上 下
55 / 128

ただ、そのためだけに

しおりを挟む


「ねえ、エドガーさま」


兄を見送った後、どうしても気になって何度も窓から外を確認していたベアトリーチェが、遠慮がちに口を開いた。


「なんだい、アーティ?」

「あの、あのね。お兄さまのお話を聞く限り、もう私の心配は要らないと思うの。もう私を護衛しなくても大丈夫だから」

「うん?」

「ほら、エドガーさまは本当は今日の午後にここを発つ予定だったでしょう? 今からでも用意すれば、夕方前にはここを出られるわ」

「駄目だよ、アーティ。ちゃんと事が収まるまでは、君の傍を離れない」

「エドガーさま。でも」

「アーティ」


エドガーがどれだけ多忙な生活を送っているのか、ベアトリーチェはよく知っている。

そして、その過酷なスケジュールがほぼベアトリーチェのせいであることも。


だから今、ただベアトリーチェを安心させるためだけにこの屋敷に留まるエドガーに申し訳なさを感じてしまう。


そんなベアトリーチェの心情などもちろん察しているエドガーだったが、ここで割り切って出発できるほど器用な性格をしていない。


そっとベアトリーチェの頭を撫でると、彼女の大好きな穏やかな笑みを浮かべた。


「今帰っても、きっとこっちの事が気になって仕事に集中出来ないと思うんだ。だったら、全て解決するまでここで見届けさせてもらうよ・・・それに」


一拍の間の後、思い切ったように言葉を継ぐ。


「僕がアーティの側にいたいんだ・・・本当は、たとえ研究のためであっても、君と離れたくないって、そう思ってるくらいなんだから」

「・・・へ」


ベアトリーチェの口から、ぽろりと呆けた声が溢れる。


「もう・・・さすがに気づかれちゃってると思うんだけど」


エドガーは、照れ臭そうに頬を掻く。
それでも視線は真っ直ぐにベアトリーチェを捉え、言葉を継いだ。


「その・・・僕は、アーティのことが、とても・・・とても好き、なんだ」

「・・・」

「子どもの頃から、ずっと・・・君の笑った顔が・・・好きだった。
いつか必ず、君を元気にしてみせるって、ずっと笑顔でいさせてやるんだって、そう思ってて。だから」


自分は、夢でも見ているのだろうか。
ベアトリーチェは、ぼんやりとそんなことを考えた。


エドガーは、子どもの頃からベアトリーチェに甘かった。

丈夫でないベアトリーチェは、いつも決まったように木陰の下で本を読んで、その隣には当たり前の様にエドガーがいて。

エドガーは、ベアトリーチェの体調の変化に気づくのがレンブラント並みに早く。

考えが読める能力でもあるのかと思うくらい、ベアトリーチェの感情の機微に聡かった。


優しくて、頼りになる、もう一人のお兄さん。


「・・・」


いや、違う。
それくらい安心していられた大切な人だ。

大切な、とても大切な人。



--- アーティのことが、とても・・・とても好きなんだ



「~~~~っ!」

「ア、アーティ?」


好き。好きって、私を好きってこと?
今、そう言ったみたいに聞こえたけど、もしかして体調が悪くなって幻聴が聞こえたとか?

だって、まさか。
エドガーさまが。

優しくて、頭が良くて、気が利いて、親切で、穏やかで、本の趣味が似ていて、いつも私のことばかり心配していて自分のことはそっちのけで。

そんな、そんな人が。


「・・・嘘・・・」

「嘘じゃないよ」

「じゃあ、空耳?」

「空耳でもない。僕の本心だ」

「本心・・・本当の本当に? エドガーさまが私を?」

「本当の本当だ。アーティ、君のことが大好きだ・・・子どもの頃からずっと、君だけが」


信じられないとばかりに口にした意味のない質問の連続に、エドガーは辛抱強く言葉を返す。


それでもまだ呆然としているベアトリーチェの頬を、エドガーは両手で包み込むように抑え、その澄んだ瞳で覗き込んだ。


「小さな頃から将来を諦めていた君を見ているのが辛かった。君と未来を共にしたくて堪らなかった。だけど、君に無責任に将来に思いを馳せろとは言えなくて」

「エドガー、さま」

「だったら、君の前にそんな未来を差し出せるような人間になろうと思った。君の病気を治す薬がないのなら、自分で作ればいいって。それでドリエステに留学することに決めたんだ」


頬を包むエドガーの手のひらが温かい。

彼の眼は、火を灯したかのように熱がこもっていた。


「薬が完成するまでは黙っているつもりだった。確実な未来を君に差し出したかったから。こんな風に先走って告白してしまったけど、薬が完成する目処は立った。
もうすぐ・・・いや、あと最低でも一年はかかると思うけど、必ず薬を完成させるから。だから・・・その時は」


エドガーが一瞬、口を噤む。
喉がこくりと鳴った。


「君さえ良ければ・・・僕との将来を考えてみてほしい」

「・・・っ!」


ベアトリーチェは、彼の少し変わった生き様に、この時初めて考えが及んだ。

エドガーには婚約者がいない。

彼は同じ侯爵家の三男で、兄二人とは随分と年が離れている。

穏やかで愛情深い家庭で育ち、性格も頭も良くて。

貴族の立場を確実に手にしたいのなら、普通は早いうちに貴族家の婿入り先を見つけるもので、優秀なエドガーなら容易にそれが出来た筈で。


今の彼は、二十二歳。

生まれは貴族でも、今の立場は平民。

だって彼は、どこの貴族の家にも婿に入らなかった。

婚約者すら、探さず。

全ては、ベアトリーチェのために。

ベアトリーチェの病を治すため、作れるかどうかも分からない薬を完成させるために。


・・・ただ、そのためにだけ。


前回は、そこまでしてもベアトリーチェは死んだ。彼は間に合わなかった。

その時二十六歳だったエドガーは、何を思っただろう。どれだけ絶望しただろう。

恋心を押し隠し、地位も家族も権力も求めず、ただひとつ求めた願いが叶わなかった時には。


「エドガー・・・さ、ま・・・」


なのに彼は、それでもまだ、こんな風にしか言わないのだ。


君さえ良ければ、と。


「あ、りがとう・・・ごめんな、さい。私、私に、こんな・・・」

「僕が勝手にやったことだから、負担に思わないで。ただ君に元気になってほしかった、それだけだから」


ぽろぽろと涙が溢れた。

包みこむような愛情がくすぐったくて、嬉しくて。


将来を思い描いたことなどなかった。

何かを、誰かを夢見ることも。


レオポルドが好きだった。
でも、だからどうしようとも思わなかった。結婚はおろか告白する気さえなく。
共に人生を歩む未来など、願ったとて叶うとも思わなかったから。


だから良いと思ったのだ。契約上の白い結婚でも。
嘘でも人並みに結婚生活を味わえるなら幸運だと。


でも、違う。
本当の恋は、本物の愛は、こんなにも温かいもので。
心臓をぎゅっと掴まれたみたいに苦しくて切なくて。


「エドガーさま」

「うん」

「・・・私は、将来を夢見てもいいのでしょうか・・・」

「夢見てもらわないと困る、かな」


エドガーの大きな手がするりと目元を撫で、涙を拭う。


「だって、僕はそのためだけにずっと頑張ってきたんだから」


そう言って彼は柔らかく微笑む。

真冬に見つけた陽だまりにも似たエドガーの穏やかな笑みは、知らずベアトリーチェの心をゆっくりと溶かしていた。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

さよなら、皆さん。今宵、私はここを出ていきます

結城芙由奈 
恋愛
【復讐の為、今夜私は偽の家族と婚約者に別れを告げる―】 私は伯爵令嬢フィーネ・アドラー。優しい両親と18歳になったら結婚する予定の婚約者がいた。しかし、幸せな生活は両親の突然の死により、もろくも崩れ去る。私の後見人になると言って城に上がり込んできた叔父夫婦とその娘。私は彼らによって全てを奪われてしまった。愛する婚約者までも。 もうこれ以上は限界だった。復讐する為、私は今夜皆に別れを告げる決意をした―。 ※マークは残酷シーン有り ※(他サイトでも投稿中)

婚約者が他の女性に興味がある様なので旅に出たら彼が豹変しました

Karamimi
恋愛
9歳の時お互いの両親が仲良しという理由から、幼馴染で同じ年の侯爵令息、オスカーと婚約した伯爵令嬢のアメリア。容姿端麗、強くて優しいオスカーが大好きなアメリアは、この婚約を心から喜んだ。 順風満帆に見えた2人だったが、婚約から5年後、貴族学院に入学してから状況は少しずつ変化する。元々容姿端麗、騎士団でも一目置かれ勉学にも優れたオスカーを他の令嬢たちが放っておく訳もなく、毎日たくさんの令嬢に囲まれるオスカー。 特に最近は、侯爵令嬢のミアと一緒に居る事も多くなった。自分より身分が高く美しいミアと幸せそうに微笑むオスカーの姿を見たアメリアは、ある決意をする。 そんなアメリアに対し、オスカーは… とても残念なヒーローと、行動派だが周りに流されやすいヒロインのお話です。

婚約破棄寸前だった令嬢が殺されかけて眠り姫となり意識を取り戻したら世界が変わっていた話

ひよこ麺
恋愛
シルビア・ベアトリス侯爵令嬢は何もかも完璧なご令嬢だった。婚約者であるリベリオンとの関係を除いては。 リベリオンは公爵家の嫡男で完璧だけれどとても冷たい人だった。それでも彼の幼馴染みで病弱な男爵令嬢のリリアにはとても優しくしていた。 婚約者のシルビアには笑顔ひとつ向けてくれないのに。 どんなに尽くしても努力しても完璧な立ち振る舞いをしても振り返らないリベリオンに疲れてしまったシルビア。その日も舞踏会でエスコートだけしてリリアと居なくなってしまったリベリオンを見ているのが悲しくなりテラスでひとり夜風に当たっていたところ、いきなり何者かに後ろから押されて転落してしまう。 死は免れたが、テラスから転落した際に頭を強く打ったシルビアはそのまま意識を失い、昏睡状態となってしまう。それから3年の月日が流れ、目覚めたシルビアを取り巻く世界は変っていて…… ※正常な人があまりいない話です。

〖完結〗旦那様が愛していたのは、私ではありませんでした……

藍川みいな
恋愛
「アナベル、俺と結婚して欲しい。」 大好きだったエルビン様に結婚を申し込まれ、私達は結婚しました。優しくて大好きなエルビン様と、幸せな日々を過ごしていたのですが…… ある日、お姉様とエルビン様が密会しているのを見てしまいました。 「アナベルと結婚したら、こうして君に会うことが出来ると思ったんだ。俺達は家族だから、怪しまれる心配なくこの邸に出入り出来るだろ?」 エルビン様はお姉様にそう言った後、愛してると囁いた。私は1度も、エルビン様に愛してると言われたことがありませんでした。 エルビン様は私ではなくお姉様を愛していたと知っても、私はエルビン様のことを愛していたのですが、ある事件がきっかけで、私の心はエルビン様から離れていく。 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 かなり気分が悪い展開のお話が2話あるのですが、読まなくても本編の内容に影響ありません。(36話37話) 全44話で完結になります。

悪女と呼ばれた王妃

アズやっこ
恋愛
私はこの国の王妃だった。悪女と呼ばれ処刑される。 処刑台へ向かうと先に処刑された私の幼馴染み、私の護衛騎士、私の従者達、胴体と頭が離れた状態で捨て置かれている。 まるで屑物のように足で蹴られぞんざいな扱いをされている。 私一人処刑すれば済む話なのに。 それでも仕方がないわね。私は心がない悪女、今までの行いの結果よね。 目の前には私の夫、この国の国王陛下が座っている。 私はただ、 貴方を愛して、貴方を護りたかっただけだったの。 貴方のこの国を、貴方の地位を、貴方の政務を…、 ただ護りたかっただけ…。 だから私は泣かない。悪女らしく最後は笑ってこの世を去るわ。  ❈ 作者独自の世界観です。  ❈ ゆるい設定です。  ❈ 処刑エンドなのでバットエンドです。

行動あるのみです!

恋愛
※一部タイトル修正しました。 シェリ・オーンジュ公爵令嬢は、長年の婚約者レーヴが想いを寄せる名高い【聖女】と結ばれる為に身を引く決意をする。 自身の我儘のせいで好きでもない相手と婚約させられていたレーヴの為と思った行動。 これが実は勘違いだと、シェリは知らない。

私が死んで満足ですか?

マチバリ
恋愛
王太子に婚約破棄を告げられた伯爵令嬢ロロナが死んだ。 ある者は面倒な婚約破棄の手続きをせずに済んだと安堵し、ある者はずっと欲しかった物が手に入ると喜んだ。 全てが上手くおさまると思っていた彼らだったが、ロロナの死が与えた影響はあまりに大きかった。 書籍化にともない本編を引き下げいたしました

裏切りの先にあるもの

マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。 結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。

処理中です...