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相応しい場所
しおりを挟む「売り払った・・・売り払ったとはお義母さまを? まさか、そんな、お父さま」
三階で軟禁され喚いていたイライザと違い、どこにもその気配がないイゼベルの事は気になっていた。
けれど、元々がなさぬ仲だ。会わずに済めば安堵していた為、正確にいつイゼベルが居なくなったのかヴィオレッタには分からない。
動揺するヴィオレッタの姿に、スタッドは柔らかく微笑む。
「やっぱり心配するんだ・・・本当にヴィオは良い子だね」
ーーー あんな女の為に
ぽつりとこぼれた小さな呟き。
けれど、その場の全員がそれを拾うには十分な声量だった。
イゼベル・ゼストハ男爵令嬢。
レオパーファ侯爵領の一部を任されているゼストハ男爵家の娘だ。
寄り親寄り子の間柄ゆえ、スタッドと彼女とが時折り顔を合わせる機会はあったものの、特別な何かを感じた事はない。顔が認識できる程度、そんな関係だ。
スタッドにとって、世界は二種類の人間で構成される。
要る人間と要らない人間。
或いは、居てもいい人間と居なくていい人間とも表現できる。
それは両親が教えてくれたこと。スタッドが傷つき、忌避した人の選別の仕方。けれど気づかぬうちにスタッドの心の奥底に染みついた意識だ。
それによればイゼベルは要らない人間、居なくてもいい人間で、スタッドにとって名前を覚える意味もなかった。
あれは、スタッドが唯一の後継者になって数年が経った頃だろうか。
父親について領地視察でラードル地方に行った時、セハナ村近辺の地域管理を任されているゼストハ男爵が挨拶に現れ、スタッドもまた言葉を交わした。
横から視線を感じてそちらに目を向ければ、木の陰から少女がスタッドを見つめていた。
レオパーファ侯爵家唯一の跡取りであるスタッドに、秋波を送る令嬢は多い。たとえ幼い頃に親が決めた婚約者がいてもだ。
少し離れた所からスタッドを見つめる少女イゼベルもまたその一人。
家同士の関係性ゆえに他の令嬢たちより邂逅する機会の多い彼女は、事あるごとにスタッドの近くに現れた。
その中の一度たりとて、スタッドから声をかける事などなかったが。
やがて15、16、17と年齢を重ね、エリザベスとの婚姻を二年後に控えた18歳の時、スタッドの父が馬車の事故で亡くなる。
デビュタントを終えていたから成人扱いではあるものの、若き侯爵家当主の誕生に社交界は湧き立った。
婚約者エリザベスのデビューは来年。夜会でパートナーとして傍らに立たせる事は出来ずとも、自分は成約済みだからと群がる令嬢たちをあしらった。
男として人並みの性欲はあるものの、令嬢たちとの火遊びよりも娼館で発散する方が面倒がないし確実で安全だ。
そんな計算による行動が、婚約者に一途な令息だと本人の意図せぬ所で評判になる。
エリザベスより一年早く社交界に入ったイゼベルがそれを聞いて嫉妬を募らせた事など、スタッドには知る由もなく。
それに気づいたのは、イゼベルのデビュタントの約半年後。彼女が夜会でスタッドに媚薬を盛った時だ。
面倒な。
事が終わってまず最初に思ったのはそんなこと。
目の前の女は、これで自分がスタッドの妻になれると信じ、嬉しそうに目を輝かせている。
呆れたスタッドは、家に戻ってから執事を通してゼストハ家に使いを送らせ、イゼベルとの結婚はないと伝える。
男爵家の娘など有り得ない。辛うじて貴族だが身分差はかなりのものだ。
その頃、よりによって貧民街の女に入れ上げた公爵がいた。確か正妻ではなく妾、でもその醜聞は社交界を騒がせた。
まさかその話に触発された訳でもあるまいが、女が妙な期待を持ったのは事実。
故にスタッドは、にべもなく断った。
男女の問題の際、立場が弱いのは女性の方。何なら媚薬の件で訴えてもいいのだぞと脅せば、ゼストハ男爵は思いの外あっさりと引き下がった。
もとよりレオパーファ侯爵家の傘下にある家、最初からイゼベルの非が大きい以上、沈黙するのが最善だった。
ここで引かなかったのはイゼベルだ。彼女はスタッドをまだ諦めてはいなかった。
その事にスタッドが気づいたのは、媚薬事件が起きてからおよそ一年半後。エリザベスと結婚してからだった。
イゼベルが社交界に姿を見せなくなって暫くの時が経っていた。
婚約者時代から良好な関係を築いていたスタッドとエリザベスは夫婦関係も順調で、エリザベスは間もなく妊娠する。
長かった悪阻の時期が終わり、お腹が膨らみ始めた妻は、元々が病弱だった事もあり、床に伏せがちだった。
そんな妻に男の欲求をぶつけるのは流石のスタッドにも憚られ、彼は娼館へと足を運ぶ。
だが、店に入る前に彼に声をかけた者がいた。
それは、何度か会ったことのある他家の使用人、確か所属はゼストハの ーーー
嫌な予感はしたものの、断る理由も見つからず、連れ立ってカフェに行く。
そこでスタッドを迎えたのは、最近は見かけなくなったあの女。媚薬を盛ったあの日まで、スタッドの視界に鬱陶しく映り込んでいた女イゼベル・ゼストハだった。
しかし女は一人ではなく。
腕の中には彼女によく似た赤子がいて。
「あの時の子ですわ。もちろん父親はスタッドさま、貴方です」
女は笑った。
愛人の立場で構わない。
体だけの関係でいい。
何でも言う事を聞くから。
奥さまに足りない所を私で発散してくれれば。
スタッドは問う。
「なぜ妊娠した事を黙っていた?」
「分かったら、子どもごと処理されると思ったから」
存外、自分の性格を分かっているのだなと妙に感心する。
「お前に金を使うつもりはないよ」
「構いません。今は奥さまが妊娠中だと聞いています。お身体を持て余しているのではないですか? だからあんな場所に行こうとされたのでしょう?」
私ならタダで好きなだけ抱けますのよ?
「・・・」
もういい加減にこの女と話すのも面倒になっていたし、タダで女を抱けるならそれでいいかとも思った。
愛人でも構わないと、この女がそこまで言うのなら。
こうして女は、十二年後にエリザベスが儚くなるまで従順で盲目的な愛人の仮面を被り続ける。
けれどその後は ーーー
「・・・だからね、ヴィオ」
気にする事はない、とスタッドは続ける。
「元より娼婦として俺に売り込んできた女なんだ。だから相応しい場所に送り込んであげた、それだけだよ」
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