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母のこと

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 翌日、小鳥の声であたしは目を覚ます。
「おはようございます」
 蓮くんはすでに起きていて、布団を畳んでいた。
「もうすぐ朝食だと千里さんが言っていたので、身支度を調えておいたほうがいいと思います」
 あたしも同じように布団を畳むと、二人で洗面所に行く。
「これがぼくたちの洗面用具です」
 歯ブラシとタオル、それから石鹸。
 洗顔フォームはお気に入りのものがあるんだけどな、と思いつつ、贅沢は言えない。
 先に歯ブラシを手に取る。すると蓮君も同じだった。
「めずらしいね」
 と、思わずあたしは言った。蓮君は、なんのことかわからない、といった様子でこっちを見る。口はすでに泡でいっぱいだった。
「最初に顔を洗っちゃう人のほうが多いから。ほら、目が覚めるでしょ」
 小学校、中学校の修学旅行の時など、不思議に思ったことを覚えている。今はもう、そんなに気にならなくなったけど。
「……ぼくは、ずっとこうですよ」
 口をゆすぎながら、蓮君が言った。
「へえ、そうなんだ」
 あたしは目を大きくする。
「そうですね。でもあんまり、意識したことはなかったですけど」
 その後、メガネを取る。するとちょっとまた印象が変わった。
 鶴田にも見えるけど、他の人にも似ている気がする。だれだったかな。
 思い出そうとしていると、
「二人とも、起きたようだな」
 葵さんが洗面所へやってきた。その姿に、思わず目を見張る。
 袴姿だったのだ。白と黒。聞けば武道を学んでいるらしい。
「葵さん、おはようございます」
 先に頭を下げたのは、蓮君だった。あたしもつられて、頭を下げる。
「おはようございます……あおい、さん」
 その名前を言うことに、わずかに抵抗があった。きっと、夢のせいだろう。
 あたしの母の名前も、葵だったからだ。

 その事実を知ったのは、偶然だった。
 父の職場に、忘れものを届けに行った時だ。
 ――ああ、彼の娘さん? 奥さん、お子さんを産んですぐに亡くなったんでしょう。子どもを諦めれば長生きできたらしいけど。難しいわよね、そういうのって
 あたしのことかどうか、なんて、確かめるまでもなかった。
 あたしのことでしかない。
 なぜかその時、そう思ってしまったのだ。
 父にはその後、詳しい話を聞いた。いつかちゃんと、話すつもりだったという。
 母はあたしを妊娠してすぐ、心臓の病気にかかった。出産には耐えられないと言われていたが、母は二つ返事で産むことを決めたという。
 父は何度も、あたしのせいじゃない、と言ってくれた。あたしもそう思いたかった。でもなかなか難しくて、母の写真はみんな片づけてしまった。見てしまうと、罪悪感でいっぱいになってしまうからだ。
 だから、あたしは母の顔を知っている。
 でも、覚えていない。
 昨夜見た夢のせいで、そんなことを思い出した。
「……さん、姉さん、聞いてますか?」
 気がつくと、蓮君がこっちを覗きこんでいた。あたしはあわてて、返事をする。
「あ、なに?」
 食事中だった。ごはんに味噌汁、焼き魚に漬け物。本当に簡単な、普通の和食だ。
「……聞いてなかったんですね」
 ややあきれたように息をつく。すると葵さんが笑って、
「今、おまえたち二人の服を、この後買いに行かないか、と話していたのだが……まだ疲れが残っているなら明日でも構わないぞ」
 着がえがない。
 それはあたしたち二人とも同じだ。
 この家にあるのは、和服のみなのだという。それだけだと厳しいのでは、というのが葵さんの意見だった。
「はい……でも」
 買うにも、蓮君はわからないが、あたしはお金を持っていない。財布は確か鞄の中だ。あのまま置いてきてしまって……逆にそっちのほうが心配だったりする。
「お金のことなら、気にしなくていい。こちらで用意する」
「お嬢様っ」
 その言葉に、声をあげたのは千里さんだ。
「何か問題あるか?」
 葵さんは千里さんの目を、まっすぐ見た。
「……いえ」
 そのまま食べ終えた皿を下げる。葵さんは再び、あたしたちのほうへ目をやる。萎縮していることに、気がついたのかもしれない。葵さんは微笑んで、口を開いた。
「おまえたちは私の客人だ。何も気にすることはない」
「……はい」
 あたしはその目を、まっすぐ見返すことができない。胸の奥が、ざわざわする。
「では、朝食を終えたらすぐに出かけるとしよう」
 葵さんはお茶をすすりながら、もう一度楽しそうに、微笑んだ。
 一度部屋に戻り、着替えることにする。着物だと(寝間着なので浴衣だけど)やっぱり動きづらいのだ。蓮君に外に出てもらって、身支度を調えていると、
「……何かあったんですか?」
 扉の外から、蓮君が言った。
「……どうして?」
「今日は朝から、様子が変ですよ」
「まだ朝だけど」
「じゃあ、寝てる間に」
 言われてどきっとした。制服のリボンを結びながら、あたしは息をつく。
「……亡くなった母親と、葵さん、名前が一緒なの。それで変に意識しちゃうっていうか……そんなに珍しい名前でもないのにね」
「……そうだったんですか」
 あたしは扉を開けて、蓮君を中に入れる。
「蓮君には関係ないことだよね。ごめんね。でもなんか話しやすいっていうか……ちょっと大人びているせいかな」
 後はきっと、同じような境遇だからかもしれない。
「さ、次は蓮君の番」
 今度はあたしが外に出る。すると、蓮君が訊いた。
「穂乃香さんはもし、この時代でお母さんに会えるとしたら、会いたいですか?」
 蓮君の質問に、寄りかかっていた壁から身体を離す。
 ありえないことじゃない。
 でも、考えることもなかった。
「……お母さん、に?」
 二十年前、ということは、あたしはまだ生まれていない。それは逆にいえば、母は必ず生きている、ということだ。
「……わからない」
 それが、あたしの答えだった。
 会いたい、とは思う。でも、会ったところで、どんな顔をすればいいかわからない。
「……蓮君は、どう?」
「――会いたい、です」
 迷いがなかった。彼の言葉は、いつだってまっすぐだ。
 羨ましいと思う。
 でも同時に、恨めしいとも、思う。
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