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1巻
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しおりを挟む第一章 体調の異変
それは四月に入ったばかりのころだった。
「そろそろ起きなくちゃ……」
七時。私――アゼリア・フレーベルは身体がだるく、頭もぼんやりしているように感じていた。
ベッドから起き上がり室内履きを履こうとしたとき、いきなりそれは現れる。
突然、床と天井がひっくり返ってしまったのではないかと思われるほど激しい眩暈とともに、耳鳴りが起こったのだ。
な、何……? 一体何が起きているの……?
あまりのことにベッドから転げ落ちてしまい、動けなくなってしまう。天井も床もグルグル回って気分が悪い。私は床の上に転がったまま、眩暈が治まるまでじっと耐える。
やがて激しかった眩暈は徐々に治まり、身体を起こした次の瞬間、血なまぐさいにおいがした。鼻から血がボトボトと流れだし、見る見るうちに床に赤い小さな血だまりを作っていく。
「え……?」
激しい眩暈に耳鳴り、そして鼻血。
私は自分の身体に起きた異変に恐怖を覚えた。
誰か人を呼びたいけれど、このフレーベル伯爵家に勤める使用人は誰ひとり、私にかまう者はいない。ことごとく無視するので、いくら呼んでも来てくれないのはわかりきっていた。なんとか起き上がろうと両手を床につくが、視界が真っ暗になり、そのまま私は意識を失ってしまった――
次に目を覚ましたとき、私はベッドに寝かされていた。
こちらをじっと覗き込む、黒髪を三つ編みにした少女が目に飛び込んでくる。幼さが残る彼女は、私が個人的に雇っているメイドのケリーだ。
家族からぞんざいな扱いを受ける私を、フレーベル家の使用人たちは馬鹿にして、誰ひとり私の面倒をみてくれはしない。そこで私はケリーを雇い、彼女が町で買ってきたものを部屋で食べるという生活を送っている。毎月家から渡される『支給金』という名目の三万オルトで、私は彼女の給料や自分の授業代を支払っていた。
「あ……ケリー。おはよう」
「何を言っているのですか? おはようじゃありません。私がどれほどアゼリア様のことを心配したと思っているのですか?」
ケリーはひどく怒っている様子だった。
「いくらお部屋をノックしても返事がないので扉を開けてみれば、床に倒れていて鼻血まで出しているなんて……まさか顔から転んで、鼻をぶつけられたのですか?」
「え……?」
ケリーの言葉に一瞬戸惑う。どうやら私が転んで鼻血を出して、気を失っていたと思っているようだ。フレーベル家の全員から疎まれている私が雇った彼女は、きっと肩身の狭い思いで働いているだろう。だからこそ、彼女に余計な心配などかけたくない。
「え、ええ。そうみたい。だめね、私ってドジで」
「アゼリア様はお疲れなのですよ。朝から夕方まで休む暇もなく難しい学問やピアノ、ダンスとスケジュールがびっしりじゃないですか。疲れがたまって、怪我をされたのだと思います」
ケリーは私の事情をよく知っている。
「とにかく本日はゆっくりお休みされたほうがよろしいと思います。ひょっとすると顔をぶつけたときに、脳震盪を起こしてしまったかもしれません。授業は言語道断、お医者さんに行くことをお勧めします」
「医者……そうね、そのほうがいいかも」
たしかに突然意識を失ってしまえば、頭を打つ可能性はある。それにそう言われてみると、この身体の異変は絶対に普通ではない気がする。もうだいぶ前から疲れやすくて動悸や息切れ、時々身体が痺れるような感覚があったのだ。
けれども忙しさにかまけて、すべて気のせいだと決めつけていた。
「だけど、医者に行くとなると今日の授業をお休みしなくちゃいけないわ。お母様になんと言われるか……」
フレーベル家には専属の主治医が常にいるが、主治医にも無視されている私は診てもらえない。そのため自分で医者を捜す必要があった。
けれど今日の予定は十時から歴史の授業、十三時から政治経済の授業。
そして、最後にダンスのレッスンが入っている。伯爵家の娘で二十歳にもなるのに、一度もダンスパーティーに参加したことがない私にはパーティーに着ていくドレスもなければ、エスコートしてくれる相手もいないが。
しかし、ケリーはきっぱりと言い切る。
「何をおっしゃっているのですか? アゼリア様は、脳震盪を起こしたのかもしれないのですよ? お医者さんに行ったあとは、ゆっくり休んでください」
明るいケリーにそう言われると、今日は休んでもいいような気分になってくる。休む暇もなく、授業とレッスンに励む日々。一日くらい、ゆっくり休むようにと身体が訴えているのかもしれない。
そう考えたとき、苛立ちを含んだ激しいノック音が聞こえてくる。
「はーい。今、開けます!」
ケリーは大きな声で返事をすると扉を開けた。
「アゼリアさん。人を学習室で待たせておいて、眠っているとは一体どういうつもりですか!」
男性は怒鳴りながら、ケリーを押しのけるかのようにズカズカと部屋の中に入ってきた。
彼は、歴史の先生だ。まだベッドに横たわっているのに平気で入ってくるなんて、私を伯爵令嬢扱いしていないのは明らかだった。しかし、それはいつもと変わらない。
「申し訳ございません。体調が悪かったものですから……本日のレッスンはお休みさせてください」
私は身体が痺れてうまく動かせず、ベッドに横たわったまま謝罪する。
「たしかに顔色はよくないですが……さぼってはいけません。早く起きてください!」
「先生、アゼリア様は今朝、気を失っておられたのですよ。しかも鼻血をたくさん出しながら!」
ケリーが会話に割って入り、私が着ていた白いネグリジェを先生に見せた。胸元は赤い血で真っ赤に染まっている。それを見た瞬間、先生はハッとする。
「わ、わかりました……本日のレッスンはお休みしていいです。その代わり、奥様には報告させていただきますからね!」
顔が真っ青になった先生は吐き捨てるようにそう言うと、足早に部屋を出ていった。
「アゼリア様、大丈夫ですか?」
「ええ、ありがとう。お医者さんに行くから仕度を手伝ってもらえるかしら?」
「もちろんです、アゼリア様」
私がゆっくりベッドから起き上がると、ケリーが背後から支えてくれる。
そして仕度を終えた私はわずかな希望を抱いて、フレーベル家の馬繋場へ向かった。私はフレーベル家の馬車を使うことは許されていない。普段は辻馬車を使っているが、できることなら今日は乗せてもらいたかった。
馬繋場には三人の御者がいて、彼らは談笑していた。
「……すみません、馬車を出していただけませんか?」
私が恐る恐る声をかけてみると、彼らは会話をピタリとやめてチラリと見てきた。いつもとは違う反応にひょっとして馬車を出してくれるのだろうかと、淡い期待を抱く。しかし、彼らはすぐに私から視線を逸らして、再び会話を始めた。
「そう言えば、この間モニカ様と奥様、それにマルセル様を乗せてオペラハウスへお連れしたぞ」
「ああ、あの辺りは町並みも美しくていいだろう?」
「そうだな。馬車の中で、三人は仲睦まじく話していたよ。本当に楽しそうだったな」
その会話は明らかに私への嫌がらせだった。彼らは私の存在を無視しながらも、わざとモニカたちのことを聞かせているのだ。ただでさえ具合が悪い中、さらに気分が悪くなるような話をこれ以上聞きたくない。
「すみません。お邪魔しました……」
私は小声で挨拶して立ち去ると、後ろから彼らの嘲笑が聞こえてきた。これもいつもと変わらないことだ。結局、辻馬車乗り場まで歩き、御者に声をかけた。
「すみません、この近くで内科の診療所がありましたら、そちらまで乗せていただけますか?」
「ええ、もちろんです。あの、大丈夫ですか? 顔色が真っ青ですよ?」
「はい……少し体調が悪いもので……」
私は額からにじみ出てくる冷や汗をハンカチで押さえる。御者は腕組みをしてしばらく考えていた様子だったが、ポンと膝を叩いた。
「いい先生を知っています。まだ開業したてで若い先生ですが、大変な名医だそうですよ? それに何より優しい方です」
「本当ですか? ではその先生の診療所までお願いします」
そう言うと、男性は御者台から降りて馬車のドアを開けてくれた。
「ご親切にありがとうございます」
「こんなに丁寧に挨拶をされる貴族の方にお会いするのは初めてですよ。さ、どうぞ」
御者は恥ずかしそうに笑った。すぐに馬車は音を立てて走り出し、到着したのはメインストリート沿いに面した一角にある、石造りの建物だった。
診療所の中で自分の番が回ってくるのをしばらく待っていると、看護師さんに案内されて診察室に入る。そこには、ブラウンの髪色の若い先生が笑みを浮かべて座っていた。
「ヨハンと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
先生は挨拶すると、熱心に私の病状を聞いてくれた。それから何度も私の脈を測ったり、口の中や瞼を見たりする。そして。
「アゼリアさん……」
ヨハン先生は沈痛な面持ちで私を見た。
「はい、なんでしょうか?」
「こんな話……いきなりで驚くかもしれませんが、あなたの病気は思った以上に深刻なものです。本当はずいぶん前から具合が悪かったのではないですか?」
「え? ええ……」
ひょっとすると、あまりよくない病気なのだろうか? ヨハン先生の真剣な表情に、不安な気持ちがふくらんでいく。
「この際なのではっきり申し上げます。この病気の進行はとても早いです。明確な治療法もまだ見つかっていません」
一体何を言っているのだろう……? ただならぬ気配を感じる。
「アゼリアさん、どうか落ち着いて聞いてくださいね?」
「は、はい」
「あなたは白血病にかかっています。おそらくあなたの命は、あと半年ほどだと思います……」
その言葉に、私は目の前が真っ暗になるのを感じた。
第二章 グリーンヒル教会
余命宣告を受けてから一か月後、新緑の美しい五月の昼下がり。
私は授業の合間を縫って、邸宅の庭園にあるガゼボでひとり本を読んでいた。そこへ楽しげな会話をしながら、こちらへ近づいてくる人たちがいた。
「やーだ。マルセル様ったら」
二歳年下の妹、モニカの声だ。金髪に青い瞳を持つ愛らしい容姿のモニカは、私と少しも似ていない。
「ほら。ここ枝が出ているから気をつけて、モニカ」
いたわるように優しげな声音で語りかけるのは、私の婚約者であるマルセル・ハイム様。ダークブロンドの髪に、グレーの瞳が印象的な彼はハイム伯爵家の跡取りで、私より四歳年上の二十四歳。
現在、製薬会社に勤めていて経理の仕事をしている。彼はとても忙しいはずなのに、毎週末モニカに会うためにフレーベル家を訪れていた。
ふたりは本当の恋人同士のようだ。私はマルセル様の婚約者なのに、彼の手を取るどころか、隣に立つことすら許されない。
「本当は、婚約者の私に会いにいくよう、マルセル様は御両親から命じられたのでしょうね」
思わずポロリと言葉が口から出る。
少しでも彼に気に入られるよう、今までどれだけ頑張ってきただろう。マルセル様の婚約者に選ばれたときから、私はよき妻になるためにさまざまな難解な課題を両親から命じられていた。外国語から歴史、政治経済まで多岐にわたって学んだ。
いや、マルセル様に限ったことではない。私を引き取り育ててくれた両親のために、勉強や厳しいレッスンを必死に耐えてきたけれど、結局認めてくれることはなかった。
唯一私を優秀だと認めてくれたのは、皮肉なことにマルセル様の両親だけだ。
「滅多にふたりはここに来ないのに、なぜ今日に限って……」
モニカたちに気づかれないうちに隠れようと立ち上がったとき、眩暈が起きる。地面が一瞬反転したように感じ、私は慌てて椅子に座り直す。
いつもの貧血だ。心臓がドクドクし、呼吸が苦しい。今無理に立ち上がれば、気を失ってしまうかもしれない。
その間にも楽し気な話し声はどんどん近づき、ついにすぐそばにやってきた。
なるべく自分の顔が見られないように帽子を目深に被って、本に集中しようと試みる。しかし、眩暈のせいで文字を読むことができない。
見つかったらどうしよう……と居心地の悪さを感じつつも、私は覚悟を決める。もしふたりが私に気づいたら、そのときは何食わぬ顔で挨拶しよう。
そんなことを考えていると、ガゼボを隠すように立つ巨木のお陰で私の存在に気づかなかったのか、ふたりはそのまま去っていった。
「ふぅ……」
安堵のため息をつき、自分の長い髪の毛をすくいあげた。
家族とはひとりだけ違う栗色の髪に、緑色の瞳。私はフレーベル家の養女で、モニカは本当の娘。家族と似ているところは何ひとつない。
「お父様、お母様……どうして私を引き取ったのですか……?」
思わず自分の気持ちが口をついて出てしまう。
私は首から下げたペンダントを取り出し、装飾のボタンを押した。ふたが開くと、中には一枚の写真。そこに写るのは身なりのよい若い夫婦で、美しい女性が赤ちゃんを抱いている。
季節は今ごろだったという。ある朝、教会の外で赤ちゃんの泣き声が聞こえたのでシスターが様子を見に行くと、バスケットの中に布にくるまれた赤ちゃんがいた。
そう、それが私だったのだ。布の中には一通の手紙とペンダントが添えられていた。
――この子の名前はアゼリア。どうぞこちらの教会でこの子を育ててください。
教会の前に私を置いた人物は、そこで孤児を育てていることを知っていたのだろう。当時、まだ赤ちゃんだった私から八歳までの子どもがそこで生活していた。その一番年上の男の子は、私のことをとても可愛がってくれたらしい。
私が教会にやってきてから二か月後、子どもに恵まれない若い伯爵家の夫婦が教会を訪れた。そして夫婦が養子に選んだのは、まだ一歳にも満たない私だった。できるだけ幼い子どもを養子に迎えたいと望んでいた夫婦にとって、まさに私は条件に適っていたのだ。
伯爵家に引き取られてから二年後、夫婦の待ち望んでいた子どもが生まれた。
それが、妹のモニカだったのだ。モニカは両親にそっくりな金色の髪に青い瞳を持っていた。両親は自分たちにそっくりな娘の誕生に喜び……そして当然のごとく、私は周囲から冷遇される身分となったのである。
家族から無視され、婚約者も私に見向きもせずモニカを好いている。おそらく私はこの家では邪魔者なのだろう。
そのとき冷たい風が吹き、思わず身を縮こませた。
『アゼリアさん、生きる希望を持ってください。少しでも長生きできるように』
なぜかふと、主治医のヨハン先生の言葉が蘇る。
あれから先生のもとへは週に一度通っていた。少しでも延命治療の方法がないか熱心に探したり、毎回力強い言葉をかけてくれたりしてくれる。それでも。
「ヨハン先生……ごめんなさい」
気づけば、謝罪の言葉をこぼしていた。ヨハン先生はああ言ったけど、私にはそれが見出せない。
大量の課題で自由時間もあまりなく、家族に病気のことは言い出せていない。家族は私にはなんの関心もなければ、顔を合わせることもほとんどなかった。食事でさえも、私はひとり自室でとるように命じられている。
彼らに死期が近いと報告すれば、かえって喜ばれるかもしれない。それとも少しは心配してくれるだろうか……?
「おそらくそんなことはないわね。眩暈も治まったことだし……早く戻らないと、ピアノのレッスンに遅れてしまうわ……」
ガゼボを出ると、私は音楽室へ足を向けたのだった。
私はピアノのレッスンを受けていた。先生は厳しいことで有名で、間違えたりしようものならいつも手にしている指示棒で、手の甲をピシャリと叩かれてしまう。
朝からあまり体調がよくなかった私は、思うように身体に力が入らなかった。それでもなんとか弾き続け、ようやく楽曲の終盤に差しかかる。けれど身体が限界に近づいてきたのか、だんだんと頭がぼんやりしてきた。
……お願い。あと少しだけ持ちこたえてちょうだい……!
「あ!」
私は右鼻から何か流れ出る気配を感じる。そして、ぽたりと鍵盤に鼻血が垂れてしまった。私は驚いて、思わず手の動きを止めてしまう。
「なんですか、アゼリアさん! 演奏中に手を止めるとは一体どういうことです⁉」
先生は厳しい口調でそう言いながら、背後から近づいてくる。そのまま私を覗き込むと息を呑む。
「まぁ! 神聖な鍵盤の上に、血が垂れているではありませんか。ど、どうしたのですか? 鼻血が出ていますよ⁉」
先生はよほど驚いたのか、目を見開いて私を見ている。鼻血はスカートの上にまで垂れていた。
「あ……も、申し訳ございません! のぼせてしまって……!」
ポケットからハンカチを取り出すと、慌てて鼻を押さえた。
「のぼせた……本当にそうですか? 顔が真っ青ですよ? もういいわ。今日のレッスンはここまでにしましょう。具合が悪そうですし、また鍵盤に血を垂らされるのはごめんですから」
先生はじっと私の顔を見て、ため息をついた。
「はい、申し訳ございません」
「では、私はこれで失礼いたします。鍵盤をきれいにしておくのですよ」
先生はそう言い残し、長いスカートを翻して音楽室を出ていった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
予備で持ち歩いていたハンカチを取り出し、ぼんやりした頭のまま鍵盤の上を拭った。そしてソファベンチに倒れこむように横になる。荒い息をつきながら目を閉じて休んでいると、徐々に眩暈が治まっていく。
そのとき、窓の下から笑い声が聞こえてきた。
ゆっくり起き上がって窓から見下ろすと、中庭でお母様とモニカ、マルセル様が小型犬と遊んでいる姿が目に入る。モニカが両親にねだって買ってもらった犬で、名前はキングという。彼女は望むものはなんでも手に入れてきた。そう、マルセル様でさえ……
彼は優しい目でモニカを見つめていた。
フレーベル家では、マルセル様とモニカは公認の恋人同士だ。私とあんなふうに過ごしたことは一度もない。
太陽の下で楽しげに笑うお母様とモニカの金色の髪はキラキラと輝き、とても美しく見える。
「お母様……」
愛情深い眼差しをモニカに送るお母様を見つめた。
最近になって知ったが、使用人たちの噂話によるとお父様は若い愛人を作り、別宅で過ごすことが多くなっているようだ。そこでお母様は、ますますモニカを溺愛するようになったらしい。そんなふたりの様子を見つめていると、人恋しい気持ちになってきた。私の心落ち着ける場所は……
「今日は出血してしまったし、レッスンも中止になったから教会にでも行ってみようかしら」
ゆっくりと立ち上がり、ふらつきながら外出の準備をするため自室へ向かった。
辻馬車に揺られて三十分後、私は目の前の教会を見つめた。
町外れの小高い丘に、教会『グリーンヒル』は建っていた。私の名前と同じ、アゼリアの花の垣根に覆われた真っ白な教会。ここで私は育てられた。
「シスターエレナはいるかしら……?」
彼女が、教会の前に捨てられた私を拾ってくれた。命の恩人とも言える人だ。拾ってくれたころは、まだ若い見習いシスターだったけれど、あれから二十年の歳月が流れ、彼女はこの教会の長になっていた。
眩しい日差しが照りつける中、日傘を差してゆっくり教会へ向かう。ふらつく足元に気をつけながら進むと、裏庭から子どもたちのにぎやかな声が聞こえてくる。
ひょっとするとそこにシスターエレナがいるのかもしれないと足を向けた、そのとき。
「こら! ヤン! 待ちなさい!」
少女の声とともにひとりの少年が、建物の陰から飛び出してきた。
「え?」
「あっ!」
突然現れた少年を避けきれず、私たちは激しくぶつかってしまう。強い衝撃で目の前が真っ暗になり、私は気が遠くなっていくのを感じた。
「ねぇ……このお姉ちゃん大丈夫かなぁ……」
「死んじゃったりしないよね?」
「え、縁起でもないこというなよ!」
「だって鼻から血を出しちゃったんだよ……?」
近くで話す子どもたちの声が聞こえてくる。
「う……ん……」
「あ! 目を覚ますよ!」
「ほら、あなたたちは外に行きなさい。まだお洗濯の途中だったでしょう?」
ひとりの少女の声に続き、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。
「「「「は~い」」」」
子どもたちの元気な返事のあと、パタパタと軽い足音が遠ざかっていく。私はゆっくり目を開けると、そこには心配そうに覗き込むシスターエレナの姿があった。
「あ、シスターエレナ……」
自分が応接室のソファに寝かされていたことに気がつく。起き上がろうとすると、シスターエレナにそっと肩を押される。
「顔色が悪いわ。まだ横になっていなさい」
「すみません……」
か細い声で謝罪すると、シスターエレナは首を横に振った。
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