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2章
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「カオル!」
驚くほど近くで声をかけられて、カオルは荷物を取り落とした。
もう数時間は歩き詰めで痛む足を、後ろに向ける。
整えられた金髪に、上等なスーツを纏ったノアが立っていて、思わず一歩後ずさった。
「……ひっ」
「待て、違う。……いや、違わないのか? とにかく待ってくれ。話を、だな」
低い声はそのままに、歯切れの悪いノアの言葉を最後まで聞くことなく、カオルは深く頭を下げた。
「昨晩は、大変申し訳ありませんでした。迎えてくださったのに、汚すばかりで申し訳、ありません」
「違う。そうじゃない。謝るのは私の方なんだ。誤解をしていた。頼む、話を……」
「誤解だなんてとんでもありません」
ノアの後ろからは、赤毛の男も走ってきていた。ルーカスさんも、ごめんなさい。その意を込めて、カオルは二人に、ちゃんと伝えた。
「私は娼婦です。私だけが、娼婦です……。卑しい女に、いっときの夢を、ありがとうございました。どうか今後も、イルミナ家をご贔屓に……」
「話を聞け!」
震える手を掴まれた。後ずさった分の距離よりもさらに近く詰められて、ノアの目と正面から視線がぶつかる。
「違うんだ。言葉が過ぎた。そもそも誤解だ。お前は娼婦でも卑しくもない。私に時間をくれ。謝罪をさせてくれ。頼む」
「あ、あのノア様……っ! 近……っ」
「近くない。とにかく一度、家に帰ろう。どうか来てくれ。頼む、カオル」
嫌だと言いたかった。ずぶずぶと不幸に沈んでいくより、上げて落とされた時の方が胸が痛む。もう、期待を抱かせてほしくなかった。
だけど。
「わかり、ました……」
きっと、黒曜石のような瞳のせいだろう。苦しげに歪んだ表情のせいでも、あるかもしれない。
とにかくカオルは、首を縦に振っていた。
◇
無言の車中を経て、ルーカスはカオルを二階の部屋に一度案内した。ノアがそう指示をした。
疲れているのもあるだろうし、心の準備もあるだろう。ノアはいつまでもリビングで待っているつもりだった。
なんて思っていたら、ルーカスに頭を叩かれた。
「……っ」
「なに座ってんだ。兄貴が行くんだよ。だいたい奥さん、靴擦れが酷かったぞ。もう今日は一歩も歩かせるな」
「……すまん」
「席外すからな。……わかってるな?」
「ああ」
玄関の開閉音が響いて、車のエンジン音が遠ざかっていく。
コップ一杯の水を飲んで、それからカオルの分も用意して、ノアは静かに二階に上がった。
とん、とん……、と小さくノックをする。
「……カオル。私だ。ベッドに寝たままでいい。入っても、良いか?」
か細い声で「……どうぞ」と許しを得て、ノアは肘でドアを開けた。
カオルは、ぼうっとした顔で上体を起こしていた。
疲れと、諦めと、それからノアにもわからない負の感情が入り混じって、鮮やかなはずの青い瞳は暗く濁っている。曇りガラス越しに見られているような、そんな気分だ。
ベッドサイドに水を置いて、ノアは深く頭を下げた。
「本当に、申し訳なかった」
「……私は、何をしてしまったのでしょうか」
かくん、と首を傾げて、カオルは言う。
「約束、とは。なんだったの、でしょうか」
「私は婚姻を結ぶにあたり、イルミナ家と一つの契約を交わした。こちらから求めない限り、性交渉をしない、というものだ。……ったのだが、カオルは知っていたか?」
ふるふると、カオルは首を振る。
やっぱりか。
そして、昨晩にこのやりとりをして居たら、彼女を傷つけずに済んだのか。
ノアはもう一度頭を下げた。
「承服できないかもしれないが、私にとっては大切なことだった。初夜から不義理を働かれたと、誤解をしてしまった。……本当に、申し訳ない」
「そういう……ことでしたか」
沈んだままのカオルの顔に、心がざわつく。私は何か、言葉を間違えただろうか。
カオルは、ぎこちなく頭を下げた。
「わざわざ教えて頂いて、ありがとうございました。それで私は、どのように罰せられるのでしょう?」
「罰する気はない。ただ……」
言いかけて、ノアは固まる。
私は、どうしたいのだろう。
元々が離縁を前提に結んだ婚姻だったはずだ。そして今、言い方は悪いが目論見通り、結婚は破綻しかけている。
私に彼女を引き止める理由が、あるのか?
(……なんて、考える私の方こそ、汚れきっているな)
すう、と腹を決めて、ノアは正面からカオルに言った。
「私と共に、暮らしてみてほしい」
カオルからの返事がないまま、ノアは続ける。
「不便はさせない。できる限りのことはする。二度と理不尽を働かないと誓う。だからもうしばらく、エヴァンスの姓を名乗って欲しい」
そこまで言うと、ようやくカオルの焦点がノアにあった。青い瞳は大きく丸く、見続けていると吸い込まれそうになる。
乾ききった唇が、どうして……と揺れた。
「どうして、そこまで……言ってくださるの、ですか?」
「お前のことを、知りたいからだ」
本当は、救いたいからだ、と言いたかった。でもそれは、今のノアにはまだ口にする資格はないだろう。傷つけてしまったし、何よりノアは致命的な隠し事をしている。
「どうかもう一度、チャンスをくれ。カオル」
もう一度、ベッドに着くぐらい深く、ノアは頭を下げた。
驚くほど近くで声をかけられて、カオルは荷物を取り落とした。
もう数時間は歩き詰めで痛む足を、後ろに向ける。
整えられた金髪に、上等なスーツを纏ったノアが立っていて、思わず一歩後ずさった。
「……ひっ」
「待て、違う。……いや、違わないのか? とにかく待ってくれ。話を、だな」
低い声はそのままに、歯切れの悪いノアの言葉を最後まで聞くことなく、カオルは深く頭を下げた。
「昨晩は、大変申し訳ありませんでした。迎えてくださったのに、汚すばかりで申し訳、ありません」
「違う。そうじゃない。謝るのは私の方なんだ。誤解をしていた。頼む、話を……」
「誤解だなんてとんでもありません」
ノアの後ろからは、赤毛の男も走ってきていた。ルーカスさんも、ごめんなさい。その意を込めて、カオルは二人に、ちゃんと伝えた。
「私は娼婦です。私だけが、娼婦です……。卑しい女に、いっときの夢を、ありがとうございました。どうか今後も、イルミナ家をご贔屓に……」
「話を聞け!」
震える手を掴まれた。後ずさった分の距離よりもさらに近く詰められて、ノアの目と正面から視線がぶつかる。
「違うんだ。言葉が過ぎた。そもそも誤解だ。お前は娼婦でも卑しくもない。私に時間をくれ。謝罪をさせてくれ。頼む」
「あ、あのノア様……っ! 近……っ」
「近くない。とにかく一度、家に帰ろう。どうか来てくれ。頼む、カオル」
嫌だと言いたかった。ずぶずぶと不幸に沈んでいくより、上げて落とされた時の方が胸が痛む。もう、期待を抱かせてほしくなかった。
だけど。
「わかり、ました……」
きっと、黒曜石のような瞳のせいだろう。苦しげに歪んだ表情のせいでも、あるかもしれない。
とにかくカオルは、首を縦に振っていた。
◇
無言の車中を経て、ルーカスはカオルを二階の部屋に一度案内した。ノアがそう指示をした。
疲れているのもあるだろうし、心の準備もあるだろう。ノアはいつまでもリビングで待っているつもりだった。
なんて思っていたら、ルーカスに頭を叩かれた。
「……っ」
「なに座ってんだ。兄貴が行くんだよ。だいたい奥さん、靴擦れが酷かったぞ。もう今日は一歩も歩かせるな」
「……すまん」
「席外すからな。……わかってるな?」
「ああ」
玄関の開閉音が響いて、車のエンジン音が遠ざかっていく。
コップ一杯の水を飲んで、それからカオルの分も用意して、ノアは静かに二階に上がった。
とん、とん……、と小さくノックをする。
「……カオル。私だ。ベッドに寝たままでいい。入っても、良いか?」
か細い声で「……どうぞ」と許しを得て、ノアは肘でドアを開けた。
カオルは、ぼうっとした顔で上体を起こしていた。
疲れと、諦めと、それからノアにもわからない負の感情が入り混じって、鮮やかなはずの青い瞳は暗く濁っている。曇りガラス越しに見られているような、そんな気分だ。
ベッドサイドに水を置いて、ノアは深く頭を下げた。
「本当に、申し訳なかった」
「……私は、何をしてしまったのでしょうか」
かくん、と首を傾げて、カオルは言う。
「約束、とは。なんだったの、でしょうか」
「私は婚姻を結ぶにあたり、イルミナ家と一つの契約を交わした。こちらから求めない限り、性交渉をしない、というものだ。……ったのだが、カオルは知っていたか?」
ふるふると、カオルは首を振る。
やっぱりか。
そして、昨晩にこのやりとりをして居たら、彼女を傷つけずに済んだのか。
ノアはもう一度頭を下げた。
「承服できないかもしれないが、私にとっては大切なことだった。初夜から不義理を働かれたと、誤解をしてしまった。……本当に、申し訳ない」
「そういう……ことでしたか」
沈んだままのカオルの顔に、心がざわつく。私は何か、言葉を間違えただろうか。
カオルは、ぎこちなく頭を下げた。
「わざわざ教えて頂いて、ありがとうございました。それで私は、どのように罰せられるのでしょう?」
「罰する気はない。ただ……」
言いかけて、ノアは固まる。
私は、どうしたいのだろう。
元々が離縁を前提に結んだ婚姻だったはずだ。そして今、言い方は悪いが目論見通り、結婚は破綻しかけている。
私に彼女を引き止める理由が、あるのか?
(……なんて、考える私の方こそ、汚れきっているな)
すう、と腹を決めて、ノアは正面からカオルに言った。
「私と共に、暮らしてみてほしい」
カオルからの返事がないまま、ノアは続ける。
「不便はさせない。できる限りのことはする。二度と理不尽を働かないと誓う。だからもうしばらく、エヴァンスの姓を名乗って欲しい」
そこまで言うと、ようやくカオルの焦点がノアにあった。青い瞳は大きく丸く、見続けていると吸い込まれそうになる。
乾ききった唇が、どうして……と揺れた。
「どうして、そこまで……言ってくださるの、ですか?」
「お前のことを、知りたいからだ」
本当は、救いたいからだ、と言いたかった。でもそれは、今のノアにはまだ口にする資格はないだろう。傷つけてしまったし、何よりノアは致命的な隠し事をしている。
「どうかもう一度、チャンスをくれ。カオル」
もう一度、ベッドに着くぐらい深く、ノアは頭を下げた。
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