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知らず、蓄積していったもの
しおりを挟む「・・・それで?」
レオパーファ侯爵家の使いとして来たというテーヴは今、応接室に通され、トムスハット公爵家当主ハロルドと対面している。
最初はエントランスでの対応のみで終わらせる筈だったのがこうして中に通す事になったのは、その訪問の目的が ーーー
「爵位ごと領地全てを私に売りたいと?」
「左様でございます」
テーヴが深々と頭を下げる。
「書類もこちらに全て整っております。後はトムスハット公爵さまの署名のみで手続きは終わります」
「・・・」
ハロルドは、思案しながらゆっくりと顎を撫でる。
「スタッドは・・・全てを私に売り渡し、平民になるつもりなのか?」
「・・・その様ですね」
「お前はそれを止めなかったのか? レオパーファ家の執事だろう?」
「私は既に用無しと通告された身。理由あってこうして伝書鳩の役をしておりますが、もうレオパーファ侯爵家執事ではありません」
その言葉にハロルドは目を見張った。
テーヴの家系は代々レオパーファ家に執事として仕えており、スタッドの幼い頃から彼の世話をしていた。
そのテーヴまで切ったというのか。
平民になるとしても、スタッドは一人で服を着ることすら出来まいに。
「・・・」
ハロルドは、差し出された書類を手に取り、一枚一枚に目を通す。
領地を切り売りするとしても、まだ二年くらいは先の事だと思っていた。
それをまさかこんなすぐに、しかも爵位まで手放すつもりでいるとは。
・・・多少予想外だとしても。
ハロルドは、書類に穴がないかを確かめつつ、考える。
爵位を持つ男に嫁ぐ予定のヴィオレッタに、これらは今は必要ないとしても、本来ヴィオレッタが継承するべきものだ。
今すぐに手に入るというのなら、それはそれでいい。
持参金代わりにヴィオレッタに持たせ、将来生まれてくる子にでも継がせるだろう。
「・・・分かった。金は後でスタッドの元に届けさせよう」
「承知しました。では私はこれで」
書類ケースを片手に立ち上がったテーヴは深く一礼し、応接室の扉まで歩を進めた。
だが、扉に手をかけたところで動きを止め、僅かな逡巡の後、ハロルドの方を振り返る事なく話し始める。
「既にレオパーファ家の執事を解雇された身なれば、もうハロルドさまとお会いする機会もないでしょう」
「ん?」
ハロルドは首を傾げ、テーヴの後ろ姿を見る。
「これまでのレオパーファ家の行いに対する贖罪ともなりませんが、一つだけご報告を」
「・・・なんだ」
この元執事がスタッドの悪辣な行為に加担した事は許せないが、元々のこの男の印象は悪くなかった。
エリザベスやヴィオレッタにも心を砕き、常に丁寧な態度で配慮していたのをハロルドは知っている。それも全て、エリザベスが亡くなるその日までの話だが。
「・・・ゼストハ男爵とその関係者が、五日ほど前にレオパーファ邸を訪れ、騒ぎを起こしています。護衛たちが対応しましたが」
「・・・」
「一部は捕獲されましたが、イゼベルさまの事もあり相当に追い詰められている様子。こちらにはヴィオレッタさまが居られます。どうか・・・ご注意を」
「・・・分かった。忠告に感謝する」
「いえ」
そう答えたテーヴが、扉にかけた手に力をこめた時、今度はハロルドが声をかける。
「愚かなほどに忠誠を尽くしたお前を外すとはな・・・相変わらずあいつの考える事はよく分からんよ」
「・・・」
扉を押すテーヴの手が、止まる。
「あれだけの金があれば、余程の豪遊でもしない限り七、八年はもつだろうが、あいつにも側で身の回りをする者が一人は必要だろうに」
「まさか」
だが、テーヴが返したのは、意外な言葉。
「最低でも十五年は大丈夫な筈です。数名の使用人を新たに雇ったとして、旦那さまお一人の生活を賄うくらいならば」
ハロルドの眉がぴくりと動く。
今、一人と言ったか?
「・・・あいつには母君がいるだろう?」
テーヴはハロルドに背を向けたまま、小さく笑う。
「・・・共に暮らす筈などないではありませんか。そもそも全てを今ここで売ってしまおうと旦那さまが思いついたのは、大奥さまからの手紙が届いたからです」
「なに?」
「世話係が急にいなくなって不便だから、すぐに働き者で使い勝手のいい使用人を手配する様にという主旨でした」
「・・・ああ、ジョアンは前夫人に付けていたのだったな」
だがそれがどうして爵位を売る事に、とハロルドが問う前に、テーヴは言葉を続けた。
「親の世話は子の務め。その責務をきちんと果たし、産んでもらった恩を返すようにと、要はそういう内容の文言を、それはもう見事な美辞麗句でしたためられて」
「・・・」
「それで、旦那さまは今すぐに大奥さまをお捨てになる事を選ばれたのです」
なるほど、とハロルドは心の中で呟いた。
前夫人とスタッドの間に、ハロルドの知らない何かの確執が昔からあったとして。
だが、前夫人に何か思う所があるのは、テーヴも同じらしい。
いきなり平民に叩き落とされ、無一文で放り出される。それを知った時の前レオパーファ侯爵夫人の心境は如何ばかりであろうか。
しかもあの不自由な体で。
ヴィオレッタを取り返した以上、誰が正しいとか、正しくないとか、あの家に物申すつもりも介入するつもりもないけれど。
一体あの家は、いつから歪みが始まっていたのだろうか。
その見当さえ、ハロルドはつけられなかった。
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