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1巻
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「アゼリア、少し見ない間にずいぶん痩せてしまったわね。顔色も悪いじゃない。ちゃんと食事はとっているの? ……ご家族はあなたを見て、なんと言っているのかしら?」
シスターエレナは家族のことを尋ねるときだけ少しためらいがちに言う。彼女にだけは、私が家族とうまくいってないことをそれとなく伝えていたからだろう。私が本音を言える数少ない相手だった。
「家族は……何も言いません。同じ家に住んでいても、ほとんど顔を合わせることもないですし、食事も私ひとりですので」
「そう……あいかわらずなのね。でもその痩せ方は普通じゃないわ? ちゃんと栄養のある食事はとれているのかしら?」
もし私の置かれた境遇を、シスターエレナが知ればどう思うだろう?
贅沢はおろか生活をするのもギリギリだ。さらに最近は医者に通うようになり、お金も余計にかかってしまう。シスターエレナがいくら本音を言える相手だとしても、そんな不遇な立場に置かれていることを知れば、幼い私をフレーベル家に託した彼女は責任を感じてしまうだろう。
「……大丈夫です。食事はちゃんととっていますから」
私はシスターエレナを安心させるように微笑んでそう告げる。すると、彼女が手を握りしめてきた。
「五月なのに、手がこんなに冷え切ってるじゃない。正直に話してちょうだい。アゼリア、本当はどこか身体の具合が悪いんじゃないの? だいたい普通の人はちょっとしたことで気を失ったりしないわ。ましてや鼻血まで出すなんて……」
シスターエレナはまるで私の心の内でも見透かすかのように、じっと覗き込んできた。
……彼女は本当に私のことを心配してくれている。それなら、その気持ちに甘えてもいいだろうか?
もうこれ以上強がりを言うには、私の身体も精神も限界だった。
フレーベル家に私の居場所はまったくないし、初めて会ったときから思いを寄せていたマルセル様は皮肉なことにモニカの恋人になってしまった。さらにお父様とお母様からは、マルセル様の両親にそのことを絶対にばらしてはいけない、言ったらただではすまないと脅されている。ばれてしまえば、ハイム家との婚約の話自体がなくなってしまうと危惧しているからだ。
ここは私にとって生きる希望すら見出せない世界なのに、ヨハン先生から自分の病を聞かされたその日、私はベッドで一晩中泣き明かした。
私は死ぬのが怖かったのだ。余命宣告をされてからずっと怖くて孤独で、本当は誰かに話を聞いてほしくてたまらなかった。
「あの……私の話を聞いてもらえますか?」
「ええ、どんな話でも聞くわ」
シスターエレナは私の両手をしっかり握りしめてうなずいた。
「今からする話は、私の家族には絶対に内緒にすると誓っていただけますか?」
「ええ、誓うわ。なんなら神様の前で誓ったっていい」
「では……お話しします。実は……」
私はポツリポツリと語り始める。
自分の病のことすべてを余すことなく告げる間、シスターエレナはひと言も口を挟まずに真剣に話を聞いてくれた。そして長い時間をかけてようやく話し終えると、彼女は一度目を閉じて深いため息をついた。
「アゼリア、今の話は本当なの? 先月、余命があと半年と告げられたなんて……」
「はい、本当です」
次の瞬間、私は強く抱きしめられていた。シスターエレナの温もりがうれしくて、思わず胸に熱いものが込み上げてくる。
「アゼリア……死は……誰にでも必ず訪れるものよ。もし、また辛いことがあれば、いつでもここに来なさい。いいえ、私がフレーベル家にうかがってもいいのよ?」
シスターエレナがフレーベル家を訪ねる……悪い展開しか思い浮かばない。
世間に私を冷遇していることを家族は知られたくはないから、私の客人を許すはずがない。さらに、この教会は貴族からの善意の寄付金で成り立っている。怒った両親がわざと教会の醜聞を流しでもしたら、援助を二度と受けることができなくなってしまうかもしれない。それだけは……絶対に避けなければ。
「だめ……です」
「何がだめなの?」
シスターエレナは抱きしめていた私の身体を離すと、じっと見つめてきた。
「あ、あの……家族は私のところに来るお客様を好まないのです。仮に来られたとしても不快な思いをさせてしまうかもしれません。なので、また私のほうから会いにきてもいいですか?」
ためらいがちに尋ねると、シスターエレナは笑みを浮かべる。
「ええ。いいわ。この教会はいつでもアゼリアのことを待っているから」
「あ、ありがとうございます……」
私は泣きたい気持ちを堪えてお礼を述べた。そのとき、シスターアンジュが部屋の中へ入ってきた。彼女は私と同年齢で、まだこの教会にやってきて二年目の若いシスターだ。
「アゼリア、ちょっといいかしら? アゼリアにぶつかったヤンが謝りたいと、ここに来ているのよ」
そんなに気にすることはないのに、わざわざ謝りに来るなんて、きっと優しい心根の子どもなのだろう。
「シスターアンジュ、その子を部屋に入れてあげてください」
「いいの? あなた、まだ具合が悪そうだから無理しなくて大丈夫よ」
私がそう返すと、シスターエレナは心配してくれる。
「大丈夫です。その子は自分のせいで、私が鼻血を出したと思っているのですよね? 誤解を解いてあげたいのです」
「誤解?」
シスターアンジュが首をかしげる。
「はい、誤解です。その子を連れてきてください」
「ええ、わかったわ」
シスターアンジュはうなずくと、廊下で待っていた少年を連れて部屋に戻ってきた。
「あ、あの……お姉さん。ほ、本当にごめんなさい。これ……僕からのお詫びです!」
少し緊張した面持ちの少年は、私の前に一本の赤い薔薇の花を差し出した。薔薇の棘でも刺さったのだろうか。小さな手にはあちこちに引っかき傷ができており、うっすら血が滲んでいる箇所もある。
「まぁ。これを私に? ありがとう。でも、手を怪我しているわね。大丈夫?」
薔薇の花を受け取り、少年の頭をそっと撫でながら尋ねる。
「あ、これは……お姉さんの手を傷つけないように、ひとつひとつ薔薇の棘を手で抜いたからです……」
少年は真っ赤な顔で、もじもじしながら答える。もらった薔薇は棘がひとつ残らず取り除かれていた。自分の手が傷つくのも厭わずに、私のために……彼の心遣いに胸が熱くなってしまう。
「ありがとう……とってもうれしいわ。でもあなたの手を傷つけてしまったわね? ごめんなさい」
「そ、そんな! とんでもないです。だ、だって僕がいきなり飛び出してしまったから、お姉さんとぶつかっちゃって。それで鼻血を出してしまったのでしょう?」
「いいえ、違うわ。あなたのせいじゃないのよ。別に今日に限ったことじゃないわ。昨日も、その前の日も出てしまっていて、最近少し鼻血が出やすくなっているだけなの」
「ほ、本当に……?」
少年は目を見開いたまま私をじっと見つめてくるので、安心させるために微笑んだ。
「ええ、本当よ。ありがとう、この薔薇大切にするわ。こんなふうに人からプレゼントをもらうなんて滅多になかったから……すごくうれしいわ」
「そ、そんなに喜んでもらえて僕もうれしいです! お姉さん」
少年はニコニコしながら私を見た。シスターアンジュは少年に声をかける。
「さ、ヤン。もう気がすんだでしょう? 畑仕事に戻るわよ」
「はい、シスターアンジュ」
少年は返事をすると、私の目を真っ直ぐに見て手を振った。
「さよなら、お姉さん。また遊びに来てください」
「ええ。また遊びに来るわ」
そう答えて、私は教会をあとにしたのだった。
「お客様、お屋敷に到着しました。……それにしても、こんな中途半端な場所でよろしいのですか? お屋敷の玄関までお連れいたしましょうか?」
御者が私に声をかけてきた。窓から外を眺めると、辻馬車はフレーベル家の門扉の手前で停まっている。
「いいえ、ここでいいです。降りますね」
もし屋敷の前まで辻馬車に乗ってきたところを家族に見られたら、何を言われるかわかったものではない。
以前私が屋敷の前で降りた現場を使用人に見られていたことがある。そのあと私はお父様に呼び出されて、『平民が乗る辻馬車で屋敷の敷地に入ってくるな』と頬を叩かれたのだ。
私にフレーベル家の馬車を使わせてくれないのに……そのときのことを思い出すと胸が苦しくなってくる。
「お客様? 顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」
その言葉で我に返ると、御者が心配そうに私を見つめていた。
「はい、大丈夫です」
馬車から降りて料金を支払うと、すぐに馬車は走り去っていった。
私は遠くに見える屋敷を眺める。すっかり夕闇が迫り、紫色の空を背にそびえ立つ邸宅。あんなに大きな屋敷なのに私の居場所はない。
「帰ってきてしまったわ……フレーベル家に」
うつむきながら、重たい足を引きずるように歩く。するとこちらに向かってくる馬の蹄の音が聞こえてきた。誰か来たのだろうかと顔を上げて、私はドキリとしてしまう。
「……っ!」
その人物は馬にまたがったマルセル様だった。今までモニカたちと過ごし、これから帰るところなのだろう。
「こんばんは、マルセル様……」
そう挨拶するも、彼はいつもの冷たい目で見下ろすだけ。
今までの私だったらマルセル様に挨拶をしたあと、何かと話題を見つけて必死になって話しかけていた。たとえ無反応でも少しでも彼に近づきたかったから。しかし、そのたびに彼は冷たい視線を投げ、ひと言も言わずに私の前から去ってしまうのだった。
病気になった今となっては、心の距離をつめようと努力しても無意味となってしまった。もう無駄に話しかけるのはやめにしよう。第一、そんな気力が私には残っていない。
「それでは失礼いたします」
「おい、待て」
私がそのまま通り過ぎようとしたとき、背後から呼び止められた。
「え……?」
振り向くと、マルセル様はじっと見ている。
「今、私を呼んだのですか?」
「ああ、そうだ。お前以外にここには誰もいないだろう?」
言われてみるとその通りだが、まさかマルセル様が私を呼び止めるなんて信じられなかった。私たちの関係はある日を境に最悪になってしまった。それ以来、マルセル様が私を見る目つきは変わり、よほどの用事がない限り彼から声をかけることはなくなっていたのだ。
「申し訳ございません。ご用件はなんでしょうか?」
マルセル様の話を聞いたらすぐに部屋に戻ろう。私から彼に伝えることは何もない。無理に話しかけて冷淡な目で見られ、無愛想な返事をされるのは耐えられなかった。ただでさえ身体はもう悲鳴を上げているのに、これ以上精神的苦痛を与えられれば病気も悪化してしまいそうだ。
「若い女性がこんなに遅い時間までどこへ行っていたのだ? もし何かあったらどうする? 大体ピアノのレッスンを途中でサボるとはどういうことだ? ピアノ教師が夫人のところに言いに来たのだぞ?」
「そ、それは……」
違う、私は決してサボったわけではない。鼻血を出してしまい、慌てた先生が帰ってしまっただけで……
そのとき、私は気づいた。
ああ、そうだった。フレーベル家に出入りする誰もが、みな私のことをよく思っていないのだ。
体調が悪すぎて、自分の言い分をマルセル様に言うだけの気力なんてない。今は早く部屋に戻って横になりたい。いっそ彼に謝って、帰っていただこう。たとえ呆れられてしまっても、ここで叱責され続けるよりはずっといい。
「申し訳ございません」
体調が悪化してきたのか、私はだんだん立っているのも辛くなってきていた。
「チッ」
マルセル様に謝罪すると舌打ちされた。彼は先ほどよりもさらに険しい顔で私を見下ろしている。
「言い訳もないようだな。それに謝る相手は俺ではなく夫人だ。自分からピアノのレッスンを受けたいと言ったのだろう? 本当はモニカが習いたかったのに、自分だけ習わせろと言ったそうじゃないか」
今の言葉は聞き間違いだろうか?
私は自分の耳を疑った。ピアノを習いたいと言ったことは一度もない。むしろやめたいくらいなのに。なぜそんなことになっているのか、まるで見当もつかない。
思いがけない内容に唖然とする私をよそに、マルセル様は厳しい口調で続ける。
「それにお前は、モニカにピアノを教えるという約束をずっと守っていないようだな? 一度もピアノを教えてもらえていないと彼女は嘆いていたぞ」
私がモニカにピアノを……? そんな約束など、交わした覚えはない。マルセル様の話を、足下から鳥肌が立つ思いで聞く。
「まったく……無理に習わせてもらっているピアノのレッスンを平気でサボるとは、一体どういうつもりなのだ!」
「マルセル様、私は……」
言いかけてハッとなった。彼は私をまるで敵のように憎悪の目で見つめている。きっと私が何を言っても彼は信じてくれないだろう。
「なんだ? 言いかけて途中でやめるな。気分が悪い」
マルセル様は吐き捨てるように言う。
「いいえ、なんでもありません。……まだピアノの腕に自信が持てなかったので、教えることをためらっておりました。そして本日のレッスンは気分が優れなかったので、途中で終わらせていただいたのです。そこに少し行き違いがあったかもしれません。申し訳ございません」
もうこのあたりで許してもらいたい一心で私は嘘をつき、改めて謝罪することにした。先ほどから頭がぼんやりして耳鳴りもひどくなってきている。少しでも気を抜けば意識を失ってしまいそうだ。
マルセル様は軽蔑の目で私を見ると、そのまま小さくため息をつく。そして馬を走らせ、背後から言葉を投げかけてきた。
「いくらフレーベル家がきらいだからって、嫌味ったらしく辻馬車で帰ってくるんじゃない。馬車が必要なら、フレーベル家の馬車を使えばいいだろう? お前だってフレーベル家の人間なのだから。あまりまわりに心配をかけるな」
驚いて振り返ると、マルセル様は馬を走らせて去っていくところだった。小さくなっていく後ろ姿に私はポツリとつぶやく。
「マルセル様。私が辻馬車を使うのは……フレーベル家の馬車を使わせてもらえないからですよ……?」
思わず私の目から一筋の涙が流れ落ちた。
理不尽な境遇にどうしていいかわからない。自分が泣いていることすら情けなく、ますます涙が止まらなくなってしまう。
マルセル様の姿が完全に見えなくなるころには、辺り一面すっかり日が暮れていた。
「屋敷に帰ったら呼び出されそうね……」
本当はあの屋敷には帰りたくない。マルセル様の話では、私はピアノのレッスンを途中でサボったことになっている。きっと怒っているに違いない。
「どうか反省室にだけは入れられませんように……」
フレーベル家には、私専用の『反省室』というものがある。両親やモニカの気に障るような失態を犯してしまった場合に反省を促すために用意された部屋だ。
部屋と呼べば聞こえはいいかもしれないけれど、実際はほぼ物置と化したとても狭い場所だった。窓は小さくて常に薄暗い。当然ベッドがあるはずもなく、冬場なら毛布、夏場は水だけ与えられて一晩中閉じ込められてしまうのだ。
子どものころは、それがどんなに恐怖だったか。当時を思い出してしまうため、二十歳になった今でも私は暗闇が怖くてたまらない。
「謝ってなんとか許しを得ないと」
こんなに体調が悪い状態で、反省室に入れられようものなら、身体がどうにかなってしまうのではないか。そう思うと恐怖でしかない。自然と足取りは重くなっていた。
屋敷の扉の前に立ち、一度深呼吸する。
「ドアを開けて、いきなり平手打ちされたらどうしよう……」
以前お母様の機嫌を損ねてしまい、有無をいわさず平手打ちされたことがあった。恐怖で私は震えながらドアレバーに触れる。
――ガチャッ!
「え……?」
その手応えに違和感を覚える。レバーがなぜか下がらないのだ。レバーを何度押しても、びくともしない。
「……嘘でしょ……」
なんてことだろう。私はフレーベル家から閉め出されてしまったのだ。いくら五月とは言え、夜は冷える。こんなところで放り出されたら、ただではすまないだろう。
何度試してもレバーは一向に下がらない。耐えきれなくなった私は無駄とは知りつつも懸命に扉を叩く。
「開けてください。お母様……モニカ……!」
ドンドンと激しくドアを叩いても、まったく反応がない。絶望的な気持ちになったそのとき、扉のすぐそばにある部屋の窓のカーテンが揺れたことに気がつく。ハッとそちらを見れば、モニカが意地悪な笑みを浮かべている。
「モニカ、お願い! 開けて!」
急いでモニカが覗いているその部屋へ駆け寄るが、無情にもカーテンは閉められる。
「お願い! 開けて! 何か気に障ることをしたなら謝るから、どうか開けてください……」
ずるずると地面に崩れ落ちながら、無駄とは知りつつ私は助けを求める。
「お願いです……。なんでもしますから、どうか開けてください……」
いくら泣いても誰も返事をしてくれない。
私はついに諦めて立ち上がった。
怖いのだ。死ぬのは怖いけど、闇のほうがもっと怖い。少しでも明るい場所を探すために、辺りを見渡したが、唯一明るかった場所はガス燈で灯された噴水だけだった。
「噴水……あの近くなら明るいわ……」
大きな声を上げたり、扉を何度もノックしたりして私の体力は限界。
「ハァ……ハァ……」
それでも暗闇が怖かった私は、ふらつく足でなんとか噴水の前まで辿り着く。ガス灯の下で膝を抱えて座る。けれど、肌寒い夜風で吹き上げられた水しぶきが時折身体に降りかかる。
「寒い……」
身体を抱えて震えていると、徐々に意識が朦朧としてきた。
私はひょっとしてここで死んでしまうのだろうか……? 余命五か月も持たずに……?
「……死にたくない」
誰にも相手にされなくても、どれだけ冷たい態度であしらわれても、それでも私はまだ死にたくなかった。どうせなら、この世に生まれてくることができてよかったと思える瞬間を一度でもいいから味わってから死にたい。
徐々に薄れゆく意識の中、マルセル様の声がふと聞こえたような気がした。
「アゼリア、しっかりしろ……」
目を開けると、私を心配そうに覗き込むマルセル様の姿があった。
きっとこれはひとりぼっちで死にたくないという私の願望が見せた幻。もしくは神様が哀れんで見せてくれた夢なのかもしれない。でも死ぬ前に幻でもマルセル様の姿を見ることができてよかった。
そう、これは幻に違いない。だって私は彼に嫌われているから。だけど、もし本物だったなら、どうしても伝えたいことがある。
「私……初め、てお会いした……ときから、ずっと……お慕いし……ておりました」
でも、あなたが選んだ相手は私ではなく、モニカだった。ふたりが仲睦まじく寄り添う姿を見るたびに悲しみで胸が潰れそうになって、隣にいるのが私だったらと何度も叶わぬ夢をみていた。
だけど今、心配そうに大きな腕で私を抱きかかえてくれている……それだけでもう十分。
「……マ、ルセル様……」
私は余命宣告を受けています――
第三章 婚約者の事情
「少し言い過ぎたかもしれないな……」
俺――マルセル・ハイムは先ほどのアゼリアとのやりとりを思い出していた。
彼女は俺の婚約者なのに……腹立ちまぎれにきつい態度を取ってしまった。あのときのアゼリアの悲しそうな顔が頭にこびりついて離れない。しかも体調が悪そうにみえた。
戻って謝罪しようと、俺は再びフレーベル家へ向かう。五分ほど馬で駆けると門扉が見えてきた。
「チッ……、門扉を開け放したまま出てきてしまったか。……ん?」
門扉が開放されていて、敷地の庭園が丸見えになっている。
「アゼリア!」
噴水のそばで倒れている彼女を発見した。なぜあんなところに倒れている⁉
俺は驚いて馬から飛び降り、急いで彼女のもとへ駆け寄る。
「アゼリア‼」
倒れているアゼリアを抱き起こす。ガス灯の下で見る彼女の顔は紙のように真っ白で、身体は驚くほど冷え切っている。一瞬死んでしまったのではないかと思い、恐ろしくなった。
「アゼリア、しっかりしろ……アゼリア……」
抱き起こしたまま彼女の名を呼ぶと、かすかに呼吸をしていることがわかる。よかった……生きていてくれた。
「マ……マルセル……様……?」
アゼリアの目がゆっくりと開かれ、か細い声が口から洩れる。
「ああ、そうだ。俺だ、マルセルだ」
そう答えると、アゼリアの右目から一筋の涙がこぼれ落ち、俺を見つめて弱々しく笑みを浮かべた。その儚げな笑顔を見たとき、なぜか胸が鷲掴みにされるような気持ちになる。
「アゼリア……?」
しかし、再びアゼリアは瞳を閉じてしまった。
「アゼリアッ!」
このままではまずい。一刻も早く暖かい部屋で休ませようと、アゼリアを抱きかかえ急いでフレーベル家へ向かった。
「なんだ? これは……なぜ、こんなところにアゼリアのバッグが……?」
玄関に到着したとき、地面にアゼリアのショルダーバッグが落ちていることに気がついた。バッグの中から飛び出したのか、ハンカチと小さな白い紙袋も落ちている。
「え……?」
そのハンカチを見て衝撃を受けた。まるで血のような赤い大きなシミが付いていたのだ。
アゼリアを抱きかかえたままそれを拾い上げると、やはり真っ赤なシミが付いている。さらに紙袋は薬袋だった。薬袋にはアゼリアの名前と薬の名前が書かれている。
シスターエレナは家族のことを尋ねるときだけ少しためらいがちに言う。彼女にだけは、私が家族とうまくいってないことをそれとなく伝えていたからだろう。私が本音を言える数少ない相手だった。
「家族は……何も言いません。同じ家に住んでいても、ほとんど顔を合わせることもないですし、食事も私ひとりですので」
「そう……あいかわらずなのね。でもその痩せ方は普通じゃないわ? ちゃんと栄養のある食事はとれているのかしら?」
もし私の置かれた境遇を、シスターエレナが知ればどう思うだろう?
贅沢はおろか生活をするのもギリギリだ。さらに最近は医者に通うようになり、お金も余計にかかってしまう。シスターエレナがいくら本音を言える相手だとしても、そんな不遇な立場に置かれていることを知れば、幼い私をフレーベル家に託した彼女は責任を感じてしまうだろう。
「……大丈夫です。食事はちゃんととっていますから」
私はシスターエレナを安心させるように微笑んでそう告げる。すると、彼女が手を握りしめてきた。
「五月なのに、手がこんなに冷え切ってるじゃない。正直に話してちょうだい。アゼリア、本当はどこか身体の具合が悪いんじゃないの? だいたい普通の人はちょっとしたことで気を失ったりしないわ。ましてや鼻血まで出すなんて……」
シスターエレナはまるで私の心の内でも見透かすかのように、じっと覗き込んできた。
……彼女は本当に私のことを心配してくれている。それなら、その気持ちに甘えてもいいだろうか?
もうこれ以上強がりを言うには、私の身体も精神も限界だった。
フレーベル家に私の居場所はまったくないし、初めて会ったときから思いを寄せていたマルセル様は皮肉なことにモニカの恋人になってしまった。さらにお父様とお母様からは、マルセル様の両親にそのことを絶対にばらしてはいけない、言ったらただではすまないと脅されている。ばれてしまえば、ハイム家との婚約の話自体がなくなってしまうと危惧しているからだ。
ここは私にとって生きる希望すら見出せない世界なのに、ヨハン先生から自分の病を聞かされたその日、私はベッドで一晩中泣き明かした。
私は死ぬのが怖かったのだ。余命宣告をされてからずっと怖くて孤独で、本当は誰かに話を聞いてほしくてたまらなかった。
「あの……私の話を聞いてもらえますか?」
「ええ、どんな話でも聞くわ」
シスターエレナは私の両手をしっかり握りしめてうなずいた。
「今からする話は、私の家族には絶対に内緒にすると誓っていただけますか?」
「ええ、誓うわ。なんなら神様の前で誓ったっていい」
「では……お話しします。実は……」
私はポツリポツリと語り始める。
自分の病のことすべてを余すことなく告げる間、シスターエレナはひと言も口を挟まずに真剣に話を聞いてくれた。そして長い時間をかけてようやく話し終えると、彼女は一度目を閉じて深いため息をついた。
「アゼリア、今の話は本当なの? 先月、余命があと半年と告げられたなんて……」
「はい、本当です」
次の瞬間、私は強く抱きしめられていた。シスターエレナの温もりがうれしくて、思わず胸に熱いものが込み上げてくる。
「アゼリア……死は……誰にでも必ず訪れるものよ。もし、また辛いことがあれば、いつでもここに来なさい。いいえ、私がフレーベル家にうかがってもいいのよ?」
シスターエレナがフレーベル家を訪ねる……悪い展開しか思い浮かばない。
世間に私を冷遇していることを家族は知られたくはないから、私の客人を許すはずがない。さらに、この教会は貴族からの善意の寄付金で成り立っている。怒った両親がわざと教会の醜聞を流しでもしたら、援助を二度と受けることができなくなってしまうかもしれない。それだけは……絶対に避けなければ。
「だめ……です」
「何がだめなの?」
シスターエレナは抱きしめていた私の身体を離すと、じっと見つめてきた。
「あ、あの……家族は私のところに来るお客様を好まないのです。仮に来られたとしても不快な思いをさせてしまうかもしれません。なので、また私のほうから会いにきてもいいですか?」
ためらいがちに尋ねると、シスターエレナは笑みを浮かべる。
「ええ。いいわ。この教会はいつでもアゼリアのことを待っているから」
「あ、ありがとうございます……」
私は泣きたい気持ちを堪えてお礼を述べた。そのとき、シスターアンジュが部屋の中へ入ってきた。彼女は私と同年齢で、まだこの教会にやってきて二年目の若いシスターだ。
「アゼリア、ちょっといいかしら? アゼリアにぶつかったヤンが謝りたいと、ここに来ているのよ」
そんなに気にすることはないのに、わざわざ謝りに来るなんて、きっと優しい心根の子どもなのだろう。
「シスターアンジュ、その子を部屋に入れてあげてください」
「いいの? あなた、まだ具合が悪そうだから無理しなくて大丈夫よ」
私がそう返すと、シスターエレナは心配してくれる。
「大丈夫です。その子は自分のせいで、私が鼻血を出したと思っているのですよね? 誤解を解いてあげたいのです」
「誤解?」
シスターアンジュが首をかしげる。
「はい、誤解です。その子を連れてきてください」
「ええ、わかったわ」
シスターアンジュはうなずくと、廊下で待っていた少年を連れて部屋に戻ってきた。
「あ、あの……お姉さん。ほ、本当にごめんなさい。これ……僕からのお詫びです!」
少し緊張した面持ちの少年は、私の前に一本の赤い薔薇の花を差し出した。薔薇の棘でも刺さったのだろうか。小さな手にはあちこちに引っかき傷ができており、うっすら血が滲んでいる箇所もある。
「まぁ。これを私に? ありがとう。でも、手を怪我しているわね。大丈夫?」
薔薇の花を受け取り、少年の頭をそっと撫でながら尋ねる。
「あ、これは……お姉さんの手を傷つけないように、ひとつひとつ薔薇の棘を手で抜いたからです……」
少年は真っ赤な顔で、もじもじしながら答える。もらった薔薇は棘がひとつ残らず取り除かれていた。自分の手が傷つくのも厭わずに、私のために……彼の心遣いに胸が熱くなってしまう。
「ありがとう……とってもうれしいわ。でもあなたの手を傷つけてしまったわね? ごめんなさい」
「そ、そんな! とんでもないです。だ、だって僕がいきなり飛び出してしまったから、お姉さんとぶつかっちゃって。それで鼻血を出してしまったのでしょう?」
「いいえ、違うわ。あなたのせいじゃないのよ。別に今日に限ったことじゃないわ。昨日も、その前の日も出てしまっていて、最近少し鼻血が出やすくなっているだけなの」
「ほ、本当に……?」
少年は目を見開いたまま私をじっと見つめてくるので、安心させるために微笑んだ。
「ええ、本当よ。ありがとう、この薔薇大切にするわ。こんなふうに人からプレゼントをもらうなんて滅多になかったから……すごくうれしいわ」
「そ、そんなに喜んでもらえて僕もうれしいです! お姉さん」
少年はニコニコしながら私を見た。シスターアンジュは少年に声をかける。
「さ、ヤン。もう気がすんだでしょう? 畑仕事に戻るわよ」
「はい、シスターアンジュ」
少年は返事をすると、私の目を真っ直ぐに見て手を振った。
「さよなら、お姉さん。また遊びに来てください」
「ええ。また遊びに来るわ」
そう答えて、私は教会をあとにしたのだった。
「お客様、お屋敷に到着しました。……それにしても、こんな中途半端な場所でよろしいのですか? お屋敷の玄関までお連れいたしましょうか?」
御者が私に声をかけてきた。窓から外を眺めると、辻馬車はフレーベル家の門扉の手前で停まっている。
「いいえ、ここでいいです。降りますね」
もし屋敷の前まで辻馬車に乗ってきたところを家族に見られたら、何を言われるかわかったものではない。
以前私が屋敷の前で降りた現場を使用人に見られていたことがある。そのあと私はお父様に呼び出されて、『平民が乗る辻馬車で屋敷の敷地に入ってくるな』と頬を叩かれたのだ。
私にフレーベル家の馬車を使わせてくれないのに……そのときのことを思い出すと胸が苦しくなってくる。
「お客様? 顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」
その言葉で我に返ると、御者が心配そうに私を見つめていた。
「はい、大丈夫です」
馬車から降りて料金を支払うと、すぐに馬車は走り去っていった。
私は遠くに見える屋敷を眺める。すっかり夕闇が迫り、紫色の空を背にそびえ立つ邸宅。あんなに大きな屋敷なのに私の居場所はない。
「帰ってきてしまったわ……フレーベル家に」
うつむきながら、重たい足を引きずるように歩く。するとこちらに向かってくる馬の蹄の音が聞こえてきた。誰か来たのだろうかと顔を上げて、私はドキリとしてしまう。
「……っ!」
その人物は馬にまたがったマルセル様だった。今までモニカたちと過ごし、これから帰るところなのだろう。
「こんばんは、マルセル様……」
そう挨拶するも、彼はいつもの冷たい目で見下ろすだけ。
今までの私だったらマルセル様に挨拶をしたあと、何かと話題を見つけて必死になって話しかけていた。たとえ無反応でも少しでも彼に近づきたかったから。しかし、そのたびに彼は冷たい視線を投げ、ひと言も言わずに私の前から去ってしまうのだった。
病気になった今となっては、心の距離をつめようと努力しても無意味となってしまった。もう無駄に話しかけるのはやめにしよう。第一、そんな気力が私には残っていない。
「それでは失礼いたします」
「おい、待て」
私がそのまま通り過ぎようとしたとき、背後から呼び止められた。
「え……?」
振り向くと、マルセル様はじっと見ている。
「今、私を呼んだのですか?」
「ああ、そうだ。お前以外にここには誰もいないだろう?」
言われてみるとその通りだが、まさかマルセル様が私を呼び止めるなんて信じられなかった。私たちの関係はある日を境に最悪になってしまった。それ以来、マルセル様が私を見る目つきは変わり、よほどの用事がない限り彼から声をかけることはなくなっていたのだ。
「申し訳ございません。ご用件はなんでしょうか?」
マルセル様の話を聞いたらすぐに部屋に戻ろう。私から彼に伝えることは何もない。無理に話しかけて冷淡な目で見られ、無愛想な返事をされるのは耐えられなかった。ただでさえ身体はもう悲鳴を上げているのに、これ以上精神的苦痛を与えられれば病気も悪化してしまいそうだ。
「若い女性がこんなに遅い時間までどこへ行っていたのだ? もし何かあったらどうする? 大体ピアノのレッスンを途中でサボるとはどういうことだ? ピアノ教師が夫人のところに言いに来たのだぞ?」
「そ、それは……」
違う、私は決してサボったわけではない。鼻血を出してしまい、慌てた先生が帰ってしまっただけで……
そのとき、私は気づいた。
ああ、そうだった。フレーベル家に出入りする誰もが、みな私のことをよく思っていないのだ。
体調が悪すぎて、自分の言い分をマルセル様に言うだけの気力なんてない。今は早く部屋に戻って横になりたい。いっそ彼に謝って、帰っていただこう。たとえ呆れられてしまっても、ここで叱責され続けるよりはずっといい。
「申し訳ございません」
体調が悪化してきたのか、私はだんだん立っているのも辛くなってきていた。
「チッ」
マルセル様に謝罪すると舌打ちされた。彼は先ほどよりもさらに険しい顔で私を見下ろしている。
「言い訳もないようだな。それに謝る相手は俺ではなく夫人だ。自分からピアノのレッスンを受けたいと言ったのだろう? 本当はモニカが習いたかったのに、自分だけ習わせろと言ったそうじゃないか」
今の言葉は聞き間違いだろうか?
私は自分の耳を疑った。ピアノを習いたいと言ったことは一度もない。むしろやめたいくらいなのに。なぜそんなことになっているのか、まるで見当もつかない。
思いがけない内容に唖然とする私をよそに、マルセル様は厳しい口調で続ける。
「それにお前は、モニカにピアノを教えるという約束をずっと守っていないようだな? 一度もピアノを教えてもらえていないと彼女は嘆いていたぞ」
私がモニカにピアノを……? そんな約束など、交わした覚えはない。マルセル様の話を、足下から鳥肌が立つ思いで聞く。
「まったく……無理に習わせてもらっているピアノのレッスンを平気でサボるとは、一体どういうつもりなのだ!」
「マルセル様、私は……」
言いかけてハッとなった。彼は私をまるで敵のように憎悪の目で見つめている。きっと私が何を言っても彼は信じてくれないだろう。
「なんだ? 言いかけて途中でやめるな。気分が悪い」
マルセル様は吐き捨てるように言う。
「いいえ、なんでもありません。……まだピアノの腕に自信が持てなかったので、教えることをためらっておりました。そして本日のレッスンは気分が優れなかったので、途中で終わらせていただいたのです。そこに少し行き違いがあったかもしれません。申し訳ございません」
もうこのあたりで許してもらいたい一心で私は嘘をつき、改めて謝罪することにした。先ほどから頭がぼんやりして耳鳴りもひどくなってきている。少しでも気を抜けば意識を失ってしまいそうだ。
マルセル様は軽蔑の目で私を見ると、そのまま小さくため息をつく。そして馬を走らせ、背後から言葉を投げかけてきた。
「いくらフレーベル家がきらいだからって、嫌味ったらしく辻馬車で帰ってくるんじゃない。馬車が必要なら、フレーベル家の馬車を使えばいいだろう? お前だってフレーベル家の人間なのだから。あまりまわりに心配をかけるな」
驚いて振り返ると、マルセル様は馬を走らせて去っていくところだった。小さくなっていく後ろ姿に私はポツリとつぶやく。
「マルセル様。私が辻馬車を使うのは……フレーベル家の馬車を使わせてもらえないからですよ……?」
思わず私の目から一筋の涙が流れ落ちた。
理不尽な境遇にどうしていいかわからない。自分が泣いていることすら情けなく、ますます涙が止まらなくなってしまう。
マルセル様の姿が完全に見えなくなるころには、辺り一面すっかり日が暮れていた。
「屋敷に帰ったら呼び出されそうね……」
本当はあの屋敷には帰りたくない。マルセル様の話では、私はピアノのレッスンを途中でサボったことになっている。きっと怒っているに違いない。
「どうか反省室にだけは入れられませんように……」
フレーベル家には、私専用の『反省室』というものがある。両親やモニカの気に障るような失態を犯してしまった場合に反省を促すために用意された部屋だ。
部屋と呼べば聞こえはいいかもしれないけれど、実際はほぼ物置と化したとても狭い場所だった。窓は小さくて常に薄暗い。当然ベッドがあるはずもなく、冬場なら毛布、夏場は水だけ与えられて一晩中閉じ込められてしまうのだ。
子どものころは、それがどんなに恐怖だったか。当時を思い出してしまうため、二十歳になった今でも私は暗闇が怖くてたまらない。
「謝ってなんとか許しを得ないと」
こんなに体調が悪い状態で、反省室に入れられようものなら、身体がどうにかなってしまうのではないか。そう思うと恐怖でしかない。自然と足取りは重くなっていた。
屋敷の扉の前に立ち、一度深呼吸する。
「ドアを開けて、いきなり平手打ちされたらどうしよう……」
以前お母様の機嫌を損ねてしまい、有無をいわさず平手打ちされたことがあった。恐怖で私は震えながらドアレバーに触れる。
――ガチャッ!
「え……?」
その手応えに違和感を覚える。レバーがなぜか下がらないのだ。レバーを何度押しても、びくともしない。
「……嘘でしょ……」
なんてことだろう。私はフレーベル家から閉め出されてしまったのだ。いくら五月とは言え、夜は冷える。こんなところで放り出されたら、ただではすまないだろう。
何度試してもレバーは一向に下がらない。耐えきれなくなった私は無駄とは知りつつも懸命に扉を叩く。
「開けてください。お母様……モニカ……!」
ドンドンと激しくドアを叩いても、まったく反応がない。絶望的な気持ちになったそのとき、扉のすぐそばにある部屋の窓のカーテンが揺れたことに気がつく。ハッとそちらを見れば、モニカが意地悪な笑みを浮かべている。
「モニカ、お願い! 開けて!」
急いでモニカが覗いているその部屋へ駆け寄るが、無情にもカーテンは閉められる。
「お願い! 開けて! 何か気に障ることをしたなら謝るから、どうか開けてください……」
ずるずると地面に崩れ落ちながら、無駄とは知りつつ私は助けを求める。
「お願いです……。なんでもしますから、どうか開けてください……」
いくら泣いても誰も返事をしてくれない。
私はついに諦めて立ち上がった。
怖いのだ。死ぬのは怖いけど、闇のほうがもっと怖い。少しでも明るい場所を探すために、辺りを見渡したが、唯一明るかった場所はガス燈で灯された噴水だけだった。
「噴水……あの近くなら明るいわ……」
大きな声を上げたり、扉を何度もノックしたりして私の体力は限界。
「ハァ……ハァ……」
それでも暗闇が怖かった私は、ふらつく足でなんとか噴水の前まで辿り着く。ガス灯の下で膝を抱えて座る。けれど、肌寒い夜風で吹き上げられた水しぶきが時折身体に降りかかる。
「寒い……」
身体を抱えて震えていると、徐々に意識が朦朧としてきた。
私はひょっとしてここで死んでしまうのだろうか……? 余命五か月も持たずに……?
「……死にたくない」
誰にも相手にされなくても、どれだけ冷たい態度であしらわれても、それでも私はまだ死にたくなかった。どうせなら、この世に生まれてくることができてよかったと思える瞬間を一度でもいいから味わってから死にたい。
徐々に薄れゆく意識の中、マルセル様の声がふと聞こえたような気がした。
「アゼリア、しっかりしろ……」
目を開けると、私を心配そうに覗き込むマルセル様の姿があった。
きっとこれはひとりぼっちで死にたくないという私の願望が見せた幻。もしくは神様が哀れんで見せてくれた夢なのかもしれない。でも死ぬ前に幻でもマルセル様の姿を見ることができてよかった。
そう、これは幻に違いない。だって私は彼に嫌われているから。だけど、もし本物だったなら、どうしても伝えたいことがある。
「私……初め、てお会いした……ときから、ずっと……お慕いし……ておりました」
でも、あなたが選んだ相手は私ではなく、モニカだった。ふたりが仲睦まじく寄り添う姿を見るたびに悲しみで胸が潰れそうになって、隣にいるのが私だったらと何度も叶わぬ夢をみていた。
だけど今、心配そうに大きな腕で私を抱きかかえてくれている……それだけでもう十分。
「……マ、ルセル様……」
私は余命宣告を受けています――
第三章 婚約者の事情
「少し言い過ぎたかもしれないな……」
俺――マルセル・ハイムは先ほどのアゼリアとのやりとりを思い出していた。
彼女は俺の婚約者なのに……腹立ちまぎれにきつい態度を取ってしまった。あのときのアゼリアの悲しそうな顔が頭にこびりついて離れない。しかも体調が悪そうにみえた。
戻って謝罪しようと、俺は再びフレーベル家へ向かう。五分ほど馬で駆けると門扉が見えてきた。
「チッ……、門扉を開け放したまま出てきてしまったか。……ん?」
門扉が開放されていて、敷地の庭園が丸見えになっている。
「アゼリア!」
噴水のそばで倒れている彼女を発見した。なぜあんなところに倒れている⁉
俺は驚いて馬から飛び降り、急いで彼女のもとへ駆け寄る。
「アゼリア‼」
倒れているアゼリアを抱き起こす。ガス灯の下で見る彼女の顔は紙のように真っ白で、身体は驚くほど冷え切っている。一瞬死んでしまったのではないかと思い、恐ろしくなった。
「アゼリア、しっかりしろ……アゼリア……」
抱き起こしたまま彼女の名を呼ぶと、かすかに呼吸をしていることがわかる。よかった……生きていてくれた。
「マ……マルセル……様……?」
アゼリアの目がゆっくりと開かれ、か細い声が口から洩れる。
「ああ、そうだ。俺だ、マルセルだ」
そう答えると、アゼリアの右目から一筋の涙がこぼれ落ち、俺を見つめて弱々しく笑みを浮かべた。その儚げな笑顔を見たとき、なぜか胸が鷲掴みにされるような気持ちになる。
「アゼリア……?」
しかし、再びアゼリアは瞳を閉じてしまった。
「アゼリアッ!」
このままではまずい。一刻も早く暖かい部屋で休ませようと、アゼリアを抱きかかえ急いでフレーベル家へ向かった。
「なんだ? これは……なぜ、こんなところにアゼリアのバッグが……?」
玄関に到着したとき、地面にアゼリアのショルダーバッグが落ちていることに気がついた。バッグの中から飛び出したのか、ハンカチと小さな白い紙袋も落ちている。
「え……?」
そのハンカチを見て衝撃を受けた。まるで血のような赤い大きなシミが付いていたのだ。
アゼリアを抱きかかえたままそれを拾い上げると、やはり真っ赤なシミが付いている。さらに紙袋は薬袋だった。薬袋にはアゼリアの名前と薬の名前が書かれている。
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