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1章

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 カオルを迎えたその日の深夜。
 案の定、しこたま酒を飲んできたらしいルーカスに事の顛末を話すと、かーっ! と呆れ切った声を返された。

「なんだお前! 奥さんに泣かれて居た堪れなくなって逃げてきたってえ? この腰抜けが。女の涙は拭いてやるのが男の役目だろうがい!」
「黙れお前本当に……」

 事実なだけに耳が痛い。
 そもそも、臨戦態勢に近い心境だったのだ。
 準貴族の看板に釣られてやってきて、質素な現実との落差に癇癪を起こす。そんな状態の妻を想像していたから、全く対応出来なかった。
 とりあえず、言ってみる。

「お前の料理を食って咽び泣いてたぞ。美味かったそうだ」
「そりゃよかった」
「昼寝しただけで、この世の終わりみたいな顔をしていた」
「……そっかあ」
「……私の知ってる貴族とは、あまりにも印象が違う」
「俺もだよ」

 水をぐいっと飲み干して、ルーカスはぽつりと言う。

「そもそも、最初からおかしかった。俺が部屋を案内した時も、ポカンとしてたぞ。あんな反応、俺らの知る貴族じゃない。ただ……」
「全く未知かというと、類似がないわけでも、ない」
「その通りだぜ、ノアの兄貴」

 ルーカスとノア、それから今日ルーカスが会っていたというケアラと、あと数名。
 かつてはみんな、孤児院にいた。
 知恵と力を持ち寄って、金を集め、地位を得て、それから孤児に手を伸ばす活動を始めた。
 その時の……。

「あれはほら、あれに似てる。ぜーんぶ諦めた子が、手を差し伸べられた時の顔」
「ああ……」
「そういう子はなあ、諦めることで自我を保ってるから、救いに反応できないんだよなあ」
「まあ、全部演技だという線も捨てきれないがな。ルーカス、一応イルミナ家に探りを入れておけ」
「へいへい」

 まだ初日だ。カオルがとんでもない女狐だという可能性もある。
 判断基準は、そうだな。

「イルミナ家には、ちゃんと条件は伝えてあるんだろうな」
「こちらから求めるまで、性交渉を禁ずる旨だろ? 伝えた伝えた。カオルさんのサインも貰った。兄貴も見ただろ」
「なら、それが一つのラインだな」

 カオルが無断でノアの寝室に立ち入るようなら、限りなく黒だ。
 それにしても、まさか家の中でまで化かし合いのようなことをしなければならないとは。
 ……なんだか今日は、疲れたな。

「寝る」
「ああ、おやすみ」

 おやすみ、と返して、ノアは離れを後にした。

    ◇

 便所女には上等すぎるベッドから、カオルはそっと起き上がる。
 時計を見ると、午前二時。
(ごめんなさい……、ノア様)
 こんな醜女だけど。
 来て早々、寝坊に泣き顔にと、醜態ばかりの出来損ないだけど。
 これから私は、夜這いをしないといけない。
(イルミナ家の女を娶るのは、そういうこと。みんな、優秀な男児を求めて婚姻を結ぶ。なら……私はそのように動かないと……怪しまれないために)
 子供なんてできない。それでも、子作りはしないといけない。拒否しようなんて考えはなかった。当主ヘレナの命令は絶対だ。
 真っ白な髪を梳かして、『展示』の際に着ていたネグリジェを纏う。
 とん、とん、と階段を降りて、ノアの部屋をそっと開けた。

「……ノア、様」

 小さな寝息が聞こえる。激務でお疲れなのだろう。ごめんなさい。
 カオルは、仰向けで眠る旦那様の頬に、そっと手を当てた。
 その瞬間、ノアの目が見開かれた。

「それが本性か、女狐」
「なんっ……、きゃ……っ!」

 添えていた手首を、掴まれる。ノアのもう片手は、カオルの首を締め上げた。
 身体を反転させられる。強い力、抗えない。
 カオルはベッドに頬を擦るように、うつ伏せに押さえつけられる。

「昼間のあれらは、全て演技か。我々を弄んで、さぞ楽しかっただろう」
「ノ、ノア、様……っ」

 身を捩ると、薄暗がりの中で、黒い瞳がぎらついている。

「手応えありと見て、初日から夜這いに来たのか。あるいは暗殺か。どちらだ、言え」

 ぎりぎりと首が締まる。息が苦しい。
 ぜっ、ぜひゅ、と醜い息の合間で、カオルは正直に答える。

「よ、夜這いを……っ。ノア様の、ご寵愛を、頂き、たく……っ」
「黙れ」

 腕を引っ張られ、カオルはベッドから引きずり落とされる。

「初日から約束を違えるとはな。その淫らな衣装といい、最初からそういう腹づもりだったわけだ」
「や、やく、そく……っ?」
「もう良い。出て行け」

 冷たい、冷たい目で見られて、暖かい料理で軽くなっていたカオルの心が、凍っていく。
(なんで……。私は何を、間違えて、しまったの……?)
 お願い、お願い。
 邪気のない声も、棘のない視線も、本当に嬉しかったの。
 だから、お願い。もう一度、チャンスをください。なんでもします。命だって賭けられます。
 だから私を、名前で、呼んで――。

「去れ、娼婦。次に私の寝室を跨いだら、離婚と思え」

 伸ばしかけた手を、カオルは力なく床に落とした。

「………………申し訳、ありませんでした」

 冷たいままのノアの視線から逃れるように、土下座をして、部屋を出る。とん、とん、とん……と階段を登り、ネグリジェを脱ぎ捨てて、簡素な寝巻きに着替えてベッドに横になる。
 涙は流れなかった。
 妙に身体が、乾いていた。
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