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出会いの、その前
しおりを挟む使用人がする仕事をやる様に言われた最初の頃は右も左も分からず、当然ろくに作業も出来ず、罰として義母のイゼベルから毎日叩かれた。
3年も経った今はさすがに仕事も覚え、それなりに手際も良くなって来た。それでも叩かれる回数が減らない理由は、意識して考えない様にしている。
取り敢えず、朝の一連の作業を終えたヴィオレッタは、厨房で残り物のスープを貰い、部屋で遅めの朝食を取ることにした。
具もほとんど入っていない、残り物の冷えたスープ。
それを美味しいと思える自分の姿など、3年前は想像もしなかった。
けれど人は、良くも悪くも慣れる生き物で。
空腹のまま働く事も、碌に具も入っていない冷えたスープも、もはやヴィオレッタの日常となった。
スプーンで一口飲むだけで、お腹に沁みわたる気がした。昨夜は夕食を食べ損ねたから、よほどお腹が減っていたらしい。
予定では、今から昼食後の皿洗いまではヴィオレッタに割り当てられた仕事はない。
可能であれば部屋で休むか、本を読むかしたいところなのだ。
もし、それが可能ならば。
「ヴィオレッタ、ヴィオレッタ! ちょっと来てちょうだい」
「はい、ただ今」
予想通りの声を耳にして、ヴィオレッタはまだ半分近く残っているスープをそのままに席を立った。
いつも大抵こうなのだ。休憩の時間になると、呼び出されて何か用事を頼まれる。
違いがあるとすれば、それは声の主がイゼベルかイライザかの差だけ。
今日ヴィオレッタを呼んだのはイライザの方だ。
名残惜しむように、もう一口だけスープを口に含む。
・・・イライザの前でお腹が鳴らないと良いのだけれど。
こればかりは、努力や意志の力でどうにか出来るものではない。
イライザに嘲られる機会を与えるのも悔しいが、何よりも貴族令嬢としての矜持に関わる事だ。
今は使用人と同じ扱いを受けているとしても、亡き母エリザベスから教えられた淑女としての嗜みを忘れてはいない。
満たされないままの空腹感から目を逸らし、ヴィオレッタは立ち上がる。
思わず溢れそうになった溜息を呑み込み、義姉の部屋に向かう足を速めた。
「何でしょうか、お義姉さま」
「ああ、やっと来た、遅いわよ。あのね、今日は外でランチの気分なの。今から出かける事にしたから、あんたもついてらっしゃい」
「承知しました」
返事をしつつ、ヴィオレッタはお腹をそっと押さえる。
外でランチと言ってもヴィオレッタがその席に着く事はない。3年も一緒に過ごせば、声をかけられたとして勘違いなどする筈もなかった。
せめて義姉の食事の最中に、自分のお腹が鳴らないよう祈るしかない。今のヴィオレッタに出来る事と言えば、それくらいしかなかった。
「いい? 私たちが服を見ている間に買っておくのよ?」
レストランで優雅に一人ランチを楽しんだイライザは、外に出ると開口一番にそう言った。
その言葉と共に手で示されたのは、少し先にあるスイーツの店。人気店らしく長蛇の列が出来ているそこに並べと、イライザは命令した。
「ちゃんと買って来なさいよ。私もお母さまも楽しみにしてるんだから」
「はい」
「戻って来るまでに買い終わってなかったら置いていくからね。その時は、歩いて帰って来るのよ?」
「・・・分かりました」
季節は初夏。
少し汗ばむくらいの陽気だ。
午前に少しスープを口にしたものの、それ以外は昨夜から何も食べていない。
強い日差しの下、2時間近く並んで買ったスイーツを手に馬車置き場まで戻ってみれば、案の定そこに侯爵家の紋章は見当たらなかった。
仕方なく石畳の道を歩き始める。
馬車で半刻ほどかかる道程。
歩きならば優に1時間半はかかるだろう。
歩き始めて暫くして、ヴィオレッタは自身の変調に気づく。視界がどこか歪んでいるのだ。
先ほどから始まった頭痛も、どんどんと痛みが増している。
額や背中に冷たい汗が流れ始め、どこか日陰で休もうかと思った時。
ぐらり
ヴィオレッタの視界が回転した。
このまま倒れては、石畳に体を打ち付けるであろう。だがそれが予想されても、もう身体は反応しない。ただただ脱力したまま、迫る石畳に目を瞑る。
だが衝撃を覚悟したヴィオレッタに訪れたのは、ふわりと包まれる様な感覚。
・・・え?
驚いて反射的に目を開けたヴィオレッタの眼に映りこんだのは、心配そうにこちらを覗きこむ真紅の瞳。
・・・だれ?
そう問いたくて、口を開こうとして。
けれど。
既に体力の限界を迎えていたヴィオレッタの意識は、そこで途切れてしまった。
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