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しおりを挟む「パラス、おはよう。霧が掛かっていて視界不良のいい朝だよ」
「……」
最悪の朝だ。
いつの間にか椅子に座ったまま寝落ちてしまっていたらしい。揺さぶられて目を冷ませばきっちり着替えたスラッジの顔が目の前にあって、目を擦りながら窓の外を見れば、スラッジの言う通り霧が深く街を隠している。時間を確認するとまだ四時だ。何故こんなにも早く起きる。最悪以外の言葉が出ない。
監視対象が起きているのなら活動せざるを得ず、俺が渋々着替えている間にスラッジは宿の人間に無理を言ってこの時間に用意させた朝食を口に運んでいた。
「宿自体は安っぽいけれど食事は最高だね。これこそ庶民の味だよ。価格に対して適正な味だ」
「君っていつも嫌味っぽいね」
「嫌味? とんでもない。思ったままを言っているだけだよ」
なら性根から嫌味っぽいだけだ。
朝食が終わるとスラッジはすぐさま外に出ようとする。
「こんな時間に何をするつもりなんだよ」
「現場は昨日それなりに見たから、今日は被害者を探しに行くんだ。犯人は恐らく時限式で朝方にかけて狂人化するように仕込んでる。つまりこの時間なら、成り立てほやほやの活きのいい被害者に出会えるかも知れないんだ」
「会ったら何か分かるの?」
「魔法の痕跡と、本人の証言次第かな。まずは見つけないことには始まらないよ。さあ、行こうか」
朝だというのにやけに元気なそいつはさっさと外に出ていくから慌てて付いて行った。
視界の悪い街には人っ子一人歩いていなかった。
「寒い」
「そりゃあ、水滴に体温奪われるからね」
「服装の選択を誤ったよ。これは失態だ。可哀想な僕を温めてくれ」
「寄らないで」
腕を擦りながら擦り寄ってきたスラッジを避けて少しだけ早歩きで歩いた。後ろから不満げに文句を垂れる声が聞こえてくる。
そのままの状態で、何故か俺が先導しているような状態で歩き続け、五時近くになった頃にようやく人を見つけた。
こんな日のこんな時間に出歩くのは、ここ最近の治安から考えても危険だろう。注意しようと近づくと、その人間は涎を垂らしながら唸っていた。明らかに正気の人間の顔では無い。
「わあ、大当たりだね」
「会いたくはなかった」
「それじゃ調査が進まないよ」
狂人は異様な程攻撃的で、見境なく通行人を襲った事案もある。積極的に会いたい相手ではない。
唸り続けるそいつは血走った目で俺たちを見ている。背の高い男だった。体格もかなり良い。これで暴れられたらと考えると頭痛がして来た。
念のためにと剣に手をかけたら、背後からスラッジがそれを制した。
スラッジは無防備なまま狂人に近付いていく。
「やあ。おはよう。御機嫌いかがかな。僕は良いから君もきっと良い事だろう。ちょっと君に聞きたいことがあるんだ」
スラッジが話しかける横で男を見ていた俺は、男が手に何かを持っていることに気が付いた。小さくて鋭利な、銀色に光る何か。
「スラッジ!」
刃物だと気付いて叫んだけれど、スラッジが動くよりも先に狂人は刃物を振り上げる。
スラッジに何かあったとなれば俺の面目は丸潰れだ。どうにか庇おうとスラッジに手を伸ばしたけれど、狂人の動きは突然不自然に止まり、俺は伸ばした手の行き場を失った。男は振り上げた手を力無くだらりと垂らした。
「そんな物騒な物は置いてといて、ゆっくり話をしようじゃないか」
スラッジが男の脱力した手から刃物をいとも容易く取り上げる。
「……それは魔法?」
「ん、動きを止める手品」
「何の動作もなく使える癖に、呪文唱えてぱっと使うのは無理だとか言ってたの?」
「難しいのと出来ないのとは別だよ」
ナイフを手で弄びながらスラッジはけらけらと笑っている。もうこいつの自己申告は信用しない。
「さて、朝から元気な君。ここ最近、例えば昨日、普段は会わない誰かに会わなかったかい?」
狂人はスラッジの言葉には答えずに虚ろな目でスラッジを見ている。
「狂人とまともに会話できた事例はないよ」
「みたいだねえ。こんな美少年に声を掛けられて歓喜の声の一つもあげないなんて彼はヘテロに違いない」
ヘテロって、異性愛者の事か。なぜ急にそんな話が出てくるんだ。
「……本人の性質なんて関係なしに会話は出来ないからな」
「まあ僕だって期待はしてないんだ。言語中枢なんて犯人に取って不都合なものとっくに壊されてるだろうからね」
スラッジは狂人に近付くと顔を手で挟み込んで目を合わせた。ヘテロがどうとかと言っていた口ぶりからして、スラッジは恐らくそっち方面の人種だろう。まさかおかしなことをする気じゃないだろうなと少し身構えた。
「それは何をしてるの?」
「ちょっと彼の記憶を覗いてるんだ。言語中枢は駄目でも記憶中枢なら生きてる可能性はある。出力器官さえ壊していれば大丈夫だって犯人は油断しているかも知れないからね」
「……」
記憶を覗くことまで出来るのか。地道に街を練り歩いている時はただの一般人然としている奴なのに、こういうところは間違いなく魔法使いだ。
しばらくその体勢でいたスラッジはふいに振り返った。表情は苦い。
「駄目だね。犯人は余程慎重だ。記憶中枢は生きていたけれど、彼に接触した時点で犯人は姿と声を記憶に残さないようにする魔法を使ってる。もやがかかってるみたいな状態で、犯人の姿だけ見えない」
「じゃあ収穫は何もなし?」
「いいや」
スラッジは首を横に振る。
「彼と犯人が会った時間と場所は分かった。昨日の朝、お城の近くの路地だ」
そこまで言ってスラッジは口の端を上げる。
「つまりその時間にその近辺にいた人間全部を捕まえれば事件は解決するよ。お城ということは君も含まれちゃうかな?」
確かに昨日の朝はこいつに渡す着手金を受け取るために城にいたけれど、それはどうでもいい。あの辺りに人間なんていくらでもいた。
「それを進展してるとは言わないだろ」
「うん、まあ、そこだけならね。流石に容疑者が多過ぎる。そこから犯人がどういう人間なのか考えればもう少し絞れるよ。犯人と出会った時に彼はあまり警戒していないようだった。つまり犯人は彼の友人か、それか顔を見たことがある程度には有名な人物、もしくは信頼できるような役職の人間。ほら、少しは狭まった」
「信頼出来るような役職って?」
「君みたいな人だよ。兵士なら今は警備の為にそこら中にいるだろ? 市民は君たちを自分たちを守ってくれる存在だと認識してる。警戒なんてしない。犯人にとってとても都合が良い。何せ、いつどこにいても犯人を探していたと言えば怪しまれない」
スラッジは自信ありげにつらつらと語っていたけれど、ふいに表情を渋くした。
「でも、それだけだね。僕としては個人、せめて身体的特徴ぐらいまでは特定出来ると思っていたんだけれど。隠蔽が強すぎる」
「手詰まり?」
「今のところは。また昨日みたいに数を調べるしかないね。犯人がどこかでミスを犯していることに期待するしかない」
「もししてなかったらどうするの?」
「ミスをしない人間なんていないよ」
スラッジはさっき奪った刃物をポケットにそのまましまい込んで歩き出した。
「こいつはどうするの」
「しばらく動けないから放っておいていいよ」
「せめて狂人の収容所の人間に連絡を……」
「それは僕達の仕事じゃない」
提案は一蹴された。
「国王は事件の根本的な解決を依頼してきた筈だよ。細々した被害を一々防ぐなんて時間の無駄だ」
「……君のどこが正義の味方なんだよ」
「狂人が君を襲ってくるようならその時は助けてあげるよ。ほら、素晴らしく正義の味方だ」
◇◇◇
「中々手強いなぁ」
スラッジはパフェをスプーンでつつきながらぼやいた。
霧の日から三日、また街を練り歩いて狂人化の被害者や事件現場を探したり、狂人を隔離している施設に赴いたりしたけれど新しい情報は何も無かった。
本当ならこんな昼下がりのカフェで休んでいるような暇はない。こいつが「糖分を摂取したいんだ。頭に効くと言うだろ?」と屁理屈をこねくり回さなければ来なかった。
「北にある山の方に行かないかい?」
「その辺りで被害者が出たことはないよ。大して人もいないだろ」
「だから行くんだよ。息抜きだよ、息抜き。足踏み状態で疲労度だけ蓄積させていっても仕方ない。今日はお休みにしてゆっくり静かに過ごそうよ」
「君は能天気だね」
昨日も街中で狂人が通行人を襲う事件があった。死者は出なかったけれど何人もの怪我人が出ている。しかも便乗犯だと思われる「普通の人間」が犯人の事件も起きている。ただでさえ狂人への警戒で人手を割かれているのに、普通の人間にまで大きな事件を起こされたら堪らない。国の治安は確実に悪くなってきている。悠長な事を言っている場合じゃない。
「山登りが君の趣味じゃないなら花畑にしようか」
「趣味の話はしてない。時間がないって話をしてるんだって、糖分を取ってよく働くはずの頭で分からないの?」
「有効成分が脳に到達するには三十分ぐらいかかるよ」
スラッジは薄情に笑う。俺は溜め息をついた。こいつに危機感なんて期待するだけ無駄だ。
スラッジはゆっくり時間をかけて甘ったるそうなパフェを完食した。
「そろそろ頭も冴えてきたよ。南の街に行こうか」
「……そこも観光地だけど」
「そうだよ。でも前二つの場所よりは、君好きだろ?」
「なんで」
「さっきの二つより否定するまでが遅かったから。それにさ、南の街なら被害者が出たことがあるだろ? 調査がてらの息抜きに丁度いいよ」
スラッジはテーブルに金を置くと立ち上がった。
◇◇◇
南にある小さな街は海沿いの観光地だ。高級志向のリゾート施設がいくつもある。高級なだけあって、利用者は金持ちばかりの静かな場所だ。
「君は兵士の権限でこういう所もそのまま入れるんだろ? 羨ましいな。正規の料金で払ってる僕偉くないかい?」
「それも元は国の金だろ」
「僕の労働への対価だから僕のお金だよ」
調査はどうしたのか、スラッジと浜辺を歩きながら話した。スラッジは完全に観光ムードで調査のことが頭にあるのかすら疑わしい。
「こういうところに二人でいるとデートしてるみたいだね。夜には夜景の綺麗なレストランで美味しいディナーでもご馳走しようか? それから夜景の綺麗なホテルも取ってね、ロマンチックな雰囲気の中しっぽりと仲良くしようじゃないか」
「それ、どういうつもりで言ってるの?」
「好きなように取っていいよ。単なる軽口で君をからかってるだけとでも、本気で君の整った容姿に恋心を抱いてるという事にでも、好きなように」
じゃあ軽口だなと言うとスラッジは笑った。
こいつがどういうつもりなのかは実際は分からない。街中を歩いている時に、こいつがたまに目を取られた相手は全て顔立ちの整った男だった。男を好んでいるのは間違いないと思う。言動全てが軽口にしか聞こえないからどれが本気なのか分からない。
「珍しい形の木があるね」
「君は普段森から出ないの?」
「食べ物とか日用品を買いに街までは行くよ。こういう所に来るのは初めてかな。遠くから見たことはあるけど」
遠くからここを見られるような高台はあっただろうか。考えても思い付かなかった。
「わあ、足跡が綺麗に付いてるね。こういう砂浜を見てると絵でも描きたくなるな」
スラッジはきょろきょろと辺りを見回してから、俺の腰辺りで視線を止めた。
「……貸さないからな」
「ええ、君はケチだな」
「武器を変なことに使うな」
「仕方無いなあ」
スラッジはポケットから剥き身のナイフを取り出した。いつかの時のナイフだ。まだ入れてたのか。
スラッジはナイフで砂浜に大きく何かを描き出す。俺は側でそれを眺めていた。
「……人?」
「うん、君の顔」
「こんな場所にこんなの残すな」
「止めて、消さないでくれ。僕の力作なんだ」
足で線を消すとスラッジはああと声を上げて止めようとしてくる。無駄に絵心があるらしいスラッジは俺に見えなくもない顔を描いていた。こんなもの人に見られたくない。
「ああ……ひどい。なんて無体を働くんだ」
「言いながらまた描くな」
「今度のは僕の顔だよ。ちょっと自意識過剰だよ君」
「……」
またしばらく眺めているとスラッジはさっきと同じ顔を描き進めていく。
「これ俺だろ」
「あああ! 消さないで! ひどい、鬼、悪魔、人に悪逆を働く魔王だよ君は。触ると凍る冷たい血が流れてるに違いない」
大袈裟に騒ぎ立てるスラッジの言葉が妙に笑えて笑っているとスラッジは「人に無体を働いて笑うなんて酷いやつだ」とぶつぶつ文句を言っていた。
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