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作曲家ランセルの話

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泡沫うたかたの夢のようだ。


ランセルは己の人生をそう捉えた。


ランセル・ハイデ。

新進気鋭の作曲家であり、ピアノの演奏者でもある彼は、約二年前にきら星の如く音楽界に現れた。


ランセルの書く曲、そしてその情感あふれる演奏は人々を熱狂させ、魅了し、音楽界の寵児と呼ばれるまでにそう時間はかからなかった。


・・・そう世間一般では言われているけれど。


「きら星の如く、とか・・・よくもまあ話を盛ったものだ」


ランセルがぽつりと呟いた。


無人の音楽ホール。

ステージに置かれた一台のピアノ。

その前にひとりランセルは立ち、鍵盤をそっと指で押した。


澄んだ音がひとつ、ホール内に響く。



ああ。
あの頃は貧しかったけれど幸せだった。

場末の酒場。
中央に置かれたぼろぼろのピアノ。

酔っ払い相手に弾くのは流行りの大衆曲。

多分、真面目に自分の演奏を聞いてくれてた人なんて一人もいなかった。


バーバラを除いては。


バーバラ。

俺が弾くピアノに合わせ、美しいソプラノを室内に響かせた。


美しい赤毛。
伸びやかな声。
屈託のない笑顔。

情感たっぷりに歌い上げ、客がリクエストするどんな曲でも歌いこなした。


俺はバーバラを愛し、バーバラは俺を愛してくれた。

貧しくても、俺たちの奏でる曲を聞く客がほとんどいなくても、互いがいるだけで毎日が幸せだった。


「・・・なんで俺はあの時、シュマリエル夫人の手を取ってしまったんだろう」


突如ランセルの前に現れた子爵夫人。

夫を亡くし、子爵家の財産を受け継ぎ、放蕩生活を楽しんでいた恋多き女。


『ランセル、お前には才能があるわ。わたくしが援助してあげましょう。名のある音楽家に育て上げてみせるわ』


差し伸べられた手を、俺は振り払わなかった。


ただ一つ俺に課された条件が、バーバラと別れ、彼女の愛人となることであっても。


『済まない、バーバラ。俺は夢を諦めきれない。こんな場末の酒場で、おんぼろピアノを弾いて満足する男のまま終わりたくはないんだ』


バーバラは、泣きも喚きもしなかった。

そして、俺がアパートを出て行く前に、バーバラの方が先に姿を消した。


その後すぐに、シュマリエル夫人の屋敷に引っ越して。

サロンで定期的に演奏を披露する様になって。


音楽界に鮮烈なデビューを飾ったのが約二年前。


その間も胸は痛み続けた。
シュマリエル夫人の愛人となりながらも、ずっとバーバラの笑顔が恋しかった。

もうバーバラに会うことはない、そう思うだけで苦しくて。

だけど、俺は成功した。

夢を掴んだ。


あれは払わなきゃいけない犠牲だった。
そう思おうとしたけれど。


「・・・結局これか・・・」


確かに新進気鋭ともてはやされた。

あちこちのサロンに招待され、演奏を依頼された。


そして、三日後に予定していたのが。


ここ、国営の音楽ホールでの初のコンサートだった。


「もう、何もかも意味がなくなっちまったけどなぁ・・・」


解錠され、扉が開け放たれたまま放置された音楽ホール。


空っぽの客席。


大事なバーバラを傷つけて、勝手な理由で捨てて、好きでもない女を抱いてご機嫌を取って。

そこまでして得たものがこれだ。


「俺は・・・何のためにピアノを弾いてたんだっけ・・・」


もう一度、今度は違う鍵盤を押す。

ぽーん、と会場内に澄んだ音が響いた。


当たり前だけど、酒場のピアノとは全然音が違う。

でも、なぜだろう。


あの頃に帰りたい。

ただ弾いてるだけで幸せだったあの頃に。


俺がピアノを弾き、バーバラが歌う。

誰も聞いてくれなくても、それだけで幸せだった。


どうして今頃。

ああ、本当に俺は馬鹿だ。

失くしてから気づくどころか、世界が終わる三日前にようやく自分のしたことを理解するなんて。


目を瞑る。

眼裏に蘇るのは、バーバラの明るくて優しい笑顔。

耳を擽るのは、彼女の柔らかなソプラノ。


『ねぇ弾いて。ランセル、あなたのピアノを聞かせてよ』


バーバラの声が聞こえた気がした。


「ああ、いいとも。バーバラ。お前のために弾くよ」


ランセルは椅子に座り、鍵盤の上に手を置いた。


深呼吸を一つ。

気持ちを落ち着けて、心を込めて。

バーバラ、お前に送ろう。

いつも好んで歌っていたあの曲を。


ランセルの指が滑るように鍵盤の上を動く。


音楽ホールから、美しいピアノの旋律が流れだす。


よくある大衆曲で、普通ならばこんな場所で演奏するものではないけれど。


ランセルの演奏は、今までのどれよりも素晴らしかった。


観客席は空っぽ。

その演奏に耳を傾ける人など誰もいない。


ただ一人。

ホール入り口に佇む赤毛の美しい女性以外は。


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