金翼の覇王の愛し子は笑わない

青井きよ

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第1話

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雲の向こう側に浮かぶ天空の城には天使たちが住んでいる。
今日も空を見上げれば、天使たちは真っ白な翼をはためかせて自由に青空を飛び回っている。
天使は空を統べる尊い存在で、地上に舞い降りることは決してない。

その様子を、|れんはシーツと衣類の入った洗濯かごを片手に森の中から眺めていた。
深い森の中には蓮以外の人間はいない。ピチチ、という可愛らしい鳥の鳴き声がよく聞こえてくる。
しばらく楽しそうに空を飛ぶ天使たちの姿を見上げた後、蓮は川へと続く細い林道を小走りで下っていく。
今は雲一つない快晴だが、ときおり吹く風が少し強まり、風の湿度が上がった。
もうすぐ雨が降り出すかもしれない。その前に洗濯を終わらせてしまいたい。
全く人の気配のない山の中で、蓮はかれこれ三年ほどひとりだけで生活している。

両親と祖父母を事故で亡くしたのは三歳のとき。
引き取られた叔父夫婦の家の蔵に閉じ込められ、従妹が生まれたことをきっかけに寺に保護されたのが七歳のときだったらしい。
らしい、というのは叔父夫婦の家で過ごした四年間のことを、蓮が全く覚えていないからだ。
朝昼晩と使用人が食事を与えに来るとき以外に外との接触は一切なく、真っ暗な蔵の中でずっとひとりで過ごしていたそうだ。
何か喋ろうとすれば使用人に殴られ、泣けばそれを聞きつけた叔父夫婦がやって来てさらに殴られる。そんな生活に幼い子どもの心が耐えられるはずもなく、寺に引き取られたときの蓮は話すことすらできなくなっていて、全ての感情を失ってしまっていた。
古くからの大商家だったという実家と寺の付き合いは長く、祖父の代までは交流が深かった。蓮が叔父夫婦に引き取られたところまでは住職も知っていたそうだ。しかし、叔父の代に代わってからは交流が途切れてしまい、蓮のことを使用人に訊いてもはぐらかされるばかりだった。
そして、叔父夫婦から従妹の名付けを依頼された住職が家に出向き、蓮はどうしたのかと問い詰めると、憮然としながら蓮を蔵から引っ張り出して放り投げたのだという。
「娘が生まれた以上もうこんな子どもは必要ない。生かしてやっただけありがたいと思え」と言い放って。
住職はそのまま蓮を引き取り、蓮は寺に併設された養護施設で育った。引き取られた当時のことはぼんやりとしか覚えていない。
しかし、遺言状で指名された祖父の遺産の相続人が蓮になっていたため、数年が経ってから自分で相続をを放棄して実家と縁を切ることを選んだのはしっかりと覚えている。
養護施設は身寄りのない子どもたちもいれば、暴力を振るう夫から逃げてきた女性たちもいるところで、住職とお庫裏さんの人柄もあって施設にいる人たちはみんな蓮に優しくしてくれた。
少しおぼつかないながらも再び言葉を話せるようになったし、日常生活に支障がない程度の読み書きや計算もできるようになった。

それでも、『感情』だけはどうしても戻って来なかった。

蓮は自分がどう感じているのか――嬉しいとか、悲しいとか、そういった気持ちの起伏が分からない。自分のことなのに、自分の気持ちが、自分がどう感じているのか分からない。
だから、蓮はずっと無表情だ。
笑ってみようとしても口角は上がらないし、怒った顔をしてみたくても眉間にシワすら寄せられない。
住職や施設のみんなはそんな蓮を見ても何も言わなかった。
「それぞれ事情があるからね」と言って、みんな蓮をかわいがってくれた。
しかし三年前に起きた事件がきっかけで蓮はひとりぼっちになり、蓮の感情は完全にどこかへ消えてしまった。

今もたまに『表情』を作ってみるけれど、鏡に映るのは不自然に歪んで不格好な顔ばかり。
そんな自分の顔を見るたび、蓮の胸は少しだけモヤモヤと苦しくなった。
けれどこの苦しさにどんな名前を付ければいいのかは、どうしても分からない。

「……早く、洗濯してしまおう」

――三年前のあの日も蓮は洗濯当番だった。

甦ってきた記憶を振り切るために、蓮はさらに足を速めて林道を下っていった。





この地域は水資源が豊富で、蓮の住む山の中にもいくつか綺麗な水の川が流れている。
川の水で洗濯を終えた蓮は、少し悩んでからカゴの中から縄を取り出して木の枝に結びつけ、洗いたての衣類やシーツを干した。
まだ雨は降らなさそうだったから、少しでも日光に当てておきたかった。
全ての洗濯物を干し終えると、林道から続きになっているボロボロの橋を渡って川の向こう側へ歩いて行く。
秋になると満開の曼珠沙華がいっぱいになって真っ赤な絨毯のように美しくなる場所だが、まだ梅雨が明けたばかりの今は緑の雑草が元気よく生えている。
少し進むとすぐに視界が開けてくる。

そこには大きな池があった。

今となっては面影すら残っていないが、昔この森の中には村があったらしい。
ちょうどこの辺りにその村を治めていた一族の屋敷が建っていたそうで、庭にあった池だけがそのまま残っているという話だった。
人の手が入らなくなって久しい池だが、水は透明に澄んでいて、水草の間を悠々と鯉が泳ぐ美しい場所だ。
今の時期は睡蓮の花が綺麗に咲いていて、蓮もよく見に行っているのだ。

池は今日も綺麗だった。
みどり色に光を反射する水面も、色とりどりの睡蓮の花も、気ままに泳ぐ緋鯉たちも、いつもと変わらない。

だたひとつだけ違うのは、池の真ん中に見知らぬ人が立っていることだった。

「おや、君も花を見に来たのかい?」
「……!」

よく通る綺麗な男の声だった。
池のど真ん中に立っていた人影は、一度軽く跳んだかと思うと、浅葱色の華やかな唐風の衣をはためかせて一瞬のうちに蓮のすぐ目の前までやって来た。
その人は驚いて声も出せない蓮の顔を無遠慮にぐいぐいと覗き込んでくる。
池の水面と同じ、美しい碧色の瞳が、興味深そうに蓮のことを見つめていた。

「ありゃ、へえー。これは上等な黒曜石だ」
「こくよ……?」
「君の目の色の話さ。黒の宝珠によく似たとてもいい色をしている。髪も濡羽色で綺麗なものだ。しかしちょっと手入れが雑すぎやしないか?」
「髪は、伸びてきたら自分で適当に切っている」
「何だって!? もったいない! こんなにいい素材を持っているのに!! 君は自分の見目の良さをきちんと知ったほうがいいぞ!!」

この男、ものすごくよく喋る。
勢いに押されて目を白黒させながら会話をしていたが、慣れてくるうちに男の容姿を観察できるようになってきた。
太陽の光のような金髪は地面に引きずりそうなほど長くふわふわしているが、傷みなどは一切なく絹のようになめらかだ。眼窩にはきらきらと輝く碧色の瞳が嵌まっていて、その周りを長い睫毛が縁取っている。白い陶器のような肌、高く通った鼻筋、薄く形のよい唇。
蓮は決して小柄ではないが、身長も蓮より頭ひとつ分は確実に高い。
この世にある綺麗なもの、美しいものを全てかき集めて人間の形に組み立てたもの。
そう思ってしまうほどに、この男は美しかった。

「ところで君はどうしてこんな山奥にいるんだ? この辺にあった村はもうないだろう」
「……あ。その……、住んでる」
「住んでる!?」
「あ、ああ。もう少し上ったところに家があって、そこに」
「ほえー……。何で?」

本当に遠慮がない。
どうしようかと迷ったが、不思議そうに首をかしげる男の顔から悪意は感じられない。
あえて隠すこともないので、蓮は正直に答えることにした。

「俺がいると街に不幸なことが起きるから」
「不幸? どんな?」
「子供の頃に事故で家族が死んで、俺が親戚に引き取られてから家の事業が傾いた。寺に預けられてから事業は持ち直したけど、今度は寺が火事で燃えた。不幸を呼ぶから街から出ていけって言われてここに来た。街の人間ならみんな知ってる」
「……ふうーん」

男は気の抜けるような返事をすると、両手で蓮の頬を挟んできた。
むにむにと頬を揉まれてくすぐったい。
男が何をしたいのか分からず混乱したまま無言でいると、ぐいっと顔を上に持ち上げられる。
至近距離にある碧色の宝石が、楽しそうにきらりと光った。

「君は面白いな! 気に入った!」
「……え?」
「明日もここに来るから、また会えないか? 君のことをもっと知りたくなった」

とろりと溶けるように甘く美しく微笑みながら、男はそんなことを言う。
きっと相手が女性ならこの微笑みで一撃で落ちてしまうのだろうが、蓮の表情筋はいつも通り少しも動かなかった。

「そこの川で洗濯しているから、ついでなら」
「そうか、分かった。では明日も同じ時間にここに来るから、君も来てくれ」
「別に構わないけれど……。あ、」

ぽつ、と額に何かが当たった感触がして、蓮は我に返った。
いつの間にか空は青から灰色になっていて、ぽつぽつと雨粒が落ち始めていた。

「洗濯物……」
「ん? 洗濯物がどうかしたのか?」
「晴れてたからすぐそこに干してて、取り込まないと」
「ああ、そういうことか。それなら大丈夫だぞ」

ついさっきのとろけるような微笑みから一転して、男は上機嫌そうにカラカラと爽やかに笑う。
頬から大きな手が離れたかと思ったら、今度は左腕で男にすっぽりと抱き込まれてしまった。

「あっ……」
「ちょっとだけ本気を出すから、掴まっていてくれ」
「本気とは……。ッッッ……!」

目の前にある光景に、蓮は言葉を失った。

男の右腕がメキメキと音を立てて変化していったのだ。
みるみるうちに腕の形が変わり、髪の色と同じ太陽の光のような金色の羽根が次々と生えてくる。

気付いたときには男の右腕は金色の巨大な翼になっていた。

――天使。

そして、男が金の翼を思い切り羽ばたかせた瞬間、ゴウッと音が鳴って恐ろしいほどに強烈な風が吹いた。
突風で木々がざわざわと葉を鳴らす。メキメキと枝が折れる音も聞こえた。
あまりの強風に思わず目を瞑ると、蓮を抱える男の腕に力が入ってさらに密着する。
男の衣を握りしめてやり過ごしていれば、だんだんと風が弱くなっていき、しばらくすると頭上から「もういいぞ」と声がした。
恐る恐る目を開けて顔を上げ、蓮は目を瞠った。

雨雲で灰色に染まっていた空が、元の青空に戻っていた。

「とりあえず雨雲は吹き飛ばしといたから、しばらくは晴れだ。洗濯物も安心だな! でも反動があるかもしれないから、今日いっぱいは雨に注意したほうがいい」
「……あ、りがとう」
「うふふふ。どういたしまして」
「あなたは、天使なのか?」

呆然としたまま問いかけると、男はいたずらっぽく笑った。

「そうさ。俺は天使だよ」

そう答えると男は右腕の翼を元に戻して、今度は背中に金色の大きな翼を生やした。
そして「それじゃあまた明日!」とだけ言い残して、あっという間に飛び去ってしまった。
ひとり取り残された蓮は、男が飛んでいった方向をただぼうっと見つめていた。

天使は尊い存在で、地上に降り立つことはない。

しかし、あの金色の男は確かに天使で、明日も蓮に会いに来ると言ったのだ。

「……何が、どうなっているんだろう……」

ぽつりと零れた蓮の言葉は夏の空気に溶けて消えていく。
男が起こした風のおかげですっかり乾いた洗濯物を取りに行けるようになるまで、蓮はただ池のほとりに立ち尽くしていた。


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