう。君が寂しくないように。僕が君を食べる日まで」



◇◇◇


「大昔にね、僕には食べたい子がいたんだ。とても美味しそうな、可愛らしくて、大人しくて、寂しがり屋な子。僕はうさぎと呼んでいた。村人にその子をくれと言ったんだ。そうしたら、あいつら、悪魔を呼び寄せただなんて言って、あの子を殺してしまった」

 それはきっと村の伝承の始まりの話だった。

「君はあの子に似てるよ」

 研究の為と言って作っていた資料を捨てながらスラッジは言った。スラッジこそあの伝承の当事者なのだから、俺を騙す為の偽装の意味も無くなればもはや必要のない物だった。
 俺はぼんやりとその様子を見ていた。まだ、地に足が付いていないような感覚だった。

「あいつらがあの子を殺した後、地面を揺らしたんだ。全員殺してやろうと思ったのに、しぶとく生きててね。許してくれって、何度も謝ってきた」

 スラッジは名刺を破り捨てていた。スラッジという名前すら、本当なのか分からない。

「あいつらが代わりの食事を用意するって言ってきたのが、君の仕事の始まり。一ヶ月ごとに八匹って、少し違うんだけれどね。一ヶ月後までに最低八匹が本当の条件。いつの間にか意味が変わってしまった。まあ、人間の伝聞なんてそんなものだろう。この村は昔は文字も発達していなかったし。そういえばあの場所はあいつらが勝手に作ったんだよ。なんだろうね、僕ってそんなに暗い場所が好きに見えたのかな」

 もう資料はほとんど捨てられてしまった。スラッジの話は、頭に入ってきていなかった。

「……俺の両親って、どんな奴らだったの」
「知りたいのかい? きっと君は聞いたことを後悔するよ」
「……じゃあ、良い」
「賢明だよ。知らない方が幸せなことは、沢山あるからね」

 君こそその筆頭だ。

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