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1章
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カオル=イルミナは、今日からカオル=エヴァンスになる、らしい。
あらゆる手続きがカオルの知らないところで終わっていた。
今は外行きのドレスを着させられ、車に乗せられている。
「御当主様のお言葉を述べます」
運転手が無機質な声で言う。
「『離婚をしたら戻ってこい。自分が不妊症であることを明かすな』以上」
「わかり、ました……」
俯いて、返事をする。
ヘレナの言うことを鵜呑みにすれば、私の向かっている先は、良いところではないらしい。
それでも、行き着く先が地獄でも、今はただ、あの家から抜け出せたことで心が少し軽かった。
◇
運転手は、本当にカオルを下ろすだけで去っていった。
「ここ、かな……?」
閑散とした場所に、二階建ての家と離れが建てられている。どちらも綺麗ではあるが、大きくはない。なんというか、生活に必要充分な大きさ、にしたらこれぐらいになりそうだ。
呼び鈴を鳴らしてみる。
「あ、あの……」
「あーあーいらっしゃい! いや、いらっしゃいはおかしいのか? ごめんな。こう言う時のしきたりとかわかんなくてさ!」
勢いよくドアを開けられて、にこにことした赤毛の男が飛び出してきた。
首を傾げるカオルに、男は頭を下げる。
「はじめまして。ノア=エヴァンスの秘書をやってます、ルーカス=ルースです。どうぞよろしく」
「あ、こ、こちらこそ、よろしくお願いします。カオル=イルミ……いや、エヴァンス、です……?」
「あー、そうそうそれだ!」
まあまあ中に、と招かれて、カオルは二階の自室に案内される。
「あの、御当主様は、どちらに……?」
申し訳なさそうに、ルーカスが言う。
「あの馬鹿は商談で不在です。本当に申し訳ない。帰ってきたら一発殴ってやりましょうか」
「い、いいいえ! そんなとんでもない……っ。拾って頂けただけで大恩でございますし……」
「……?」
怪訝そうな顔をするルーカスに気づかず、カオルはあてがわれた部屋を見る。
そして、ポカンと口を開けた。
「ここが、私の……?」
鏡が大きい。窓とベッドと、それからタンスがある。時計も動いている。そして埃はない。
ルーカスがガリガリと頭をかいた。
「あー……。いや、すまんな。俺らその、よくわかってなくて。足りないものがあったら言ってくれ」
「……ぶん、です」
「はい?」
「充分です……。本当に、ありがとうございます……」
「……お、おう。平気か? んー……? ま、良いならいいか」
飯の用意ができたら呼ぶからよー、と言って、ルーカスは階下に降りていった。
すー、はー、と気を落ち着かせるように深呼吸をして、カオルはそーっと自室に入った。
荷物を置いて、なけなしの衣服をタンスに詰めて、それからゆっくりベッドを撫でる。
「……夢?」
きょろきょろと、意味もなく周りを見回して、それから恐る恐る、シーツに頬を当てる。
ふかふか、柔らかい。そして何より……。
「……あったかい」
ルーカスさんが、下でご飯を作ってくれている。他に何人召使いの方がいらっしゃるのかわからないけど、私も、手伝わなければ。
でも、もう少し、もう少し、このままで……。
「おーい。カオ……奥さーん?」
秘書が名前呼びはまずいか、と考え直して、ルーカスは部屋をノックして、返事がないからそっと開ける。
「奥さ……あらら。お疲れか」
まあ、なんか色々疲れてるんだろう。
毛布をかけてやり、ルーカスはそっと部屋を出る。
まだ僅かに言葉を交わしただけだが、何か違和感のようなものを覚えていた。
◇
思いの外、早く商談が終わった。
というか、先方に縁談の事情を話したら「とっとと帰れ」と追い返された。今日の相手は数少ない信頼のおける貴族で、ノアは素直に従うことにしたのだった。
日暮れごろに帰宅すると、ルーカスが顔を出す。
「早かったな。ノアの兄貴」
「ああ。先方に追い返された。それで、イルミナは?」
「カオルさんな。奥さんの名前ぐらい覚えとけ。今は部屋で寝てる。なんか疲れが溜まってたみたいだ」
「……部屋に対して文句でも言っていたか?」
「なんか感動してたぞ」
「…………は?」
意味がわからない、と言う顔をしたら、ルーカスも肩をすくめた。
「なーんか、妙な気がするんだよな。俺は今日、外で済ませるから。兄貴ちょっと色々聞いといてくれ」
「……期待はするなよ。私だって初めてなんだぞ」
「兄貴が女関係でオタオタしてんの超楽しいな。ケアラと一緒にゲラゲラ笑ってるわ」
「……ちっ」
ケアラというのは孤児院仲間で、ルーカスとセットで悪ノリし出すと手がつけられない。
「酒瓶片手に突撃してきたら縁を切るからな」
「冗談きっついなあ。んじゃまあ、頑張れや」
飯は作っておいてあるからなー、と、ルーカスはノアの車でどこぞに繰り出していった。
ノアは、すぅ、と小さく息を吸って、妻となった女のいる我が家に入る。
「ただいま」
返事はない。昼前からずっと寝通しなのだとしたら、なるほど相当の疲労なようだ。
ルーカスの用意してくれたのは、野菜のスープと、魚介類がふんだんに使われたソース。パスタが置いてあるから、茹でろと言うことだろう。
どちらにせよ妻を起こしに行くか、と二階に目をやったちょうどその時、ばたばたと慌ただしい足音が降りてきた。
あらゆる手続きがカオルの知らないところで終わっていた。
今は外行きのドレスを着させられ、車に乗せられている。
「御当主様のお言葉を述べます」
運転手が無機質な声で言う。
「『離婚をしたら戻ってこい。自分が不妊症であることを明かすな』以上」
「わかり、ました……」
俯いて、返事をする。
ヘレナの言うことを鵜呑みにすれば、私の向かっている先は、良いところではないらしい。
それでも、行き着く先が地獄でも、今はただ、あの家から抜け出せたことで心が少し軽かった。
◇
運転手は、本当にカオルを下ろすだけで去っていった。
「ここ、かな……?」
閑散とした場所に、二階建ての家と離れが建てられている。どちらも綺麗ではあるが、大きくはない。なんというか、生活に必要充分な大きさ、にしたらこれぐらいになりそうだ。
呼び鈴を鳴らしてみる。
「あ、あの……」
「あーあーいらっしゃい! いや、いらっしゃいはおかしいのか? ごめんな。こう言う時のしきたりとかわかんなくてさ!」
勢いよくドアを開けられて、にこにことした赤毛の男が飛び出してきた。
首を傾げるカオルに、男は頭を下げる。
「はじめまして。ノア=エヴァンスの秘書をやってます、ルーカス=ルースです。どうぞよろしく」
「あ、こ、こちらこそ、よろしくお願いします。カオル=イルミ……いや、エヴァンス、です……?」
「あー、そうそうそれだ!」
まあまあ中に、と招かれて、カオルは二階の自室に案内される。
「あの、御当主様は、どちらに……?」
申し訳なさそうに、ルーカスが言う。
「あの馬鹿は商談で不在です。本当に申し訳ない。帰ってきたら一発殴ってやりましょうか」
「い、いいいえ! そんなとんでもない……っ。拾って頂けただけで大恩でございますし……」
「……?」
怪訝そうな顔をするルーカスに気づかず、カオルはあてがわれた部屋を見る。
そして、ポカンと口を開けた。
「ここが、私の……?」
鏡が大きい。窓とベッドと、それからタンスがある。時計も動いている。そして埃はない。
ルーカスがガリガリと頭をかいた。
「あー……。いや、すまんな。俺らその、よくわかってなくて。足りないものがあったら言ってくれ」
「……ぶん、です」
「はい?」
「充分です……。本当に、ありがとうございます……」
「……お、おう。平気か? んー……? ま、良いならいいか」
飯の用意ができたら呼ぶからよー、と言って、ルーカスは階下に降りていった。
すー、はー、と気を落ち着かせるように深呼吸をして、カオルはそーっと自室に入った。
荷物を置いて、なけなしの衣服をタンスに詰めて、それからゆっくりベッドを撫でる。
「……夢?」
きょろきょろと、意味もなく周りを見回して、それから恐る恐る、シーツに頬を当てる。
ふかふか、柔らかい。そして何より……。
「……あったかい」
ルーカスさんが、下でご飯を作ってくれている。他に何人召使いの方がいらっしゃるのかわからないけど、私も、手伝わなければ。
でも、もう少し、もう少し、このままで……。
「おーい。カオ……奥さーん?」
秘書が名前呼びはまずいか、と考え直して、ルーカスは部屋をノックして、返事がないからそっと開ける。
「奥さ……あらら。お疲れか」
まあ、なんか色々疲れてるんだろう。
毛布をかけてやり、ルーカスはそっと部屋を出る。
まだ僅かに言葉を交わしただけだが、何か違和感のようなものを覚えていた。
◇
思いの外、早く商談が終わった。
というか、先方に縁談の事情を話したら「とっとと帰れ」と追い返された。今日の相手は数少ない信頼のおける貴族で、ノアは素直に従うことにしたのだった。
日暮れごろに帰宅すると、ルーカスが顔を出す。
「早かったな。ノアの兄貴」
「ああ。先方に追い返された。それで、イルミナは?」
「カオルさんな。奥さんの名前ぐらい覚えとけ。今は部屋で寝てる。なんか疲れが溜まってたみたいだ」
「……部屋に対して文句でも言っていたか?」
「なんか感動してたぞ」
「…………は?」
意味がわからない、と言う顔をしたら、ルーカスも肩をすくめた。
「なーんか、妙な気がするんだよな。俺は今日、外で済ませるから。兄貴ちょっと色々聞いといてくれ」
「……期待はするなよ。私だって初めてなんだぞ」
「兄貴が女関係でオタオタしてんの超楽しいな。ケアラと一緒にゲラゲラ笑ってるわ」
「……ちっ」
ケアラというのは孤児院仲間で、ルーカスとセットで悪ノリし出すと手がつけられない。
「酒瓶片手に突撃してきたら縁を切るからな」
「冗談きっついなあ。んじゃまあ、頑張れや」
飯は作っておいてあるからなー、と、ルーカスはノアの車でどこぞに繰り出していった。
ノアは、すぅ、と小さく息を吸って、妻となった女のいる我が家に入る。
「ただいま」
返事はない。昼前からずっと寝通しなのだとしたら、なるほど相当の疲労なようだ。
ルーカスの用意してくれたのは、野菜のスープと、魚介類がふんだんに使われたソース。パスタが置いてあるから、茹でろと言うことだろう。
どちらにせよ妻を起こしに行くか、と二階に目をやったちょうどその時、ばたばたと慌ただしい足音が降りてきた。
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