38 / 99
閑話 ある令息の話
彼は秘かに特訓中
しおりを挟むある令息の朝は早い。
何故なら、彼は朝食前にとある訓練をしているからだ。
顔を洗い、着替えをした後、彼は引き出しからぶ厚い紙束を取り出す。
そして一つ一つを読み上げるのだ。
「やあ。今日はいい天気だね」
「風が気持ちいいね。少し散歩しないか」
「これ、君に買ってきたんだ。良かったら後で食べて」
「その色、とても似合っているよ」
「今日もとても綺麗だ」
「暫くぶりだけど、元気だった?」
「美味しい菓子を取り寄せたんだ。一緒に四阿でお茶を飲まないか」
パラリパラリと紙をめくりながら、彼の読み上げは続く。
用意したフレーズ集は多岐に渡り、読み上げるだけで30分は軽くかかる。
最後まで淀みなく言い終える事が出来た彼は、満足そうにうむ、と頷き、紙束を引き出しに戻す。
今度は、何も見ないで自然に言う練習だ。
鏡の前に立ち、微笑みを浮かべる。
「そのドレス、素敵だね。よく似合っているよ」
すらりと言えたが安心してはいけない、ここからが本番だ。
想定すべき相手を思い浮かべなければ、きちんとした練習にならない。
彼は暫く目を閉じ、それから開き、鏡に映る自分ではなく、イメージした相手がそこにいるかの様なつもりになって口を開くがーーー
「・・・そ、その・・・ドレス・・・素敵だ、ね。似合って、ている、よ・・・」
彼は額に手を当て、その場にしゃがみ込む。
「・・・はあ、情けない」
先ほどまでスラスラと言えていた台詞が、相手の姿を思い浮かべた途端にこれである。
「いや、ここでヘコタレては駄目だ。大丈夫、前よりずっと流暢に言える様になっている・・・気がする」
彼は再び立ち上がり、鏡の前で姿勢を正す。
眉目秀麗、成績優秀、性格は至って真面目。
しかも彼の父はこの国の宰相で侯爵位にあり、嫡男の彼は将来の地位も権力も約束された男だ。
だが、彼は好きな女の子の前ではろくに言葉も発せなくなる。
ただの幼馴染みで、親友の妹にすぎない筈だった彼女を意識し始めたのは、いつだったか。
まだやんちゃをしていた頃、そう彼がまだ8か9歳の頃だった。
いつもの様に、親友とその弟妹たちと一緒に遊んでいて、庭の木に登ろうとした。
けれどうっかり足を踏み外して、無様に落っこちて。
大した高さでなかったのが幸いだった。ちょっと、かなり痛いくらいの尻もちで済んだから。
『・・・っ、大丈夫?!』
そう言って覗き込んできた彼女の顔は思いの外近くて。
彼は理由も分からず息を呑んだ。
さらさらと彼女の綺麗な赤い髪がこぼれ落ち、彼の鼻腔を甘い香りがくすぐった。
心配そうにじっと見つめる目はちょっと潤んでいて、何故か急に胸が苦しくなる。
そっと伸ばされた手は、彼の頬を気遣わしげに撫でてーーー
『・・・っ!』
気がついたら、その手を勢いよく払いのけていた。
『え・・・?』
こぼれた驚愕の声は彼のものか、それとも彼女だったか。
まん丸に見開かれた綺麗なグレーの瞳をそれ以上は見つめ続けることが出来ず、彼はサッと顔を逸らした。
それからだ。
彼女の顔をまともに見る事が出来なくなったのも、挨拶すらろくに言えなくなったのも。
でも大丈夫、と、そう思っていた。
彼女の兄弟たちは彼の気持ちにすぐに気づいた様で、呆れ顔をしながらも応援してくれた。
それに、彼と彼女は遠からず婚約する予定で。
だから大丈夫、そのうちちゃんと話が出来るようになるから、そう思っていた。
けれど、あの日。
親友の婚約者候補を選ぶ為のお茶会で、彼女は倒れーーー
彼と彼女が婚約するという話はなくなった。
『どうしてですかっ?!』
『今のまま婚約しても、不安しかないからだよ』
驚き、怒り、父に詰め寄った彼は、信じられない様な話を聞かされた。
ーーー自分が将来、婚約者となった彼女を厭い、蔑ろにし、他の女性に心を移しーーー
『・・・っ、断罪に、加担・・・』
『お前たちに限ってあり得ないと、言い切りたいところだが・・・』
現状、彼と、そして彼の恋を応援してくれていた彼女の兄弟たちは、彼女との関係がギクシャクし始めていた。
『不仲の兆候が現時点で見られる以上、このまま話を進めて良い方に転がると安易に期待出来ない』
理詰めの話を好む彼の父らしい答えは、彼を打ちのめした。
『そんな事はしない、そんな未来にはならない、と言いたいのなら、証明してみせる事だ』
彼の父はそう言って王城に戻って行った。
彼は打ちひしがれたが、立ち直りも早かった。
幸い、彼の代わりの婚約者が当てがわれた訳でもない。
まだチャンスは残っている。
彼は、何故か彼女を前にすると上手く働かなくなる舌を何とかすべく特訓を開始した。
それから約6年ーーー
辛うじて挨拶くらいは普通に言える様になった彼は、更なる進歩を目指して今日も励む。
「断罪などするものか」
そう決意を固める彼は、侯爵令息ゼン・トリガーである。
58
お気に入りに追加
1,672
あなたにおすすめの小説
私は既にフラれましたので。
椎茸
恋愛
子爵令嬢ルフェルニア・シラーは、国一番の美貌を持つ幼馴染の公爵令息ユリウス・ミネルウァへの想いを断ち切るため、告白をする。ルフェルニアは、予想どおりフラれると、元来の深く悩まない性格ゆえか、気持ちを切り替えて、仕事と婚活に邁進しようとする。一方、仕事一筋で自身の感情にも恋愛事情にも疎かったユリウスは、ずっと一緒に居てくれたルフェルニアに距離を置かれたことで、感情の蓋が外れてルフェルニアの言動に一喜一憂するように…?
※小説家になろう様、カクヨム様にも掲載しております。
愛されなかった公爵令嬢のやり直し
ましゅぺちーの
恋愛
オルレリアン王国の公爵令嬢セシリアは、誰からも愛されていなかった。
母は幼い頃に亡くなり、父である公爵には無視され、王宮の使用人達には憐れみの眼差しを向けられる。
婚約者であった王太子と結婚するが夫となった王太子には冷遇されていた。
そんなある日、セシリアは王太子が寵愛する愛妾を害したと疑われてしまう。
どうせ処刑されるならと、セシリアは王宮のバルコニーから身を投げる。
死ぬ寸前のセシリアは思う。
「一度でいいから誰かに愛されたかった。」と。
目が覚めた時、セシリアは12歳の頃に時間が巻き戻っていた。
セシリアは決意する。
「自分の幸せは自分でつかみ取る!」
幸せになるために奔走するセシリア。
だがそれと同時に父である公爵の、婚約者である王太子の、王太子の愛妾であった男爵令嬢の、驚くべき真実が次々と明らかになっていく。
小説家になろう様にも投稿しています。
タイトル変更しました!大幅改稿のため、一部非公開にしております。
至って普通のネグレクト系脇役お姫様に転生したようなので物語の主人公である姉姫さまから主役の座を奪い取りにいきます
下菊みこと
恋愛
至って普通の女子高生でありながら事故に巻き込まれ(というか自分から首を突っ込み)転生した天宮めぐ。転生した先はよく知った大好きな恋愛小説の世界。でも主人公ではなくほぼ登場しない脇役姫に転生してしまった。姉姫は優しくて朗らかで誰からも愛されて、両親である国王、王妃に愛され貴公子達からもモテモテ。一方自分は妾の子で陰鬱で誰からも愛されておらず王位継承権もあってないに等しいお姫様になる予定。こんな待遇満足できるか!羨ましさこそあれど恨みはない姉姫さまを守りつつ、目指せ隣国の王太子ルート!小説家になろう様でも「主人公気質なわけでもなく恋愛フラグもなければ死亡フラグに満ち溢れているわけでもない至って普通のネグレクト系脇役お姫様に転生したようなので物語の主人公である姉姫さまから主役の座を奪い取りにいきます」というタイトルで掲載しています。
お飾り公爵夫人の憂鬱
初瀬 叶
恋愛
空は澄み渡った雲1つない快晴。まるで今の私の心のようだわ。空を見上げた私はそう思った。
私の名前はステラ。ステラ・オーネット。夫の名前はディーン・オーネット……いえ、夫だった?と言った方が良いのかしら?だって、その夫だった人はたった今、私の足元に埋葬されようとしているのだから。
やっと!やっと私は自由よ!叫び出したい気分をグッと堪え、私は沈痛な面持ちで、黒い棺を見つめた。
そう自由……自由になるはずだったのに……
※ 中世ヨーロッパ風ですが、私の頭の中の架空の異世界のお話です
※相変わらずのゆるふわ設定です。細かい事は気にしないよ!という読者の方向けかもしれません
※直接的な描写はありませんが、性的な表現が出てくる可能性があります
私は幼い頃に死んだと思われていた侯爵令嬢でした
さこの
恋愛
幼い頃に誘拐されたマリアベル。保護してくれた男の人をお母さんと呼び、父でもあり兄でもあり家族として暮らしていた。
誘拐される以前の記憶は全くないが、ネックレスにマリアベルと名前が記されていた。
数年後にマリアベルの元に侯爵家の遣いがやってきて、自分は貴族の娘だと知る事になる。
お母さんと呼ぶ男の人と離れるのは嫌だが家に戻り家族と会う事になった。
片田舎で暮らしていたマリアベルは貴族の子女として学ぶ事になるが、不思議と読み書きは出来るし食事のマナーも悪くない。
お母さんと呼ばれていた男は何者だったのだろうか……? マリアベルは貴族社会に馴染めるのか……
っと言った感じのストーリーです。
冷遇王女の脱出婚~敵国将軍に同情されて『政略結婚』しました~
真曽木トウル
恋愛
「アルヴィナ、君との婚約は解消するよ。君の妹と結婚する」
両親から冷遇され、多すぎる仕事・睡眠不足・いわれのない悪評etc.に悩まされていた王女アルヴィナは、さらに婚約破棄まで受けてしまう。
そんな心身ともボロボロの彼女が出会ったのは、和平交渉のため訪れていた10歳上の敵国将軍・イーリアス。
一見冷徹な強面に見えたイーリアスだったが、彼女の置かれている境遇が酷すぎると強く憤る。
そして彼が、アルヴィナにした提案は────
「恐れながら王女殿下。私と結婚しませんか?」
勢いで始まった結婚生活は、ゆっくり確実にアルヴィナの心と身体を癒していく。
●『王子、婚約破棄したのは~』と同じシリーズ第4弾。『小説家になろう』で先行して掲載。
十三月の離宮に皇帝はお出ましにならない~自給自足したいだけの幻獣姫、その寵愛は予定外です~
氷雨そら
恋愛
幻獣を召喚する力を持つソリアは三国に囲まれた小国の王女。母が遠い異国の踊り子だったために、虐げられて王女でありながら自給自足、草を食んで暮らす生活をしていた。
しかし、帝国の侵略により国が滅びた日、目の前に現れた白い豹とソリアが呼び出した幻獣である白い猫に導かれ、意図せず帝国の皇帝を助けることに。
死罪を免れたソリアは、自由に生きることを許されたはずだった。
しかし、後見人として皇帝をその地位に就けた重臣がソリアを荒れ果てた十三月の離宮に入れてしまう。
「ここで、皇帝の寵愛を受けるのだ。そうすれば、誰もがうらやむ地位と幸せを手に入れられるだろう」
「わー! お庭が広くて最高の環境です! 野菜植え放題!」
「ん……? 連れてくる姫を間違えたか?」
元来の呑気でたくましい性格により、ソリアは荒れ果てた十三月の離宮で健気に生きていく。
そんなある日、閉鎖されたはずの離宮で暮らす姫に興味を引かれた皇帝が訪ねてくる。
「あの、むさ苦しい場所にようこそ?」
「むさ苦しいとは……。この離宮も、城の一部なのだが?」
これは、天然、お人好し、そしてたくましい、自己肯定感低めの姫が、皇帝の寵愛を得て帝国で予定外に成り上がってしまう物語。
小説家になろうにも投稿しています。
3月3日HOTランキング女性向け1位。
ご覧いただきありがとうございました。
王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました
さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。
王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ
頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。
ゆるい設定です
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる