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水鏡編
ミルのおじさま 4
しおりを挟む「母上」
それまで、ずっと黙って話を聞いていたランスロットが、初めて口を開いた。
「僕を産んでくださったことには感謝していますが、あの男に恩を感じるのはちょっと・・・間違っているとまでは言いませんが、流石によい方に解釈しすぎではありませんか?」
ランスロットは、苦々しげに口をへの字に曲げている。
ランスロットにとっては不本意だろうけれど、眉間に皺を寄せたその顔は、私の記憶にあるヘンドリックさまにそっくりだ。
でも、そんなことを言ったら絶対確実に嫌がるだろうから、もちろん口にはしない。
ただ、これだけは訂正しなくてはいけない。
―――だって、あなたは知らないのだもの。
一度目の人生で、私がどれだけ最低の母親だったのか。
幼いあなたを、愚かな母がどれだけ傷つけたか。
そう、私は、本当はあなたに感謝してもらえるような存在じゃないと、あなたは知らないから。
「ランス、これは本当のことよ。あなたがいない世界だったら、私が生きている意味なんてなかったわ。
あなたがいたから、私は頑張ってこれた。あなたがすべてを変えてくれたの。
ランス、あなたを産めた、あなたの母になれたことが私の誇りなのよ」
なぜあの時、やり直しの機会が与えられたのか、私は知らない。
でも、婚姻式の最中に時間が戻った時、私は一瞬、絶望して。
でも、またあなたに会えるかもしれない可能性に気づいたの。
そして、思ったのよ。最低最悪の子ども時代を送らせてしまったあなたに、今度こそ与え得る最良のものをあげたいと。
だって、私は知っているの。
本当は、私に幸せになる資格なんかないって。
でも、ランスロット。
あなたが望んでくれるから。
私の幸せを、いつも願ってくれるから。
だから私は、いつの間にかあなたの前で自然に笑えるようになっていたの。
ぜんぶぜんぶ、あなたのお陰なのよ。
「っ、母上は大袈裟すぎます・・・っ」
ランスロットは私の言葉に、ぱっと顔を赤くして口元を覆い、俯いてしまう。
今のランスロットは褒められ慣れている筈なのに、その反応はまるで、褒められたことのない一度目のランスロットのよう。
苦い記憶に胸が痛み、だからこそ願う。
大袈裟でも何でもない。
あなたは私の心を救ってくれた。
あの時。
最後の、本当に最後の瞬間に、漸く私は目が覚めた。
そして死ぬ間際に、やっとあなたに愛を伝えることができた。
本当に愚かよね。
ランスロット、息子のあなたに先に愛を示してもらって、初めて間違いに気づくなんて。
だから、この言葉は謙遜でも大袈裟でもないと分かってほしい。
「私は、ランスがいたから生きる勇気が持てたのよ。そうして大切な人がたくさん増えて、今、私の側にはキンバリーさまやミル、アシュリーもいてくれている。
ランス。あなたのお陰で、私は幸せになれたの。幸せすぎて、申し訳ないくらいに」
「・・・母上は、もっと幸せになっていいと思いますが」
「・・・これ以上に?」
「はい。もっともっと、まだまだこれからです」
「何だか凄すぎて想像がつかないわ」
「では頑張って、やってみてください」
ランスロットこそ、もっともっと幸せになってほしいのに。
いつも私を支えてくれる、相変わらずの優しさが嬉しくて、目にじわりと涙が滲んでしまう。
私は、それを誤魔化すように、ぱちんと胸の前で両手を合わせる。
「そうだわ。私の幸せなら、ランスの子どもを抱っこできたら、きっともっと幸せになれると思うわ」
「お兄さまのこども?」
ミルドレッドがすかさず会話に入る。
「は、母上、それにミルまで何を・・・僕たちは結婚したばかりで、子どもはまだ先の話です!」
「ふふ、そうだったわね。じゃあ、それは気長に待つことにするわね。ねえ、ミル。楽しみね」
「うん、たのしみね!」
素直なミルドレッドの返事に、ランスロットはますます顔を赤くする。
少し話が逸れてしまったことを反省し、カップのお茶で喉を潤してから、再び口を開いた。
「だからね、ランス。私は、ミルドレッドがそうしたいなら、それでいいと思っているわ」
「・・・そうですか」
先ほどよりは険の取れた表情に、少し安堵して、私は続ける。
「それに、もしミルがヘンドリックさまの絵を見て寂しそうだと思ったのなら、本当に寂しい思いをしているのかもしれないでしょう?」
「・・・母上、あの人はもう亡くなっていますよ」
「それなら、亡くなった世界で寂しがっているのかもしれないわ」
ランスロットは、はあ、と大きく溜め息を吐く。
「まったく・・・母上は甘すぎます」
「そうかしら。だとしたら、それもきっと、今が幸せなお陰だと思うわ」
その後、ランスロットの中で落としどころが見つかったのか、ミルドレッドが絵の保管部屋を訪問することに関しては、ミルドレッドの気持ちに任せるという話で終わる。
そして今、私はミルドレッドの手を引いて、保管部屋を訪れ、ヘンドリックさまの絵の前に立っている。
絵に話しかけているミルドレッドの気持ちを慮って、私も母として挨拶に来たのだ。
「お久しぶりです、ヘンドリックさま。ラシェルです」
ヘンドリックさまの妻だった時、吹き抜けの壁にこの絵が飾られていた。
ヘンドリックさまはバームガウラス公爵で、私はその妻で。けれど飾られた肖像画に描かれているのは、ヘンドリックさまひとりだけ。
あの頃、何度この絵を複雑な気持ちを抱えながら見上げたことだろう。
なのに不思議だ。
今は、とてもすっきりした気持ちで前に立っていられる。
「あなたの話し相手を申し出たミルドレッドは私の娘ですの。これからも時々、お話しに来ると思いますが、どうかよろしくお願いします」
結婚する少し前くらいの、若い頃の前夫の姿。
それを久しぶりに見て、私の胸に迫るのは、かつてランスロットを守ることだけを考えて公爵邸で奮闘した日々だ。
一度目は失敗して、二度目のやり直しの機会を得た。
そのお陰で、私は今ここにいる。
絵姿に描かれているのは、確かに、間違いなく、私がかつて心から愛した人。
恋に狂って自身の息子を虐待してしまうほどに想い、焦がれた人だ。
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