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詮のない呟き
しおりを挟むその頃、ラシェルは離れの義母を訪っていた。
夕食の席で義母ルイスの食欲が少し落ちていた為、口当たりの良いハーブ水を用意して、ラシェル自ら届けに行ったのだ。
ヴィオレッタを迎える準備を手伝ってくれているルイスへの、せめてもの気持ちである。
離れから本邸に戻り、エントランスから階段へと差しかかったところで、ラシェルはふと足を止めた。
踊り場から上に向かう壁一面、吹き抜けとなっているそこには、バームガウラスの歴代当主夫妻の肖像画が掛けられている。
現当主の絵だけは位置が決まっていて、エントランスの真正面に掛けられるのだが、それ以外は壁一面にランダムに飾られる。
ラシェルはその中の一枚、並ぶ多くの絵の中で少し異質なそれへと目をやった。
前当主ヘンドリック、そう、ラシェルの最初の夫の肖像画だ。
歴代の肖像画は、ヘンドリックのそれを除けば全て当主夫妻の姿が描かれている。描かれた年齢層は異なれど、二人の姿絵なのだ。
当主一人だけが描かれた肖像画は、ヘンドリックだけ。それ故に、他の肖像画に埋没する事なく、独特の存在感を放っている。
いや、正確に言うと、現当主であるランスロットの肖像画が飾られていた時は、そちらの方に目が行っていた。
それもまたランスロット一人の肖像画で、しかも描かれているのが彼が12歳で当主の座についたばかりの、まだあどけなさが残る少年の姿だったから。
だがその絵も、婚姻が整い次第夫婦の肖像画に代えるという事で、今日の午後取り外されたばかり。
だから余計にヘンドリック一人の肖像画に目が行ったのだろうか。
ランスロットとヴィオレッタの二人を描いた絵が飾られる様になれば、ヘンドリックの肖像画の醸し出す違和感は更に大きくなるのかもしれない。
だとしても、ヘンドリックとラシェル二人の姿を描いた絵など一枚も存在しない。以前、画家に依頼して肖像画にラシェルの絵を描き足すという案も出たのだが、それはラシェルが辞退した。
そこまでして、体裁を整える必要はないと思ったからだ。
「・・・結婚して一日も同じ屋敷で過ごした事がない夫婦なのに、肖像画でだけ仲が良い振りをするのも変だものね・・・」
小さな呟き。だが、ガランとした広いエントランスホールに妙に響いた。
描かれているヘンドリックの姿は、恐らくは当主になったばかりの頃に描かれたのだろう。厳しい顔と鋭い目つき、むすっと引き結んだ口元は、ラシェルの記憶にある通りのものだ。
「そういえば私は、最後までヘンドリックさまの笑った顔を見たことがなかったのね・・・」
若い、苦い思い出がラシェルの脳裏に蘇り、思わず苦笑する。
婚姻していた年数はそれなりにあったのに、婚約期間を含めても、実際に顔を合わせた回数は驚くほど少ない。
本当なら、肖像画は時を経て増えていく筈だった。
結婚して夫婦になった時、子どもが生まれ家族が増えた時。
そんな節目の折々に描いていく肖像画の枚数と共に、絵の中に描かれる人物の数も増えていく筈で。
そんな沢山の肖像画の中から、一枚を選んでこの壁に飾る、そう、その筈だった。
「・・・」
ラシェルは緩く頭を振る。
「そんな絵を残したくなかったから、屋敷に帰って来なかったのよ。ヘンドリックさまは、私では駄目だったのだもの」
ラシェルは小さく息を吐き、心を落ち着けた。
そしてもう一度、今度は決意を込めて肖像画を見上げる。
「ヘンドリックさま・・・」
人生を狂わすほどに恋い焦がれた、かつての夫の名前を小声で呼ぶ。
「あの子が・・・ランスロットが、お嫁さんをもらいます。政略で結ばれる妻ではなく、本当に心から愛する人を、あなたのようにあの子も見つけることが出来ました」
そんな言葉を呟けば、意思に反して視界がじわりと滲む。
ヘンドリックと別れた今のこの人生に後悔はない。
キンバリーと再婚し、愛し愛され、可愛い娘まで授かった。本当に、今の生活には幸せの一言しかないのだ。
けれど、それでも。
別れるしかなかった夫婦だったとしても。
憎悪しか向けてこなかった夫だったしても。
この報告を肖像画にはなく、手紙か、せめて人伝てで知らせることが出来たなら、どれだけ良かったことか。
生きているヘンドリックに伝えられたなら。
「政略によるものではない、心から愛し合った者同士の結婚・・・そんな結婚式なら、あなたも来て、ランスを祝福して下さったのかしら・・・」
言っても詮ないことと知りつつ、肖像画を見上げながらラシェルはそう呟いた。
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