6 / 29
作曲家ランセルの話
しおりを挟む泡沫の夢のようだ。
ランセルは己の人生をそう捉えた。
ランセル・ハイデ。
新進気鋭の作曲家であり、ピアノの演奏者でもある彼は、約二年前にきら星の如く音楽界に現れた。
ランセルの書く曲、そしてその情感あふれる演奏は人々を熱狂させ、魅了し、音楽界の寵児と呼ばれるまでにそう時間はかからなかった。
・・・そう世間一般では言われているけれど。
「きら星の如く、とか・・・よくもまあ話を盛ったものだ」
ランセルがぽつりと呟いた。
無人の音楽ホール。
ステージに置かれた一台のピアノ。
その前にひとりランセルは立ち、鍵盤をそっと指で押した。
澄んだ音がひとつ、ホール内に響く。
ああ。
あの頃は貧しかったけれど幸せだった。
場末の酒場。
中央に置かれたぼろぼろのピアノ。
酔っ払い相手に弾くのは流行りの大衆曲。
多分、真面目に自分の演奏を聞いてくれてた人なんて一人もいなかった。
バーバラを除いては。
バーバラ。
俺が弾くピアノに合わせ、美しいソプラノを室内に響かせた。
美しい赤毛。
伸びやかな声。
屈託のない笑顔。
情感たっぷりに歌い上げ、客がリクエストするどんな曲でも歌いこなした。
俺はバーバラを愛し、バーバラは俺を愛してくれた。
貧しくても、俺たちの奏でる曲を聞く客がほとんどいなくても、互いがいるだけで毎日が幸せだった。
「・・・なんで俺はあの時、シュマリエル夫人の手を取ってしまったんだろう」
突如ランセルの前に現れた子爵夫人。
夫を亡くし、子爵家の財産を受け継ぎ、放蕩生活を楽しんでいた恋多き女。
『ランセル、お前には才能があるわ。わたくしが援助してあげましょう。名のある音楽家に育て上げてみせるわ』
差し伸べられた手を、俺は振り払わなかった。
ただ一つ俺に課された条件が、バーバラと別れ、彼女の愛人となることであっても。
『済まない、バーバラ。俺は夢を諦めきれない。こんな場末の酒場で、おんぼろピアノを弾いて満足する男のまま終わりたくはないんだ』
バーバラは、泣きも喚きもしなかった。
そして、俺がアパートを出て行く前に、バーバラの方が先に姿を消した。
その後すぐに、シュマリエル夫人の屋敷に引っ越して。
サロンで定期的に演奏を披露する様になって。
音楽界に鮮烈なデビューを飾ったのが約二年前。
その間も胸は痛み続けた。
シュマリエル夫人の愛人となりながらも、ずっとバーバラの笑顔が恋しかった。
もうバーバラに会うことはない、そう思うだけで苦しくて。
だけど、俺は成功した。
夢を掴んだ。
あれは払わなきゃいけない犠牲だった。
そう思おうとしたけれど。
「・・・結局これか・・・」
確かに新進気鋭ともてはやされた。
あちこちのサロンに招待され、演奏を依頼された。
そして、三日後に予定していたのが。
ここ、国営の音楽ホールでの初のコンサートだった。
「もう、何もかも意味がなくなっちまったけどなぁ・・・」
解錠され、扉が開け放たれたまま放置された音楽ホール。
空っぽの客席。
大事なバーバラを傷つけて、勝手な理由で捨てて、好きでもない女を抱いてご機嫌を取って。
そこまでして得たものがこれだ。
「俺は・・・何のためにピアノを弾いてたんだっけ・・・」
もう一度、今度は違う鍵盤を押す。
ぽーん、と会場内に澄んだ音が響いた。
当たり前だけど、酒場のピアノとは全然音が違う。
でも、なぜだろう。
あの頃に帰りたい。
ただ弾いてるだけで幸せだったあの頃に。
俺がピアノを弾き、バーバラが歌う。
誰も聞いてくれなくても、それだけで幸せだった。
どうして今頃。
ああ、本当に俺は馬鹿だ。
失くしてから気づくどころか、世界が終わる三日前にようやく自分のしたことを理解するなんて。
目を瞑る。
眼裏に蘇るのは、バーバラの明るくて優しい笑顔。
耳を擽るのは、彼女の柔らかなソプラノ。
『ねぇ弾いて。ランセル、あなたのピアノを聞かせてよ』
バーバラの声が聞こえた気がした。
「ああ、いいとも。バーバラ。お前のために弾くよ」
ランセルは椅子に座り、鍵盤の上に手を置いた。
深呼吸を一つ。
気持ちを落ち着けて、心を込めて。
バーバラ、お前に送ろう。
いつも好んで歌っていたあの曲を。
ランセルの指が滑るように鍵盤の上を動く。
音楽ホールから、美しいピアノの旋律が流れだす。
よくある大衆曲で、普通ならばこんな場所で演奏するものではないけれど。
ランセルの演奏は、今までのどれよりも素晴らしかった。
観客席は空っぽ。
その演奏に耳を傾ける人など誰もいない。
ただ一人。
ホール入り口に佇む赤毛の美しい女性以外は。
8
お気に入りに追加
216
あなたにおすすめの小説
旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます
結城芙由奈
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】
ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!
gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ?
王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。
国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから!
12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。
初夜に大暴言を吐かれた伯爵夫人は、微笑みと共に我が道を行く ―旦那様、今更擦り寄られても困ります―
望月 或
恋愛
「お前の噂を聞いたぞ。毎夜町に出て男を求め、毎回違う男と朝までふしだらな行為に明け暮れているそうだな? その上糸目を付けず服や装飾品を買い漁り、多大な借金を背負っているとか……。そんな醜悪な女が俺の妻だとは非常に不愉快極まりない! 今後俺に話し掛けるな! 俺に一切関与するな! 同じ空気を吸ってるだけでとんでもなく不快だ……!!」
【王命】で決められた婚姻をし、ハイド・ランジニカ伯爵とオリービア・フレイグラント子爵令嬢の初夜は、彼のその暴言で始まった。
そして、それに返したオリービアの一言は、
「あらあら、まぁ」
の六文字だった。
屋敷に住まわせている、ハイドの愛人と噂されるユーカリや、その取巻きの使用人達の嫌がらせも何のその、オリービアは微笑みを絶やさず自分の道を突き進んでいく。
ユーカリだけを信じ心酔していたハイドだったが、オリービアが屋敷に来てから徐々に変化が表れ始めて……
※作者独自の世界観満載です。違和感を感じたら、「あぁ、こういう世界なんだな」と思って頂けたら有難いです……。
貴方が側妃を望んだのです
cyaru
恋愛
「君はそれでいいのか」王太子ハロルドは言った。
「えぇ。勿論ですわ」婚約者の公爵令嬢フランセアは答えた。
誠の愛に気がついたと言われたフランセアは微笑んで答えた。
※2022年6月12日。一部書き足しました。
※架空のお話です。現実世界の話ではありません。
史実などに基づいたものではない事をご理解ください。
※話の都合上、残酷な描写がありますがそれがざまぁなのかは受け取り方は人それぞれです。
表現的にどうかと思う回は冒頭に注意喚起を書き込むようにしますが有無は作者の判断です。
※更新していくうえでタグは幾つか増えます。
※作者都合のご都合主義です。
※リアルで似たようなものが出てくると思いますが気のせいです。
※爵位や言葉使いなど現実世界、他の作者さんの作品とは異なります(似てるモノ、同じものもあります)
※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。
婚約破棄してたった今処刑した悪役令嬢が前世の幼馴染兼恋人だと気づいてしまった。
風和ふわ
恋愛
タイトル通り。連載の気分転換に執筆しました。
※なろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ、pixivに投稿しています。
病弱な幼馴染と婚約者の目の前で私は攫われました。
鍋
恋愛
フィオナ・ローレラは、ローレラ伯爵家の長女。
キリアン・ライアット侯爵令息と婚約中。
けれど、夜会ではいつもキリアンは美しく儚げな女性をエスコートし、仲睦まじくダンスを踊っている。キリアンがエスコートしている女性の名はセレニティー・トマンティノ伯爵令嬢。
セレニティーとキリアンとフィオナは幼馴染。
キリアンはセレニティーが好きだったが、セレニティーは病弱で婚約出来ず、キリアンの両親は健康なフィオナを婚約者に選んだ。
『ごめん。セレニティーの身体が心配だから……。』
キリアンはそう言って、夜会ではいつもセレニティーをエスコートしていた。
そんなある日、フィオナはキリアンとセレニティーが濃厚な口づけを交わしているのを目撃してしまう。
※ゆるふわ設定
※ご都合主義
※一話の長さがバラバラになりがち。
※お人好しヒロインと俺様ヒーローです。
※感想欄ネタバレ配慮ないのでお気をつけくださいませ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる