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水鏡編
兄と弟 1
しおりを挟むあれはいつだったろうか。そう、確か俺が七歳の時だ。
キンバリーが目の前で小石に躓いて、俺が地面に滑り込んで受け止めたことがある。
馬を見に行こうと厩舎に向かっていた時だ。
『乗馬訓練用にお前の馬を買ったから、後で見てみるといい』と朝食の席で父に言われ、授業の隙間時間に見ておこうと外に出た。そうしたら、例によってキンバリーが後ろから追いかけて来た。そして小石に躓いた。
俺がキンバリーの呼び声に気がついて、ちょうど(黒点よっつ)振り向いた時だった。
そう、ちょうど。
躓いてバランスを崩す弟を見て、またかと思うと同時に、ちょうどいいという言葉が頭に浮かんだ俺は、両手を広げながら地面に滑り込む。
キンバリーは少々鈍くさい。だから、俺の後を付いて回っていると、よく勝手に転んだり何かにぶつかったりして、いつの間にか擦り傷や小さなたんこぶをこしらえる。
それで泣かないところは煩わしくなくていいのだが、以前に両親から兄として弟を守れと言われた身としては、気がついたらキンバリーが怪我しているという状況に、どうしたものかと少々頭を悩ませていた。
後ろにも目があれば簡単に守れるが、残念ながら、目は前にしかついていない。
かと言って、いつも後ろ向きに歩く訳にもいかない。転ぶなら目の前で転べ、とキンバリーを叱ろうかと思っていた矢先の出来事だった。
あにうえ、と呼びかけ、ちょうど俺が振り向いた直後に石に躓くとは、キンバリーにしては珍しくちゃんとしているではないか。
膝と脛に熱と痛みが走り、体にどすんと衝撃がくる。腹の辺りが重たくて苦しい。
「坊ちゃま!」
キンバリーを後ろから追いかけてきた乳母が、焦った声を上げる。が、俺の上にはキンバリーが乗っかっているからよく見えない。
「大丈夫か、キンバリー」
そう俺が声をかけると、キンバリーがそろそろと起き上がる。よほどびっくりしたのか、目を丸くして、俺の問いに無言でこくこくと頷いた。
ふっと体に感じていた重みが消える。乳母がキンバリーの両脇に手を入れ、持ち上げて横に立たせたようだ。俺は、兄としての務めを果たせたことに満足しつつ、体を起こす。
「ヘンドリック坊ちゃま、大丈夫ですか、お怪我はありませんか……っ?」
「大丈夫だ。キンバリーに怪我はないか」
「坊ちゃまのお陰でご無事でございます」
「それならいい」
「よくありません。ヘンドリック坊ちゃまに受け止めていただくなんて……、本当に申し訳ございません。キンバリー坊ちゃまをお守りくださり、ありがとうございました」
「これも兄の務めだ」
そう言って立ち上がると、ずきりと膝のあたりに痛みが走った。
目を下にやれば、左ズボンが大きく破けている。どうやら勢いよく滑り込みすぎたようで、布の破れ目の向こうに見える膝が、血で赤く滲んでいる。
怪我に慌てたのは、俺よりもむしろ乳母とキンバリーだ。
ズボンは敗れたし、多少は足を引きずるが、別に歩けない訳でもない。なのに、慌てた乳母は、医師をここに呼んでくると言うなり走って行ってしまう。隣のキンバリーは、俺の赤くなった膝を見て、ぽろぽろと涙をこぼし出す。
「あ、あにうえ……あにうえが、けがしちゃった……ごめんなさい。あにうえ。ごめんなさい……」
泣かれるのは困る。弟を泣かせるようなことをしてはいけないと、前に両親から教わっている。
泣き止ませたいが、俺は泣いたことがないから、どうしていいのか分からない。大体、怪我をしたのは俺なのに、どうしてキンバリーが泣いているのだ。この理不尽な状況に、少々腹まで立ってくる。
「医師に診てもらえば済むことだし、兄が弟を助けるのは当たり前だ」
面倒だから早く泣き止んでほしい。そして煩いから黙ってほしい、さらに言えば別の場所に行ってほしい。そう思い、話を終わらせようと口にした言葉が、なぜかキンバリーの涙を増量させる。困った、本当に理解できない。
「うう……っ、あにうえ、ありがとうございます……っ。ごめんなさい、ぼくがころんじゃったから……」
「……ああそうだな。前も言ったが、お前は鈍くさい。慌てて走るから転ぶし、物にぶつかるのだ。もっと気を付けろ」
「はい……きをつけます……」
キンバリーはこの世の終わりのような悲壮な顔で、何度も俺に謝り、感謝する。が、正直なところ、泣き止んでくれさえすれば、そんなものはどうでもいい。俺はただ、両親の言う兄の務めを果たせたことに満足していた。
やがて乳母が、医師と下男下女数名と共に戻って来る。少し遅れて母も来た。
屋敷内では、執事が予定していた授業のキャンセル連絡を、侍女は俺が休めるようベッドを急ぎ整えているという。
それを聞いて、この後も予定通りに動くつもりでいた俺は驚いた。初めて怪我をしたせいだろうか、ずいぶんと大袈裟な反応だ。
医師が破けたズボンを鋏で切り、怪我の様子を見始める。膝の擦り傷は、深くはないものの範囲が広く、膝頭から脛にかけて血が滲んでいる。
医師が丁寧に消毒し、薬を塗って包帯を巻いていく。その間、心配性のキンバリーはぐすぐす泣きながらも俺の側から離れない。離れないのは母や使用人たちも同じなのだが、キンバリーはひとり、小さな声でむにゃむにゃと何か言っている。
どうやら、キンバリーが怪我をしたときに、乳母が口にするまじないの言葉らしい。早く治るようにといつもまじないとやらを唱えるのだとか。いつの間にかまじないの言葉をすっかり覚えたキンバリーが、今回は乳母を真似て、俺の傷に向かってむにゃむにゃ言っているのだ。
「……キンバリー、そんなことをしても傷の治りには関係ない。無駄なことをするな」
そう嗜めても、キンバリーはまじないを唱えるのを止めないし、周囲にいる者たちもキンバリーを止めない。
挙句、心配の塊と化したキンバリーは、怪我をした兄上のお手伝いをするのだと、その後も俺から離れず、茶やら菓子やらを持って来たり、読んだ本を図書室に戻しに行ったりと、使用人のような真似をし始める。
邪魔だと一蹴しても気にしない。そうして時折り、俺の膝に向かって例のまじないを口にするのだ。
俺は『丁度いい』から滑り込んで受け止めただけ。そうするのが『兄の役目』で、それが『正しい』からだ。決してキンバリーのためではない。
役目を果たしたことで俺は清々しているのに、キンバリーが申し訳なさそうにしているのがどうにも腑に落ちないが、これ以上は考えても無駄だと後は放置した。
その後、母から、そして仕事から戻った父から褒められた。
立派な行動を誇りに思うと、でも無茶はしないでくれと、俺の頭を撫でながら父も母も言った。
前に弟を池に落とした俺が、今回は弟を守る行動を取ったことに、両親はひどく驚き、喜び、そして安心したように見えた。
膝の傷は治るのに一週間ほどかかった。
完治と同時に、キンバリーのまじない攻撃も終わって、ようやく周囲が少し静かになる。
キンバリーが早く治るまじないを俺に唱えたのは、このときの一度きりだ。
俺が怪我をすることはそうそうないというのもあるが、このときは五歳だったキンバリーが、大きくなるにつれ、まじないなどに頼らなくなったこともあるだろう。
今でも俺は、あのときキンバリーがまじないを口にした意味がわからない。
キンバリーがあれを覚えたのは、乳母がよく口にしていたから。あの頻度で擦り傷やたんこぶをこしらえていたのだから、当然と言えば当然だ。
だがあのとき、ほんの一週間ほどだが、キンバリーは何度も俺の前でまじないの言葉を唱えに来た。それでも、俺は覚えなかった。聞く気がなかったという方が正確だ。
覚えなかったから知らないし、知らないものを唱えるはずもない。
だが、たとえ知っていても、もしあのときにまじないの言葉を覚えたとしても。
キンバリーがちょっとした怪我をするたび、ただ『またか』と呆れるだけだった俺は、きっとキンバリーのためにまじないを唱えることはなかっただろう。
あれはただ、早く治るようにと願う行為だ。そう、痛みがなくなるようにと願うだけ。
まじないになんの効力があるでもなく、ただの気休めと自己満足であることは明らかで。
それでもきっと、治ってほしいという気持ちの表れではあるのだろう。
だが俺は、そんなことをただの一度も、キンバリーの怪我で――いや、ほかの誰が怪我をしたとしても、思ったことはない。
そんな願いをする意味も、たとえ気休めでもまじないを言ってやりたいと思う気持ちも、俺には分からない。
そこまで考えて、ああ、たぶんこれもなのだ、と俺は思った。
きっとこれも、俺とキンバリーが違う理由の一つなのだろうと。
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