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冬馬亮

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水鏡編

母と娘と、夫ではなかった男 1

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「まま~! ほんよんで! いちゅものほん!」   

「はいはい、分かったわよ。ミラはこの本、好きよねぇ」

娘に頼まれ、アリーは、棚から一冊の絵本を取り出すと、ごろんと床にうつ伏せになる。

そのすぐ隣に、娘のミラが同じくうつ伏せになって絵本を覗き込む。

家に一冊しかない絵本。
それはミラ当人は知らないが、異母兄ランスロットがミルドレッド―――ラシェルがキンバリーと再婚し、後に生まれた異父妹―――に頼まれて贈ったものだ。

ミルドレッドお気に入りの、勇者「ランスロット」が主人公の物語である。

絵本をめくりながら、アリーは文字を読み上げる。それを隣にいるミラが、わくわくしながら聞き入っている。

「・・・竜の吐き出した息は、大きな炎になって人々を襲いました。そこに剣を手に現れたのは・・・」

「らんしゅろっと!」


絵本を読み上げるアリーの声を遮って、ミラが待ちきれずに勇者の名を叫ぶ。

それはだいぶ大声だったから、すぐ隣にいたアリーは結構な被害を受けたらしい。片耳を押さえて小さく呻いている。


「・・・すごいね、ミラ。よく覚えてるね。ええと、どこまで読んだっけ。ああ、ここね。
・・・そこに現れたのは、勇者ランスロットでした。手に持っていた大きな剣を構えたランスロットは、竜に向かって駆け出し・・・」


この光景を何も知らずに見る者は、アリーが10代半ばまで文字を知らずに育ったとは思わないだろう。

なかなか流暢に朗読できている。抑揚をつけ、声色まで変えて、聞いているミラはとてもご機嫌だ。

本当はミラに強請られ何度も読んで聞かせているうちに、ほぼ暗記してしまったというのが正解かもしれないが。



シロの街はそれなりに栄えており、街の中央には小さな図書館もある。だが、小さな図書館ゆえに本の数は少なく、絵本は一冊も置いていない。

どうしても欲しければ、街に一件だけある本屋に頼めば、取り寄せることも可能だ。
だが、本そのものが結構な値段なので、アリーにそのつもりはなく、ここ四年、この一冊ばかりを繰り返し読んできた。

金はそれなりにある筈なのに、アリーは先を見据えているのか、それとも手元の金が減るのが怖いのか、ケチとまでは言わないが、質素倹約の生活を送っている。


とはいえ、近所で子どもがいる家も、事情は似たようなものだった。わりと発展した街であるシロは、平民の識字率もそう低くない。
故に本や絵本がある家庭も、裕福な家ならそれなりに持っている。そんな家に伝手がある者は、貸し借りしあうのだ。

当然ながら、アリーにその伝手はない。

だから結局、アリーは、日々この絵本をミラに読んでやっている。そして、二人はそれで満足している。

なにしろ一番有名で人気があるのが、この物語で、ミラのお気に入りもこれなのだ。

たとえ、ミラが他の絵本を読んだことがないとしても、である。


「それでね、おひめしゃまをね、たすけにいくの!」


何度も何度も繰り返して聞いているから、もうミラもすっかり話を覚えたようだ。

よくこうして続きを先に口にしては、自慢げにする。


だが実は、アリーにとってもこの本は特別だった。

アリーがヘンドリックに攫われるようにして貧民街から連れ出された後、字を習いたいとアリーはヘンドリックに頼んだ。その時、先生が教材として使ったのが、この絵本だったから。


だけど、まさかその同じ本を我が子の読み聞かせに使う日が来るとは、その時は思いもしなかった。


「・・・お姫さまはランスロットのもとに走り寄り、怪我をした腕にそっとふれました・・・」


―――そういえば。


お話を読み上げながら、アリーはふと思った。

あたしは、ヘンディにお礼を言ったことがあっただろうか。

字を学べるように手配してくれたこと。
私を捨てずにシロまで連れてきてくれたこと。

―――結婚しようと言ってくれたこと。


「・・・」


結局、婚姻届は出さないで引き出しの奥に仕舞い込んだ。
それは、今もまだ処分できずにそこにしまってある。

今になって、あれは嫉妬だったのだろうか、とアリーは思う。

ヘンディが本当に感情が乱されるのは、あの人ラシェルにだけ。
それに気づかず、わざわざ離縁して弟に譲って、遠くの街まで引っ越して。
ずっと大事にしなかったくせに、あの人を手放した喪失感で一杯になって、けれどその気持ちにすら気づかなくて。
まるで失くしたものを埋めるかの様に婚姻届に記入して渡されて、『これでお前と結婚出来る』とか。


「・・・いやいや、違うでしょ。あたしだって、別にヘンディのこと好きじゃなかったんだから。そこは気にしなくて良かったよね。なによ、嫉妬って」

「まま? どしたの?」


いつの間にかに思考が口をついて言葉になっていたらしい。
不思議そうに見上げてきたミラに、アリーは手をぱたぱたと振って曖昧に笑った。


「あはは、なんでもない。ごめんね。ええと、どこまで読んだっけ・・・?」

「ないてるおひめさまを、らんしゅろっとがなぐさめるの!」

「ああ、そっかそっか。ここね。姫、もう大丈夫です。ランスロットは言いました・・・」




母娘で絵本を読むほのぼのとした風景を映す水鏡は、その胸中までもは映さない。

だからそれはあくまで、俺―――ヘンドリックにとって、ただ母と娘が仲良く床に転がって絵本を読んでいる風景だ。


その光景の中で、アリーが本当は何を思っているのか、幸せなのか不幸せなのか、今の生活満足しているのか不満があるのか、そんなことまでは伝わらない。

ただ、俺の前に、一冊の本を読みながら笑いあう母娘の光景が映し出されているだけだ。



水鏡は、俺が見たいものも、見たくないものも、容赦なく映し出す。 

少し前、俺が水鏡を通して知ったのは、アリーが俺との婚姻届けを出していなかったことだ。俺が署名をして渡したものを、そのまま引き出しに入れて放っていた。

アリーは俺を運命の相手などと思っていなかった。

危ない所を助けたつもりが、邪魔でしかなかった。

衣食住の為に、俺と一緒に住んでいた。

そして今日、アリーは俺のことを好きではなかったと言った。


俺は自身の理解との齟齬に驚いた。
それと同時に『ああまたか』と妙な既視感を覚える。

周りとの温度差を感じることなど、別に珍しくもない。

そうだ、よくあることだ。


ただこの時は、それがアリーだったという事が、少し苦かった。






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