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1巻
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◇ ◇ ◇
バームガウラス公爵家当主ヘンドリックの弟である私――キンバリーは、言いようのない焦燥感に駆られて本邸を訪れていた。これまで月に一度、本邸を訪れては甥のランスロットと交流してきたが、ここ最近の甥の様子に違和感を覚えたからだ。
ランスは兄上とラシェルの絆をつなぐ最後の希望だったように思う。
だが、子が生まれても兄上は変わらず、むしろ全く屋敷に戻らなくなった。
年を追うごとにますます兄上に似ていくランスの存在意義は、ラシェルの中では完璧に育て上げるべき後継者として変換されたらしい。その比重が日を追うごとに大きくなっていったのは、外部の人間である私が見ても明らかだった。
会えた時はなるべく外に連れ出して遊ぶようにしたものの、叔父にすぎない男の、それも月に一度の訪問くらいで何かが変わるはずもない。無力感とは裏腹に、甥を親身に世話していた乳母はいつの間にか解雇され、ランスのスケジュールはより過重に、より過酷なものになっていく。
そうして十歳を過ぎた頃、何かが大きく変わってしまった。
ランスは元々が大人しく表情も乏しい子だったが、今は能面のように凍りついた表情で、何の感情も見せない。しかも腕や足のあちこちに見えるのは大小の痣。
屋敷内の者たちに探りを入れてみても、使用人たちから満足のいく答えは得られない。使用人の誰かによる暴力も疑ったが、彼らはこれまでランスに親身に仕えており、最近になって使用人が入れ替わった事実もない。
考えすぎかとも思ったが、やがてランスの面差しにまで変化が現れた。
子ども特有のふくよかな頬が落ち、顔周りが少しずつ痩せてきたのだ。子どもから大人へと成長する段階で顔のラインが細くなるのはよくあることだが、まだ早すぎる気がした。ランスは来月で十二歳、まだ子どもらしい体型でいるほうがよほど自然だ。
しばらくすると、顔だけではなく腕や足までもが細くなってきていることに気付く。そんな甥を見て心配が募り、義姉ラシェルに面会を願う。
本来なら兄上に話を通すべきなのだろう、だが父親としての責務を放棄し、騎士団で会っても息子の名前すら口にしない彼に話しても意味はないと判断した。
……いや、違う。私には予感めいたものがあったのかもしれない。あの痣が使用人の誰かによる暴力の跡でないのなら、それはきっと、と。
「義姉上。ランスの腕や足に痣があったのだが、偶然の怪我にしては多すぎるような……」
「嫌ですわ、キンバリーさま。あれは躾です。あの子を汚れた色欲から遠ざけるために、必要な教育を施しているのです。ヘンドリックさまの言葉に従うべく、精一杯ランスロットを育てなければいけませんもの」
その時、ラシェルが何を考えていたかは想像しかできない。ただ、その答えを聞くに、彼女は最善の努力を払ったつもりでいたと分かる。
「……」
私は何を言えばいいのだろう。そもそもその資格があるのだろうか。
それは躾ではない、君は間違っている、母の愛情はそのようなものではないはず、そう言えばこの悲劇は終わるのだろうか。……本当にそれだけで?
結局、私は彼女に返す言葉を見つけられないまま、ただ頭を下げて退室した。
伯爵令嬢だった頃から頻繁に孤児院に慰問しに行くほど愛情深かった彼女が、あれほどに眩しい笑顔だった美しい人が、自分の息子を虐待してしまうまでに追いつめられている。海を切り取ったような青色の眼差しは、ひどく空虚で何も映していない。
そんな風に彼女を追いつめた張本人は、私の実の兄なのだ。
ランスを守らねばならない、けれど、助けが必要なのはラシェルもまた同じ。
私に何ができるだろうかと考えながらエントランスまで行くと、そこで甥が待っていた。
「ランス……すまなかったな」
気付くのが遅れたことへの謝罪をランスに伝え、急いで馬に跨る。
「後で迎えにくる」
そう言って、急く心のままに馬の腹を蹴った。
そうだ、騎士寮を出て家を借り、ランスをしばらく預かろう。ラシェルにも休む時間が必要だ。宿を取って数日しのいで、その間に家を探せばいい。
努力すればきっと良い方向へ変われると、まだその時の私は信じていたのだ。
「すまなかったな、レーベン。帰るところを呼び止めてしまって。急いでいたから助かったよ」
運良く道中で目当ての部下と遭遇した私は、隣で馬を並走させる部下のレーベンに謝意を告げる。
レーベンは鷹揚に首を横に振って、からからと笑う。
「構いませんよ。お袋も客が増えて喜ぶでしょうし。でも、副隊長は騎士団寮に住んでいるのに、どうしてまた突然うちが経営する宿なんかに? しかも長く借りたいだなんて」
「……団員ではない者を寮に住まわせる訳にはいかないからな。だから、私もお前のところの宿を借りて、しばらくそこで一緒に住むつもりだ」
「え?」
レーベンは口をぽかんと開けたまま、まじまじと私を見つめる。
「マジか……副隊長にも、とうとう春が」
「は?」
意味が分からず困惑する私に、レーベンはまた目を丸くする。
「……違うんですか? てっきり女ができたのかと」
「馬鹿なことを言うな。そんな人はいない……それに、私は一生独身でいるつもりだ」
その台詞を吐く時、胸がちくりと痛んだことを見て見ぬ振りをする。
そう、それが正解だ。あの人には既に夫がいる。どれだけ蔑ろにされようとも、十三年近く顔を合わせていなくても、心がぼろぼろに壊れてもなお、愛を捨てられないほどに強く想う人が、彼女にはいるのだ。
「じゃあ副隊長、女じゃないなら誰なんです?」
「……私の甥だ」
「……? あっ、まさか、あの、団長の……」
そこまで言いかけて、レーベンは口を噤む。
いくらレーベンがのんびりした性格でも、私の兄であり、私たちふたりの上司でもある人物の醜聞は耳に入っているらしい。
貧民街出身の女への愛に狂った公爵家当主。誰もが羨む美しい令嬢を妻としておきながら、新婚早々に愛人宅に入り浸った無神経な夫。
当主としての仕事を一切放棄し、十年以上前に生まれた実の息子の顔を一度しか見たことがない。息子の名前すら知らないのでは、と囁かれるほどの無関心ぶり。
兄上の圧倒的な強さを称える人たちが一定数いるものの、彼ら以外の下した評価は概ねそんなところだ。
……前はそんな人ではなかったのに。
確かに、以前から人付き合いが苦手なところはあった。口下手だし、お世辞も社交辞令もろくに口にしない、というかできない。融通が利かなくて、思い込みが激しくて、不器用。
しかし、いつだって物事に真摯に全力で取り組む人だった。両親や自分が笑いかけると、それに合わせてぎこちなく口角を上げる兄上が好きだった。騎士団長としての仕事も当主の執務がどれだけ忙しくても、手を抜くことなくきっちりとこなす。兄上の名声に憧れる数多くの令嬢たちからの秋波には目もくれない真面目な人だった。
そんな兄の印象が、ある日ガラリと変わったのは、貧民街での捕物の際、巻き込まれた通りすがりの少女――アリーに運命を感じた日だった。
理詰めの話を好み、何事にも理由を求める兄が、急に話が通じない人に変わってしまった。身分違いの恋に溺れているだけという見方もあったけれど、以前の兄に戻る気配はない。
それでも、いつか目が覚める日が来るのではと期待して待ってしまう。いつものように黙り込んで少しの間考えて、「なるほど、分かった。そういうことか」と言って、また昔の兄に戻ってくれるのではないかと。
そんな期待に反して、日を追うごとに恋人への執着が強くなっていく様子に、父上も母上も頭を抱えていた。王国一の英雄と称えられる兄上の代わりはいないのだ。
「副隊長、あの馬は……?」
思考の淵に沈んでいると、レーベンの声で我に返った。バームガウラス家の門をくぐり抜けると、見覚えのある馬がエントランス近くを闊歩している。
「あれは兄上の馬だ。なぜ……?」
いかにも急いで乗り捨てた風のその光景に、胸がざわつく。
「……団長もここにいらっしゃることがあるんですね」
レーベンの声が耳に届き、そんなはずはないと首を横に振る。そんなことはこれまでに一度もなかったのだ。
視線をさらに奥に向ければ、エントランス内がひどく慌ただしい。
……もし、兄上が今のランスを見たら……?
「……っ、副隊長?」
レーベンの声に応える時間も惜しく、私は無言で馬から降りると、そのままエントランスに駆ける。
――嫌な予感しかしなかった。
◇ ◆ ◇
叔父上のキンバリーを見送った僕――ランスロットは、そのままエントランスで誰もいない門の外をぼんやりと眺め続けた。もう少し話をしたかったのに、今日の叔父上はどこか慌てた様子で、いつもより早めに帰ってしまったことが残念だ。
叔父上はことあるごとに僕と母上を繋ごうとして、『ランス、君のお母さまは、子ども好きで優しい人なのだよ』や『君が生まれてくるのを、それはそれは楽しみにしていたんだ』など優しい言葉を口にする。
母上が僕のことを好きなはずはないのに、叔父上の話を聞いていると、そうかもしれないと思ってしまう自分がいる。そして、少しだけ心が温かくなるのだ。
僕は優しい叔父上が大好きだ。もの静かで、誠実で、努力家で、少し気弱なところがある叔父上。そんな叔父上は、口癖のように「兄上はすごい人」と僕に言う。その兄とは、もちろん僕の父上のことだ。
叔父上を信用しているけれど、正直その言葉だけは間違っていると思う。
確かに父上はこの国の騎士団長だし、十代の頃には既に功績を残していたと聞いているから、強いのは嘘ではないだろう。
でも、その「すごい人」である父上は、来月十二歳になる息子の僕に、まだ一度しか会いに来たことがない。なぜなら、愛人宅で暮らしているからだ。
……でも、別にいいんだ。もう、諦めたから。
門の外をぼんやりと眺めながら、僕は無意識に右の腰の辺りに手を伸ばす。
腰に提げているのは、半年前に叔父上がくれた子ども用の剣。護身用として常に腰に差しておくと良いと言われ、それ以来肌身離さず帯剣している。
プレゼントされたのと同時に、そろそろ剣術を学ぶ頃だと言って、叔父上は初歩的な訓練も始めてくれた。
剣に触れ、叔父上の温もりを思い出した僕の肩の力は自然と抜ける。
その時、通りから蹄の音が聞こえてきた。
「……叔父上?」
そう思い目線を上げると、現れたのは叔父上とは違う髪色の男。……僕と同じ黒色で赤い眼。
「お前がランスロットか」
髪や眼だけでなく顔立ちまでそっくりで、初めて見る顔なのに目の前の人物が誰なのかがすぐに分かる。
「そろそろ十二になるだろう。騎士団の訓練に参加させようと思い、寄ったのだが……」
およそ十二年ぶりに会う息子に挨拶のひとつもなく要件を切り出した父上は、言葉の途中で口を噤む。
全身に降り注ぐ不躾な視線に居心地の悪さを感じ、僕は微かに身じろいだ。
「なぜそんなに痩せている? 食事はどうしているのだ? それに、その痣はどうした」
別に答えは求めていないらしく、父上は問いをひとり呟く。
「あの魔女め。子育てひとつまともにできないのか。大切な跡取りに乱暴を働くとは」
勢い良く馬から降りると、そのままエントランスに入っていく。その時、十二年ぶりに帰還した当主に気付いたのは、偶然そこに居合わせたメイドひとりだけ。
父上はそのメイドに声をかけることなく、ずかずかと中へ進む。慌てたメイドは執事の元に報告しに走るが、父上はそれも待たず階段に足をかける。
乱暴に階段を駆け上がる父上の姿を、僕は呆然と見ていた。やがて、父上がどこに行くつもりなのかに気付き、慌ててその背を追う。
果たして、二階の廊下の先、母上の部屋の扉が開いていた。
「役立たずがっ! お前がいてはあの子のためにならんっ!」
激昂した父上らしき声が、僕のいるところにまで響いてきた。
「……っ」
いつか誰かが口にするかもしれない、と予想していた台詞。
けれど、それが父上から出たことが許せなかった。湧き上がる怒りのままに廊下を駆け抜け、母上の部屋に飛び込む。
「母上……っ!」
見れば、父上が腰に提げていた剣を抜き、母上に振りかざしているではないか。
僕の声に驚いたのか、父上の気は一瞬逸れる。勢いでそのまま振り下ろされた剣は母上の肩に沈んだ。怒りに燃えた僕は思わず叫ぶ。
「役立たずなどと言うな……っ! 母上を壊した貴様が……貴様が、言うなっ!」
なぜそれをお前が言うのだ、よりによってお前が。お前だけは、それを言ってはいけない。なのにどうして。
「壊す……? 馬鹿な、会ってもいないのに壊せるはずがない。そもそも、壊さないために俺は離れていたのに」
僕は腰に提げていた剣を抜き、父上の背に思い切り突き立てる。
獣のような呻き声を上げる男の表情は見えない。でも切り付けられた母上の顔はよく見えた。
驚きで見開いた海の色の瞳は、僕を真っすぐに映している。
そう、母上は驚いていたのだ。自分が切られたことにではなく、息子が自分を助けようとしたことに。
けれど所詮は子ども用の剣で、子どもの力。思い切り刺しても、さほど深い傷にもならない。
小さな剣を背に刺したまま父上は僕に向き直り、母上の血が付いた剣を振り上げた。
「この……愚か者がっ!」
すさまじい勢いで振り下ろされる剣に、僕は目を瞑ることもできず、その場に立ち尽くす。
刹那、視界に人の影が映り、僕を覆う。そして血しぶきが飛び散った。
しかし、それは僕の血ではなかった。
僕の痩せ細った体をしっかりと抱え込んだその人は。
「は、は……うえ……」
僕の目に、信じられない光景が映る。
何度も何度も夢に見た、自分を抱きしめる母上の姿。けれど、美しい母上の背中からは血がどくどくと流れている。
「……私は……間違えたのね……大切なのは、あの人ではなくて……ランスロット、あなただった……の、に……」
母上の声はたどたどしく、力はない。
嫌だ、嘘だと叫びたいのに、からからの喉は何も音を出せない。
「ランスロット、ごめん……なさ……」
そう言って、母上が最後に見せてくれたのは、僕が初めて見る柔らかな微笑みで。
「……嘘だ。……嘘だ、噓だ!」
僕を庇い、背中を切り裂かれて倒れる母上を、ただ必死に抱き止めた。
◇ ◇ ◇
私――キンバリーが慌てて階段を駆け上がり、ラシェルの部屋に飛び込むと、まず目に入ったのは、血しぶきを浴び、悲愴な表情を浮かべたランスの顔。目は見開かれ、その腕はしっかりと母を支えようとラシェルの体に回されている。
そして、ランスが抱きしめる彼女の背中と肩には剣で切られた痕があった。
まだ幼さの残る少年の体では、小柄とはいえ成人女性の体を支えることなど到底できるはずもなく、ラシェルとランスは、ずるずるとへたり込むようにして絨毯の上に腰を下ろす。
鮮明な赤が、彼女の背からどくどくと流れ出て、回されたランスの腕もまた、鮮血に染まっていく。こんな時でさえ美しい彼女に、私の胸はどうしようもない痛みを覚えた。
「ごめん……なさ……」
ラシェルは最期に息子に謝罪の言葉を告げ、艶やかに微笑む。対照的に、ランスの眼は悲愴に染まり、水晶のように透き通った雫がぽたぽたと深紅の眼から零れ落ちる。
捨てたはずの母性を最期の瞬間に取り戻したラシェルの瞼が、ゆっくりと閉じられていくのが見えた。
私は思わず一歩、前に踏み出す。
……ずっと好きだった、あなたを守りたかった。
最初に見かけたのはいつだったろうか。
孤児院の慰問、市場での炊き出し、教会のチャリティー、会場の警護や街中での巡回中。騎士団に所属する身として、人が集まる場に駆り出されるのはよくあることで、そうして出向いた先で、福祉関連のイベントがある時には必ずと言って良いほど見かける少女がいた。
最初にその少女に目が留まったのは、その場にいる人たちの中で、彼女が最も輝いていたからだ。
簡素なワンピース姿で走り回る彼女を初めて見た瞬間に、なんて綺麗な子だろうと思った。彼女が見せる微笑みは、誰よりも優しく、美しかった。
気がつけば、私の目はいつも彼女を探していた。名前も知らない、家名ももちろん分からない。けれど、見つけ出そうとは思わなかった。遠目に彼女の姿を見るだけで満足だったのだ。
そんな時に孤児院の事件が起きた。運悪く巻き込まれたのは慰問で孤児院を訪れていたあの少女で、彼女を救い出したのは私ではなく兄上だった。剣を振るうことなく素手で七人もの破落戸を拘束した兄上に、当たり前のように彼女は恋をした。後に兄の妻となったその人に、ただの親族にすぎない私は何も望んではいけないと、想いを心の中に深くしまい込んだのだ。
彼女が幸せに笑えればいい、たとえその幸せを与えるのが私ではなくても。
だけど、こんな風に壊れてしまうのなら、こんな形で逝ってしまうことになると知っていたのなら。
ああ、奪ってしまえば良かったのだ。兄のように貴族としての義務も責務も放り出し、ただラシェルとランスと三人でどこかへ逃げてしまえば良かった。たとえ男として見てもらえなくても、私に何の想いも向けられなくても、彼女が生きていてくれれば、生きてさえいてくれるのならば、それで良かったのに。
「……っ、あ、うあああああぁぁぁっ!」
自分から発せられたとは信じられないほどの、獣にも似た叫びが喉から溢れる。
それとほぼ時を同じくして、廊下から複数の足音が聞こえてきた。惨憺たる現状を目の当たりにして、レーベンや使用人たちは声にならない悲鳴を上げる。
気付けば腰の剣に手をかけていた私は、ぐっと堪えて手を剣から離し大きく息を吐いた。
「レーベン、応援を呼んできてくれ」
レーベンはすぐに走ったが、馬で騎士団本部、もしくは王都内の各所にある詰所のどれかに向かったとして半刻はかかるだろう。
私は扉の近くで真っ青な顔をして立ちつくす執事に、公爵家の私兵を呼ぶよう指示を出した。
本心を言うなら、今すぐラシェルとランスの元に駆け寄り、子どものようにみっともなく大声で泣き喚きたかった。
だが、状況はそれを許さない。今この場で動けるのは、その権限があるのは私だけ。
ラシェルとランスの横を通り過ぎ、膝をついたまま呆然と涙を零す兄上に近づく。兄の涙を初めて見たことに気付く余裕など私にはない。
「……兄上。バームガウラス公爵夫人殺害、および公爵子息殺害未遂の罪であなたを捕縛します」
私の声はみっともなく震え、気付けば涙までぽたぽたと溢れ落ちていた。エントランスに私兵が到着したのだろうか。複数の声が遠くから聞こえるのがどこか他人事のようだ。
虚ろな表情で涙を流し続ける兄上は、抵抗する素振りもなくあっさりと拘束され、連行されていく。
こうして私の兄、ヘンドリック・バームガウラスは、自身の妻殺害、および息子の殺害未遂という大罪のもとに投獄される――はずだった。
しかし、牢へと連行する途中、兄上は騎士たちの隙を突いて姿を消した。
そして間もなく、逃走を謀った場所からほんの少し離れた時計塔の近くの草むらで兄上の遺体が発見されたのだ。頭から血を流し、うつ伏せに倒れていた状況から見て、逃げたその足で時計塔の天辺に登り、そこから飛び降りたと考えられた。
その二日後には、兄上が長年大切に囲っていた運命の恋の相手――アリーの遺体が川で発見される。裏社会の仕業という意見も出たが、自殺か他殺かは判断がつかなかった。
自領の別邸にて長子の起こした事件について知った父上はその場で自害、前公爵夫人である母上はショックで気を失い、そのまま床に臥すようになる。
その後、バームガウラス家は降爵されて伯爵位となり、当主に僅か十二歳のランスが立つことになった。私は醜聞まみれのバームガウラス家を背負わされたランスの後見として、奔走することになる。
あの日、バームガウラス公爵家の大小様々な歪みが、一気に結実したかのようにして起きた凄惨な事件。貴族たちはもちろん、民にも衝撃を与えたこの事件は、瞬く間に王国全土へと広まり、長く時を経てもなお人々の記憶に残り続けた。
歴史あるバームガウラス公爵家の威信が根底から崩れた日だった。
バームガウラス公爵家当主ヘンドリックの弟である私――キンバリーは、言いようのない焦燥感に駆られて本邸を訪れていた。これまで月に一度、本邸を訪れては甥のランスロットと交流してきたが、ここ最近の甥の様子に違和感を覚えたからだ。
ランスは兄上とラシェルの絆をつなぐ最後の希望だったように思う。
だが、子が生まれても兄上は変わらず、むしろ全く屋敷に戻らなくなった。
年を追うごとにますます兄上に似ていくランスの存在意義は、ラシェルの中では完璧に育て上げるべき後継者として変換されたらしい。その比重が日を追うごとに大きくなっていったのは、外部の人間である私が見ても明らかだった。
会えた時はなるべく外に連れ出して遊ぶようにしたものの、叔父にすぎない男の、それも月に一度の訪問くらいで何かが変わるはずもない。無力感とは裏腹に、甥を親身に世話していた乳母はいつの間にか解雇され、ランスのスケジュールはより過重に、より過酷なものになっていく。
そうして十歳を過ぎた頃、何かが大きく変わってしまった。
ランスは元々が大人しく表情も乏しい子だったが、今は能面のように凍りついた表情で、何の感情も見せない。しかも腕や足のあちこちに見えるのは大小の痣。
屋敷内の者たちに探りを入れてみても、使用人たちから満足のいく答えは得られない。使用人の誰かによる暴力も疑ったが、彼らはこれまでランスに親身に仕えており、最近になって使用人が入れ替わった事実もない。
考えすぎかとも思ったが、やがてランスの面差しにまで変化が現れた。
子ども特有のふくよかな頬が落ち、顔周りが少しずつ痩せてきたのだ。子どもから大人へと成長する段階で顔のラインが細くなるのはよくあることだが、まだ早すぎる気がした。ランスは来月で十二歳、まだ子どもらしい体型でいるほうがよほど自然だ。
しばらくすると、顔だけではなく腕や足までもが細くなってきていることに気付く。そんな甥を見て心配が募り、義姉ラシェルに面会を願う。
本来なら兄上に話を通すべきなのだろう、だが父親としての責務を放棄し、騎士団で会っても息子の名前すら口にしない彼に話しても意味はないと判断した。
……いや、違う。私には予感めいたものがあったのかもしれない。あの痣が使用人の誰かによる暴力の跡でないのなら、それはきっと、と。
「義姉上。ランスの腕や足に痣があったのだが、偶然の怪我にしては多すぎるような……」
「嫌ですわ、キンバリーさま。あれは躾です。あの子を汚れた色欲から遠ざけるために、必要な教育を施しているのです。ヘンドリックさまの言葉に従うべく、精一杯ランスロットを育てなければいけませんもの」
その時、ラシェルが何を考えていたかは想像しかできない。ただ、その答えを聞くに、彼女は最善の努力を払ったつもりでいたと分かる。
「……」
私は何を言えばいいのだろう。そもそもその資格があるのだろうか。
それは躾ではない、君は間違っている、母の愛情はそのようなものではないはず、そう言えばこの悲劇は終わるのだろうか。……本当にそれだけで?
結局、私は彼女に返す言葉を見つけられないまま、ただ頭を下げて退室した。
伯爵令嬢だった頃から頻繁に孤児院に慰問しに行くほど愛情深かった彼女が、あれほどに眩しい笑顔だった美しい人が、自分の息子を虐待してしまうまでに追いつめられている。海を切り取ったような青色の眼差しは、ひどく空虚で何も映していない。
そんな風に彼女を追いつめた張本人は、私の実の兄なのだ。
ランスを守らねばならない、けれど、助けが必要なのはラシェルもまた同じ。
私に何ができるだろうかと考えながらエントランスまで行くと、そこで甥が待っていた。
「ランス……すまなかったな」
気付くのが遅れたことへの謝罪をランスに伝え、急いで馬に跨る。
「後で迎えにくる」
そう言って、急く心のままに馬の腹を蹴った。
そうだ、騎士寮を出て家を借り、ランスをしばらく預かろう。ラシェルにも休む時間が必要だ。宿を取って数日しのいで、その間に家を探せばいい。
努力すればきっと良い方向へ変われると、まだその時の私は信じていたのだ。
「すまなかったな、レーベン。帰るところを呼び止めてしまって。急いでいたから助かったよ」
運良く道中で目当ての部下と遭遇した私は、隣で馬を並走させる部下のレーベンに謝意を告げる。
レーベンは鷹揚に首を横に振って、からからと笑う。
「構いませんよ。お袋も客が増えて喜ぶでしょうし。でも、副隊長は騎士団寮に住んでいるのに、どうしてまた突然うちが経営する宿なんかに? しかも長く借りたいだなんて」
「……団員ではない者を寮に住まわせる訳にはいかないからな。だから、私もお前のところの宿を借りて、しばらくそこで一緒に住むつもりだ」
「え?」
レーベンは口をぽかんと開けたまま、まじまじと私を見つめる。
「マジか……副隊長にも、とうとう春が」
「は?」
意味が分からず困惑する私に、レーベンはまた目を丸くする。
「……違うんですか? てっきり女ができたのかと」
「馬鹿なことを言うな。そんな人はいない……それに、私は一生独身でいるつもりだ」
その台詞を吐く時、胸がちくりと痛んだことを見て見ぬ振りをする。
そう、それが正解だ。あの人には既に夫がいる。どれだけ蔑ろにされようとも、十三年近く顔を合わせていなくても、心がぼろぼろに壊れてもなお、愛を捨てられないほどに強く想う人が、彼女にはいるのだ。
「じゃあ副隊長、女じゃないなら誰なんです?」
「……私の甥だ」
「……? あっ、まさか、あの、団長の……」
そこまで言いかけて、レーベンは口を噤む。
いくらレーベンがのんびりした性格でも、私の兄であり、私たちふたりの上司でもある人物の醜聞は耳に入っているらしい。
貧民街出身の女への愛に狂った公爵家当主。誰もが羨む美しい令嬢を妻としておきながら、新婚早々に愛人宅に入り浸った無神経な夫。
当主としての仕事を一切放棄し、十年以上前に生まれた実の息子の顔を一度しか見たことがない。息子の名前すら知らないのでは、と囁かれるほどの無関心ぶり。
兄上の圧倒的な強さを称える人たちが一定数いるものの、彼ら以外の下した評価は概ねそんなところだ。
……前はそんな人ではなかったのに。
確かに、以前から人付き合いが苦手なところはあった。口下手だし、お世辞も社交辞令もろくに口にしない、というかできない。融通が利かなくて、思い込みが激しくて、不器用。
しかし、いつだって物事に真摯に全力で取り組む人だった。両親や自分が笑いかけると、それに合わせてぎこちなく口角を上げる兄上が好きだった。騎士団長としての仕事も当主の執務がどれだけ忙しくても、手を抜くことなくきっちりとこなす。兄上の名声に憧れる数多くの令嬢たちからの秋波には目もくれない真面目な人だった。
そんな兄の印象が、ある日ガラリと変わったのは、貧民街での捕物の際、巻き込まれた通りすがりの少女――アリーに運命を感じた日だった。
理詰めの話を好み、何事にも理由を求める兄が、急に話が通じない人に変わってしまった。身分違いの恋に溺れているだけという見方もあったけれど、以前の兄に戻る気配はない。
それでも、いつか目が覚める日が来るのではと期待して待ってしまう。いつものように黙り込んで少しの間考えて、「なるほど、分かった。そういうことか」と言って、また昔の兄に戻ってくれるのではないかと。
そんな期待に反して、日を追うごとに恋人への執着が強くなっていく様子に、父上も母上も頭を抱えていた。王国一の英雄と称えられる兄上の代わりはいないのだ。
「副隊長、あの馬は……?」
思考の淵に沈んでいると、レーベンの声で我に返った。バームガウラス家の門をくぐり抜けると、見覚えのある馬がエントランス近くを闊歩している。
「あれは兄上の馬だ。なぜ……?」
いかにも急いで乗り捨てた風のその光景に、胸がざわつく。
「……団長もここにいらっしゃることがあるんですね」
レーベンの声が耳に届き、そんなはずはないと首を横に振る。そんなことはこれまでに一度もなかったのだ。
視線をさらに奥に向ければ、エントランス内がひどく慌ただしい。
……もし、兄上が今のランスを見たら……?
「……っ、副隊長?」
レーベンの声に応える時間も惜しく、私は無言で馬から降りると、そのままエントランスに駆ける。
――嫌な予感しかしなかった。
◇ ◆ ◇
叔父上のキンバリーを見送った僕――ランスロットは、そのままエントランスで誰もいない門の外をぼんやりと眺め続けた。もう少し話をしたかったのに、今日の叔父上はどこか慌てた様子で、いつもより早めに帰ってしまったことが残念だ。
叔父上はことあるごとに僕と母上を繋ごうとして、『ランス、君のお母さまは、子ども好きで優しい人なのだよ』や『君が生まれてくるのを、それはそれは楽しみにしていたんだ』など優しい言葉を口にする。
母上が僕のことを好きなはずはないのに、叔父上の話を聞いていると、そうかもしれないと思ってしまう自分がいる。そして、少しだけ心が温かくなるのだ。
僕は優しい叔父上が大好きだ。もの静かで、誠実で、努力家で、少し気弱なところがある叔父上。そんな叔父上は、口癖のように「兄上はすごい人」と僕に言う。その兄とは、もちろん僕の父上のことだ。
叔父上を信用しているけれど、正直その言葉だけは間違っていると思う。
確かに父上はこの国の騎士団長だし、十代の頃には既に功績を残していたと聞いているから、強いのは嘘ではないだろう。
でも、その「すごい人」である父上は、来月十二歳になる息子の僕に、まだ一度しか会いに来たことがない。なぜなら、愛人宅で暮らしているからだ。
……でも、別にいいんだ。もう、諦めたから。
門の外をぼんやりと眺めながら、僕は無意識に右の腰の辺りに手を伸ばす。
腰に提げているのは、半年前に叔父上がくれた子ども用の剣。護身用として常に腰に差しておくと良いと言われ、それ以来肌身離さず帯剣している。
プレゼントされたのと同時に、そろそろ剣術を学ぶ頃だと言って、叔父上は初歩的な訓練も始めてくれた。
剣に触れ、叔父上の温もりを思い出した僕の肩の力は自然と抜ける。
その時、通りから蹄の音が聞こえてきた。
「……叔父上?」
そう思い目線を上げると、現れたのは叔父上とは違う髪色の男。……僕と同じ黒色で赤い眼。
「お前がランスロットか」
髪や眼だけでなく顔立ちまでそっくりで、初めて見る顔なのに目の前の人物が誰なのかがすぐに分かる。
「そろそろ十二になるだろう。騎士団の訓練に参加させようと思い、寄ったのだが……」
およそ十二年ぶりに会う息子に挨拶のひとつもなく要件を切り出した父上は、言葉の途中で口を噤む。
全身に降り注ぐ不躾な視線に居心地の悪さを感じ、僕は微かに身じろいだ。
「なぜそんなに痩せている? 食事はどうしているのだ? それに、その痣はどうした」
別に答えは求めていないらしく、父上は問いをひとり呟く。
「あの魔女め。子育てひとつまともにできないのか。大切な跡取りに乱暴を働くとは」
勢い良く馬から降りると、そのままエントランスに入っていく。その時、十二年ぶりに帰還した当主に気付いたのは、偶然そこに居合わせたメイドひとりだけ。
父上はそのメイドに声をかけることなく、ずかずかと中へ進む。慌てたメイドは執事の元に報告しに走るが、父上はそれも待たず階段に足をかける。
乱暴に階段を駆け上がる父上の姿を、僕は呆然と見ていた。やがて、父上がどこに行くつもりなのかに気付き、慌ててその背を追う。
果たして、二階の廊下の先、母上の部屋の扉が開いていた。
「役立たずがっ! お前がいてはあの子のためにならんっ!」
激昂した父上らしき声が、僕のいるところにまで響いてきた。
「……っ」
いつか誰かが口にするかもしれない、と予想していた台詞。
けれど、それが父上から出たことが許せなかった。湧き上がる怒りのままに廊下を駆け抜け、母上の部屋に飛び込む。
「母上……っ!」
見れば、父上が腰に提げていた剣を抜き、母上に振りかざしているではないか。
僕の声に驚いたのか、父上の気は一瞬逸れる。勢いでそのまま振り下ろされた剣は母上の肩に沈んだ。怒りに燃えた僕は思わず叫ぶ。
「役立たずなどと言うな……っ! 母上を壊した貴様が……貴様が、言うなっ!」
なぜそれをお前が言うのだ、よりによってお前が。お前だけは、それを言ってはいけない。なのにどうして。
「壊す……? 馬鹿な、会ってもいないのに壊せるはずがない。そもそも、壊さないために俺は離れていたのに」
僕は腰に提げていた剣を抜き、父上の背に思い切り突き立てる。
獣のような呻き声を上げる男の表情は見えない。でも切り付けられた母上の顔はよく見えた。
驚きで見開いた海の色の瞳は、僕を真っすぐに映している。
そう、母上は驚いていたのだ。自分が切られたことにではなく、息子が自分を助けようとしたことに。
けれど所詮は子ども用の剣で、子どもの力。思い切り刺しても、さほど深い傷にもならない。
小さな剣を背に刺したまま父上は僕に向き直り、母上の血が付いた剣を振り上げた。
「この……愚か者がっ!」
すさまじい勢いで振り下ろされる剣に、僕は目を瞑ることもできず、その場に立ち尽くす。
刹那、視界に人の影が映り、僕を覆う。そして血しぶきが飛び散った。
しかし、それは僕の血ではなかった。
僕の痩せ細った体をしっかりと抱え込んだその人は。
「は、は……うえ……」
僕の目に、信じられない光景が映る。
何度も何度も夢に見た、自分を抱きしめる母上の姿。けれど、美しい母上の背中からは血がどくどくと流れている。
「……私は……間違えたのね……大切なのは、あの人ではなくて……ランスロット、あなただった……の、に……」
母上の声はたどたどしく、力はない。
嫌だ、嘘だと叫びたいのに、からからの喉は何も音を出せない。
「ランスロット、ごめん……なさ……」
そう言って、母上が最後に見せてくれたのは、僕が初めて見る柔らかな微笑みで。
「……嘘だ。……嘘だ、噓だ!」
僕を庇い、背中を切り裂かれて倒れる母上を、ただ必死に抱き止めた。
◇ ◇ ◇
私――キンバリーが慌てて階段を駆け上がり、ラシェルの部屋に飛び込むと、まず目に入ったのは、血しぶきを浴び、悲愴な表情を浮かべたランスの顔。目は見開かれ、その腕はしっかりと母を支えようとラシェルの体に回されている。
そして、ランスが抱きしめる彼女の背中と肩には剣で切られた痕があった。
まだ幼さの残る少年の体では、小柄とはいえ成人女性の体を支えることなど到底できるはずもなく、ラシェルとランスは、ずるずるとへたり込むようにして絨毯の上に腰を下ろす。
鮮明な赤が、彼女の背からどくどくと流れ出て、回されたランスの腕もまた、鮮血に染まっていく。こんな時でさえ美しい彼女に、私の胸はどうしようもない痛みを覚えた。
「ごめん……なさ……」
ラシェルは最期に息子に謝罪の言葉を告げ、艶やかに微笑む。対照的に、ランスの眼は悲愴に染まり、水晶のように透き通った雫がぽたぽたと深紅の眼から零れ落ちる。
捨てたはずの母性を最期の瞬間に取り戻したラシェルの瞼が、ゆっくりと閉じられていくのが見えた。
私は思わず一歩、前に踏み出す。
……ずっと好きだった、あなたを守りたかった。
最初に見かけたのはいつだったろうか。
孤児院の慰問、市場での炊き出し、教会のチャリティー、会場の警護や街中での巡回中。騎士団に所属する身として、人が集まる場に駆り出されるのはよくあることで、そうして出向いた先で、福祉関連のイベントがある時には必ずと言って良いほど見かける少女がいた。
最初にその少女に目が留まったのは、その場にいる人たちの中で、彼女が最も輝いていたからだ。
簡素なワンピース姿で走り回る彼女を初めて見た瞬間に、なんて綺麗な子だろうと思った。彼女が見せる微笑みは、誰よりも優しく、美しかった。
気がつけば、私の目はいつも彼女を探していた。名前も知らない、家名ももちろん分からない。けれど、見つけ出そうとは思わなかった。遠目に彼女の姿を見るだけで満足だったのだ。
そんな時に孤児院の事件が起きた。運悪く巻き込まれたのは慰問で孤児院を訪れていたあの少女で、彼女を救い出したのは私ではなく兄上だった。剣を振るうことなく素手で七人もの破落戸を拘束した兄上に、当たり前のように彼女は恋をした。後に兄の妻となったその人に、ただの親族にすぎない私は何も望んではいけないと、想いを心の中に深くしまい込んだのだ。
彼女が幸せに笑えればいい、たとえその幸せを与えるのが私ではなくても。
だけど、こんな風に壊れてしまうのなら、こんな形で逝ってしまうことになると知っていたのなら。
ああ、奪ってしまえば良かったのだ。兄のように貴族としての義務も責務も放り出し、ただラシェルとランスと三人でどこかへ逃げてしまえば良かった。たとえ男として見てもらえなくても、私に何の想いも向けられなくても、彼女が生きていてくれれば、生きてさえいてくれるのならば、それで良かったのに。
「……っ、あ、うあああああぁぁぁっ!」
自分から発せられたとは信じられないほどの、獣にも似た叫びが喉から溢れる。
それとほぼ時を同じくして、廊下から複数の足音が聞こえてきた。惨憺たる現状を目の当たりにして、レーベンや使用人たちは声にならない悲鳴を上げる。
気付けば腰の剣に手をかけていた私は、ぐっと堪えて手を剣から離し大きく息を吐いた。
「レーベン、応援を呼んできてくれ」
レーベンはすぐに走ったが、馬で騎士団本部、もしくは王都内の各所にある詰所のどれかに向かったとして半刻はかかるだろう。
私は扉の近くで真っ青な顔をして立ちつくす執事に、公爵家の私兵を呼ぶよう指示を出した。
本心を言うなら、今すぐラシェルとランスの元に駆け寄り、子どものようにみっともなく大声で泣き喚きたかった。
だが、状況はそれを許さない。今この場で動けるのは、その権限があるのは私だけ。
ラシェルとランスの横を通り過ぎ、膝をついたまま呆然と涙を零す兄上に近づく。兄の涙を初めて見たことに気付く余裕など私にはない。
「……兄上。バームガウラス公爵夫人殺害、および公爵子息殺害未遂の罪であなたを捕縛します」
私の声はみっともなく震え、気付けば涙までぽたぽたと溢れ落ちていた。エントランスに私兵が到着したのだろうか。複数の声が遠くから聞こえるのがどこか他人事のようだ。
虚ろな表情で涙を流し続ける兄上は、抵抗する素振りもなくあっさりと拘束され、連行されていく。
こうして私の兄、ヘンドリック・バームガウラスは、自身の妻殺害、および息子の殺害未遂という大罪のもとに投獄される――はずだった。
しかし、牢へと連行する途中、兄上は騎士たちの隙を突いて姿を消した。
そして間もなく、逃走を謀った場所からほんの少し離れた時計塔の近くの草むらで兄上の遺体が発見されたのだ。頭から血を流し、うつ伏せに倒れていた状況から見て、逃げたその足で時計塔の天辺に登り、そこから飛び降りたと考えられた。
その二日後には、兄上が長年大切に囲っていた運命の恋の相手――アリーの遺体が川で発見される。裏社会の仕業という意見も出たが、自殺か他殺かは判断がつかなかった。
自領の別邸にて長子の起こした事件について知った父上はその場で自害、前公爵夫人である母上はショックで気を失い、そのまま床に臥すようになる。
その後、バームガウラス家は降爵されて伯爵位となり、当主に僅か十二歳のランスが立つことになった。私は醜聞まみれのバームガウラス家を背負わされたランスの後見として、奔走することになる。
あの日、バームガウラス公爵家の大小様々な歪みが、一気に結実したかのようにして起きた凄惨な事件。貴族たちはもちろん、民にも衝撃を与えたこの事件は、瞬く間に王国全土へと広まり、長く時を経てもなお人々の記憶に残り続けた。
歴史あるバームガウラス公爵家の威信が根底から崩れた日だった。
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