あなたの愛など要りません

冬馬亮

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水鏡編

白の世界のヘンドリック

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「ふむ」


水面を覗き込む俺――ヘンドリックの横で、灰色のローブの男が小さな声で呟き、立ち上がる。

だが俺は動かず、そのままじっと、ただ水面を見つめる。

俺の視線の先にあるのは、もともとは小さな川もの。

けれど今のそれには水しぶき一つも立たず、ただ平らかに滑らかに、まるで水晶のように透き通った個体となっている。水面というより鏡面と言う言葉がぴったりのそれは、ローブの男の言葉を借りれば水鏡と言うらしい。

そうして今日、水鏡が映し出したのはラシェルの姿だ。

水鏡の向こうで、ラシェルは日記を書こうとペンを手に取る。

だが、ほんの数行ほど書いた後、何やら思考に耽り始めたのか、ラシェルはペンを手に持ったまま、ぼんやりしている。

そして、何かを思い出すたび眉尻を下げたり、眉間に皺を寄せたり、軽く微笑を浮かべたりと、くるくる表情を変えていく。

それらの表情のほとんどを見たことがないと思ってから、それもそうか、とまた俺は思い直す。

考えてみれば、これまでこうも長く、そして真っすぐにラシェルを見たことが、そもそもないのだ。

仮にも十五年近く夫婦であったというのに、俺とラシェルが共に過ごした日など一日もない。

だからだろうか。水鏡の向こうに当たり前のようにラシェルの姿があることが、なんとも奇妙で、不可思議で、居心地が悪く、心の中がざわざわと落ち着かない。

それでも、なぜか水鏡から目を離す気にはならないのだ。俺は、ローブの男が立ち上がった後も、まだ座り込んだままでいる。

離れがたい。

一体どうしてなのだろう、とても離れがたく感じるのは。

ラシェルが視界に映るだけで不愉快で堪らないのに、このままずっとここにいたいと、そう思ってしまうのは。


けれど突然、水鏡の表面がゆらりと揺れる。映し出されていたラシェルの姿も同じく揺れて、ゆらゆらゆらゆら、奇妙に歪む。

そうして、ゆっくりとラシェルの姿は消えていく。そして、水鏡はやがてただの水面に戻った。


「……っ」

「よかったじゃないか」


水鏡が消え、軽く息を呑む俺に、ローブの男が横から呑気に声をかける。

意味不明だ。見ている途中で水鏡が勝手に消えた。なのに、ローブの男はよかったと言う。

俺がぎろりと睨むような視線を向けると、男は軽く肩を竦めながら口を開く。


「お前との出会いは間違いじゃないって、そう言ってただろう?」

「……」


ローブの男のにやつきが若干気に障りながらも、俺は無言のまま、先ほどまで水鏡だったものへ視線を戻す。

今は小川に戻ったそれは、ちょろちょろと微かな音を立てて水が流れている。

どこからどう見てもただの小川であるそこに、もうラシェルの姿はない。

だが、確かにラシェルは言った。

俺との出会いが間違いのはずがないと。お蔭でランスロットが生まれたからと。


――それは、よかったのか……? 喜ぶところなのか……?


なんだろう、何かが気になる。頭の中で、何かが俺を苛立たせる。


――いや、今はそんなことより。


俺は思考を振り払うように、川の水面を指でさす。


「……それより、あれはどうなった。あれの姿がいきなり消えて、何も見えなくなったぞ」

「今日は終わりだ。放っておいたら七刻も見続けるとは、呆れてものも言えない」

「七刻?」

「水鏡が映すものが何度も変わっただろう? あれは、ラシェルの思考があちこちに飛んだからだ。中にはずいぶんと長いものもあったが……お前はそれを真面目にじっと見続けた」

「……そうか、七刻か。そんなに経っていたとは気づかなかった」

「まあ、お前はそういう奴だったよ。自己判断に任せた私が馬鹿だった。ということで、明日からは私が見る時間を区切る、いいか、一刻だ。一刻が経過したら水鏡は終わりだ」


ローブの男の偉そうな言い方に少しばかり腹が立つ。

だが、ここはこの男の世界であることを思い出し、堪えた。

一体どうやっているのかは知らないが、俺はこの男に呼ばれてここにいる。間違いなく俺の方が格下だろう。
騎士団で言うならローブの男が騎士団長で、俺は騎士団員。ならば上からの指示は絶対だ。


「……一刻だな。了解した」

「ほう、やけに素直だな」

「お前が長く見過ぎと言うのならそうなのだろう。この世界に住んでいる以上、お前の言うことは聞かねばなるまい」


俺の言葉に、ローブの男が首を傾げる。


「物分かりがいい上に、機嫌もよさそうだな。そんなに水鏡が気に入ったか」

「……まあな。今日見たものは、なかなか悪くなかった」

「ほう」


灰色のローブの男が、またしてもにやりと笑う。


「そうか、なかなか悪くなかったか。それは、久しぶりにあの子を見たからか? それとも、あの子がお前の功績を思い返していたからか?」

「……は?」


目を瞬く俺を気にする風もなく、ローブの男は言葉を続ける。


「あるいは、お前との出会いを結局は不可欠なものとラシェルが結論づけたからか。どっちにしろ、全部ラシェル絡みだなあ。まあ、どうせお前のことだから、いつもの右斜め上の感覚頼りで、本当のところは何も分かっちゃいないんだろうが」


――この男は、なにを言っている?


「……訳が分からない。お前は時々、意味の分からないことを口にする」

「ふむ、まだそのくらいか。まあ仕方ない」


ローブの男は、軽く肩を竦めてひとり納得すると、俺の問いに答えないまま言葉を続ける。


「ヘンドリック。お前はこれから先、どれだけの世界を、水鏡を通して見れば気づくんだろうな。どれくらいの時間をかければ、お前のその心のひびは塞がるだろうか」


意味が分からない。そして、聞いても答えを俺に返さない。

そこにさらに問いを重ねられては、俺が答えられる訳もない。

黙ったままでいる俺に、ローブの男は続ける。


「まあいい。まだ始まったばかりだ」


そう言って、男はきびすを返す。

灰色のローブが、ふわりと風で舞い上がる。


その後ろ姿を見て、俺は、この男に白の世界に初めて連れ込まれた日のことを思い出した。





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